死刑確定囚(2000年)



※2000年に確定した、もしくは最高裁判決があった死刑囚を載せている。
※一審、控訴審、上告審の日付は、いずれも判決日である。
※事実誤認等がある場合、ご指摘していただけると幸いである。
※事件概要では、死刑確定囚を「被告」表記、その他の人名は出さないことにした(一部共犯を除く)。
※事件当時年齢は、一部推定である。
※没年齢は、新聞に掲載されたものから引用している。

氏 名
北川晋
事件当時年齢
 36歳(1983年時)
犯行日時
 1983年8月16日/1989年2月6日
罪 状
 強盗未遂、強盗強姦、強盗殺人、死体遺棄、強盗強姦未遂
事件名
 千葉・高知連続殺人事件
事件概要
 北川晋被告は1983年8月16日、千葉市内でバスを待っていた百貨店従業員の女性(当時18)を自宅まで送り届けると行って車に乗せ、両手首を縛ったうえで市内で暴行、殺害して現金15,000円などを奪い、遺体を四街道市の水田に捨てた。
 1989年2月6日、高知市内で帰宅中にバスを待っていた銀行行員の女性(当時24)に道案内を頼んで車に乗せ、ナイフを突きつけて脅迫。女性の首をひもで絞めて殺害して現金2万円などを奪い、遺体を高知市の市道下に投げ捨てた。
 同様の手口で1990年9月8日、9月26日の2回、高知内で帰宅途中の女性を車に乗せて金を奪おうとするなどしたが、いずれも逃げられた。
 北川被告は高知市出身。1967年、神奈川県警に採用されたが、女性とのトラブルで数か月で退職。1988年12月に高知に戻るまでの間、神奈川、千葉両県で強盗、強姦事件を起こし、約10年間服役していた。その後は職を転々としていた。
 北川被告は9月26日の強盗未遂事件で1990年11月2日に逮捕。捜査本部は手口が似ていることや、似顔絵がそっくりなことなどから追求。11月26日、高知市の強盗殺人容疑で再逮捕した。
 北川被告は高知の事件で公判が開かれ、起訴事実を全面的に認めた。捜査本部は、北川被告が1984年当時、別の強姦事件で千葉県警に逮捕され、千葉市内の女性殺害事件についても追及されたが、物的証拠や目撃者がないうえ自供も得られず、未解決のままとなっていたことから、手口がそっくりである千葉事件についても追及。千葉、高知両県警の合同捜査本部は1991年5月21日、北川被告を再逮捕した。
一 審
 1994年2月23日 高知地裁 隅田景一裁判長 死刑判決及び無期懲役判決(千葉の事件で無期懲役、高知の事件で死刑判決)
控訴審
 1995年3月30日 高松高裁 米田俊昭裁判長 控訴棄却 死刑及び無期懲役判決支持
上告審
 2000年2月4日 最高裁第二小法廷 北川弘治裁判長 上告棄却 死刑及び無期懲役確定
 判決文「裁判所ウェブサイト」内のPDFファイルが開きます。リンク先をクリックする前に、注意事項をご覧下さい)
拘置先
 大阪拘置所
裁判焦点
 1990年2月の高知事件における初公判で、北川被告は起訴事実を全面的に認めた。その後千葉市の事件と併合審理となった。北川被告はその後の公判でも、起訴事実を全て認めた。
 1992年3月、弁護側が出した北川被告の精神鑑定申請が認められた。精神鑑定は安芸郡内の医師が担当。同被告の性格、犯行当時の心理状態、精神障害の有無を中心に調べた。これは刑事責任能力の有無よりも再犯の可能性の判定に重点を置いたものと見られる。
 1993年3月19日の公判で、医師は証言の中でまず、「北川被告はストレスを普通以上に過敏に受ける性格」としたうえで、「主に対人関係のストレスがたまり、その閉そく状況からの逃避、解消手段として犯行に走った。その際、道徳的判断能力が完全になかったとはいえない」と述べた。
 ストレスがたまったときの精神状態については「日常は隠れていた人格障害が表に出たと判断でき、それは正常と精神障害の境界にある」と指摘。人格障害の程度がいわゆる精神病的な範囲内ではないことを示した。
 ただ「初期の段階で精神分析などを受け、アドバイスがあればこれほど犯行が拡大しなかったと推測できる」とし、こうした性格は「人格形成過程で家族からの愛情を、少なくとも本人は感じてなかったことが大きい」と述べた。
 10月13日の論告求刑で検察側は、検察側は「目的のため手段を選ばない冷酷な犯行は人間性のかけらすらなく、通常の刑罰では矯正できない」と高知での強盗殺人などについては死刑、千葉での強盗殺人には無期懲役を求刑した。論告の中で検察側は「若い女性を物色する時のわくわくする気持ちを抑えられず、事前にひもやナイフを準備した」と周到な計画性を指摘。「二件の殺人は、被害者の意思の強さを感じ警察に届けられると判断したためで、自己中心的な理由で人生これからという女性二人の命を奪った犯行は、鬼畜のわざだ」と責任の重大さを訴えた。
 また「女性を誘う小道具として地図のコピーを用意して道案内を頼むなど、相手の善意につけ込んだ」と被害者に全く落ち度がないことを指摘。「過去にも同様の犯行で処罰を受けたほか、起訴に至らなかった婦女暴行事件は十一件に上る。極めて深化した犯罪は一片の酌量の余地もない」と厳しく論告した。
