赤堀闘争全国活動者会議編『島田事件と赤堀政夫』(たいまつ社 たいまつ新書26)

発行:1977.9.10



(前略)
 一九六〇年(昭和三十五年)十二月十五日最高裁で「死刑」が確定して以来、一六年の長い年月、死の恐怖におびえつづけて暮らしている人--赤堀政夫(四八歳)がその人である。
「テイノー」「キチガイ」と石を投げられ、差別され、拷問され、島田事件の犯人とされ、確定「死刑囚」とされても、赤堀さんは無実の血の叫びをつづけながら生きぬいている。犯人にデッチ上げられたくやしさと、権力に対する憎しみをいだきつつ、限りないやさしさと強さをもって今日も生きぬいている。
(中略)
 そして、今日も叫ぶ。
「私は無実だ」
「私は久子ちゃんを殺してはいない」
 赤堀政夫さんは、獄中に囚われて以来、今日で二四年目の春を迎えた。
一九七七年五月二十四日 編著者
(「はじめに」より引用)

【目 次】
 はじめに
 第一章 「死刑囚」赤堀政夫
 第二章 島田事件とは
 第三章 赤堀さんは無実だ!
 第四章 なぜ差別裁判か
 第五章 赤堀さんとともに
 赤堀裁判の経過概略
 赤堀闘争関係住所録
 おわりに

【事件概要】
 1954年3月10日、静岡県島田市で幼稚園中のお遊戯会中に幼女(6)が行方不明となり、3日後に暴行、絞殺された死体となって発見された。5月24日、赤堀政夫さん(25)が別件で逮捕された。一旦釈放されたが、28日に別件の窃盗容疑で逮捕。激しい拷問により、30日に自白した。公判では無実だと主張したが、1958年5月23日、静岡地裁で死刑判決。1960年2月17日、東京高裁で控訴棄却。1960年12月5日、最高裁で死刑が確定。
 1961年8月17日、静岡地裁へ第一次再審請求。1964年4月21日、第二次再審請求。1966年4月15日、第三次再審請求。1969年5月9日、第四次再審請求。1977年3月11日、静岡地裁は再審請求を棄却するも、東京高裁は差し戻し。1986年5月30日、第4次再審請求の差し戻し審で静岡地裁は再審開始の決定を言い渡す。1987年3月25日、東京高裁は検察側の即時抗告を棄却し、再審が開始された。そして1989年1月31日、静岡地裁で無罪判決が下され、確定、35年ぶりに解放された。


 日本四大死刑冤罪事件の一つ、島田事件。本書は死刑囚として繋がれていた当時の赤堀政夫さんを救い出そうと活動を続けていたものによる、無実を訴える書である。誰も助けてくれない中、唯一無罪を信じてくれたのは兄夫婦だった。しかしその訴えが少しずつ広まり、支援活動も広まっていった。本書は第四次再審請求が棄却された後に出版されたものだが、その後、東京高裁が差し戻し、差し戻し審の静岡地裁で再審開始の決定が言い渡される。彼らの地道な活動が実ることとなった。
 本書は島田事件の概要と赤堀さんの無実を訴える数々の証拠、そして再審活動の記録を綴っている。
 これだけ色々な証拠、状況証拠などをそろえているのに、再審決定をぐずぐずと引き延ばすことができたな、というのが正直な印象。まあ、それは今の袴田事件などを見ても変わらないのだが。それにしても静岡県って冤罪の宝庫なんだよな。
 こうして無罪判決が出た後で読むと、どうしても無罪という視点で読んでしまうのだが、まだ裁判が続いていたときに読むとどう感じただろう。警察・検察側による酷いでっち上げとみるか、それとも残酷な殺人犯が言い逃れをつづけていると見てしまうか。やはり無罪ありきで書いている本であるため、全てをそういう方向に解釈しているんじゃないかと思う人もいるはず。中立な人ならともかく、初めから有罪と信じている人が読んで、考え方を変えてくれるかどうかと言われたら、また微妙なところだろう。書く方はどうしても思い入れが強くなってしまうため、客観的に事件を吟味しづらいところがあるのも事実だ。
 それでも、無実を勝ち取って塀の外に出ることができたのだから、彼らの戦いは報われたと思いたい。

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