黄奕善 | |
24歳 | |
1993年10月27日~12月20日 | |
住居侵入、強盗殺人、建造物侵入、強盗殺人未遂、銃砲刀剣類所持等取締法違反、火薬類取締法違反 | |
警察庁広域重要指定121号事件 | |
マレーシア国籍の黄奕善(ウォン・イーサン)被告は下山信一被告らと共謀し、警察庁広域重要指定121号事件の大半に関わった。関わった事件は以下。
下山被告、SH被告、YS被告らは数年前から自動車のあたり屋などを繰り返していた保険金詐欺仲間だった。 八日市市の事件の捜査本部は、被害者の交友関係を調べるうちに暴力団組員YT被告が浮上。周辺の捜査で下山信一被告、YS被告らを含むグループが判明。1994年3月中旬、捜査本部は下山被告、YS被告を強盗殺人容疑で逮捕し、YT被告を指名手配した。下山被告、YS被告は取り調べに対し、その他の犯行も自供。3月30日、MT被告を逮捕。4月1日、黄奕善被告を逮捕。6月2日、YT被告を千葉県内で逮捕した。 警察庁は4月18日、一連の事件を広域重要指定121号事件に指定した。 5月10日、足立区の不動産賃貸業者に対する強盗殺人容疑で下山被告、黄被告を再逮捕。現場の見張り役だったMK被告、情報提供者のSH被告を新たに逮捕した。 6月4日、足立区の金融業者に対する強盗殺人未遂容疑で下山被告、黄被告、SH被告を再逮捕した。 6月20日、高崎市の強盗殺人容疑で下山被告、黄被告を再逮捕した。 | |
1996年7月19日 東京地裁 阿部文洋裁判長 死刑判決 | |
1998年3月26日 東京高裁 松本時夫裁判長 控訴棄却 死刑判決支持 | |
2004年4月19日 最高裁第一小法廷 島田仁郎裁判長 上告棄却 死刑確定 【判決文】(「裁判所ウェブサイト」内のPDFファイルが開きます。リンク先をクリックする前に、注意事項をご覧下さい) | |
東京拘置所 | |
黄被告は裁判の当初、犯行に加わったことは認めたものの、「殺すつもりはなかった」と殺意を否認した。 1996年1月29日の論告求刑で検察側は、「三人の命を奪った結果の重大性、犯行に果たした役割の重要性などを考えると、極刑をもって臨むほかはない」と死刑を求刑した。 最終弁論で黄被告は「命でつぐないたい。死刑にしてほしい」と述べた。 判決で阿部裁判長は「金欲しさから凶悪、非情な犯行に走った。主犯ではないことなどを考慮しても、死刑をもって臨むほかはない」と述べ、求刑通り死刑を言い渡した。 阿部裁判長が主文言い渡しで「被告人を死刑に処する」と最後に告げると、黄被告は「ありがとうございます」と頭を下げた。 黄被告は「殺意はなく従属的な立場で、死刑は重すぎる」などとして控訴。一審裁判時の通訳の誤訳を主張した。 判決で松本裁判長は、一審の事実認定に間違いないとした上で「金品強奪のため三人を殺害するなど残虐な犯行で、自ら重要、不可欠な役割を果たし、積極的に実行行為に及んだ。死刑は究極の刑罰で適用には慎重を期すべきだが、一審の量刑はやむを得ない」と述べた。 最高裁で被告側は「首謀者である下山被告に引きずられて加担させられた」と主張した。 判決で島田裁判長は「重要な役割を担当し、積極的に実行行為に及んだ」と被告側の主張を退けた。そして「金銭欲に駆られた極めて利己的な犯行で、冷酷かつ残虐。死刑はやむを得ない」と述べた。 | |
松沢信一(旧姓下山)死刑囚の共犯。東京地裁の死刑判決は1994年5月の強盗殺人事件(東京高裁で無期懲役に軽減され確定)以来、約2年2カ月ぶりだった。 最高裁では今まで判決主文だけの言い渡しだったが、「刑事事件の判決で、相当と認める場合は理由の要旨を告知する」とする2002年末の申し合わせを適用し、死刑判決としては初めて法廷で理由の要旨を告げた。 共犯の確定判決については、松沢信一死刑囚の項参照。 | |
2007?年、再審請求。 |
石橋栄治 | |
51歳 | |
1988年12月28日/1989年1月1日 | |
強盗殺人、現住建造物等放火 | |
神奈川2件強盗殺人事件 | |
1988年12月28日午後11時過ぎ、神奈川県平塚市内でタクシーに乗った土木作業員石橋栄治被告は、売上金を奪う目的で運転手(当時44)の首などをペティナイフで刺し失血死させた。遺体は同日午後11時50分頃、小田原市の路上で発見された。 1989年1月1日未明、盗みの目的で神奈川県足柄上郡にある建設会社のプレハブ平屋建て作業員宿舎に侵入、山梨県出身の作業員(当時39)の所持金28,000円を盗んだが、見つかったためカッターナイフで刺し殺した上、灯油をまいて火をつけ、同宿舎1棟約50平方メートルを全焼させた。 石橋被告は1月1日夜、逮捕された。 | |
1996年3月8日 横浜地裁小田原支部 ☆原孟裁判長(☆草カンムリにノギヘンのノギ、その右に亀) 無期懲役判決 (放火殺人事件は有罪、タクシー運転手殺害事件は無罪) | |
1999年4月28日 東京高裁 佐藤文哉裁判長 一審破棄 死刑判決 (両事件とも有罪) | |
2004年4月19日 最高裁第三小法廷 藤田宙靖裁判長 上告棄却 死刑確定 【判決文】(「裁判所ウェブサイト」内のPDFファイルが開きます。リンク先をクリックする前に、注意事項をご覧下さい) | |
東京拘置所 | |
石橋被告は取調段階で犯行を全面的に認めたが、初公判ではタクシー運転手殺害事件を全面的に否認した。また放火殺人事件では金を奪ったことと放火については認めたが、ナイフで刺したことを否認した。その後、放火殺人事件についても完全否認した。 一審では弁護側は、「犯人は返り血を浴びているはずなのに、被告の着衣などに血痕がない」「犯行と被告を結びつける物的証拠がない」と無罪を主張。 判決では放火殺人事件について「被告は捜査段階から公判前半まで一貫して犯行を認めており、内容も論理的、合理的で疑う余地はなく、事件の犯人と認められる」と断定、石橋被告の無罪の主張を退けた。しかしタクシー運転手殺害事件では「犯行を認めた捜査段階の自白は、あいまいな知人の証言を基に捜査員の誘導や暗示で引き出された疑いが濃い」と指摘し、無罪とし、無期懲役を言い渡した。 検察、弁護側ともに控訴した。 二審では犯行を認めた被告の捜査段階の自白調書の信用性などが争点になった。 一審で無罪になったタクシー運転手殺害事件について佐藤裁判長は「自白の任意性に問題はない」「供述に変換はあるが信用性に疑いは生じない」と判断した。さらに被告から犯行を打ち明けられたと供述した知人の調書の信用性も認め、一審判決には事実誤認があると結論づけた。 放火殺人事件については「一審の判断に事実誤認はない」と弁護側の主張を退けた。 最高裁の判決理由で藤田裁判長は「被告を犯人とした二審判決の事実認定は正当」とした上で「金欲しさから全く落ち度のない被害者に確定的な殺意のもとに行われた犯行で冷酷、残忍」と指摘。「自責の念もうかがえず、死刑は是認せざるを得ない」と述べた。 | |
2008?年、再審請求。 2009年10月27日、収容先の東京拘置所にて、肺炎で死亡した。72歳没。石橋栄治死刑囚は2009年9月初旬頃から体調不良を訴え、抗生物質の投与などを受けていた。 |
藤間静波 | |