 11月24日の最終弁論で、弁護側は「二件の殺人とも当初から意図したものではなく、警察に訴えられるのが怖いためにやった防衛的な犯行だ。被告は公判でも『うそをついて減刑してもらっても悔いが残る』とすべて事実を話して一切を清算しようとしており、深く反省している。公判の精神鑑定によって初めて、犯行の原因は自分の精神的弱さにあることを知っており、矯正の可能性はある」と指摘。
 また「死刑は憲法に違反する残虐な刑罰で違法。被害者の父親が「死刑にしてほしい』という心情は察するに余りあるが、被害者の悲しみのために死刑にすれば、死刑囚の悲しみはどうなるのか」
 「女子銀行員殺害では、検察官は被害者が被告にだまされて車に乗ったので被害者に落ち度はないと主張している。しかし夜間、若い男性の車の助手席に乗ったのは軽率とは言えないか」と主張。「極刑判決だけは避けてほしい」と訴えた。
 この後、北川被告が「被害者には本当に申し訳なく、ご遺族の気持ちも十分分かる。逮捕されて以来、般若心経を読んでおり、二人のめい福を祈りながら残された人生がどうあるべきか考えていきたい」と声を詰まらせ最終陳述した。
 隅田裁判長は判決で全面的に起訴事実を認定したうえで、「うっくつした気持ちのはけ口としてスリルと興奮を味わおうとしたもので、事前にひもやナイフを準備してバス待ちの女性を狙った」と周到な計画性を指摘。殺害動機については「被害者の意思の強さを感じ、警察に通報されるのを恐れたためだ」と述べた。
 性格が犯行に及ぼした影響は「不遇な若年期を過ごしたことで、人格統合の不完全さに由来するが、刑事責任能力に問題ない」とした。
 また併合罪が適用されない点に関しては「(形式的には)別個に評価されることになるが、かつて(千葉事件で)人命を奪ったことは被告人の人命軽視や人格、資質を推し量り責任非難を与える要素として十分考慮されるべきだ」として、実質的には連続性を考慮すべきと判断した。
 さらに、死刑の適用については「最高裁判例により死刑を定めた刑法の規定は憲法に違反しないが、適用は慎重にすべき」との見解を示したうえで、「被害者の父親が娘を元の体で返さない限り、けっして許すことはできないという心情も切実な叫びとして十分理解できる」とし、「犯行は誠に悪質で一般予防の見地からしても、もはや自由刑で処断できる限界を超えている」と量刑理由を述べた。

 弁護側は事実誤認と量刑不当を理由に控訴した。
高裁の判決では、まず殺害方法の細部の事実誤認については「関係証拠によると、事実を優に認定することができ、事実の誤認はない」と述べ、「量刑不当の主張にとどまる」と退けた。また、「死刑判決は憲法違反」との主張には、「死刑判決は最高裁の確立した判例がある」と述べた。
 そのうえで量刑不当の訴えに「被告人の反省状況など、酌むべき一切の事情を十分しん酌しても罪責は誠に重大で極刑はやむを得ない」として、一審の千葉事件に無期懲役、高知事件に死刑の判決を支持した。

 弁護側は死刑判決そのものが憲法違反であるとして上告した。弁護人によると、北川被告は上告することに「反対はしていない」という。
 最高裁の北川弘治裁判長は判決理由で「犯行は冷酷、非道で、被告が反省していることなどを考慮しても死刑はやむを得ない」とした。
特記事項
 北川被告は1985年に別の強姦事件で懲役4年6月の確定判決を受けている。刑法の併合罪の規定によると、罪は禁固以上の確定刑の前後で分けて裁かれることになっており、千葉県の事件と、高知県の事件の量刑が別々に言い渡された。
 北川被告は、1968年に神奈川県警察学校を卒業し、約7カ月間、同県警巡査として勤務していた。
執 行
 2005年9月16日執行、58歳没。
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氏 名
日高広明
事件当時年齢
 34歳
犯行日時
 1996年4月18日~9月14日
罪 状
 強盗殺人、死体遺棄
事件名
 広島女性4人連続殺人事件
事件概要
 タクシー運転手日高広明被告(37)は自堕落な生活を続けてサラ金に約350万円の借金があった。1996年4月18日夜、黒瀬町に住む定時制高校1年Mさん(当時16)に広島市の公園で声をかけてタクシーに乗せ、援助交際で2万円を渡し、ホテルに行った。Mさんは父親の借金を返すために来ているという嘘の話をし、同情した日高被告は性行為を行わなかった。しかし女性が10万円を持っているという話(嘘だった)を聞き、犯行を決意。帰り道、呉市の空き地に車を止め、車内でMさんの首をネクタイで絞めて殺害し、所持金5万円を奪って死体を広島市内の水路土管に遺体を遺棄した。
 5月6日、広島市郊外の土管の中からMさんの遺体が見つかったが、手がかりが少なく、捜査は行き詰まった。
 8月14日、日高被告は新天地公園で広島市中区の無職の女性Hさん(当時23)と援助交際で3万円を渡し、ホテルに行った。行為後、タクシーで送る途中、車内で首をネクタイで絞めて殺害し、所持金5万2千円を奪い、遺体を広島市内の山林に遺棄した。
