尾田信夫 | |
20歳 | |
1966年12月5日 | |
強盗殺人、強盗殺人未遂、現住建造物等放火 | |
マルヨ無線強盗殺人放火事件(川端町事件) | |
尾田信夫被告と少年(当時17)は1966年12月5日午後10時過ぎ、かつて店員として勤めていた福岡市下川端町(現福岡市博多区下川端)のマルヨ無線川端店に押し入り、宿直の男性店員2人をハンマーで殴って重傷を負わせ、事務所に置いてあった集金カバンから22万1千円を奪い、さらに二人の腕時計などを奪った。鍵束を奪い、ボーナスなどが入っていた金庫から金を奪おうとするも、ダイヤル件鍵式の金庫であったため開けられなかった。その後計画通り、少年が商品カタログ等をまき散らし、尾田被告が石油ストーブを足で蹴って転倒させて放火し、同店が半焼した。店員1人(当時23)は自力で逃れたが全治5ヶ月の重傷を負い、もう1人(当時27)が一酸化炭素中毒で死亡した。 尾田被告と少年は広島少年院で出会っており、退院後も頻繁に会っていた。 入院中の店員が、3、4年まえに辞めた店員に似ていると供述。福岡県警は尾田被告の勤務先に行くも、欠勤中。しかし給料日前にキャバレーで豪遊していたことから、捜査本部は逮捕令状を請求。12月10日には尾田被告を全国に指名手配した。同日、少年が警察に出頭し、緊急逮捕された。12月27日、尾田被告が逮捕された。 | |
1968年12月14日 福岡地裁 藤田哲夫裁判長 死刑判決 | |
1970年3月20日 福岡高裁 控訴棄却 中村荘十郎裁判長 死刑判決支持 | |
1970年11月12日 最高裁第一小法廷 入江俊郎裁判長 上告棄却 死刑確定 【判決文】(「裁判所ウェブサイト」内のPDFファイルが開きます。リンク先をクリックする前に、注意事項をご覧下さい) | |
福岡拘置所 | |
捜査段階で2人は「逃げる際に石油ストーブを倒して放火した」と供述している。 一審では尾田被告は放火の事実を争っていない。尾田被告の弁護側は精神鑑定を申請し、地裁も認めた。公判が停止し、入院中の1968年8月、尾田被告は入院先の精神病院から脱走するも、24時間後に逮捕された。 判決で藤田裁判長は、「幼くして父を失い、その愛を知らぬまま育ち、心因性ヒステリーだったことは認める。しかしそれらを考え合わせても、犯した罪は大きい。その罪責は自己の生命をもって償うべきだ」と述べた。 尾田被告側は死刑制度の違憲性、心神耗弱、量刑不当を引き続き主張するとともに、控訴審から放火を否認したが、退けられた。裁判長は、「前途春秋に富むべき身であることを思う時、その生命を絶てと言うのは後ろ髪をひかれる思いもする。忍び難いものもあるが、やむを得ない」と述べた。 最高裁で弁護側は自白は強制的と主張するとともに、共犯者と同じ裁判官構成で審理を行ったのは憲法違反に当たると主張したが、最高裁側は退けた。 | |
共犯の少年は強盗致死と放火で起訴され分離公判となり、1968年7月26日に福岡地裁で一審懲役13年判決(求刑懲役15年)。1969年6月18日、福岡高裁で被告側控訴棄却。上告せず確定。 | |
尾田被告は放火を否認。 1973年8月28日、福岡地裁に第一次再審請求するも棄却。その後第四次まで自力で請求するも棄却。 日弁連が尾田再審事件委員会を作って支援し、1979年2月、福岡地裁へ第五次再審請求。福岡地裁は当時の警察官、消防士らの証人調べをし、当時の福岡市消防局員が「ストーブが人為的に倒され、燃え上がった形跡はない」と証言したが、1988年10月5日に請求を棄却した。 弁護団は高裁に即時抗告し、ストーブの検証や共犯者の証人尋問などを求めて1990年11月に意見書を、1993年4月には上申書を提出した。