21歳 | |
1981年10月6日~1982年6月5日 | |
殺人、窃盗 | |
警察庁広域重要指定112号事件 | |
藤間静波(ふじませいは)被告は藤沢市の会社員Hさんの長女(当時16)との交際を断られたことを根に持ち、少年院時代一緒だった元ゲームセンター店員の少年(当時19)を仲間に引き入れ、1982年5月27日午後8時頃、Hさん方に押し入り、長女、次女(当時13)、妻(当時45)の3人を次々と刺し殺した。少年は廊下で見張り役をしていた。さらに6月5日夜、犯行の発覚を恐れ、一緒に逃亡していた少年を兵庫県尼崎市内で刺殺した。 藤間被告はこれに先立つ1981年10月6日早朝、横浜市戸塚区のキャベツ畑で、金のいざこざから盗みの仲間の無職男性(当時20)を刺殺している。 余罪として窃盗10件がある。 | |
1988年3月10日 横浜地裁 和田保裁判長 死刑判決 | |
2000年1月24日 東京高裁 荒木友雄裁判長 控訴棄却 死刑判決支持 | |
2004年6月15日 最高裁第三小法廷 浜田邦夫裁判長 上告棄却 死刑確定 【判決文】(「裁判所ウェブサイト」内のPDFファイルが開きます。リンク先をクリックする前に、注意事項をご覧下さい) | |
東京拘置所 | |
一審の最終弁論で弁護側は「藤間被告は、脅迫という別件で逮捕され、刑事手続き上、違法であるうえ、殺人の自白も強制、拷問によるもので、証拠能力はない」と無罪を主張した。 和田裁判長は「平和な社会においてまれにみる凶悪事件で、社会一般に与えた影響は重大。殺人の動機はいずれも身勝手、自己中心的で短絡的。反省する気持ちがあるとは到低認め難い」として求刑通り死刑判決を言渡した。 和田裁判長は被害者のHさん一家のことを「幸せな家庭を突然奪われた無念さは計り知れない」と述べた瞬間、思わず涙声になり、「5人もの命を奪った責任はあまりにも重く、君自身の命でそれをつぐなってもらう以外にない」とした。 藤間被告は一審判決の言い渡し直後、「言いたいことがある」と立ち上がり、「自分の世界で一番好きな人は稲川聖城さん(当時暴力団・稲川会総裁)」と、傍聴席を振り返って二度、三度と両手でVサイン。和田裁判長はすかさず「君には反省の色がない」と高ぶった口調でたしなめる場面があった。 藤間被告は、控訴審でも「魔法をかけられている」と発言したりするなど、奇行が目立った。 藤間被告は1989年7月10日の控訴審初公判及び9月11日の第2回公判で「もう助からないから、控訴をやめたい」という趣旨の発言をし、裁判長から重要な事項なので、弁護人とよく相談してから決めるようにと諭され、またそのころ、被告人は、東京拘置所の職員や接見のため訪れた弁護人に対しても、しばしば「控訴を取り下げたい」旨の発言をし、弁護人が、被告人をその都度説得して思いとどまらせ、拘置所職員にも被告人のこの種の要求を取り上げることのないように依頼するなどしていた。1991年4月10日の第11回公判期日において、弁護人が、かねてから請求していた被告人の犯行時及び現在の精神状態に関する精神鑑定を、当裁判所が採用した際、被告人は、精神鑑定を拒否し、要求が容れられないなら控訴を取り下げるなどと発言したうえ、同月18日には、東京拘置所において、控訴取下に必要な手続や書類の交付を強く求めるに到り、同月23日拘置所からの連絡を受けた弁護人との接見及び拘置所職員による事情聴取等の手続を経て、控訴取下書用紙の交付を受け、所要事項を記入して同日付の控訴取下書を作成したうえ、これを東京拘置所長に提出した。東京高裁は控訴取り下げは有効と決定し、弁護側の異議申し立ても棄却した。【判決文】(「裁判所ウェブサイト」内のPDFファイルが開きます。リンク先をクリックする前に、注意事項をご覧下さい) しかし弁護側は特別抗告し、最高裁は1995年6月28日、「判決のショックなどによる精神障害に起因する取り下げは無効」と判断、同高裁での公判再開を決定した。【判決文】(「裁判所ウェブサイト」内のPDFファイルが開きます。リンク先をクリックする前に、注意事項をご覧下さい) 控訴審で弁護側は、犯行当時の精神状態や生育歴などから死刑回避を求めた。 荒木裁判長は判決で「完全犯罪を意図して、周到で綿密な準備をして行われた計画的な犯行で、死刑になりうることも十分に理解していた」「証拠隠滅をするなど心神喪失などを疑わしめる点はない」と弁護側主張を退け、藤間被告には責任能力があったと認定した。 「わずか8ヶ月の間に計3件、5人を殺害した責任は重大。犯行の期間、回数、被害者の数、どれを取ってみても異例で、その罪責はあまりに悪質、重大だ。身勝手極まりない動機の上、残忍な犯行で死刑はやむを得ない」と指摘。控訴を棄却した。 ただ荒木裁判長は、起訴後の藤間被告の言動に異常な点があることについて、「拘禁の影響によるものと認められる」と述べた。 最高裁の弁論で弁護側は「被告は長期の拘禁で精神状態が悪化している。刑罰の意味さえ理解できていない」と原判決破棄を主張。死刑制度自体についても「公共の福祉を根拠に国家が個人の生命を奪うことが許されるとした1948年3月の最高裁大法廷判決をそのまま踏襲すべきでない」と主張して、新たな判断を示すよう求めた。 判決理由で小法廷は「身勝手かつ短絡的で、殺害は計画的であり、刃物でめった刺しにする残虐なもの。遺族の被害感情は厳しく、刑事責任は極めて重大」と述べた。被告の精神状態については「記録を調査したが、法に定めた上告理由に当たらない」と退けた。 | |
拘禁ノイローゼの可能性有り。 | |
2007年12月7日執行、47歳没。氏名、年齢、犯罪事実を法務省が公表した初めてのケース。 |
岡崎茂男/迫康裕/熊谷昭孝 | |
岡崎33歳/迫45歳/熊谷43歳 | |
1986年7月15日~1991年5月3日 | |
営利目的誘拐、強盗殺人、監禁、死体遺棄(岡崎、熊谷被告) 営利目的誘拐、強盗殺人、監禁、死体遺棄、身代金目的略取、拐取者身代金取得(迫被告) | |
警察庁広域重要指定118号事件 | |
元岩手県警巡査岡崎茂雄被告、塗装作業員迫康裕被告、土建業熊谷昭孝被告、弟で土木作業員K被告、同S被告、元自動車運転手I被告、塗装工N被告は以下の事件を引き起こした。「警察庁広域重要指定118号事件」の概要は以下。
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1995年1月27日 福島地裁 井野場明子裁判長 死刑判決 | |
1998年3月17日 仙台高裁 泉山禎治裁判長 控訴棄却 死刑判決支持 | |
2004年6月25日 最高裁第二小法廷 北川弘治裁判長 上告棄却 死刑確定 【判決文】(「裁判所ウェブサイト」内のPDFファイルが開きます。リンク先をクリックする前に、注意事項をご覧下さい) | |
仙台拘置支所。ただし、岡崎死刑囚のみ2007年?に東京拘置所へ移監されている。 | |