 9月7日、広島市内で無職の女性Hさん(当時45)を誘い、3万円で交渉が成立し、車内で行為を行った。その後、車内で首をネクタイで絞めて殺害。所持金8万2千円を奪い、遺体を法面の溝に遺棄した。
 9月13日、数回遊んだことのある主婦Rさん(当時32)を誘い、ホテルで行為後、送っている途中の翌日、首をネクタイで絞めて殺害。所持金5万6千円を奪い、遺体を山林の斜面に遺棄した。
 同日早朝、犬を散歩中の老女がRさんの遺体を発見。Rさんが車に乗り込むところを目撃されていたことから、日高被告の犯行と断定。逮捕状を取り行方を追っていたが、9月21日、山口県で車を盗んだところを逮捕された。その後、残り3つの事件を自供した。
一 審
 2000年2月9日 広島地裁 戸倉三郎裁判長 死刑判決
控訴審
 控訴せず確定
拘置先
 広島拘置所
裁判焦点
 1997年2月10日の初公判で、日高広明被告は罪状認否で「間違いありません」と起訴事実を全面的に認めた。冒頭陳述で検察側は「町で声をかけた女性を殺しても、自分は疑われないと思い、二人目以降は殺すことに快感を覚えるようになった」という日高被告の心理に言及した。弁護側は、「事件当時、日高被告に責任能力があったか疑問だ」と述べ、被告人調書を証拠として採用することを留保。精神鑑定の申請も視野に入れて、争っていく姿勢を示した。
 弁護側は精神鑑定を要求し、裁判所は認めた。
 1999年2月23日、1年3ヶ月ぶりに開かれた公判で、「人格に著しい偏りがあるが、責任能力に影響を及ぼしうるような病的なものとはみなされない」とする精神鑑定結果が証拠として採用された。
 10月6日、検察側は、「落ち度のない4人を次々に殺害した自己中心的な犯罪で、改善の見込みがない。犯罪史上まれにみる残虐な事件」として死刑を求刑した。
 11月10日の最終弁論で、弁護団は「日高被告は最初の犯行時、妻の病気や消費者金融の借金の返済などで自暴自棄的な心理状態にあった」と情状を主張。責任能力を認定した精神鑑定に対し、「精神状態は病的ではなかったといえるか」と、日高被告の責任能力に疑問を投げかけた。さらに、被告は捜査、公判に誠実に協力しているとして、死刑以外の選択を求めた。
 日高被告は最後に、時折声を震わせながら意見を陳述。「事件について弁解の余地はない。今すぐ命を絶ってわびたいが、それでも被害者や遺族から許されるとは思っていない」と述べたうえで、「(死刑の)確定で執行まで死の恐怖と向かい合うことで、被害者の恐怖と苦痛の何分の一かを味わえる」と、極刑を希望する意思を示した。
 判決で戸倉裁判長は「短期間に4人の命を奪った、まれにみる凶悪事案。計画性は明白で酌量の余地はない」「改しゅんの情を最大限斟酌し、死刑が極刑であることを考慮しても、被告人の刑事責任はあまりに重く、極刑をもって臨むしかない」と述べた。また、判決の言い渡し後、「殺される理由のなかった被害者への謝罪の気持ちを持ち続けてください」と諭した。
執 行
 2006年12月25日執行、44歳没。
その後
 広島弁護士会の足立修一弁護士は2006年12月14日、近く刑が執行されるとの情報を受け、日高広明死刑囚に再審請求の意思がないか確認しようと、広島拘置所を訪問し接見を申し入れたが、拘置所側は「現時点で再審請求をしていないから会わせない」と拒否された。
 2007年8月2日、接見拒否は違法であるとして、国に対し計180万円の損害賠償を求める訴訟を広島地裁に起こした。
 9月27日の第1回口頭弁論における意見陳述で足立弁護士は「受刑者処遇法は、受刑者の重大な利害に関する用件で面会する場合は許可するとしている。死刑に直面する者の権利は特に保護されなければならない。確定受刑者も再審請求の弁護人選任権が認められている。(元死刑囚の)意思も確認しないまま弁護人になろうとする者との面会を拒否したのは違法」と主張した。国は「日高死刑囚に再審請求や弁護士との接見の意思はなかった」と請求棄却を求めた。
 2009年12月24日、広島地裁は請求を棄却した。金村敏彦裁判長は判決理由で、「死刑確定者は刑事訴訟法で言う『身体拘束を受けている被告人または被疑者』に当たらない」と指摘。元死刑囚は再審請求をしていない上、「再審請求の弁護人に選任されておらず、元死刑囚から依頼も受けていない弁護士に接見交通権はなく、請求には理由がない」と結論づけた。
 原告側は即日控訴した。2010年12月21日、広島高裁は一審広島地裁判決を支持、原告側の控訴を棄却した。小林正明裁判長は判決理由で「再審請求の弁護人に選任されておらず、接見の依頼も受けていない」と指摘し、接見交通権は認められないとした。その上で「拘置所側が弁護士来訪の事実を伝達する法的義務を負わないのは当然だ」と述べた。
 2011年10月13日付で最高裁第一小法廷(桜井龍子裁判長)は、請求を棄却した一・二審判決を支持し、足立弁護士の上告を棄却する決定をした。足立弁護士の敗訴が確定した。
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氏 名
小田義勝
事件当時年齢
 42歳
犯行日時
 1990年12月25日、26日
罪 状
 殺人
事件名
 福岡・赤池町保険金殺人事件
事件概要
