「永山基準」として名を留める、十九歳の連続射殺犯・永山則夫。本書は、彼が遺した一万五千通に上る膨大な書簡から、その凄惨な生いたちと、獄中結婚した妻との出会いにより、はじめて「生きたい」と願うようになる心の軌跡を浮かび上がらせる。永山基準の虚構を暴く、圧巻の講談社ノンフィクション賞受賞作。(粗筋紹介より引用)
2009年11月、日本評論社より単行本刊行。2010年、第32回講談社ノンフィクション賞受賞。2016年12月、文庫化。
【目次】
プロローグ
第一章 生い立ちから事件まで
第二章 一審「死刑」
第三章 二審「無期懲役」
第四章 再び、「死刑」
第五章 「永山基準」とは何か
エピローグ
あとがき
文庫化によせて
主要参考書籍
正式には「警察庁広域重要指定108号事件」となるのだが、永山則夫連続射殺事件、もしくは縮めて永山事件で十分に通じる、日本犯罪史に残る有名な事件である。永山本人が多数の著書を残し、また様々な人物が色々な方面から永山事件を調べ、語っている。事件自体は1968〜1969年に発生している。永山が死刑を執行されたのも1997年8月だ。何故今更永山則夫を取り上げるのだろうと思いつつ、手に取ってみた。
作者は、光市母子殺害事件の過熱報道に違和感を抱き、裁判を通して再び焦点を当てられた「永山基準」について調べてみようと思ったとのことである。ここでいう「永山基準」とは以下である。
死刑制度を存置する現行法制の下では、犯行の罪質、動機、態様、ことに殺害の手段方法の執拗性・残虐性、結果の重大性、ことに殺害された被害者の数、遺族の被害感情、社会的影響、犯人の年齢、前科、犯行後の情状など各般の情状を併せ考察したとき、その罪質が誠に重大であって、罪刑の均衡の見地からも一般予防の見地からも極刑がやむを得ないと認められる場合には、死刑の選択も許されるところである(永山基準)。(「国立の主婦強殺事件判決要旨」東京新聞1999年11月29日夕刊より引用)
永山則夫は1979年7月10日、東京地裁で死刑判決を受ける。しかし、1981年8月21日、東京高裁で船田三雄裁判長は精神的成熟度では18歳未満の少年と同じであること、国の福祉政策が貧困であったこと、獄中結婚し贖罪の生活を送ることを誓約していること、遺族の一部に印税を支払っていることを理由に無期懲役に減刑した。
特に船田判決では後半で、死刑判決はどこの裁判所でも死刑の選択が避けられない場合、そして裁判官全員一致によって決められた場合に言い渡す(意訳)とある。この判決が検察庁に与えたショックは大きかったとのことで、当時東京高検の検事だった土本武司曰く、高検だけでなく地検、最高検含めて怒りを覚えたという感じだったとのことである。いくら事件当時少年で、成育環境に同情するところがあるとはいえ、強盗殺人4件が無期懲役判決かという怒りもあっただろう。刑事事件の場合、上告は憲法解釈の誤りか判例違反に限られるが、検察側は求刑死刑に対する無期懲役判決に対し、史上初めて上告した。
船田三雄裁判長は相当リベラルな人だとずっと思っていたが、実際は官僚的で相当なタカ派だとのことだ。1973年の東京地裁時代、水俣病自主交渉チッソ本社・川本輝夫事件」(水俣病被害の補償のため自ら交渉に赴いた被告が本社に立ち入ろうとしてそれを阻止しようとした社員ともみ合いになり、社員に怪我を負わせた事件)において、初公判で弁護側が公訴棄却を求め、申立の公判で同じ内容を重複して繰り返したため船田裁判長は陳述を制止。傍聴席から抗議の声を上がって騒然となるが、船田裁判長は傍聴人全員の退廷を命じ、大声を上げた二人を拘束した。さらに弁護人が意見陳述の前に被告人と「外で」打ち合わせをしたいと申し出るも、すでに昼休みを超えていたため「法廷の中」で10分間の時間を与えたところ、五人の弁護団と被告人は許可なく法定外に出て打ち合わせを行ったため、裁判長は法廷に内側から鍵をかけ、歳入邸の申し入れも拒否し、弁護人と被告人が不在のまま審理を続行したのである(裁判は罰金5万円、執行猶予1年で確定)。