三被告とも「殺害に積極的に加わったことはない」などと主張。主犯格をめぐって、被告同士の対立があった。岡崎被告は「岩手事件は、ほかの被告に責任を転嫁されたものだ。福島事件は、実質的に関与していない」などと主張した。また、死刑は違憲などと主張。 一審で井野場裁判長は、(1)計画の発案(2)謀議における能動性(3)犯行時に果たした役割(4)殺害の実行犯かどうか-などを検討。特に金目当てで被害者を殺害した岩手、福島両事件に関し、「尊い命を奪い去った罪は重大で、遺族が被害感情から極刑を望むのは理解できる」として、両事件にかかわり死刑を求刑された五被告のうち、積極的に主導的役割を果たした岡崎茂雄被告、迫康裕被告、熊谷昭孝被告に死刑を言い渡し、また、残るK被告、S被告については、犯行の役割の軽重を考慮し、無期懲役とした。弁護側の「死刑は残虐な刑罰に当たり違憲」との主張は、「殺人の実行行為と刑罰は同列にはできず、残虐な刑にはあたらない」として退けられた。井野場裁判長は「多人数の集団が広域にわたり、断続的に起こした大規模な凶悪事件」と断じた。 検察側はK被告、S被告について量刑不当などを理由に控訴。岡崎茂雄被告、迫康裕被告、熊谷昭孝被告は量刑不当を理由に控訴。I被告も「他被告とのバランスを考えれば有期懲役とすべきだ」などと訴えて控訴した。 だれが犯行を主導したかなどを争点に、検察と被告間、各被告間で争った。弁護人は「絞首刑は残虐な刑罰を禁止する憲法36条に違反する」と主張し、死刑の是非も焦点となった。死刑判決を受けた岡崎被告と熊谷昭孝被告が、犯行前の謀議や犯行中の主導性について、互いになすり合う形で攻防を展開。同じく一審死刑の迫康裕被告も含め、従属性を主張して減刑を求めた。 1996年10月31日の公判で熊谷昭孝被告は、岡崎茂男被告と盛岡事件の被害者や他数人で、盛岡事件の被害者の経営パートナーである男性を盛岡事件の半年前に自殺に見せかけて殺害したと証言した。盛岡事件の動機は誘拐ではなく、口封じであるとも証言した。ただし11月21日の公判で熊谷昭孝被告は、「(経営パートナーである)不動産会社社長の死は自殺に見せかけた他殺だったと聞いただけで、これに岡崎被告と西村さんらが関与したと言ったのは自分の推測だった」と述べた。 泉山裁判長は「死刑制度は残虐な刑罰を禁止した憲法36条に違反しない。一審判決が重すぎて不当であるとは言えない」などと判断、一審の福島地裁判決を支持し、岡崎被告ら三被告に死刑を言い渡した。他の三被告にはこれも一審通り無期懲役を言い渡した。 上告審で被告側は「死刑は選択の基準があいまいで残虐であり違憲」「殺害された被害者が2人しかいないのに3人死刑にするのは判例違反」などと主張した。 判決で北川裁判長は、「被害者から金を奪い、発覚を防ぐために誘拐して殺した極めて悪質な犯行だ。3人が今は被害者たちの冥福を祈っていることなどを考慮しても死刑はやむを得ない」と述べた。 | |
K、S各被告は求刑死刑に対し「従属的立場であった」と一審、二審とも無期懲役判決が出て確定。I被告は求刑通り無期懲役判決が最高裁にて2003年に確定。N被告は病気のため公判が分離されていたが、1996年3月に病死し、公訴棄却。 最高裁判決で一度に3人を死刑と判断したのは、1967年7月の老夫婦強殺事件判決(一審千葉地裁、二審東京高裁とも死刑、上告棄却)以来。 | |
2007?年、岡崎茂雄死刑囚が仙台拘置支所から東京拘置所に移監された(同一事件で3人に死刑判決が出た場合、1人は必ず移監される)。 岡崎茂雄死刑囚は代理人を通じて再審請求を提出。福島地裁は2007年7月4日付で受理。福島地裁の鈴木信行裁判長は2009年3月30日付で棄却。岡崎死刑囚は4月3日付で即時抗告するも、2011年2月15日付で仙台高裁は棄却。2月19日付で最高裁に特別抗告するも、2012年1月17日付で最高裁第二小法廷は、請求を棄却した。 迫康裕死刑囚は2011?年に再審請求。2012年1月に福島地裁は棄却。12月14日付で仙台高裁(飯渕進裁判長)は棄却。最高裁第三小法廷(大谷剛彦裁判長)は2013年2月21日付で特別抗告を棄却した。 岡崎死刑囚は2012年2月16日、第二次再審請求提出。福島地裁(加藤亮裁判長)は2012年9月5日付で請求を棄却した。9月12日付で即時抗告するも、12月14日付で仙台高裁(飯渕進裁判長)は棄却。最高裁第三小法廷(大谷剛彦裁判長)は2013年2月21日付で特別抗告を棄却した。 岡崎死刑囚と迫死刑囚は、2013年3月にそれぞれ再審請求。 | |
熊谷昭孝死刑囚は2011年1月29日14時57分、肺塞栓症のため支所外の病院で死亡した。67歳没。2010年12月に総胆管がんが見つかり、1月7日の再検査後、1月17日から同支所外の病院に入院して19日に手術を受け、病院で歩行訓練中に体調が悪化した。 迫康裕死刑囚は2013年8月15日、急性肺炎のため仙台刑務所で死亡。73歳没。迫死刑囚は6年前から患っていた気管支炎が悪化し、12日から刑務所の医療医務棟で治療を受けていた。 岡崎茂男死刑囚は2014年6月26日未明、急性呼吸不全のため東京拘置所で死亡。60歳没。岡崎死刑囚は6月20日頃から吐き気やめまいを訴え、23日に誤嚥性肺炎と診断され、拘置所内の病棟で治療中だった。 |
名古圭志 | |
32歳 | |
2002年8月16日 | |
殺人他 | |
徳之島兄家族殺傷事件 | |
鹿児島県徳之島の伊仙町に住む無職名古圭志被告は、2002年2月に伊仙町に帰郷した後、団体職員の兄(当時42)の言動から自分を無視していると邪推。夏祭りの舞台背景を作る仕事で知人男性とトラブルになった際、兄が男性をかばったと思いこんで怒りを爆発させ、家族を皆殺しにしようと決意。2002年8月16日午前11時ごろ、兄の家に行き、庭にいた二男(当時13)の胸を刺身包丁で刺して重傷を負わせた。さらに屋内にいた兄の妻(当時40)と長女(当時17)の胸などを刺して殺害した。犯行約40分後、包丁を持って徳之島署に出頭した。 | |
2004年6月18日 鹿児島地裁 大原英雄裁判長 死刑判決 | |
2004年8月26日、控訴取り下げ、確定 | |
福岡拘置所 | |
名古被告は2002年11月6日の初公判以降、一貫して起訴事実を認めた。検察側は冒頭陳述で、犯行の動機について「実兄に自分の気持ちを理解してもらえず、実兄やその家族からのけ者にされたと邪推して、腹立たしさやさみしさを募らせ、実兄にも同じ気持ちを味わわせたいと思った」などと指摘した。 2003年12月19日の公判で名古被告は検察側に、兄への気持ちを問われると「まだ憎い。理由は分かってもらえないだろうから言わない」と述べた。検察側に「どういう刑罰を受ける覚悟があるか」と問われると、「殺したことに対しては死刑です」と述べ、弁護士に謝罪を促されると「今さら弁解したくない」と話した。 2004年3月26日の論告求刑で検察側は「兄から赤の他人呼ばわりされたことを逆恨みし、兄を苦しめる目的であえて家族を対象とした犯行は冷酷で非人道的」とした上で「被害者らには落ち度もなく、遺族は強く極刑を求めている。被告を社会から排除するには死刑しかない」などとした。 同日の最終弁論で弁護側は「生まれた直後に母親を亡くすなど育ってきた環境の影響で性格が未熟。言葉では表現しないが、反省している」として死刑回避を求めていた。 判決理由で大原裁判長は「兄から無視されていると感じ、同じ寂しさを味わわせてやろうと考えて犯行に及んだ。幼稚さと粗暴性が結合した結果で、極刑をもって臨むほかない」「反社会的人格態度は強固で矯正は極めて困難」と指摘した。 また、遺族の感情にも言及し「何らの謝罪や慰謝の措置を講じていないばかりか、犯行について多くを語ろうとせず、せめて事実を知りたいと願う思いにも応えようとしていない」と述べた。 判決後、名古被告は控訴しない意向を示していたが、その後控訴。 鹿児島拘置支所に拘置中の名古被告は、2004年8月26日付の控訴取り下げ書を福岡高裁宮崎支部へ提出、死刑が確定した。取り下げ理由について記述はなかったという。 | |