 1990年12月28日、無職の男性Sさん(当時27)と宝石店従業員の女性Kさん(当時20)の遺体が、福岡県田川郡赤池町の総合運動公園駐車場に全焼し放置された乗用車内で見つかった。二人とも刺し傷があったが、Kさんに抵抗した跡があったこと、Sさんの筆跡で「誘ったがバカにされた。死ぬ」という遺書めいたものがダッシュボードにあった。そのため、当初は無理心中を図った事件として処理された。が間もなく、女性に災害死亡時1億円の保険金がかけられていたことが判明。心中を装った保険金殺人と分かった。
 Kさんが働く北九州市の宝石店女性経営者M容疑者(20)と古美術店主小田義勝被告(42)が共謀。Kさんと、テレホンクラブでM容疑者が知り合ったSさんとの無理心中を装い、保険金を受け取ることを計画。90年12月25日から26日にかけて、2人を果物ナイフで刺すなどして殺害、遺体を置いた男性の車にガソリンをかけ放火したものだった。この事件で保険金は支払われていない。
 M容疑者が経営していた宝石店であるが、実際は商取引が皆無と言ってよいペーパーカンパニーであった。M容疑者、Kさんは小田被告の古美術店従業員募集で応募してきた同僚であった。M容疑者はすぐに小田被告と情交を結び、今回の偽装計画を立てたものであった。
 小田被告は犯行の9ヶ月前、自宅に火災保険をかけ、放火したとされる(立件されていない)。このとき、保険金数100万円を受け取った。その後、美術店を経営し、雇い入れた女子従業員3人に保険金をかけ、社員旅行中に殺害して、保険金をだまし取ることを計画。だが、一緒に犯行を計画していた友人が怖くなって逃げたため、犯行を断念した。
 また小田被告は事件直後の1990年12月29日、東京都内で姉に「二人殺してしまった」と告白したとされる。
 1991年1月31日、地元新聞が「保険金殺人として捜査開始」の記事を出し、M被告は姿を消した。福岡県警は無理心中を装った保険金目当ての殺人事件と断定し、1991年10月11日、小田被告とM被告を殺人容疑で指名手配したが、小田被告もすでに逃走していた。
 小田被告は逃走中の1993年11月5日、埼玉県浦和市(現さいたま市)で強盗事件を引き起こし、現行犯で逮捕された。福岡県警は1994年2月19日、殺人容疑で小田被告を逮捕した。しかし小田被告は黙秘を続けたため立証できず、3月13日、福岡地検は小田被告を証拠不十分で処分保留にした。身柄を浦和に戻された小田被告は3月30日、強盗致傷事件で懲役3年8月の実刑判決を浦和地裁で受け、確定した。
 福岡県警は小田被告が1996年1月下旬、有罪が確定し収監中の甲府刑務所で別の受刑者に「二人を殺した。今度は無期か死刑やろ」打ち明けたことや、小田被告が犯行を認め、逃走資金を無心する手紙を父親に送り付けていたこと、「心中に見せかけ、二人をやった」と打ち明けられたとする元義母らの証言をつかんだ。
 1996年2月20日、福岡県警は小田被告の親族らの「犯行状況を告白された」という検察官調書などを「新証拠」として、服役中の小田被告を再逮捕した。しかし福岡地裁は「不当な逮捕の蒸し返しにならないよう考慮が必要」として再拘置を認めず、拘置請求を却下。福岡地検の準抗告も24日棄却されたため、福岡地検は十分な取り調べができないまま28日に小田被告を起訴した。ただし詳細な殺害方法、殺害場所、M容疑者との役割分担など、多くの部分が不明なままだった。
一 審
 2000年3月15日 福岡地裁 陶山博生裁判長 死刑判決
控訴審
 2000年3月30日 本人控訴取下げ、死刑確定
拘置先
 福岡拘置所
裁判焦点
 1996年5月17日の初公判における罪状認否で、小田被告は「何も言いたくありません」と述べ、黙秘権行使の姿勢を示した。被告の弁護人は意見を留保した。
 7月19日の第2回公判における検察側の冒頭陳述で、検察側は「自宅に放火し、火災保険を手に入れたことから安易に大金を得ることを覚え、今回の犯行に至った」と動機を指摘。「犯行後は、親類に細かな犯行状況を告白したほか、別件で拘置されていた間も、同房者に犯行を打ち明けていた」「被害女性の遺体に巻かれていたタオルは、火災の時に被告方へ町が贈ったタオルと同じ」などと、新たな状況証拠を明らかにした。
 被告弁護側は、「被害女性をどう殺したのかなど、犯行状況の細かな内容はほとんどない。立証もされていない自宅の火災を放火と決めつけるなど、乱暴な組み立て。ストーリーもできすぎている」と厳しく批判。物的証拠も自白も何もなく、無罪を主張した。
 1998年12月14日の第23回公判で小田被告は、元義母の証人尋問の途中、突然、犯行の告白を受けたという元義母らの調書の証拠採用に同意した。
 1999年3月17日の第25回公判における弁護人の被告人質問で、小田被告は「起訴状の事実を認めますか」と問われ、これまでの黙秘から一転して「起訴状の文面は記憶にないが殺したことは認める」と述べ、起訴事実の核心部分を認めた。さらに動機が保険金目当てであり、心中を偽装したことについても「そうです」と認めた。ただ、殺害の日時、場所など具体的なことについては「答えたくない」と口をつぐんだ。共犯として指名手配されているM容疑者との共謀関係については「私以外の人間に関してのことは一切言いたくない」と供述を拒んだものの「(M容疑者は)生きている」と述べた。小田被告は、今になって犯行を認めた理由について「(自分で)結論を出そうと思った」と話した。