東京地裁時代にバー・メッカ殺人事件、カービン銃事件に関わっていることを本書で初めて知った。どちらの裁判でも左陪席に座っていた。なお、バー・メッカ殺人事件では判決と同じ月に静岡地裁に転籍となっていたため、捺印していないというのは偶然とはいえ運命だったのかもしれない。カービン銃事件では審理の途中で転籍となっているため、判決に立ち会っていない。
船田は裁判官退官後は弁護士となり、後に弁護士会の会合でたった1度だけ、永山裁判について語ったことがある。そこでバー・メッカ殺人事件において、初犯であること、殺害された人数が1名であること、反省していることなどから無期懲役が相当だと思った。逆にカービン銃事件では死刑が相当だと思った、と語っている。船田はこの二つの裁判を通じ、自分がもし裁判長だったら逆の結果になっていたであろうことに疑念を抱いたとのことである。
後に船田裁判長は1982年7月1日、東京高裁で「殺し屋」連続殺人事件の藤井政安(旧姓関口)被告に死刑判決(一審死刑判決の控訴を棄却)を言い渡している。ただしこの時も、一審では同時に死刑判決を受けていた他の二人について破棄し、無期懲役判決を言い渡している。
船田裁判官は1983年11月、東京高裁部判事の任を解かれ、浦和地方裁判所の所長として転任した。2年後、東京高等裁判所の総括として復帰し、多くの重大事件(「マニラ保険金殺害事件」等)を手がけた。
また、右陪席に座っていた櫛淵
永山裁判以降、求刑死刑に対する無期懲役判決で検察側の上告は無かったが、1997〜1998年、検察側は連続5件の上告を行った。纏めると、以下である。
永山裁判後、「永山基準」という言葉がマスコミに登場するのは、私の調べた限り、上記の2番目、「東京都国立市の主婦強盗殺人事件」である。上記の中で最初に判決があった裁判である。この裁判では、1999年10月29日に最高裁第二小法廷で弁論が開かれるも、1999年11月29日、小法廷は検察側の上告を棄却する判決を裁判官全一致で出している。このとき、明確に「永山基準」という言葉が使われた。それまでは死刑選択基準などと言われていたようだ。永山裁判で控訴審から弁護人として加わった大谷恭子弁護士は、「永山基準」という言葉を1999年に初めて聞いたという。検察側が被告人に死刑を求刑する際、「永山基準」という言葉を引用したからだ。これがどの事件かは分からない。
当時、死刑の選択基準がどんどん跳ね上がっていた。特に上記1番目の福山市強盗殺人事件は、強盗殺人事件で無期懲役判決を受け仮釈放中の男が再度強盗殺人事件を引き起こしたものである。しかもパチンコで借金を重ねたという犯情も悪い。それでいながら反省を重ねているので更生の余地があるとして無期懲役判決が言い渡されたのだ。広島地裁の小西秀宣裁判長は、「死刑と無期懲役の大きな隔たりを埋めるものはない。仮出獄のない無期懲役があればいいが、ない。先の事件の仮出獄の取り消しで十年、今回事件の仮出獄の要件を満たすのに二十年で、最低三十年程度服役することが必要。裁判所に仮出獄の決定権はないが、この見解は更生保護委員会でも十分尊重されると考える」と述べた。なお、当時の無期懲役の仮出獄は、16〜20年程度だった。
なお本書では、高裁に差し戻された福山市強盗殺人事件について“被害者が一人でも死刑が下せる実績作りに成功した”と書いているが、本事件は先に触れたとおり無期懲役の仮出獄中に犯した事件であり、1996年に法務総合研究所がまとめた「凶悪重大事犯の実態及び量刑に関する研究」において最も量刑に与えた影響が大きい要素である「被害者の数」における被害者が一人で死刑とされた場合の特殊事情があったケースである。過去において、無期懲役の仮出獄中で強盗殺人を犯した被告は例外なく死刑判決を受けており、むしろ無期懲役判決を受けた方が特殊だったと言える。このあたりは、著者の勘違いだろうか。