福岡高裁刑事二部(池田憲義裁判長)は1994年6月1日、7月18日の2度に渡って、争点となっている反射式石油ストーブの検証を行い、蹴っても倒れないか、蹴ったらストーブは消えることが判明した。 1995年3月28日、福岡高裁は福岡地裁の棄却決定を支持、抗告を棄却した。決定では、検証実験の結果から「ストーブを蹴っても横転することはない」と認めたものの、確定判決の「蹴って横転させた」という放火方法との矛盾については、「一審で被告らが放火方法について争わなかったため認定されたにすぎず、ストーブが倒れた状態だったという共犯の少年の供述は信用できる」と述べた。また、ストーブの扉に付着していた部品の痕跡などから、火災発生時のストーブの状態を「横倒しの状態だった」と認定。さらに「ストーブを両手で支えて横倒しにすることも十分可能だった」とし、「ストーブは直立状態だった」とする弁護側主張を退けた。 弁護団は最高裁に特別抗告。最高裁第三小法廷(金谷利広裁判長)は1998年10月27日付で特別抗告を棄却する決定をした。 決定で同小法廷はまず、最も重い罪について新証拠がなくても、場合によっては再審理由が認められるという新基準を示した。そして尾田死刑囚の場合は、強盗殺人や同未遂について新証拠が無いものの、放火について確定判決に疑いが生じれば、再審を開始できると判断した。その上で、同小法廷は、放火について再審開始の理由があるかどうかを検討。福岡高裁が行った検証の結果、ストーブを足でけっても転倒しなかったことなどから、「犯行方法についての事実認定には疑いがある」と認めた。しかし、同小法廷は「犯行方法の一部について確定判決に事実誤認があることが判明しても、犯罪事実の存在そのものに疑いを生じさせるに至らない限り、再審理由にはならない」と判断。もし尾田死刑囚がストーブをけり倒していなかったとしても、ストーブを動かして室内の机に燃え移らせたことは動かし難いとし、結論として再審開始を認めなかった福岡高裁の決定を支持した。 犯罪事実の一部だけに新証拠が見つかった場合でも、再審の道を開くべきだとする初判断を示したものである。 【判決文】(「裁判所ウェブサイト」内のPDFファイルが開きます。リンク先をクリックする前に、注意事項をご覧下さい) 1998年10月30日、福岡地裁へ第六次再審請求。弁護側は、消防と警察がそれぞれ撮影したストーブの写真を基に、コンピューターグラフィックス(CG)で立体的に再現した鑑定書を提出。「2枚の写真は前面内側に付着した金属部品の位置や向きなどが一致せず不自然。『倒した後に燃えた』とする放火の根拠にはならない」と反論した。これに対し福岡地裁は2008年3月、「2枚の写真に写っている部品は似ており同一の可能性がある。写真撮影時に、捜査機関が不当に工作したという証拠もない」として請求を棄却。弁護側は福岡高裁に即時抗告した。2012年3月29日、福岡高裁は即時抗告を棄却した。死刑囚側は特別抗告した。2013年6月、特別抗告が棄却された。 | |
尾田信夫死刑囚の再審請求の弁護人を務める上田国広弁護士は2010年10月、死刑制度廃止を推進する団体の機関誌を尾田死刑囚に郵送した。機関誌には、同年8月に法務省が公表した東京拘置所の刑場の写真が1枚掲載されていた。拘置所は尾田死刑囚に「写真を消して交付することになるが、同意するか」と尋ねたところ、尾田死刑囚は拒否し、閲読は不許可とされた。尾田死刑囚はその後、文書で閲読を求めたが、認められなかった。尾田信夫死刑囚と弁護人は2012年4月3日、死刑を執行する刑場の写真が載った機関誌の閲読について福岡拘置所が不許可としたのは違法として国に計660万円の支払いを求める国家賠償請求訴訟を福岡地裁に起こした。 