早瀬圭一『失われしもの』(新潮文庫)


発行:1988.7.25



 彼女は本当に夫を殺したのか? 昭和55年5月6日、東京地方裁判所は被告人・板橋治江に対して、夫・板橋喜政殺害を含む、2件の殺人犯として、死刑判決を下した。戦後7番目の女性に対する死刑判決であるとともに、物証なき殺人容疑として注目を集め、昭和63年現在も最高裁に上告中のこの裁判の経過を丹念な取材に基づき、あらゆる角度から検証する、法廷ノンフィクション(粗筋紹介より引用)
 1984年5月7日〜12月28日まで、毎日新聞夕刊に198回にわたって連載。さらに約200枚を加筆し、1985年7月、毎日新聞社より単行本刊行。加筆のうえ1988年7月、文庫化。

【目次】
 プロローグ
 第一章 事件発生・逮捕
 第二章 自供
 第三章 否定
 第四章 初公判
 第五章 無罪の主張
 第六章 老母と姉
 第七章 息子の日々
 第八章 投書・面会
 第九章 岡村事件
 第十章 謝罪
 第十一章 治江の経歴
 第十二章 二十歳の女
 第十三章 崩壊
 第十四章 別居・同棲
 第十五章の一 息子と母
 第十五章の二 父と息子
 第十六章 出直し
 第十七章 疑惑
 第十八章 暗転
 第十九章 公判から
 第二十章 求刑・弁論・判決
 第二十一章 控訴へ
 エピローグ
 あとがき
 「疑わしきは被告人の利益に」の原則は貫かれたか
 付記


 本書は夫殺人事件ならびにバーホステス内縁夫殺人事件の犯人として、死刑判決が確定した板橋治江こと諸橋昭江死刑囚のノンフィクションである。事件概要は以下。

 諸橋昭江被告は結婚して1児を設け、平凡な家庭を守っていたが、夫が家を出て愛人と同棲を始めたため、生活のためにホステスを始め、その後バーを経営し、バーテンを愛人にしていた。その後、夫が愛人と別れたといって帰ってきたため、ふたたび同居を始めたが、夫が愛人と別れておらず、郷里に帰ってはずの愛人が在京していることが分かり、殺害を計画。愛人のバーテンBと共謀し、夫が東京都江東区の自宅に帰ってきて疲れて熟睡していた1974年8月8日夜、都市ガスを放出して一酸化炭素中毒死させたうえ、Bと2人で死体をふろ場に運び、入浴中に誤って中毒死したように偽装した。
 さらに諸橋被告は、自分のバーに勤めるホステス(当時30)が内縁の夫(当時36)と別れたがっていたことから、夫を殺し、夫が入っていた死亡時1200万円の保険金を分配することをホステスと共謀。Bとホステスに好意を寄せる店のバーテンC(当時33)を仲間に引き込んだうえ、1978年4月24日深夜、内縁の夫を江東区内のカーフェリー埠頭に誘い出し、睡眠薬の入ったドリンク剤を飲ませて首を絞めて殺害。死体は草むらに捨てた。
 4月25日午前9時42分ごろ、通りかかった作業員が死体を発見。内縁の夫が付き合っていた喫茶店のウェイトレスからの供述で、Bの名前が浮上。翌日、帰宅したBを任意出頭させ、事情を聴いたところ、犯行を自供。同日夜、Bを緊急逮捕。同日午後、諸橋被告を参考人として読んで追求し、同日夜に逮捕した。さらにホステス、Cも逮捕した。
 取り調べ中、ホステスが、諸橋被告が以前に夫を殺したことがあると話していたと供述。諸橋被告を取り調べたところ、夫を殺害したと自供した。
 諸橋被告側は一審以来、最大の直接証拠になった自白調書の任意性、信用性を争い、「夫はガス自殺を図って死んだ。義父との不倫関係を書いた夫の遺書が明るみに出るのを恐れて事故死を装った」と、「夫殺し」に関しては全面無罪を主張。控訴審では、ガス中毒死をめぐる法医学鑑定などをもとに、「ガスが放出されたのは、被害者が死亡したとされる1974年8月8日午後9時の約30分前であり、その時間帯には被告はバーに出店していて犯行は不可能」などとしていた。
 判決は、「被告らの供述経過、内容や取り調べ状況から、捜査官の暴行、脅迫による自白とはいえず、犯行を認めた自白調書は十分に信用できる」と判断。ガス中毒に関する鑑定については、「前提条件に制約があり、本件にあてはめるのは困難」としたうえ、「都市ガスを放出させて殺害したとの被告の自白が経験則に反しているとはいえない」と述べた。
 愛人のバーテンは懲役9年が確定。バーテンは懲役10年が確定。バーホステスは懲役18年が確定。
 諸橋被告は1980年5月6日、東京地裁で求刑通り死刑判決。1986年6月5日、東京高裁で被告側控訴棄却。1991年1月31日、最高裁で被告側上告棄却、確定。戦後5人目の女性死刑囚となった。
 諸橋死刑囚は夫は自殺であるとして、再審請求。第三次再審請求中の2007年5月14日、諸橋死刑囚は急性心筋こうそくと診断され、都内の病院で治療を受けていたが、7月17日に間質性肺炎で死亡。75歳没。

