野崎六助『李珍宇ノオト 死刑にされた在日朝鮮人』(三一書房)

発行:1994.4.1



 1958年9月、小松川事件、女子高生殺人の犯人として、逮捕されたのは、当時18歳の少年だった。彼の名は、李珍宇。未成年にもかかわらず、氏名は公開され、逮捕時の写真も新聞の紙面に載った。
 同時に起こったのは、在日朝鮮人への敵意に満ちたキャンペーンだった。その嵐のなかで、彼は4年後、絞首刑に処せられる。冤罪の疑いもあった一方、彼の「犯罪」を自白する特異な語り口は、少なからぬ文学者の興味を惹いてやまなかった。事件が日本社会に与えた衝撃の意味は何だったのか。李珍宇を助けようとした人びとの作品をとおして、その意味を探る。最大の謎は、李珍宇という人物の複雑な個性にあった。いまだ誰も解明できなかった闇に迫る一冊。  1962年11月16日、一人の在日朝鮮人青年に絞首刑執行。李珍宇、22歳。あまりにも酷薄な「朝鮮の息子」の生と死は、我々に何を突きつけているのか。日本人の根底にある差別観と司法との関係を抉り出す。(粗筋紹介より引用)


【目次】
序章 夢の中の李珍宇
 1 真犯人はどこに
 2 これは謎解きの物語だ
第一章 被告人はこの体験を基にして
 1 十八歳の”凶悪犯”
 2 『悪い奴』は犯罪者の手記なのか
第二章 荒涼として痛ましい夜明けの叫び声を
 1 木下順二の口笛と三好徹の沈黙
 2 大岡昇平における事件
 3 大江健三郎の叫び声
 4 自涜の王から強姦殺人の魔ヘ
 5 虚構の母からの呼びかけ
   6 秋山駿の地下室
 7 「日本のジャン・ジュネ」という免罪符
 8 『絞首刑』の政治的殉教者
 9 死刑告発小説の負性
 10 死刑は小説の中ですでに執行されていた
第三章 珍宇君、本当にやったのかね?
 1 民族的偏見が小鳥のように
 2 築山探偵、証拠の追及
 3 最大の反対者は珍宇その人
 4 誰が犯人でもよかった
 5 再審請求と恩赦出願の狭間
 6 李珍宇とは何者か
 7 なぜ無実説が力を持たなかったのか
第四章 李君、今朝食堂で君の処刑を知りました
 1 金達寿の記録
 2 声もなく慟哭する
 3 金石範の最悪の文学的決着
 4 実録小説の失敗
第五章 珍宇、きょう、悲しい報せがありました
 1 朴寿南との往復書簡
 2 想像の中の熱愛者
 3 シジフォスの苦役
 4 珍宇と寿南の物語
 5 愛のドラマの完結
第六章 なることについて(オン・ビカミング)
 1 強姦殺人の彼方に
 2 Sometime a great notion
 3 一人の朝鮮の息子に(ネイティヴ・サン)
あとがき


 李珍宇(「り・ちんう」「イ・チヌ」)とは小松川事件の犯人である。では小松川事件とは何か。

〈小松川高校女子生徒殺害事件〉
 1958年8月17日、小松川高校定時制二年生Oさん(16)が行方不明となった。20日、読売新聞社に遺体遺棄現場を知らせる電話がかかってくる。小松川警察署は現場を捜すも遺体は見つからなかった。21日、同署に「家出娘なら小松川高校の屋上で絞殺し、屋上の横穴に捨ててある」と電話があった。検索したところ、絞殺された同女の腐乱死体を発見。24日には被害者宅宛に奪った櫛を、26日には捜査一課長に被害品の鏡と写真を送ってきた。しかも再三に渡って新聞社に電話をするなど犯行を誇示し、警察の無能さを笑ってきたが、捜査の結果、朝鮮人工員小松川高校定時制一年生李珍宇(18)を9月1日に逮捕した。李はOさん殺しを自供、さらに4月20日に賄婦Tさん(23)を強姦して殺害した事件も自供した。李は強姦殺人及び強姦致死、殺人で起訴された。
 1958年11月15日、初公判。1959年2月27日、東京地裁で求刑通り死刑判決。1959年12月28日、東京高裁で被告側控訴棄却。1961年8月17日、最高裁で被告側上告棄却、確定した。
 1962年8月、恩赦出願。8月30日、宮城刑務所に移送。9月8日に再審請求したとされる。11月16日、宮城刑務所仙台拘置支所で死刑執行、22歳没。