2008年2月1日執行、37歳没。 |
中村正春 | |
42歳 | |
1989年10月10日/1989年12月26日 | |
窃盗、強盗殺人、死体遺棄、死体損壊、準強盗未遂、強制わいせつ致死 | |
元同僚殺害事件他 | |
滋賀県高島郡の無職、中村正春被告は1989年10月10日、60歳前後の身元不明の男性を車で誘い、滋賀県高島郡の公園内で多量の睡眠薬などを酒に混ぜて飲ませて眠らせて、性的いたずらをした上で殺害。男性の古銭(時価約千円)を奪った後、遺体をノコギリでバラバラにし、新旭町の山林に捨てた。 1989年12月26日午後8時頃、高島郡に住む元同僚で会社員の男性(当時52)を「ビデオを見せる」と言って電話で呼び出し、翌朝、睡眠薬を飲ませて昏睡させた後タオルなどを使って殺害し、現金18,500円を奪った。さらに遺体をバラバラにして安曇川町の山林に捨てた。 1990年7月10日、別の窃盗容疑で逮捕された中村被告が、男性にかけた電話の声が似ていたことから追求され、犯行を自供。7月28日、自供通りに遺体が発見され、8月8日に強盗殺人、死体遺棄容疑で逮捕された。 さらに現場から2km離れたところから別の白骨化した遺体が発見され、中村被告が犯行を自供。しかし、身元につながる情報はつかめなかったため、1991年1月29日、中村被告は被害者身元不明のままを強盗殺人、死体遺棄容疑で再逮捕された。 | |
1995年5月19日 大津地裁 中川隆司裁判長 死刑判決 | |
1999年12月22日 大阪高裁 河上元康裁判長 控訴棄却 死刑判決支持 | |
2004年9月9日 最高裁第一小法廷 島田仁郎裁判長 上告棄却 死刑確定 【判決文】(「裁判所ウェブサイト」内のPDFファイルが開きます。リンク先をクリックする前に、注意事項をご覧下さい) | |
大阪拘置所 | |
中村被告は元同僚殺しで起訴され、初公判では殺人を認めていた。しかし別の男性の殺害容疑で再逮捕、追起訴された後の第2回公判以降、二つの殺害容疑を否認していた。弁護側は「被告には精神分裂症の病歴があり、責任能力はない」として無罪を主張した。 1993年3月、弁護側は精神鑑定を請求。1年半ぶりの1994年7月15日の公判で、医師は「被告の供述は場当たり的だが、具体的で物語性が強く、精神分裂症とは認められない。責任能力があった」と証言した。 弁護側は、中村被告は自白を強要された、また中村被告は事件当時心神耗弱状態だったなどとして無罪を主張した。 判決で中川裁判長は「犯行は計画的で冷酷極まりない。捜査段階の自供を覆し無罪を主張するなど、反省の情も認められない」とした。中川裁判長は「適法な取り調べに基づいた自白で信用性がある」「精神鑑定では異常と認められず責任能力がある」として弁護側の主張を退けた。 1995年控訴審でも中村被告側は「精神分裂症の病歴があり犯行時は心神喪失状態だった」と無罪を主張していたが、河上裁判長は「被告は反社会的人格障害で、周到な計画性や隠ぺい工作などから完全責任能力があったことは疑う余地がない」と述べた。 最高裁弁論で弁護側は「極めて重度の人格障害がある中村被告は、完全責任能力を否定すべきケースに当たる」と指摘した。検察側は上告を棄却するよう求めた。 最高裁の判決理由で島田裁判長は「冷酷、非情、残虐で極めて悪質な犯行」と指摘、「被告には人格障害があるが、犯行時の完全責任能力を疑わせるものではなく、責任を軽減させるものでもない」と述べ、死刑の一、二審判決を是認せざるをえないとした。 | |
2008年4月10日執行、61歳没。 |
岡本啓三/末森博也 | |
岡本被告29歳/末森被告36歳 | |
1988年1月29日 | |
強盗殺人、死体遺棄、詐欺、銃砲刀剣類所持等取締法違反、火薬類取締法違反 | |
コスモ・リサーチ事件 | |
山口組系暴力団幹部河村啓三(旧姓)被告と投資顧問業末森博也被告、暴力団組員I被告は、末森被告が株の売買でつき合いがあった投資顧問会社「コスモ・リサーチ」の実質的な経営者であるKさん(43)の資金力に目をつけ、金を奪おうと計画。 1988年1月29日、末森被告の知人で大阪の投資顧問会社「コスモ・リサーチ」の社員だったWさん(23)を退社直後に車に乗せ、大阪府豊中市にある「コスモ・リサーチ」の実質的な経営者であるKさん(43)の自宅まで案内させ、Kさんを拉致して脅した。Kさんは知人に「株の取引で必要になった」と1億円を用意させ、別の社員に大阪市住吉区内のレストラン駐車場まで車で運ばせた。Kさんがレストランに電話し、社員を帰らせた後、河村被告らは現金を奪った。1億円は河村被告、末森被告が3,500万円、I被告が3,000万円と分けた。その後、河村被告らはKさんとWさんを絞殺。2月2日、河村被告とI被告は東大阪市の貸倉庫内でコンクリート詰めにし、買った箪笥に隠した。 Kさんは多いときで1,000億円を動かす派手な仕手を手がけたため、「30年に1度の相場師」などと呼ばれていた。 その後、I被告は自ら暴力団を興し組長となるが、6月19日に暴力事件を、22日に逮捕監禁事件を起こし、7月4日に逮捕された。 警察の捜査の手が伸びるのを恐れた河村被告は、実家が土木建築業を営む知人(死体遺棄容疑で後日逮捕)と7月17日未明と夜、1体ずつユニックで倉庫の中から引きずり出して積み込み、京都府のゴルフ場の造成地まで運び、バックホウで穴を掘って埋めた。しかし倉庫内でユニックを捜査中、1体目はタンスが壊れて腐汁がしみ出し、2体目はコンクリートが途中で割れ、人の形が付いた約100㎏のコンクリート片は運べず倉庫内に放棄する結果となった。その後、河村被告は釈放されたI被告に残りの片づけを依頼するも、I被告は生返事ばかりで何もしなかった。 末森被告は会社が行き詰まったため、分け前のうちの2,000万円相当を末森被告に株で使いこまれた河村被告を仲間に引き入れ、8月24、25日、別の証券会社から1億4,000万円相当の株券を騙し取り、29日に現金化した。河村被告はマンションを借り、末森被告をかくまった。しかし末森被告は9月1日、詐欺容疑で指名手配された。 9月3日、貸倉庫から腐臭が漂うと隣の倉庫の持ち主からの通報で警察が調べると、血痕がついたシートやセメントをこねた跡、台座などがあった。倉庫を借りていたI被告が浮かんだが、I被告、末森被告、河村被告は逃亡した。9月22日、末森被告が詐欺容疑で逮捕される。29日、暴力容疑で逮捕されたI被告が殺人、死体遺棄を自供。10月6日、詐欺容疑で河村被告が逮捕された。10月18日、白骨化した遺体が自供した山林から発見され、翌日3人は強盗殺人、死体遺棄容疑で再逮捕された。 | |