 1999年5月17日の公判で、小田被告は検察側の立証と異なる殺害方法などを初めて具体的に供述した。検察側は冒頭陳述で、小田被告がM容疑者と共謀し、Sさんを果物ナイフで刺殺した後、Kさんを果物ナイフで殺害したとしていた。しかし小田被告は、Kさんを果物ナイフで殺害した後、柄が折れたので別の包丁でSさんを殺したと語った。
 12月13日の論告求刑で、検察側は「冷酷、非情で矯正も望めず、極刑を選択するほかない」として死刑を求刑した。
 12月27日の最終弁論で、弁護側は「共犯者は行方不明で真相究明は不十分。被告は罪の深さを認識しており、極刑がやむを得ないという場合には当たらず、死刑は相当ではない」と主張して結審した。最後に裁判長は小田被告に問いかけたが、「何もありません」と心の内は明かさなかった。
 判決で陶山裁判長は「動機に酌量の余地は皆無。犯行を主導したのも被告人で冷酷非情であり、遺族も極刑を望んでいる」と指摘、「反省も認められず、矯正は極めて困難。自己の生命をもって罪を償うほかない」と理由を述べた。
 ただし、判決文では、小田被告とM容疑者の役割分担などの詳細や、二人の殺害場所さえ特定できなかった。

 一審判決後、小田被告は、右手を挙げ「この場で上訴権を放棄できますか」と質問した。陶山裁判長は「弁護人と相談しなさい」と言い残し退廷。小田被告は弁護人にも控訴しない意思を伝えた。
 弁護人が量刑不当と3月27日に控訴したが、小田被告は「早く決着を付けたい」と3月30日に控訴を取下げ、確定した。
その後
 M容疑者は1991年12月末、小田被告とともに小田被告の親族と会ったことが確認されているが、その後は音信不通となった。1993年11月に小田被告が逮捕されたとき、小田被告は弁護士に対し、逮捕までM容疑者と一緒にいたと話したが、足取りはまったくつかめなかった。そのため福岡地検が1996年に福岡地裁に提出した資料では、「(M容疑者は)生存が疑問視される状況にある。殺害された可能性が高いとの観点から、身元不明の変死体を照合するなどしているが、生死は不明である。すでに死亡しているがい然性が高いと言わざるを得ない」と報告され、「所在が判明する見込みは極めて乏しい」としていた。
 M容疑者は小田被告の死刑が確定した後の2000年4月29日午後9時過ぎ、福岡県田川署に出頭し、逮捕された。M容疑者は小田被告が逮捕される直前まで行動を共にし、その後は東京、神奈川、埼玉の風俗店で働くなど、各地を転々としていた。
 M被告の公判で、不明だったとされる事件の全容が明らかになった(ただし、M容疑者の供述に基づいたもの)。
 交際中だったM被告と小田死刑囚は、M被告経営の宝石店従業員Kさん(当時20)を無理心中に見せかけて殺害し、M被告を受取人にKさんにかけていた生命保険(災害死亡時1億円)を手に入れようと計画。M被告が、「心中相手」探しと誘い出しを受け持った。
 1990年12月25日、M被告は、テレホンクラブで知り合ったばかりのSさん(当時27)を、北九州市にあった宝石店に誘った後、Kさんを電話で赤池駅付近に呼び出した。その間、店に待たせていたSさんを小田死刑囚が連れ出し、Sさんの乗用車で同駅付近に向かった。
 M被告はKさんを軽乗用車に乗せ、赤池駅付近で小田死刑囚、Sさんと落ち合い、ドライブを装って殺害場所を物色した。同県田川市の山中で、小田死刑囚が、Kさんの頭部をバットのような物で殴打。さらに、M被告に指示して近くのスーパーで買ってこさせた果物ナイフで刺殺した。
 Sさんは、自分の車で現場から立ち去った。ところが、M被告と小田死刑囚がKさんの遺体を軽乗用車に乗せて宝石店に戻ったところ、Sさんが店に現れた。
 M被告と小田死刑囚は、再びSさんを連れ出し、同県川崎町安真木の山中へ。山道に止めたSさんの乗用車内で、小田死刑囚が、M被告に店から持ち出させて用意していた包丁でSさんを刺殺。KさんとSさんの遺体を、同県赤池町の総合運動公園に運び、Sさんの乗用車内に移して放火した。
 M被告は初公判で起訴事実を全面的に認めた。M被告は2002年6月27日、福岡地裁で求刑通り無期懲役判決。控訴せず確定。
その他
 Sさんの父親は事件時犯罪被害給付制度を知らず、1999年夏に制度のことを知って9月に田川署を訪れたが、「時効になっており、申請できない」と言われた。さらに数日後、県警から「申請は(犯罪発生から)7年までとなっており、私たちの力ではどうしようもない」と説明を受けたという。
執 行
 2007年4月27日執行、59歳没。
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氏 名
松本健次
事件当時年齢
 39歳
犯行日時
 1990年9月6日/1991年9月25日
罪 状
 強盗殺人、死体遺棄、詐欺、窃盗
事件名