福岡地裁(平田直人裁判長)は2015年7月22日、尾田死刑囚を収監先の同拘置所で本人尋問した。民事訴訟での死刑囚の尋問は異例。代理人弁護士によると、尋問は拘置所の1室で非公開で約1時間実施した。尾田死刑囚は死刑制度や法律について詳しく勉強しており、尋問で「適切な再審請求に重要な情報であり、刑場の写真を見て動揺することはない」「所長の裁量で簡単に不許可が認められるべきではない」などと落ち着いた様子で話したという。尾田死刑囚側から直接、精神状態などを確かめるよう、尋問を申し出ていた。 2013年7月、福岡地裁へ第七次再審請求。2019年3月時点で、地裁で審理中。 死刑確定から2020年12月12日に50年となった刑事裁判の記録について、福岡地検は10年間の保存延長を決めた。判決文以外は12日に法が定める保管期間を終えるところだった。地検は「再審請求審の審理に必要と判断したため」としている。刑事確定訴訟記録法は、判決確定後に一審の裁判所に対応する検察庁で記録を保管すると規定。保管期間は刑の重さや記録の内容によって3~100年と異なり、死刑の場合、判決文は100年、それ以外の供述調書や捜査報告書などは50年と定めている。尾田死刑囚の記録について、弁護団は福岡地検に対し、裁判所に未提出の証拠も含めて記録を保存するよう請求。地検は10月27日付の通知書で「再審保存記録として2030年12月31日まで保存する」と伝えた。ただ、対象となる記録は明らかにしなかった。 |
奥西勝 | |
35歳 | |
1961年3月28日 | |
殺人、殺人未遂 | |
名張毒ぶどう酒事件 | |
1961年3月28日、三重県名張市葛尾地区に住む農業奥西勝被告は、生活改善クラブの寄り合いで女性陣が飲むぶどう酒に農薬のニッカリンTを仕込んだ。出席した20人のうち17人がぶどう酒を飲み、妻(34)、愛人(36)などを含む女性5人が死亡、女性12人が重軽傷。奧西被告は狭い村の中で妻の他にも数人と関係を結んでいたが、特に未亡人であった愛人女性との関係を周囲に知られて妻との仲が険悪になっていた。さらに愛人からも別れを告げられた。そこで奥西被告は、三角関係を含めて一切を精算しようとするために毒を仕込んだことが動機とされる。当初は妻による無理心中説も出ていたが、事情を追求された奥西被告は事件から5日後の4月2日夜に自供し、翌3日未明、三重県警に逮捕された。逮捕直後、名張署の宿直室で異例の「容疑者の記者会見」が開かれ、奥西被告は記者に対しても「大きな事件を自分のちょっとした気持ちから引き起こした」などと認めた。 | |
1964年12月23日 津地裁 小川潤裁判長 無罪判決 (証拠不十分のため) | |
1969年9月10日 名古屋高裁 上田孝造裁判長 一審破棄 死刑判決 | |
1972年6月15日 最高裁 岩田誠裁判長 上告棄却 死刑確定 【判決文】(「裁判所ウェブサイト」内のPDFファイルが開きます。リンク先をクリックする前に、注意事項をご覧下さい) | |
名古屋拘置所(その後、八王子医療刑務所) | |