さて本書であるが、作者はまず最初に永山事件のおさらいを始めている。他の本と重なる部分も多いので退屈に感じる人もいるだろうが、初めて永山事件に触れる人にとってはいいことかもしれない。こればかりはケースバイケースとしか言いようがない。
第三章からは、後に永山則夫と獄中結婚する女性について語られる。女性がこうして積極的に取材に関わるのは初めてとのことだ。一時期永山を支えた女性の証言は、本事件に別の角度から光を与えることとなる。同様に、船田判決の裁判長自身に焦点を当てたのも、まずないだろう。もちろん本人は裁判について語ることはほとんどなかったが、なぜあの判決を書いたのか、その背景についてはとても勉強になった。
恐らく多くの方が言うであろう。本書においては、被害者やその遺族についてはほとんど語られていない。もちろん当時の傷に改めて触れるようなまねはしたくなかっただろう。しかしそのことが、本書の価値を落としている部分があることも忘れてはならない。どうしても被告側からのアプローチにしかならず、本来の「永山基準」について語るべきところが、死刑廃止論に組みする形となってしまったことも事実だからだ。
死刑とは人の命を奪う重い刑であることは事実だ。では、その人の命を奪った人物をどう裁くか。過去のデータをまとめて機械的に選別するのならまだしも、殺人事件には様々な背景が存在する。となると、やはり人は人が裁くしかない。そのとき、人は何を基に裁くのか。そこに、被告側の過去だけを見るのでは片手落ちだろう。無念にも殺害された者、そして理不尽にも大切な人を奪われてしまった人たちの思いも裁判に反映させる必要がある。裁判は仇討の場ではないが、被害者のことを忘れてはいけない。
そして、よく裁判の判決に出てくる「償い」。死刑廃止論者は「生きて償わせるべきだ」と簡単に言うが、この「償い」とは何かについて、明確に答えた文章は無い。作者も「償い」とは何か、明確な答えがないようだ。しかし、被害者のことを祈るばかりが「償い」ではないだろう。それは犯人の側の自己満足に過ぎない。そしてまた、その「償い」を被害者遺族は受け容れるべきだと言うのは周囲の強制でしかなく、時と場合によっては拷問であろう。
本書の中にも出てくるが、「永山基準」は殊更目新しい内容というほどのものではない。とはいえ、死刑判決にお墨付きを与える基準となったのも事実だろう。
作者は最後に「死刑の基準」については、「人を処刑する画一的な基準はありえない」という結論に達する。もちろん、画一的な基準は無いだろう。殺人被害者1人でも死刑判決を受ける人がいるし、強盗殺人被害者2人でも無期懲役判決を受ける人がいる。そこには殺人に至るまでの様々な「事情」があるだろう。ただ、それは被告へのアプローチばかりではいけない。そこを作者は勘違いしていると思う。本書で残念なのは、被害者側へのアプローチがなかったことだ。そうすれば作者が抱く「死刑の基準」ももう少し違ったものになったかもしれない。
残念なところはあるものの、本書は労作だと思う。よくぞここまでアプローチできたと思ったものだ。勉強になる点もあったし、死刑存置続論者も読んでみてもいいかと思う。
堀川恵子は1969年、広島県生まれ。広島テレビの報道記者を経て、現在はジャーナリスト。『チンチン電車と女学生』(小笠原信之と共著)を皮切りに、ノンフィクション作品を次々と発表。
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