井上安正『マニラ保険金殺人事件』(中公新書ラクレ)


発行:2009.5.10




 本書は一九八〇年代半ばに起きた「マニラ保険金殺人事件」を扱ったドキュメントである。当時の日本は経済的には絶頂期であり、日米が世界経済運営の中心であったとも言われる一時代であった。いわゆる“ロス疑惑”がマスコミで報じられ、「保険金殺人」という言葉が世情を飛び交った。
 そうした中で起きたのが、本書で扱う「マニラ保険金殺人事件」である。
 わたしたちは社会部記者として主犯・大山(仮名)を追い、接触を続けて、自白に至らせた。それを通じて大山という人物のキャラクターをはじめ、事件に関わった多くの人間たちの表裏のドラマをくわしく知ることになった。
 時が流れて、わたしたち事件を担当した記者は、事件後服役したのち出所した大山と再会することになった。この間の長い時間の経緯は、「その後の大山」についての情報も併せて、事件についてもう一度とらえ直すきっかけとなった。

 本書はこれらの結果、生まれたものだ。ノンフィクション・ノベルの形をとったのは、事件について、より読みやすい形で語りたかったためである。
 直接その場で見聞きしていないことも場面として描かれているが、すべてくわしい取材でわかった知識をもとにしており、事実に限りなく近いものとして描出している。
 なお、事件関係者については、主犯・大山をはじめ、服役が終わり現在は市民として生活しているものが多いため、すべて仮名とした。一方で、記者や刑事などその他の者については、すべて実名とした。著者であるわたし自身も「井上安正」として出てくるが、以上の事情による。

(「はじめに」より引用)


【目次】
はじめに 第一章 ゲーム感覚
第二章 犯人グループ
第三章 マニラ
第四章 殺人
第五章 動き出すマスコミ
第六章 完落ち
第七章 捜査本部
第八章 独居房
終 章 人生の皮肉

 本書は1986年に発生したマニラ保険金殺人事件のノンフィクションである。作者は当時読売新聞の記者で、「はじめに」に書かれている通り、主犯と接触して自白に至らせた。そのためか、服役後も主犯と再会し、その後を知ることができた。
 本書は、殺人事件に至るまでの犯人の心の動きも克明に描かれており、興味深い。また、犯人自身の手記と比べ、客観的な視点から描かれていることからも、変な自己防衛や自己満足な部分が見られないのも好印象である。ただ、客観的に書こうとして、淡々とした文章や筆の流れになっており、ノベルに有ってほしい盛り上がりという点には欠けている。もちろん作者は、そのような意図はこれっぽちも持っていないことを十分承知してのないものねだりであるが。
 本書で個人的に興味深く感じたのは、事件そのものよりも、服役中や服役後の大山の姿だろう。刑務所にいる大山、そして家族。離婚しながらも出所の前日まで大山の両親(父親は途中で亡くなる)の面倒を見た元妻はすごいと思う。その後、きっぱり姿を見せなくなる割り切り方もすごい。また、被害者への感情が何も書かれていないのはわざとなのか、それとも服役中はほとんど思い浮かべないことなのだろうか。
 1988年に満期出所した大山は、東京郊外でアパート暮らしをするものの、母親から月20万円の支援を受け、オーストラリア、その後バンコクに移り住んだ。一次帰国した時、井上たちと再会している。また、服役中や出所後に自分の実名を挙げた本や雑誌記事、インターネット上に掲載した出版社等にプライバシー訴訟を起こし、一部では勝訴している。

 作者の井上安正は、1944年、栃木県生まれ。読売新聞社社会部で長年事件を取材。冤罪事件として知られる「弘前大学教授夫人殺し」では、再審のきっかけともなった真犯人のインタビューをスクープしたことで知られている。日本新聞協会賞、菊池寛賞を受賞。その後、社会部部長などを経て、報知新聞顧問となる。


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