奥西勝被告は起訴前に自白を翻し、1961年6月に開かれた初公判の罪状認否でも「ぶどう酒の中にニッカリンを入れた覚えはない」と起訴事実を全面的に否認。公判では「自供は強要されたもの」と主張した。 検察側は、住民の証言から、酒屋で購入したぶどう酒が住民の家に午後5時10分頃に届いたとし、同8時前後の会合でぶどう酒が出されるまで、公民館に運んだ奥西被告以外に、毒物混入の機会はなく、奥西被告が公民館で1人となった10分間を利用し、ぶどう酒の王冠を歯で開けた上、自宅から隠し持ってきたニッカリンTを混入したと主張し、死刑を求刑した。 津地裁の小川裁判長は判決で、奥西被告の「自白」の任意性は認めたが、現場の状況や目撃証言等から多くの疑問点があるとして「自白」内容の信憑性を否定。検察側の主張の根拠となった複数の住民証言が訂正されている点から、到着時間について「検察官の並々ならぬ努力の所産である」と批判した上、午後4時前と認定。奥西被告以外にも、犯行が可能な時間はあったとした。さらに、奥西被告が妻や愛人と日常的に問題なく付き合っていたとし、「殺害するほど追いつめられていたとは認められない」とて、検察側の主張は不可解と判断。ぶどう酒の王冠を歯で開けたとする点は、王冠の傷が奥西被告の歯形と一致するかどうかについて専門家の鑑定が分かれたことなどから「被告人の歯形かどうかは不明」として、証拠能力を否定した。以上から奥西被告の犯行と認めるに足る証拠がないとして、無罪を言い渡した。 一審判決後、釈放された奥西被告は三重県四日市市に住まいを移し、ガソリンスタンドで働いていた。 名古屋高裁は、一審が信用性を認めなかったぶどう酒の到着時刻に関する住民の証言について、「矛盾する点はなく理路整然としている」と指摘。「不当違法な取り調べがあったことを疑う証拠はなく、十分に信用できる」と述べた。到着時刻については、改めて午後4時45分頃~同5時頃と認定。毒物混入の機会があったのは、奥西被告が公民館に運んだ後、1人で公民館にいた10分間だけとした。 さらに、奥西被告について「無口で何を考えているかわからないような陰険な性格で、自白した犯行動機に信ぴょう性がある」と言及。王冠についた傷は、専門家の鑑定から奥西被告の歯形と一致すると認め、「鑑定はいずれも自白の真実性を担保するものだ」と指摘した。その上で、「証拠不十分とした一審判決は、明らかな事実誤認の違反を犯した」と結論づけた。 言い渡し後、奥西被告は、手錠をかけられ、連行された。 奥西被告は上告したが、最高裁は「上告理由がない」として棄却。死刑判決は確定した。 | |
1973年4月15日、名古屋高裁に第一次再審請求。1974年1月9日、棄却。 1974年6月4日、第二次再審請求。1975年11月21日、棄却。 1976年2月17日、第三次再審請求。4月5日、棄却。 1976年9月27日、第四次再審請求。1977年3月25日、棄却。 1977年5月18日、第五次再審請求。「冤罪の疑いがある」として日本弁護士連合会人権擁護委が本格的な支援を開始し、弁護団が結成された。第五次再審請求では、「ぶどう酒の王冠の傷は奥西死刑囚の歯形ではない」とする意見書などを新証拠として提出。死刑判決の有力な根拠となった、ぶどう酒の瓶の王冠に残された歯形鑑定の信用性を争った。1986年6月、初めて本人尋問が行われた。1988年12月14日、棄却。異議申立するも1995年3月31日、棄却。特別抗告も1997年1月28日、最高裁第三小法廷で棄却された。最高裁の決定は、「奥西死刑囚の歯によってできたと特定するだけの証明力は失われた」と指摘したものの、「奥西死刑囚の歯形だとしても矛盾しない」と判断。具体的な自白をしており、内容も客観的な証拠とも矛盾しないとして再審開始を認めなかった。 1997年1月30日、第六次再審請求。1998年10月8日、棄却。異議申立するも1999年9月10日、棄却。特別抗告も2002年4月8日、最高裁で棄却された。 2002年4月10日、第七次再審請求。 2005年4月5日、名古屋高裁刑事1部の小出ジュン一裁判長は、再審を開始する決定をした。小出裁判長は、弁護側が提出した開栓実験や王冠と混入毒物の鑑定結果を新証拠と認め、従来の証拠と総合評価して検討。