1995年3月23日 大阪地裁 谷村允裕裁判長 死刑判決 | |
1999年3月5日 大阪高裁 西田元彦裁判長 控訴棄却 死刑判決支持 | |
2004年9月13日 最高裁第二小法廷 福田博裁判長 上告棄却 死刑確定 【判決文】(「裁判所ウェブサイト」内のPDFファイルが開きます。リンク先をクリックする前に、注意事項をご覧下さい) | |
大阪拘置所 | |
1994年11月14日の論告で検察側は、「面識のない人物を標的に一獲千金を狙った計画的、悪質な犯行。殺害方法なども冷酷、残忍で厳罰に処すべき」と厳しく指弾した。検察側は河村被告が主犯としたものの、末森被告に対しては「分け前は河村被告と同額。犯罪の重要な役割を担当しており、量刑上、格段の差はない」と述べた。 公判で弁護側は「三被告の殺害の共謀は現金強奪後で、強盗殺人罪ではなく刑の軽い強盗と殺人の二罪に該当する」としていたが、谷村裁判長は「末森被告やI被告は、河村被告の提案を受け入れ『殺害やむなし』と考えるなど、暗黙の共謀が成立したとするのが相当」と、この主張を退け、「事案の重大性にかんがみると自らの生命で罪をあがなうほかない」と判断した。 両被告は「殺害の共謀は現金強奪後で、強盗殺人罪でなく刑の軽い強盗と殺人の併合罪が適用されるべきだ」として控訴した。また、死刑の違憲性を訴えた。西田裁判長は「犯行前から殺害計画をたてていたことは明らかで、被告の供述は信用できない。被告らの捜査段階の供述など各証拠から、一審の強盗殺人罪の認定は正当で、疑いを差し挟む余地はない」と退け、「「『すぐ帰してやる』とうそをつき、首を長時間絞めるなど残忍、冷酷な犯行。人の命を奪ったことは重大で、強奪金額もばく大」と述べた。 2004年7月26日の最高裁弁論で、被告側は死刑破棄を訴えた。 判決で福田裁判長は「多額の現金獲得をもくろんだ計画的犯行で、冷酷、非情、残忍だ」と指摘。「両被告とも犯行に積極的に関与して重要な役割を果たしており、死刑とした判断を最高裁も是認せざるを得ない」と述べた。 | |
I被告は求刑通り一審無期懲役判決。控訴せず確定。 岡本被告の旧姓河村。 | |
河村啓三『こんな僕でも生きてていいの』(インパクト出版,2006) 河村啓三『生きる 大阪拘置所・死刑囚房から』(インパクト出版会,2009) 河村啓三『落伍者』(インパクト出版会,2012) | |
岡本死刑囚のみ2008年、再審請求。2012年時点で第二次再審請求中。2017年1月、第四次再審請求。その他、恩赦出願もあり。再審請求では、「殺害は現金強奪後に決めた」として、死刑か無期懲役しかない強盗殺人罪ではなく、強盗罪と殺人罪の適用を主張した。 末森死刑囚は再審請求、恩赦出願を一度も行っていない。 | |
2018年12月27日執行、岡本死刑囚60歳没、末森死刑囚67歳没。 岡本死刑囚は第四次再審請求中の執行。2019年、請求が棄却されている。 | |
大阪弁護士会に所属する池田直樹、岸上英二、西園寺泰の3弁護士は、再審を請求した元死刑囚が死刑を執行され、弁護権を侵害されて精神的苦痛を受けたなどとして2020年12月25日、国に計1,650万円の賠償を求める訴訟を大阪地裁に起こした。再審請求中の死刑執行の是非をめぐって死刑囚本人が裁判を起こした例があるが、弁護団によると、弁護人が原告となる訴訟は初めて。 |
持田孝 | |
54歳 | |
1997年4月18日 | |
殺人、窃盗 | |
逆恨み殺人事件 | |
持田孝被告は1989年12月、飲食店で知り合った日本たばこ産業(JT)社員Sさんを強姦して、全治2週間の怪我を負わせた。さらに1週間後、強姦事件をネタに10万円を脅し取ろうとしたが、Sさんが警視庁城東署に通報したため逮捕され、強姦致傷、窃盗、恐喝未遂で懲役7年の実刑判決を受けた。 1997年2月に出所。Sさんが事件を通報したせいで逮捕されたと逆恨みしていた持田被告は、1997年4月18日21時30分頃、東京都江東区の団地エレベーターホールで、Sさん(当時44)を包丁で刺して殺害し、女性のハンドバッグなどを盗んだ。 | |
1999年5月27日 東京地裁 山室恵裁判長 無期懲役判決 | |
2000年2月28日 東京高裁 仁田陸郎裁判長 一審破棄 死刑判決 | |
2004年10月13日 最高裁第二小法廷 滝井繁男裁判長 上告棄却 死刑確定 【判決文】(「裁判所ウェブサイト」内のPDFファイルが開きます。リンク先をクリックする前に、注意事項をご覧下さい) | |
東京拘置所 | |
公判で持田被告は、かつて逮捕されるきっかけとなった女性社員に対する恐喝未遂などの事件に関して「彼女にも落ち度がある。見知らぬ男から声をかけられれば注意するのが普通だと思う」と主張した。 検察側は論告で「暴行事件の被害者の心情を思いやることなく、実に身勝手な動機による犯行。1976年にも広島市で殺人事件を起こすなどしており、矯正はもはや不可能で遺族感情なども考慮すると極刑をもって臨むほかはない」と断じた。 最終弁論で弁護側は「被告がストーカーのように被害者につきまとう過程で偶発的に起きた犯行。当初は確定的な殺意がなかった」と検察側に反論。「被害者が一人の事件での死刑求刑は納得できない」と主張した。 山室裁判長は持田被告の主張に対し「遺族の気持ちを逆なでし、言語道断とも言うべき責任転嫁だ」と断じ、「筋違いの恨みを殺意に転じたあまりに理不尽、身勝手、短絡的で酌量の余地もない犯行」と厳しく指摘した。こうした点から、「検察官の死刑求刑の意見も傾聴に値する」と述べながらも、「緻密で周到な計画に基づく犯行でもなく、謝罪の気持ちも口にしている」「検察官は犯罪の被害者保護を強調するが、被害者保護の問題は立法や行政の措置にゆだねるのが適切」「被害者は1人であり、金目当ての犯行でもない」などとして無期懲役が相当と判断した。 控訴審で検察側は「計画的な犯行で、逆恨み殺人という刑事司法への重大な挑戦。矯正の可能性もない」と述べ、死刑判決を求めた。 判決で仁田裁判長は「殺害の被害者が一人でも諸般の事情から極刑選択がやむを得ない場合がある」と最高裁の判例を引用。その上で「被告の恨みは、通常の人間関係のあつれきなどに端を発する事案とはまったく異なり、極めて身勝手かつ特異」と批判。「被害者の訴えで逮捕されたことを深く恨んだ末の極めて理不尽で筋違いの犯行。被害者には何の落ち度もなく、殺害を目的とした動機は利欲的な殺人と変わらないぐらい悪質」「強固な殺害意志に基づく高度の計画性」などを挙げたほか、持田被告に殺人の前科があることや遺族感情などにも言及し「死刑をもって臨むのもやむを得ない」と述べた。と一審破棄、死刑を言い渡した。 最高裁の判決理由で滝井裁判長は「特異な動機による誠に理不尽で身勝手な犯行だ」と指摘。「計画性が高く、強固な殺意に基づいており、冷酷、残虐。社会に与えた影響も大きい」とした上で、殺人罪で1977年に懲役10年に処せられた前科があることも考慮、「死刑の判断は是認せざるを得ない」と結論付けた。 | |
