佐藤秀郎『衝動殺人』(中央公論社)


発行:1978.12.20



 「通り魔や無差別テロに巻き込まれ、いまれなく殺害されたものの遺族は、泣き寝入りするしかないのだろうか」
 この悲惨な事実に激しい怒りを覚えるのは、現代社会に、善を信じ、自分もまた善たらんとして生きる総ての人のものだと思う。何しろこの作品は創作ではない事実である。そしてその事実がもつ恐ろしさは、今日を平和に生きる人々の周囲に、青天のへきれきのごとく、明日は我が身として待ち構えているのかもしれない。(演出意図より)木下恵介(帯より引用)

【目次】
 第一章 息子の死
 第二章 伊那谷から横浜まで
 第三章 横浜地裁
 第四章 法律には法律を
 第五章 二人の父
 第六章 国会請願
 第七章 全国行脚のなかで
 第八章 三菱重工爆破事件
 第九章 “ハムラビの遺産”
 あとがき


 1966年5月21日午後10時55分ごろ、市瀬朝一、みゆき夫婦の一人息子、清(当時26)が横浜市鶴見区の鶴見川橋で少年(19)に柳刃包丁で刺され、重傷を負った。清は病院に運ばれたが、22日夜、失血死した。死ぬ直前、清は「父さん、仇を取ってくれ」とつぶやいた。少年は3日後、従姉と友人に付き添われて自首した。
 市瀬朝一は町工場を経営していたが、溶接の影響で視力が落ちたため、清が5年前に自動車工場を辞め、父の工場で働くようになった。1965年正月、朝一は清に工場の全権を譲り、清は見合い相手と1966年秋に結婚する予定だった。
 少年は幼いころから盗み癖があり、小学校途中から養護施設に送られるも逃走し、窃盗で静岡少年院に送られた。1966年1月ごろに出所し、川崎市の父親の元に帰るも、継母との折り合いが悪く、1か月で家を飛び出し、姉の世話などで工場やパン屋などで働くも怠惰ですぐに辞め、5月10日からは製材所の工員として働くも、欠勤を続けていた。5月18日から19日頃の夜、鶴見区で二、三人の男に因縁を付けられて逃げ出したことを、同室の同僚に話したところ、「お前は大きなことばかり言うが、人殺しはできないだろう」と言われた。21日午後10時30分ごろ、酒を飲んで遊び妃から帰ってきたところ、同僚に同様のことを言われ、度胸のあるところを見せようと同僚が持っていた柳刃包丁を持ち出したものだった。清とは面識はなかった。他に13日にアパートに侵入して380円を、19日に住居に侵入して1200円を盗んでいる。
 「臨港橋通り魔殺人事件」の第1回公判は1966年9月13日、横浜地裁で開かれたが、朝一には何の通知もなく、事件で知り合った新聞記者から知らされた。朝一は開廷前、近くを通りかかった少年がニヤッと笑ったのを見たとき、内ポケットから出刃包丁を抜き出して飛びかかったが、直前で甥が抱き留めた。看守は少年を連れ去った。
 法廷で少年は頭を下げようとしもせず、朝一の声に振り返って白い歯を見せた瞬間、目の前の少年を思い切り殴りつけた。さらに手を出そうとしたが、みゆきと甥が止めた。朝一は少年に怒鳴りつけたが、裁判長は朝一を一切無視し、裁判を開始した。甥は閉廷後、朝一とみゆきを無理やりタクシーで返し、改めて二人の看守に詫びようと思ったが、看守は刃物のことなど知らない、ととぼけた。
 第2回公判は、少年の精神鑑定を決定したことだけ。第3回は、鑑定書未着のため、次回の日時を指定するだけ。第4回は弁護人の都合で5日後で延期され、第5回公判で少年は自己顕示・爆発・自制欠乏の傾向を示す精神病質人(異常性格者)であるとされたが、精神障害の状態にあったとは言えないという鑑定書が示された。1967年1月25日の第6回公判で、朝一が証人として呼ばれ、思いのたけを叫んだ。最後に少年に対し、「俺はどんなことがあってもお間に殺された息子の仇は取る」と叫んだ。2月27日、少年に対し横浜地裁は住居侵入、窃盗、殺人について懲役5年以上10年以下の不定期刑を言い渡した。裁判長は慣例を破り、傍聴席の最前列に座る朝一のために、判決の全文を読み上げたのだった。しかし朝一は判決後、「軽い。軽すぎる。これでは、息子が、殺され損ではないか……」と叫んだ。
 朝一は判決後、熱を出して寝込んだが、元気になった後、法律の勉強を始めた。そして、犯人側には色々な"特典"があるが、殺された側には何もない。だから、犯人の側と同じだけの"特典"を認める法律を国に作ってもらおうと、動き始めた。そして鉄工所を安値で売却した。
  1968年の暮れ、朝一は建設会社を経営する千崎関吾から便りをもらって訪れた。千崎の娘・恵美子(当時20)は1965年8月12日午後0時35分ごろ、外出先の巣鴨駅の婦人便所に入ったところ、たまたま若い女を狙って便所に隠れていた男(当時26)にナイフで6か所刺され、死亡した。しかし懲役15年だった。千崎が朝一に声をかけ、「凶悪犯罪撲滅運動」を始める。数か月後、二人の知人友人15名による「凶悪犯罪を撲滅する国民の会」を設立。その年の12月、街頭で集めた8962名の連署を持って、国会に請願書を提出。人命の尊重の倫理教育、凶悪犯への重刑、被害者家族への補償が謳われていた。しかし半年後、素っ気ない返事しか帰ってこなかった。
 会の名前を「殺人犯罪を撲滅を推進する遺族会」と変更し、千崎は仕事があるため日常業務を担当し、朝一が中心となって全国を行脚した。朝一は新聞を読んでは殺人が起きた被害者の住所をひかえ、訪問を続けた。
 しかし、会員は増えていったが、会としての活動がほとんどできなかった。お金と時間がない人たちばかりで、会費を集めることすら朝一はためらうような状況だった。会は少しずつ尻すぼみになるかと思われた。
 1974年8月29日、朝一は眼科医の診察を受け、緑内障で失明状態になったと診断された。この日、三菱重工業爆破事件が起き、死者8人、重軽傷者288人という大惨事となった。
 目の見えない朝一は、みゆきとともに死亡した8人の遺家族を訪問した。その後、「三菱重工ビル被害者の会」(仮称)が結成された。朝一は都度コメントを求められるようになった。また多くの学者や実務家たちが論文等を発表するようになった。
 9月21日、千崎から届いた速達便の中にあった新聞の切り抜きには、同志社大学法学部教授大谷実が、「被害者補償制度を促進する会」結成を呼び掛け、国に救済を求める運動を始めた、と書かれてあった。翌日、朝一は大谷に会いに出かけ、二人は意気投合した。半年後、「殺人犯罪撲滅を推進する遺族会」と「被害者補償制度を促進する会」は合併し、「犯罪による被害者補償制度を促進する会」となって、朝一は会長となった。
 朝一は色々な放送局に引っ張り出され、自分の考えを熱っぽく語った。腰の重かった国も動き出し、稲葉修法務大臣が犯罪被害者補償制度の設立に前向きの姿勢を示した。1975年7月、朝一は衆議院法務委員会に参考人として出席を求められた。この日の委員会は1時間53分の休憩を挟んで、4時間44分で終わった。
 1976年11月17日、朝一は清が息を引き取ったのと同じ病院に入院した。食道癌だった。1977年1月16日、朝一は66歳で死亡した。マスコミは彼の死を大きく扱った。
 1977年4月、国はようやく被害者補償制度に関する調査費309万8千円を計上した。