 京都・滋賀連続強盗殺人事件
事件概要
 熊本県出身の無職松本健次被告は兄から犯行を持ち掛けられ、京都府城陽市に住むいとこの男性(当時36)を殺し財産を奪おうと計画。1990年9月6日午前5時頃、男性宅でマッサージと称して首にビニールひもを巻き付けて絞殺し、現金約4万円と土地家屋の登記済み証、登録印などを奪い、遺体を福井県敦賀市の砂浜に埋めた。さらに土地や住宅を計2700万円で売却した。
 金を使い果たした二人は、1991年8月下旬頃から滋賀県東浅井郡に住む実姉宅に身を寄せていた。近所に住む資産家の女性(当時66)が養子を求めていたことを知り、殺害して資産を奪おうと計画。
 9月25日夕方、「岐阜にいる養子の希望者を紹介する」と自宅にいた女性を車で誘い出した。午後10時頃、愛知県内の木曽川沿い道路でトイレ休憩とだまして車から降ろし、一人がひも、一人が手で女性の首を絞めて殺害した。遺体を福井県美浜町の砂浜に埋めたうえ、現金175,000円や家の権利書や預金通帳、有価証券、印鑑などを奪った。
 29日夜、捜査願が出された。松本被告らが女性の家の売却を相談していたことから30日、滋賀県警虎姫署は重要参考人として松本被告に出頭を求めた。1日夜、松本被告は犯行を自供し、逮捕された。さらに同署は松本被告の兄(当時43)を指名手配したが、3日午後、岐阜県美濃市内で首をつって自殺しているのが見つかった。松本被告の兄はサラ金から60万円を借りていた。
 11月16日、いとこ殺害の強盗殺人、死体遺棄容疑で松本被告は再逮捕された。
 松本被告らはほかにも知人二人の殺害を計画し、8月頃、京都府城陽市内のゴルフ場などに、遺体を隠すための穴を掘っていた。
 他に窃盗1件。
一 審
 1993年9月17日 大津地裁 土井仁臣裁判長 死刑判決
控訴審
 1996年2月21日 大阪高裁 朝岡智幸裁判長(退官のため宮島英世裁判長が代読) 控訴棄却 死刑判決支持
上告審
 2000年4月4日 最高裁第三小法廷 奥田昌道裁判長 上告棄却 死刑確定
 判決文「裁判所ウェブサイト」内のPDFファイルが開きます。リンク先をクリックする前に、注意事項をご覧下さい)
拘置先
 大阪拘置所
裁判焦点
 1991年12月17日の初公判で、松本被告は起訴事実である2件の強盗殺人を全面的に認めた。
 しかし、1992年4月17日の第3回公判における死体遺棄分の罪状認否で、「殺害行為に手は貸したが、実際に手を下したのは兄」と起訴事実を一部否認した。
 1993年7月2日の論告求刑で、検察側は「いったんは認めた殺人を兄になすりつけるなど反省の色がみられない」として、死刑を求刑した。
 弁護側は最終弁論で、松本被告は殺害の現場にいたが、主犯は兄であり、強盗殺人は兄の単独犯行であると主張。また死刑は憲法違反の疑いがあると訴えた。
 9月17日の判決で、土井裁判長は主犯が兄との主張に対して「男性殺害は兄が計画を立てたが被告人も直接、殺害行為に加担している。また女性殺害では被告人の方が兄よりも犯行に積極的だった事実が認められる」と退けた。また、弁護側の「死刑は憲法違反の疑いがある」との主張に対し、「いわゆる残虐刑罰ではなく、憲法違反とは言えない。犯罪予防の見地からも本件を厳しく処断することにより、社会への警鐘とする必要が高い」との見解を示した。
 そして「金目当てに二人の生命を奪った極めて冷酷非情な犯行」「自己中心的で冷酷な犯行。人命尊重の意識の欠如は矯正が困難で、反省も見られず、極刑に相当する」とした。

 控訴審で朝岡裁判長は、「二人の命を奪い取った犯行は、計画的で非情、冷酷。極刑はやむを得ない」と被告の控訴を棄却した。

 最高裁の判決理由で奥田裁判長は「死刑は残虐な刑罰を禁じた憲法に違反する」との被告側主張をめぐり「1948年の最高裁判例で合憲とされている」と、これまで通り判断した上で「今これを変更すべきものとは認められない」とした。
 さらに「二件の強盗殺人とも周到に計画され、動機は利欲で酌量の余地が全くない。二人の人命を奪った結果は重大だ」と述べた。
備 考
 支援する人々は以下のように主張。
  • 松本被告は胎児性水俣病からくる知的障碍であり、幼少期から兄に絶対服従だった。県警は、知的障碍につけ込んで「男なら自殺した兄の責任も取るべきだ」とそそのかして自白調書を取った。
  • 兄は交際していた女性のためにお金の工面に奔走し、借金がふくらんだ結果の犯行であり、松本被告は兄に従っただけの従犯である。
その後
 2005年3月30日、恩赦出願却下。
 2005年7月、再審請求。2007年11月13日までに、大津地裁(長井秀典裁判長)は再審請求を棄却した。弁護側は大阪高裁に即時抗告した。その後、棄却された。
 外部とのやりとりが厳しく制限された長年の拘置所の狭い独房生活から、拘禁症を患い、重い精神疾患を発症しかけていると診断されている。(2015年8月情報)
 2016年6月16日、第七次再審請求。2018年5月時点で特別抗告中。その後棄却。