持田被告は1976年、深い関係にあった家出中の16歳の少女に別れ話を持ち出されて逆上、広島市のホテルで殺害、懲役10年の前科がある。 この事件を機に、被害者の希望に応じて刑務所からの出所情報を提供する出所情報通知制度が導入されたり、警察は身辺を警戒したりする保護対策を始めた。 | |
2008年2月1日執行、65歳没。 |
坂本正人 | |
36歳 | |
2002年7月19日 | |
殺人、わいせつ略取、人質による強要行為等の処罰に関する法律違反、強姦、窃盗、拐取者身代金取得、住居侵入、強盗、傷害 | |
群馬県大胡町女子高生誘拐殺人事件 | |
2002年7月19日午後1時ごろ、群馬県粕川村の無職坂本正人被告は、終業式を終えて大胡町内の路上を帰宅途中だった女子高生(当時16)に道を尋ねるふりをして無理やり乗用車に乗せ連れ去り、約5km離れた同県宮城村の山林で首を手で絞めたあと、さらにカーステレオのコードで絞めて殺した。殺害後の同日夜から翌日昼ごろまでの間、数回にわたり、女子高生の携帯電話を使い、「50万円を用意しろ。娘がどうなってもいいのか」などと自宅に脅迫電話をかけ、同県内の路上で身代金として23万円を受け取った。 群馬警察は要求額が少ないことなどから恐喝事件と判断して捜査。20日正午過ぎ、坂本被告が身代金を受け取ったところを逮捕した。23日に坂本被告が殺人を認め、遺体が見つかったことから、24日朝、殺人と死体遺棄容疑で再逮捕した。 犯行の動機については、児童相談所にいる別れた妻や連れ子に会うため、職員に面会を強要する手段として女子高生を人質に取ろうとした、などと説明した。前妻らは坂本被告から家庭内暴力を受けたため、保護されていた。 坂本被告は5月7日午後5時ごろ、自宅の居間で、前妻の連れ子に教科書を読ませていたところ、子どもが読み間違えたことに憤慨。顔を平手打ちにしてタンスにぶつけ、頭に一週間のけがをさせた。 他に坂本被告は、7月9日午後3時20分ごろ、かつて勤めていた会社の社長宅(前橋市)に宅配便の配達員を装って侵入。社長の妻に包丁を突き付け「金を出せ」と脅し、台所の流し台にあった現金約10万円を奪った。 | |
2003年10月9日 前橋地裁 久我泰博裁判長 無期懲役判決 【判決文】(「裁判所ウェブサイト」内のPDFファイルが開きます。リンク先をクリックする前に、注意事項をご覧下さい) | |
2004年10月29日 東京高裁 白木勇裁判長 一審破棄 死刑判決 | |
上告せず確定 | |
東京拘置所 | |
2002年10月21日の初公判で、坂本正人被告は起訴事実を認めた。12月5日の第2回公判で、連れ子に対する傷害事件や強盗事件などについても認めた。 2003年3月11日の第4回公判で弁護側は「(坂本被告の)人格問題が先天的か否か」などを判明する必要があるとして、精神鑑定を申請した。5月8日の第5回公判で久我泰博裁判長は、申請を却下した。 同日、女子生徒の母親が検察側証人として出廷し、「(坂本被告を)死刑にしてください」と訴えた。 7月29日の論告求刑で検察側は、坂本被告が前橋保健福祉事務所を脅し、別れた前妻らと会うため女子生徒を人質に取ったうえ、力の限り首を絞めて殺害。さらに身代金を要求した点について「自己の目的のために他人の生命、人格などを全く顧慮しない身勝手な犯行」と断じた。坂本被告が逮捕後も遺棄場所を供述しなかったことから、死後四日たって女子生徒が発見されたことも指摘。父親の制止で、母親が最後まで女子生徒と対面できなかった無念さに触れ、「遺族の悲嘆を増加させた。犯行後の情状も極めて悪質」とした。また、坂本被告が、事件について「ほとんど考えずにいる」などと供述したことに対し、「矯正は無意味で再犯の恐れは極めて高い」とした。 判決で久我泰博裁判長は、「冷酷、残虐かつ凶悪な犯行」「行き当たりばったりの犯行で残虐極まりない」と指摘したが、以下の理由で無期懲役判決を下した。 (1)殺人は偶発的であり、計画的な犯行でない。場当たり的である。 (2)殺人は執拗であるが、極めて残虐であるとまで言うことはできない。 (3)捜査段階の途中からはおおむね素直に事実関係を認めて捜査に協力している。 (4)これまで前科前歴がない。 (5)被告人に被害者に対する謝罪の念や、反省悔悟する気持ちなどが芽生えてきている。 久我裁判長は閉廷を告げて被告が退廷した後、傍聴席にいた被害者の両親に「犯人が人を殺すのは簡単だが、国家として死刑判決を出すことは大変なことです。納得できないと思いますが、そういうことです」と語りかけた。 量刑不当を理由に検察側が控訴。坂本被告も死刑を求めて控訴した。 2004年6月16日の控訴審初公判で、検察側は「一審判決は動機の悪質性、行為の残虐性に加え、遺族感情を不当に軽く扱っている」と改めて死刑判決を求めたのに対し、被告側は「反省の芽は芽生えており、検察の指摘は一面的だ」と一審判決を維持するよう訴えた。 8月25日の被告人質問で坂本被告は、無期懲役が言い渡された前橋地裁の一審判決について、「死刑じゃないのはおかしいと思った。控訴したのは、刑が軽すぎると思ったから」などと供述した。さらに、女子生徒の遺族に謝罪などの手紙を一度も書いていないことについては、弁護側に対し「そういうこと自体が刑を軽くすることだと思った」と述べる一方、検察側には「謝罪する意志が無いから書いていない」などと述べた。 白木勇裁判長は、一審が殺害の計画性がないことなどを理由に死刑を避けたのに対し、「計画性があったとは認められないが偶発的とも言えない」と認定。〈1〉被害者を乱暴した上、殺害後に身代金を要求しており卑劣極まりない〈2〉保健福祉事務所に保護されていた前妻らとの面会を迫る目的で被害者を略取するという動機も理不尽〈3〉ビニール袋をかけてコードで首を縛るなど殺害方法が残忍――と指弾した。 そのうえで、逮捕された後もしばらく遺体の場所を供述しなかったことについても「犯行後の態度も無慈悲」「女子生徒の恐怖、絶望、無念さを思うとき、言うべき言葉がない」「遺族らが極刑を求めてやまないのも当然だ」と指摘、「殺害した上、身代金を手に入れた重大な犯罪。犯行態様も残忍極まりなく、被告の反省を考慮に入れても責任は余りにも重い」「罪責が重大で、死刑はやむを得ない」と結論付けた。 被告側は上告せず、二審死刑判決が確定した。弁護人によると、控訴審判決後、裁判所内で同被告と約20分間接見。上告の意向を伝えると、同被告は「しないでください」と要請した。淡々とした様子で弁護人に謝意を述べ、「刑事訴訟法では判決確定から6カ月以内に執行(命令を)しないといけないと聞いた。早く執行してもらいたい」とも話したという。 | |
被害者の両親や中学時代の仲間が中心となって、極刑を求める署名約76,000人分を前橋地検に提出していた。 | |
2008年4月10日執行、41歳没。 |
坂本春野 | |
59歳 | |
1987年1月17日~1992年8月19日 | |
殺人、死体遺棄、詐欺未遂、詐欺、業務上横領 | |
高知連続保険金殺人事件 | |
