鎌田慧『死刑台からの生還―無実! 財田川事件の三十三年』(立風書房)


発行:1983.8.25



 もしも、矢野伊吉が存在しなかったなら、谷口繁義は人眼に触れることなく葬り去られていたことは間違いない。(中略)おそらく、逮捕した捜査官、起訴した検察官、死刑を宣告した裁判官からでさえ忘れ去られたであろう谷口繁義を救い上げたのが、矢野伊吉であった。
 谷口が矢野に出会ったのは、一審で死刑の判決を受けてから十七年目、最高裁が上告を棄却して死刑が確定してから十二年目の春だった。その間、谷口は、日夜、処刑の恐怖におびえながらも生きつづけていた。谷口が再審をもとめて高松地裁丸亀支部に送った手紙は、打ち捨てられて倉庫の書棚に眠りつづけ、五年もたってから、奇跡的に矢野の目に触れることができたのである。
(中略)
 わたしは、一〇年前の七三年四月、高校時代の友人で、立風書房の編集者となっている白鳥清三郎の依頼を受けて矢野の自宅を訪ね、彼の遺著『財田川暗黒裁判』の出版に協力することになった。しかし、ありていにいえば、矢野のように全生涯を賭けてこの問題と取り組むことなく生活してきた。矢野の死を迎えたいま、それが恥かしい。
 矢野伊吉の存在を大事にする意味においても、この事件に関する本は、矢野の一冊で充分だ、とわたしは考えていた。しかし、再審公判廷における矢野と谷口の反撃、そしてそれに対する警察官や検事たちの対応について、誰かが書き伝える必要がある。まして、矢野が無念のうちに他界したいま、それはことさら必要に思える。谷口義重もそれを待望している、幸いなことに存命中の矢野からそのための協力を得ていたし、編集者の熱意を受けて私が纏めることになった。

(「あとがき」より抜粋)

【目次】
 プロローグ
 第1章 事件
 第2章 獄窓
 第3章 邂逅
 第4章 再審
 第5章 反撃
 エピローグ
 あとがき


●財田川事件33年の軌跡(本書折り返しより引用)
1950年 2月 28日 香川県三豊郡財田村の自宅の四畳間で闇ごめブローカーKさん(61)が殺害(財田川事件発生)。

4月 3日 谷口繁義さん(19)が隣村の神田農協強盗傷人事件で逮捕。

7月 26日 財田川事件の犯行を自供。

8月 1日 はじめて財田川事件で逮捕(これまでは別件で拘留)。
1952年 1月 25日 高松地裁丸亀支部(津田真裁判長)が死刑判決を下だす。
1956年 6月 8日 高松高等裁判所が控訴棄却。
1957年 1月 22日 最高裁判所が上告棄却して、死刑が確定。

2月 15日 刑執行のため、高松刑務所から大阪拘置所へ移監。

3月 26日 第一次再審請求。
1958年 3月 20日 高松地裁丸亀支部、再審請求を棄却。
1969年 4月 3日 丸亀支部に就任の裁判長矢野伊吉が、忘れられていた谷口さんの手紙を発見して、第二次再審請求の手続き開始。
1976年 10月 12日 最高裁が高松地裁に差し戻しを決定。
1979年 6月 7日 高松地裁が再審開始を決定。

6月 11日 高松地方検察庁が即時抗告を提出。
1981年 3月 14日 高松高裁、地検の即時抗告を棄却。

9月 8日 大阪拘置所から高松拘置所へ移監。

9月 30日 高松地裁で再審開始。
1983年 9月 14日 再審が結審(予定)。


 本書は財田川事件のルポルタージュである。財田川事件は死刑確定囚が再審で無罪となった2番目の事件である。地名の「財田」ではなく川の「財田川」と呼称する由来は、1972年に再審請求を棄却した裁判所の文言で「財田川よ、心あれば真実を教えて欲しい」と表現したことである。事件の詳細は以下。

 1950年2月28日、香川県三豊群財田村で闇米ブローカー(61)が刺殺され、現金13,000円が奪われた。4月3日、警察は別の強盗事件で逮捕されていた谷口繁義さん(19)を拘留し、60日以上に渡って尋問。谷口さんは自白させられ、8月1日に逮捕された。谷口さんは無罪を訴えるが、古畑種基による血痕鑑定を唯一の物的証拠として1952年1月25日、高松地裁丸亀支部で死刑判決。1956年6月8日、高松高裁で控訴棄却。1957年1月22日、最高裁で上告が棄却され、死刑確定。
 1957年3月26日、第一次再審請求。1958年3月20日、高松地裁丸亀支部は請求を棄却。法務省は死刑執行準備のため、「公判不提出書類」を送るよう高松高検に命じた。高検から地検、丸亀支部に提出が要求された。1959年6月2日、丸亀支部より公判不提出記録が紛失した旨が地検に報告された。法務省は死刑執行の起案書を書くことができず、処刑手続きを中断した。
 1969年3月、高松地裁丸亀支部に赴任したばかりの矢野伊吉裁判長が、1964年3月27日付で再審請求を請求する意思の元、再鑑定を訴えた谷口さんからの手紙を発見。谷口さんとのやり取りの結果、4月3日付で第二次再審請求を受け取ることとなった。矢野裁判長は再審開始決定の草案を作成し、決定の後退官することを発表した。しかし二人の陪席裁判官は手記の偽造を確認するため筆席鑑定に回すべきだと訴え、合議は破綻し、「決定」は延期のまま、1970年8月、定年まで5年を残し、矢野裁判長は退官した。
 矢野さんは退官後、谷口さんの弁護人を務める。1972年9月30日、高松高裁丸亀支部は請求を棄却。1976年10月、日弁連は支援を決定。10月12日、最高裁第一小法廷は弁護側の特別抗告を認めて判決を取り消し、高松地裁に差し戻した。1979年6月7日、高松地裁が再審開始を決定。検察側は即時抗告するも、1981年3月14日、高松高裁は即時抗告を棄却。再審開始が決定し、9月8日、谷口さんは大阪拘置所から高松拘置所へ移監された。
 1981年9月30日、高松地裁で再審が開始。1984年3月12日、無罪判決が下され、確定。谷口さんは34年ぶりに解放された。しかし矢野氏は無罪判決を見ることなく、1983年3月18日に亡くなっていた。71歳没。ここでも、古畑鑑定への疑問が投げかけられた。
 谷口さんは2005年7月26日、脳梗塞で亡くなった。74歳没。

 財田川事件を語るうえで、矢野伊吉氏の存在は外せない。矢野氏がいなければ、谷口繁義さんは獄中で死亡していただろう。矢野氏がいなければ、世間の注目を浴びることすらなかったに違いない。
 本書は事件発生から再審結審までの33年を綴ったルポルタージュである。その経緯については、作者の「あとがき」に詳しく書かれている。矢野伊吉の想いをくみ取りつつ、過剰な文章とならずに事件から裁判、そして再審が始まるまでの詳細について書かれている。激情的な内容をあえて抑えて書いているところが、かえって冤罪の恐怖を際立たせている。
 裁判官が事なかれ主義に陥らず、真実を見極めようとすれば、冤罪は防げる。そう思わせる一冊である。

 鎌田慧は早稲田大学卒業後、鉄鋼新聞社の記者を経てフリーライターとなる。以後、社会派ルポライターとして100冊以上のノンフィクションを出版する。1990年、『反骨 鈴木東民の生涯』で新田次郎文学賞受賞。1991年、『六ヶ所村の記録』で毎日出版文化賞受賞。

<ブラウザの【戻る】ボタンで戻ってください>