 19歳の通り魔に意味もなく殺された青年の父親が、一から法律を覚え、犯罪被害者保護、給付金支給を訴え、運動を続けたノンフィクション。感動した。わかっていたことだが、「加害者には弁護人など様々な手に守られ、被害者には何の手助けもない」という叫びには心を打たれる。一人息子を理不尽に殺され、たった懲役5-10年程度では、泣くに泣けない。この父親は、法律が制定される日を見ずに亡くなった。しかし、その運動は今に生きている。
 しかし、被害者遺族への補償はまだまだ十分ではない。そしてまた、殺人の件数は減りつつあるが、撲滅されていない。

 本書は1978年、『中央公論』3月号に掲載され、1978年12月20日に発行された。木下恵介監督により映画化され、『衝動殺人 息子よ』が1979年9月15日に公開された。監督は木下惠介、主演は若山富三郎・高峰秀子。若山は日本アカデミー賞な主演男優賞などを受賞した。

 作者の佐藤秀郎は1935年、熊本市生まれ。故大宅壮一氏の「東京マスコミ塾」に学び、各種の週刊誌の取材・執筆稼働を経て、1976ねんより独自の視点による社会的テーマの掘り下げに着手、犯罪被害者の補償や安楽死問題などに取り組んでいる。(出版当時のデータ)

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