 アムネスティ・インターナショナルは、知的障碍と精神障害を抱えている松本健次死刑囚について死刑の執行を停止し、すべての死刑確定者に国際基準に沿った保護措置を確保するよう、要請書を上川法相あてに送った。生まれながら軽度の知的障碍があることに加え、長期にわたる拘禁の影響により、誇大型の妄想性障碍を発症し、人との意思疎通が困難になっているという。
 松本健次死刑囚は国を相手に、再審請求中は死刑執行を拒否できることの確認を求める訴訟を大阪地裁に起こし、2018年5月31日、第1回口頭弁論が開かれた。国側は、請求に対する意見を留保した。2020年2月20日、大阪地裁は請求を棄却した。松本死刑囚側は、再審請求中の執行が、裁判を受ける権利を保障する憲法32条に違反すると主張。しかし松永裁判長は「同条は刑罰について、裁判所の公開法廷での審理と判決によるべきだと定めたもの」と指摘。「その後の非常救済手続きである再審請求中に執行されても、権利が侵害されたとはいえない」と判断した。判決文「裁判所ウェブサイト」内のPDFファイルが開きます。リンク先をクリックする前に、注意事項をご覧下さい)。
 2020年2月時点で地裁に第8次再審請求中。
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氏 名
田中政弘
事件当時年齢
 20歳
犯行日時
 1984年11月15日~1991年3月8日
罪 状
 強盗殺人、死体遺棄、有印私文書偽造・同行使、詐欺、詐欺未遂、殺人、窃盗
事件名
 東京、神奈川、香川、徳島4都県殺人事件
事件概要
 元工員宮下政弘(旧姓)被告は1984年11月15日、香川県香川郡香南町のポルノショップで、管理人の女性(当時64)の応対に立腹。それを恨みに思い15日頃、女性を包丁で刺殺、売上金約5万円を盗んだ。
 1988年3月21日ごろ、徳島市の暴力団事務所で、後輩の組員の男性(当時21)に腹を立て、電気コードで絞殺した。遺体を近くの工場跡倉庫にいったん隠した後、8月ごろ同市八多町の山林に埋めた。
 1989年6月9日、東京都武蔵村山市にある当時勤務していた自動車工場の社員寮で、退職して帰郷する際に10数万円の借金の返済を求めてきた同僚(当時18)の首をひもで絞めて殺害、退職金など現金約120万円などを奪い、遺体をプラスチック容器に入れて千葉県市川市の江戸川沿いに捨てた。
 1991年3月8日午後1時半頃、知人からの借金約130万円の返済日が迫っていたことから、神奈川県藤沢市に住む伯母(当時63)を訪ねて借金を頼んだが断られたため、近くにあったナイロンロープで首を絞めて殺し、床下に遺体を隠したうえ、額面計約800万円の預金通帳など7通と印鑑、現金約13万円を盗んだ。犯行直後、宮下被告は郵便局で奪った郵便貯金証書を使い、約324万円を引き下ろしていたほか、11日には東京都豊島区内の銀行で現金を引き出そうとして断られていた。
 3月13日、藤沢市の事件で、床下から遺体が発見された。16日、強盗殺人容疑で宮下被告を逮捕。その後、宮下被告は武蔵村山市の事件を自供。4月10日、遺体は自供通りに発見され、12日に再逮捕。5月、四国での2件を自供。6月18日、香川県の事件で再逮捕。6月21日、供述通りに徳島市の山林で男性の遺体が発見された。7月17日、徳島市の事件で再逮捕。
一 審
 1994年1月27日 横浜地裁 上田誠治裁判長 死刑及び懲役12年判決
控訴審
 1995年12月20日 東京高裁 佐藤文哉裁判長 控訴棄却 死刑及び懲役12年判決
上告審
 2000年9月8日 最高裁第二小法廷 河合伸一裁判長 上告棄却 死刑及び懲役12年確定
 判決文「裁判所ウェブサイト」内のPDFファイルが開きます。リンク先をクリックする前に、注意事項をご覧下さい)
拘置先
 東京拘置所
裁判焦点
 一審では、4人の殺害を全面的に認めていた。弁護側は、死刑廃止の世論が高まっているので、死刑は避けるべきと懲役刑を主張。
 上田裁判長は判決で、香川県の事件について「激しやすく、短絡的に行動しがちな人格」と指摘。一方で、もしこの犯行後逮捕され、刑事責任を取っていれば「第二以下の犯行を防止できたのではないか。遺憾だ」と述べた。徳島の事件については「通常人の行動類型とは異質」と厳しく非難した。また、武蔵村山市の事件では「単なる金欲しさのため親しい同僚を殺そうと思いつき、すぐさま実行した行動には戦りつを覚える」と述べた。藤沢市の事件では「少しでも殺害の意味を省みるなどの態度は見いだせない」との厳しい判断を示した。  量刑について、上田裁判長は「死刑の選択適用は慎重のうえにも慎重に臨むべきだ」としたうえで、「親しい友人や伯母などを次々と殺した、我が国の社会において極めてまれな凶悪犯罪。手口も冷酷、残虐なうえ、犯行後も平然と生活しており、最大限の非難に値する。犯行の自省や死者への崇敬の念は、みじんたりとも感じられない。無期の懲役刑で償える範ちゅうをはるかに超えている。本人の生命をもって刑事責任を償う死刑を選択せざるを得ない」と、極刑を選択した理由を述べた。

 控訴審からは宮下被告は、香川県、徳島市の2件について無罪を主張した。
 佐藤裁判長は「自己の感情や欲求を満たすため、ためらいもなく犯行に及んでおり、動機にしんしゃくすべき点は認められない。被告の刑事責任は重大だ」とした。