スナック経営坂本春野被告は、妹のT夫妻と共謀。1986年12月、夫に対して生命保険二口に加入させた。1987年1月17日夜、高知県室戸市の自宅隣のスナックで夫(当時54)に酒を飲ませて泥酔させた上、庭で夫の頭を漬物石で殴打。その後、自宅の離れに連れ込み、顔を枕に押しつけて窒息死させ、転倒事故を装って保険金約5,000万円をだまし取った。坂本被告と夫は1986年9月に結婚したばかりで、「最初から殺すつもりだった」と供述している。 1992年8月、坂本被告は借金を抱えていた保険代理店経営H被告(二審懲役15年判決 2004年11月19日上告棄却、確定)と共謀し、自分が経営する室戸市のスナック店内で、眠っていた女性従業員(当時60)の頭を石で殴り、口と鼻を手でふさいで殺害。交通事故を装うため遺体を近くの路上に捨て、保険金約3,500万円を請求したが、事件の発覚で受け取れなかった。 他にT夫被告は1985年、右目を失明したとして契約していた郵政省の特別養老保険の生涯保険金を受け取った。その後、T妻被告と共謀して、T夫被告が両目を失明したかのように装い、1990年8月頃、高知市内の眼科医院で医師に対し、左目の視力がほとんどないように嘘を言って診断書を作らせた。その診断書などを高松簡易保険金事務センターに出し、翌年重度障害保険金1,000万円をだまし取った。 坂本被告は1988年9月下旬、自宅近くにて自転車で転んで左足にけがをしたとして、安芸郡内の病院の翌年1月下旬頃まで入院。契約していた保険会社から入院給付金214万円をだまし取った。 H被告は、1992年8月~10月の間、保険契約者十数人から集金した保険料58万円を着服、横領した。 4人は1993年6月19日、詐欺や業務上横領で逮捕、その後殺人罪で再逮捕された。 | |
1998年7月29日 高知地裁 竹田隆裁判長 死刑判決 | |
2000年9月28日 高松高裁 島敏男裁判長 控訴棄却 死刑判決支持 | |
2004年11月19日 最高裁第二小法廷 津野修裁判長 上告棄却 死刑確定 【判決文】(「裁判所ウェブサイト」内のPDFファイルが開きます。リンク先をクリックする前に、注意事項をご覧下さい) | |
大阪拘置所 | |
坂本被告は、一審の初公判では起訴事実を全面的に認めたが、その後夫殺害を否認し、自白は強要されたものとして無罪を主張した。他の三人も無罪を主張した。 夫は検視の結果病死とされ、司法解剖は行われていない。捜査本部は、凶器の漬け物石が坂本被告の供述通りの場所から発見されたことから、裏付けが取れたと判断した。 竹田裁判長は「捜査段階の自白は具体的で、体験者でなければ言えないような臨場感があり信用性が高い」として、公判途中での被告らの主張をすべて退けた。 控訴審で坂本被告は、夫殺害に加えて店員殺害もH被告の単独犯行であると否認し、無罪を主張した。また死刑は違憲であると主張した。 島裁判長は無罪主張に対し、「捜査段階などの供述は十分信用できる」と退けた。そして「被告は死刑の違憲性を主張するが、憲法には反しない」として死刑を支持、坂本被告の控訴を棄却した。 最高裁判決で津野裁判長は、同被告側が「自白を唯一の証拠としており、憲法違反だ」とした無罪主張に対し、「実質は単なる法令違反や量刑不当の主張であり、(刑事訴訟法に定めた)上告理由には当たらない」と退けた。 その上で「保険金目的で、動機に酌量の余地はない。被害者らを巧みに懐柔し、飲酒させて泥酔状態になった男性(同被告の夫)や、就寝中の無防備な知人女性を、共犯者とともに殺害した犯行態様は冷酷だ」と犯行の残忍性を指摘。 「いずれの事件でも、坂本被告は犯行を計画するなど、主導的な役割を果たしている。社会に与えた影響も看過し難く、死刑とした一、二審の判断を、最高裁としても是認せざるを得ない」と述べた。 | |
坂本被告の妹であるTY被告は1998年7月29日、高知地裁で求刑通り一審無期懲役判決。2000年9月28日、高松高裁で被告側控訴棄却。2000年10月、上告取り下げ、確定。 TY被告の夫であるTK被告は1998年7月29日、高知地裁で求刑通り一審無期懲役判決。2000年9月28日、高松高裁で被告側控訴棄却。2000年10月、上告取り下げ、確定。 H被告は1998年7月29日、高知地裁で求刑懲役20年に対し、一審懲役15年判決。2000年9月28日、高松高裁で被告側控訴棄却。2004年11月19日、被告側上告棄却、確定。 | |
死刑確定時77歳は当時の戦後最高齢。70歳以上の被告に上告審で死刑が言い渡されたのは、記録で確認できる1966年以降、初めて。 | |
2011年1月27日、収容先の大阪医療刑務所にて、肝がんで死亡した。83歳没。2010年9月頃に腫瘍が見つかり、12月に大阪拘置所から身柄を移されて治療中だった。 |
倉吉政隆 | |
43歳 | |
1995年3月2日~1996年1月22日 | |
強盗殺人、強盗致傷、強盗、殺人未遂、死体遺棄、銃砲刀剣類所持等取締法違反、窃盗 | |
福岡連続強盗殺人事件 | |
福岡県八女市で飲食店を経営する倉吉政隆被告、大工IT被告、元暴力団幹部で倉吉被告の実弟KY被告、無職IH被告は、福岡県筑後地区を中心に短銃を使った連続強盗、強盗殺人事件を引き起こした。事件は以下。
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1999年3月25日 福岡地裁 仲家暢彦裁判長 死刑判決 | |
2000年6月29日 福岡高裁 小出☆一裁判長(☆は金ヘンに享) 控訴棄却 死刑判決支持 | |
2004年12月2日 最高裁第一小法廷 泉徳治裁判長 上告棄却 死刑確定 【判決文】(「裁判所ウェブサイト」内のPDFファイルが開きます。リンク先をクリックする前に、注意事項をご覧下さい) | |
福岡拘置所 | |
一審で社長ら2人の殺害についてIT被告は「倉吉被告に脅迫されて逆らえずやった」と主張。倉吉被告は「現場にいたが、IT被告に殺害を指示していない」と主張した。 検察側は「犯行は借金に困った倉吉被告が主導したもので、極めて凶悪で、矯正は不可能」として倉吉被告に死刑を、IT被告に無期懲役を求刑した。 仲家裁判長は「倉吉被告は常に犯行を主導し、実行行為をIT被告に押しつけた。利得のほとんどを得るなど罪は最も重い」「非人間的な犯行で、倉吉被告は罪をIT被告に押しつけるなど反省の態度は全くない。死刑が究極の刑であることを考慮しても極刑をもってのぞむしかない」と述べた。 控訴審で倉吉被告は強盗殺人の起訴事実について、「殺害を提案、主導したのはIT服役囚だった」と主張。倉吉被告の弁護人は「二人の役割に格差はなく、量刑に差があるのは不当だ」として死刑回避を求めた。 小出裁判長は「倉吉被告がIT服役囚を誘い入れ、主導的に行った」と判断。「冷酷残忍で極悪非道。極刑はやむを得ない」と述べた。 最高裁で被告側は「被告は殺害の実行行為者ではない。主導的立場ではなく、無期懲役とされた共犯者と比べ、刑が重過ぎる」と死刑回避を求めていたが、同小法廷は「被告は首謀者であり、共犯者に命令して殺害を実行させた」と認定、一・二審の判断を追認した。 | |
