兄、弟と共に連合赤軍の活動家となった著者が、生い立ちから武力闘争に加わるまで、そして山岳アジトでの地獄の日々と、「あさま山荘」での出来事を克明に回想。戦後最大の事件を起こした若者たちの真実の姿を描く衝撃の書。(折り返しより引用)
『週刊新潮』へ発表した手記を基に、2003年12月、新潮社より単行本刊行。
【目次】
プロローグ
第一章 「でくのぼう」の生き方
第二章 過激派への道
第三章 連合赤軍誕生
第四章 修羅の山
第五章 山荘籠城
第六章 新たなる居場所
エピローグ
作者の加藤倫教は愛知県刈谷市出身。代々続く農家の生まれで、厳格かつ専制君主的な父親に反発。高校時代、長兄加藤能敬に影響を受け、政治集会に参加するようになり、後に中京安保共闘に参加する。名古屋市の出入国管理事務所へ仲間とともに火炎瓶を投げ込んだ。高校卒業後、大阪で工場に勤めながら活動を続けるも、真岡銃砲店襲撃の容疑で仲間が逮捕されたとき、コーズマイトが見つかり逮捕され、東京に移送される。その後、名古屋少年鑑別所に移送された。二か月近くの拘束期間を経て自由の身になるも、名古屋で活動を続けるもほとんどが逮捕されており、何もできない状態だった。その後、兄に誘われ弟とともに山に設けられた革命左派の人民革命軍の山岳アジトに参加する。そして連合赤軍に参加するも、連合赤軍リンチ事件で兄を亡くす。そして最後、あさま山荘事件に参加する。
あさま山荘事件当時、19歳。未成年であったため、「少年A」と著者は呼ばれた。当初は永田洋子らと一緒に東京地裁の統一公判に合流し、革命を目指したことは基本的に正しかったが、大衆から遊離して極左路線に走ったことが誤りの原因だったという川島豪らの立場に同調するとともに、警察との銃撃戦は「内乱罪」によって裁かれるべきと主張していた。その後、武装闘争は客観的な国際情勢や国内情勢の必要に応える必然的なものではなく、主観的な願望に基づくものだったと考えるようになり、「内乱罪」で争う方針に同調できなくなる。また、「総括」について被害者たちの欠点が原因の一つであると主張する永田や植垣と同席することも不可能になり、吉野雅邦とともに公判は分離された。1979年3月29日、東京地裁で懲役13年判決(求刑懲役20年)。検察側は控訴するも、1983年2月2日、東京高裁で控訴棄却、刑が確定した。11年の未決生活のうち9年を刑期に算入されたため、実質4年間の服役となった。三重刑務所で過ごし、3か月を残して仮釈放。実家に帰った。
その後、「藤前干潟を守る会」事務局長、「日本野鳥の会」愛知県支部事務局長などを歴任。その後「NPO藤前干潟を守る会」理事などを務める。
読んでいて思うのは、永田洋子に対して結構辛らつだな、ということ。「永田は「革命」をやたら美しく理想化して描きだすことが好きだった」「永田に素直に従うものには寛容で、永田に意見を言うものには厳しく対応する。特に女性の同志に対して、その姿勢は顕著だった」「しゃがみこんでしまった遠山に、永田が鏡を見るように命じ、「あなたの綺麗な顔がこんなに醜い顔になった」と言いながら、鏡を見ようとしない遠山に鏡を見ることを何度も強いた」等々。大槻や金子への総括もそうであるし、永田本人は否定していたが、やはり自分の容姿についてコンプレックスと怒りを抱いていたのだろうと思う。まあ、永田に人望があったとはかけらも思えないし、本人がどう思うとしても否定できないだろうが。
リンチ事件、あさま山荘事件については事実についてのみ淡々と描かれており、本人が下から二番目だったということもあって総括の会議には参加していないこともあるからか、詳細はほとんど書かれていない。そういう点で不満が残る人がいるかもしれないが、活動に参加するまでの感情についてはそれなりに触れられている。当時の情勢を考えると、若者が抱く割と一般的な感情だったのかもしれない。それから反社会的活動に移るかどうかは別問題だが。
この本が出た時は、連合赤軍事件から30年が経っていた。刑期を終えた人物で、取材に答えた人物はほとんどいなかったと記憶している。あまりにも悲惨な事件だったが、人はだれでもこのような事件に手を染める可能性を持っている。後のオウム事件も同じだ。著者は否定しているが、一般の人々に共感されないまま現実社会を力づくで作り変えようとする姿は変わらない。
一般に共感されない思想は結局力に頼るようになり、その力は強者には通用せず、いつしか弱者へ向けられるようになり、ますます一般からの共感が得られなくなるという悪循環に陥る。そんな単純なことがわからない。
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