 最高裁でも弁護側は二件の殺人を否認し、死刑回避を求めたが、河合伸一裁判長は「自白の任意性が疑われる証拠は認められない」などと退けた。そして、「特に2件の強盗殺人は動機に酌量の余地はなく、犯行態様が冷酷、非情、残虐で、結果も重大」と述べた。
備 考
 宮下被告は、1986年に道交法違反(無免許運転)で禁固の確定刑が出された。刑法の併合罪の規定によると、罪は禁固以上の確定刑の前後で分けて裁かれることになっており、1984年の事件(求刑懲役15年)と、残り3事件の量刑(求刑死刑)が別々に言い渡された。
その他
 旧姓宮下。
その後
 2件の殺人について無罪を主張して再審請求。2004年2月棄却。4月23日即時抗告棄却。5月29日特別抗告棄却。
 第二?次再審請求するも、2007年2月10日、特別抗告棄却。
執 行
 2007年4月27日執行、42歳没。4月18日付で弁護人に発信した手紙には「すでに恩赦請求書ができており、あとは日付を入れて5月21日くらいに提出予定」だと記載されていたらしい(「死刑廃止フォーラム」より)。
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氏 名
竹澤一二三
事件当時年齢
 52歳
犯行日時
 1990年9月13日/1993年7月28日
罪 状
 殺人、現住建造物等放火、傷害
事件名
 今市連続殺人事件
事件概要
 1990年5月、栃木県今市市の運転手竹澤一二三被告は、妻が浮気をしていると邪推し攻め立てたため、妻は家でした。9月13日、竹澤被告は、妻の勤め先だった、同市に住む建設会社社長(68)が家出した自分の妻をかくまっていると思いこみ、会社社長を栃木県内の山林に連れ出して車中にてロープで絞殺、さらに車にガソリンをまいて放火した。
 遺体はほぼ炭化しており、損傷がひどく死因は特定出来なかった。矢板署が竹澤被告を調べたが、確証はなく、自、他殺の両面で捜査が継続された。
 さらに竹澤被告は同市の農業Oさん(当時74)も妻と親密な関係にあると邪推していた。そして1993年7月28日午前1時50分ごろ、元同僚のK(37)とOさん宅に押し入り、Oさんと妻のK子さん(当時68)をナイフで殺害。長男(当時41)にけがを負わせた。その後、部屋にガソリンをまいて放火し、住宅を全焼させた。
 警察の捜査で、竹澤被告とOさんとの間にトラブルがあったこと、さらに事件当時両足にやけどをしていたことを突き止め、8月5日夜、東京都江東区にある元勤務先の材木運搬社に立ち寄ったところを警察が発見して同行を求め追及したところ、犯行を認めたため、6日、Oさん夫婦への殺人と放火容疑で逮捕した。竹澤被告は当初単独犯行を主張したが、被害者の供述から共犯者がいることが判明し、追及したところ自供。8月16日、K被告を逮捕した。
 9月に入り、竹澤被告は建設会社社長殺害を自供。証拠が乏しく難航したが、11月6日、再逮捕した。
一 審
 1998年3月24日 宇都宮地裁 山田公一裁判長 死刑判決
控訴審
 2000年12月11日 東京高裁 高橋省吾裁判長 控訴棄却 死刑判決支持
上告審
 上告せず確定
拘置先
 東京拘置所
裁判焦点
 一審で被告・弁護側は起訴事実をほぼ認めたが「妄想性障害による心身喪失が心身耗弱」と主張。被告の責任能力の有無、程度が争点となって精神鑑定が2回行われた。東京都精神医学総合研究所の西山詮医師は「精神病の水準にあり責任無能力な状態」と結論。福島章・上智大教授は「被告は脳血管障害でもたらされた微細脳器質性格変化症候群に相当し、心身耗弱状態」とした。
 判決では、
(1)2度の精神鑑定は被告の精神状態をそれぞれ「精神病の水準にあり、責任能力がない」(弁護側・西山鑑定)「微細脳器質性格変化症候群に相当し心身耗弱」(検察側・福島鑑定)と認定する。しかし、前者で主張する被告の妄想は了解可能で精神病の根拠とならない。後者でいう器質性の異常と被告人の人格変化との因果関係は明らかでない。したがっていずれの精神鑑定も採用できない。
(2)犯行時、被告の動機は了解可能で、犯行態様も衝動的な面はうかがわれず、犯行後も自己の犯行が許されないものと理解していた。このことから被告の責任能力には疑問はない。
(3)3年間に計3人を殺害したという点でまれに見る事案、刑事責任の重大さは明白。死刑に関する内外の情勢等に十分配慮したとしても本件各犯行の罪責、動機、態様、結果、被害感情等を併せ考えると被告の罪責誠に重大(中略)一般予防の見地からも極刑をもって臨むのはやむを得ない。

 二審でも弁護側は「被告は当時、脳に障害が生じて人格が変化していた」との鑑定結果を基に「心神耗弱の状態だった」として死刑を回避するよう主張。しかし高橋裁判長は「別の鑑定結果から、障害が人格に大きな変化をもたらしたと考えるのは困難」などと退けた。
備 考
 共犯のK元被告は一審で懲役14年の判決が確定。
執 行
 2007年8月23日執行、69歳没。
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