無職IH被告は1996年12月16日、福岡地裁久留米支部(坂主勉裁判長)で一審懲役8年判決(求刑懲役10年)。控訴せず確定。 元暴力団幹部で倉吉被告の実弟KY被告は1997年3月17日、福岡地裁久留米支部(坂主勉裁判長)で一審懲役14年判決(求刑懲役18年)。控訴せず確定。 IT被告は1999年3月25日、福岡地裁で求刑通り一審無期懲役判決。控訴審から分離公判となり、2000年5月30日、福岡高裁で被告側控訴棄却。上告せず確定。 | |
2008年、自力で第一次再審請求。一審と同様、IT被告に殺人の共謀、指示、教唆、依頼等をした事実はなく、殺人ほう助にとどまると訴えている。2011年、福岡地裁は請求を棄却。即時抗告中。その後請求棄却。 2013年、自力で第二次再審請求も棄却。 2016年10月3日、福岡地裁へ第三次再審請求。新たに弁護士が付いた。 |
森本信之 | |
45歳 | |
1998年12月25日 | |
強盗殺人、建造物侵入、強盗致傷 | |
フィリピン人2女性殺人事件 | |
借金の返済に困った土木作業員沢本信之(旧姓)被告、同M被告、無職F被告は、沢本被告の顔見知りであるフィリピン人のスナック女性従業員2名(当時24、28)が不法滞在のため、銀行口座を持たずに現金を自宅に保管していると考え、殺害して奪うことを計画。1998年12月25日午後3時30分頃、偽装結婚を持ちかけ、二人が住んでいた三重県松坂市のアパートに上がり込み、首をネクタイで閉めて殺害。現金13,000円とネックレスなど四点(計25万円相当)を奪った。 沢本、M両被告は1998年5月末、名古屋市内のパチンコ店に押し入り、従業員を殴って頭に6ヶ月のけがをさせたうえ、現金約1,920万円を奪った。 | |
2000年3月1日 津地裁 柴田秀樹裁判長 死刑判決 | |
2001年5月14日 名古屋高裁 堀内信明裁判長 控訴棄却 死刑判決支持 | |
2004年12月14日 最高裁第三小法廷 金谷利広裁判長 上告棄却 死刑確定 【判決文】(「裁判所ウェブサイト」内のPDFファイルが開きます。リンク先をクリックする前に、注意事項をご覧下さい) | |
名古屋拘置所 | |
被告側は捜査段階から事実関係を認め、遺族に謝罪。三被告のうち沢本被告は初公判で、傍聴していた遺族に向かって「申し訳ありませんでした」と土下座して侘びた。死刑の違憲性などを訴えた。 判決で柴田裁判長は「背後からネクタイを巻き付けて強く絞め、さらに発見を遅らせるために遺体を隠し、テーブルの指紋をふき取るなど犯行は残虐で悪質」と指摘。「借金返済のため二人を同時に殺害し、所持金を奪おうとした動機は著しく悪質」、さらに事件はフィリピンで発生当初から新聞、テレビで盛んに報じ続けられたことから、「被害者の母国に与えた影響も大きく、遺族も極刑を求めている」などと量刑理由を述べた。また強盗致傷事件についても言及し、「反省しているなど有利な点を考慮しても、死刑はやむを得ない」と断じた。F被告についても「(沢本、M被告に比べ)刑事責任は少し軽いとはいえ、罪責は誠に重大」とし、「三人が平等で一心同体の立場だった」とする検察側主張を認めた。 三被告とも控訴したが、M被告は2000年10月8日、収監先の名古屋刑務所で病死。51歳没。公訴棄却。 堀内裁判長は判決理由で「計画性の高い非情かつ残忍な犯行。動機は自己中心的で酌量の余地はなく、刑事責任は重大」と述べた。F被告の一審判決を破棄して無期懲役とした点については、「沢本被告は事件の発端を作り、主導的、中心的役割を果たした。F被告は殺人の実行犯だが、従属的な立場だった上、遺族に謝罪金を払い、更生の可能性はある」と述べた。F被告は上告せず確定。 最高裁で被告側は弁論で「沢本被告を事件の発案者とした一、二審は事実誤認だ。共犯者と役割の差はない」と主張。一方、検察側は「被告が主導的役割を果たしており、犯行は冷酷、結果も重大だ」と述べ、上告棄却を求めた。 判決理由で金谷利広裁判長は、強盗殺人について「強固な殺意に基づき、無防備な被害者らを欺いて殺害した卑劣で残忍な犯行」と指摘。「計画の段階から実行まで、中核的な役割を果たしており、無期懲役となった強盗殺人の共犯者1人との刑の均衡を考慮しても死刑はやむを得ない」と述べた。 | |
沢本信之被告は一審判決後の2000年11月21日、被害者に対して自分が生きていることが申し訳なく思ったこと、共犯者の供述が嘘であるにもかかわらず一審判決で採用されたことに対する抗議を理由に、職員から貸与された殺虫剤を飲用して自殺を図った未遂事件を起こした。 旧姓沢本。 | |
森本信之死刑囚は2000年4月17日に名古屋拘置所に収容されて以来、2007年7月までに24件もの民事訴訟を提起している。以後も訴訟を起こしている可能性がある。 森本信之死刑囚は「F受刑者の虚偽供述に裁判所がだまされて、役割の主導と従属が逆になり、死刑判決を受けた」と主張。「判決で生命の侵害を受け多大な精神的苦痛を強いられた」として、共謀したF受刑者を相手に3,000万円の損害賠償を求め名古屋地裁に提訴した。2005年1月26日、第1回口頭弁論が開かれた。その後、棄却されたと思われる。 森本信之死刑囚は死刑判決が確定し、名古屋拘置所に在監中の2004年8月、郵送で死刑方法などが記されたパンフレットが届いた。この際、同拘置所は「そのまま閲覧させると心情不安定になり、規律維持に支障が出る可能性が高い」として一部を抹消して、両死刑囚に渡した。森本死刑囚は差し入れ文書の一部を名古屋拘置所長に抹消されたのは違法として、国を相手取り10万円の損害賠償を求めた。2006年12月6日、名古屋地裁(田近年則裁判長)は「抹消処分は合理的とは言えず、所長は裁量権を逸脱した」として、国に1万円の支払いを命じた。田近裁判長は「原告が抹消部分を閲覧しても、拘置所の規律が放置できない程度の障害が生ずるとは認められない」と判断した。 森本信之死刑囚は2006年7月上旬、民事訴訟他4件における裁判所から通知を受けて取下書や準備書面を郵送するため、名古屋拘置所長に切手の恵与を求めたが不許可とされた件について、精神的苦痛を受けたことと規則および憲法違反であるとして41万円の損害賠償を求めた。2007年7月27日、名古屋地裁は一部について訴えを認め、国に2万円を支払う命令を出した。 名古屋拘置所では2006年10月、収容者801人中、森本信之死刑囚ら92人が下痢や吐き気などの症状を訴えた。食事はすべて拘置所の給食だった。検査を受けた77人のうち7人の便から食中毒原因菌が検出された。原因は特定されていない。森本死刑囚からは検出されていないが、食中毒が原因で下痢や腹痛を起こしたのは拘置所側の注意義務違反だとして国に慰謝料10万円の支払いを求めた。2009年10月23日、名古屋地裁(近藤昌昭裁判官)は拘置所側の安全配慮義務違反を認め、5,000円の支払いを命じた。近藤裁判官は「給食は品質に問題があれば生命身体に深刻な損害を与える恐れがあり、相当高度の安全配慮義務が求められる」と指摘。一部で原因菌が検出されていることから「拘置所長らは調理場、食材、炊事係の衛生管理のいずれかで高度な安全配慮義務を怠った過失があった」とした。 2006年頃に再審請求を提出したか、準備中だった可能性あり。2011年時点で再審請求中。 |