 犯人が新聞社や警察に電話をかけ続けたことから、劇場型犯罪の走りともされる事件である。
 生い立ちが不幸であること、家が貧困であること、頭脳明晰ながら朝鮮人ということで差別されていたことなどから助命嘆願運動が日本、韓国で広がったが、当の李は運動をするぐらいならその資金を両親、兄弟に援助してほしいと訴えた。また犯人逮捕時、18歳の少年でありながら実名報道されことから、改めて少年法の問題が取り上げられた。
 他にも李珍宇無罪説を訴える者もいる。
 李珍宇無罪説の根拠は、李が犯人であるという直接の物証がほとんどなかったことである。残された犯人の指紋と李の指紋の照合結果がない。犯人が長電話したときに4人の目撃証言があったとあるのだが、供述調書は法廷に出されていない。犯人の筆跡と李の筆跡があっていない。裁判では妹に書かせたとあるが、その妹とも一致しない。警察が犯人のものであるとして報道陣に見せた自転車のサドルカバーと風呂敷は行方不明になっている。そして、肝心なのは、遺体には強姦の形跡がなかったことである。
 さらに反証もある。例えば、櫛や鏡を送ってきたときの封筒である。李自身の血液型はAB型であり、両親の血液型からもA型かAB型以外はあり得ないのだが、封筒の唾液からはB型と推定されている。専門家による精神鑑定書からは「ずば抜けて秀才」とあるが、弁護士はそれを否定している。

 著者の野崎六助は、序章で読者に問いかける。
  第一の問い:李珍宇とは何者なのか。彼は果たして十全に理解された像であるだろうか。
  第二の問い:李珍宇は真犯人なのか。
 本書は以下で構成される。
 第一章は事件の概要と報道、差別キャンペーンについて紹介している。
 第二章は日本人文学者による李珍宇の「文学的形象化」における諸問題の検討である。
 第三章は無罪説の紹介と検討である。
 第四章は在日朝鮮人文学者の発言及び作品を扱った。
 第五章は往復書簡集『罪と死と愛と』の読み込みである。
 第六章は全体の結語である。

 野崎は、第二の問いに対し、「ほとんど無実である。しかし、絶対に、無実であるということはできない」と語っている。女子高生の強姦殺人、そして賄婦の強姦について無罪は確信されるが、賄婦の殺人についてのみ確信が欠けるとある。
 野崎は第三章の無罪説を紹介している。まずは野崎自身が李珍宇に触れるきっかけとなった、築山俊昭『無罪!李珍宇』(三一書房,1982)。築山は李の裁判の頃から李無罪説を訴えていた人物である。そのためか、李は有罪だが減刑すべきだという助命嘆願運動のメンバーとは相容れないところがあったらしい。ただし野崎は築山の説について、「文献的方法のみによって論証しうる無実説は、逆に、現実的な説得力はもちえなかったのである。先回りしていってしまえば、民族差別との対決という視点を欠いた築山の論拠は、むしろ些末にこだわるところから照明を積み重ねるほかない」と非難している。さらに「ミステリ・マニアによる好事家趣味の推理、そういった面もまた露呈されてしまうのであった」とも書いている。なお李珍宇は当時、築山の無罪説に反論、否定している。そして野崎は、築山が「強烈な民族差別裁判」「逮捕された瞬間からすでに珍宇は救出不能な存在」だったことを理解していないと非難している。
 もう一冊取り上げているのは、小笠原和彦『李珍宇の謎 なぜ犯行を認めたのか』(三一書房,1987)である。築山と異なり、関係者の数々を会うことによって構成された一冊である。しかし野崎はこの本についても、李が再審請求を提出したという事実を突き止めたこと以外については評価していない。

 ここまで李珍宇のことを調べていたら、野崎は立派な無罪説を持っているのだろうと思っていた。野崎は第六章の結論で、「犯人が全面的に犯行を認め続けた、極めて珍しいフレーム・アップ事件だといえる」と書いている。しかし野崎は「わたしは探偵役ではないから、無実説の詳細な検討という作業は避けてきた」のである。「なぜ彼は無実を証明しなかったのか。(中略)証明できなかったからしなかったのだ」というのは、あまりにも無責任すぎるのではないだろうか。野崎は李について「一九五八年九月一日朝、逮捕されてから供述を開始するまでの短い間に、彼は自分がある巨大な罠にはめられ、助かる途がどこにもないことを直観したのである」「彼は家族を人質に取られたうえでおぼえのない犯罪を〈自白〉することを強いられたのである」と断定しているが、 この本を読む限りでは野崎自身の決めつけにしか見えない。
 実際、朝鮮人差別が裁判に大きく影響していたのだとは思う。しかし李自身が一貫して「自白」している状況では、判決がひっくり返ることは永遠にない。だから野崎も、この本のタイトルを“李珍宇ノート”としたのだろう。今までの小松川事件のまとめ本としてはそれなりのものだが、無罪論を求める人にとっては参考にならない一冊である。
 あとがきで野崎は「これをわたしはわたしの在日朝鮮人文学論の序章としたい」とある。本論はこの10倍になるそうだ。

 作者の野崎六助はミステリ作家、ミステリ評論家である。1992年、『北米探偵小説論』で第45回日本推理作家協会賞(評論その他の部門)を受賞している。
 ただ1984年のデビューは『幻視するバリケード 復員文学論』(田畑書店)であり、他にも『物語の国境は越えられるか 戦後・アメリカ・在日』『謎解き『大菩薩峠』』『魂と罪責 ひとつの在日朝鮮人文学論』などの著作もある。

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