 本書は、毎日新聞記者の早瀬圭一が1981年秋、全国5か所にある女性刑務所の取材を始めようとして、当時控訴中の諸橋被告の存在を知ったことから始まる。小林カウ(後に死刑執行)が1963年3月に地裁で死刑判決を受けて以来、17年ぶりとなる死刑判決を受けた女性被告に早瀬は大きな関心を持ち、一・二審で主任弁護士を務めている寺井一弘弁護士を1982年になって訪ねた。その後、別の連載を始めながら資料をそろえ、1984年、諸橋被告と面会。その後、毎日新聞夕刊で長期連載が始まった。諸橋被告の触れられたくない過去、不利な点も書く、弁護側の言い分も書くが、警察や検察の主張も取り上げた。
 ただ、内容としては弁護側寄りになっている。作者の早瀬が、検察の主張に疑問を持っているのだから当然だ。諸橋被告は、二番目のバーホステス内縁夫殺人事件については、ホステスに同情しただけで従犯であると主張。そして一番目の事件である夫殺人事件については、夫は自殺であり無罪と主張した。
 二番目の事件については、主犯か従犯かの違いはあるが、いずれにせよ殺人に関与したことは事実であった。そして問題は、夫殺人事件についてである。はっきり言って、証拠らしい証拠はない。二番目に捕まったホステスが、諸橋被告は以前に夫を殺したが事故として判断された、と供述したことから警察が諸橋被告を追及。そして、諸橋被告は自白してしまった。結局はこの自白が、諸橋被告を死刑に追い込んでしまった。新刑法に代わったとはいえ、まだまだ自白調書が大きな証拠となった時代の判決である。
 そもそもの発端は、彼女の夫が愛人を作って家を出て行ったことである。諸橋被告もその後愛人を作るが、やはり同情の余地は多い。もし夫殺しを認め、同情を買うような弁護をしていたら、死刑にはならなかったのではないかと思ってしまう。
 早瀬は、裁判そのものよりも、諸橋被告の過去を丹念な取材で追いかけている。本書を読むと、事件の真実がより詳細に浮かんでくる。そういう意味では、一級のノンフィクションといえるだろう。
 早瀬は本書で大きな疑問を投げかけているが、大きな話題とならないまま、諸橋被告は東京高裁で控訴が棄却されている。本書には『「疑わしきは被告人の利益に」の原則は貫かれたか』という1986年6月6日に毎日新聞に掲載した署名記事が加えられている。日本の裁判では、「疑わしきは被告人の利益に」という原則はほとんど守られていないと言ってよかった時代である。
 諸橋死刑囚は2007年に獄死した。彼女の息子は、そして作者は何を思ったのだろうか。


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