弁護側の主張通り、▽他者の毒物混入を否定できない▽証拠の王冠が本物でない疑い▽混入毒物は奥西死刑囚の所有する農薬ではない可能性――を指摘した。そのうえで「自白には動機、実行などすべての面で不自然、不合理な点が多く、信用性には重大な疑問がある」と判断した。同時に死刑執行停止の仮処分が命じられた。 4月8日、名古屋高検は名古屋高裁に異議を申し立てた。 2006年12月26日、名古屋高裁刑事2部は検察側からの異議申立を認め、再審開始決定を取り消した。同時に死刑の執行停止も取り消した。門野博裁判長は「本件に使用された毒物は(奥西死刑囚が所持していた)ニッカリンTの可能性が十分にある」「新証拠は新規性は認められるが、(死刑判決を覆すほどの)明白性は認められない」「奥西死刑囚以外には本件ぶどう酒に農薬を混入する機会がない」「自白は詳細かつ具体性に富み、信用性が高い」と述べ、新証拠に証拠の明白性を認めた原決定の判断は誤っている。再審開始する事由は認められないとした。 弁護側は、最高裁へ特別抗告を申し立てた。 2010年4月5日付で最高裁第三小法廷(堀籠幸男裁判長)は、名古屋高裁に差し戻す決定を出した。 第三小法廷は、弁護団が提出した5つの新証拠のうちの4つを「抽象的な可能性にとどまる」などとして退け、争点は奥西死刑囚が使用を自白した農薬「ニッカリンT」が本当に犯行で使われたのかの1点に絞られた。 第三小法廷は、ニッカリンTに含まれているはずの特定成分が弁護側の再現鑑定で検出されたのに、事件後のブドウ酒の鑑定では検出されなかったことに注目。別の成分はどちらの鑑定でも検出されたことから、「特定成分だけが検出されなかった合理的な説明がない」と疑問を示した。このため、そもそもニッカリンTがブドウ酒に含まれていなかったのか、鑑定の方法により検出できなかっただけなのかについて、「(再審開始を取り消した)名古屋高裁決定は科学的知見に基づく検討をしたとはいえず、いまだ事実は解明されていない」と指摘した。その上で、検察側と弁護側の主張を裏付ける学者の言い分が大きく食い違っていることから、差戻し後は、弁護側が持っている当時流通していたニッカリンTを提出してもらい、改めて鑑定をするなどの審理が必要だと述べた。5人の裁判官の一致した意見。 さらに、田原睦夫裁判官は補足意見として「事件発生から50年近く、今回の再審申し立てから8年近く経過しており、証拠調べは必要最小限にして効率よくなすことが肝要だ」と差戻し後の審理のあり方に注文を付けた。 【判決文】(「裁判所ウェブサイト」内のPDFファイルが開きます。リンク先をクリックする前に、注意事項をご覧下さい) 差戻し審で高裁は、メーカーにニッカリンTを再製造してもらい、選任した鑑定人が最新の機器で成分分析した。その結果、再製造品に水分を加えた溶液からは、24.7%の副生成物が生成された。弁護団は「ニッカリンTは、水分を混ぜると副生成物が大量に生成されることを証明できた。飲み残しのぶどう酒から副生成物が検出されなかったのは、別の農薬だったからだ」と主張した。一方鑑定では、ペーパークロマトグラフ試験では副生成物が検出されない可能性があることも明らかにした。同試験の準備として、ニッカリンTの溶液から毒物を抽出したところ、抽出物に副生成物はなくなった。検察側は、「鑑定人の実験により、毒物がニッカリンTでも、事件当時の鑑定で副生成物が検出されないことの科学的知見が得られた」と主張した。 名古屋高裁(下山保男裁判長)は2012年5月25日、再審開始決定に対する検察側の異議申し立てを認め、奥西勝死刑囚の再審開始を取り消す決定をした。 下山裁判長は決定で、弁護側の鑑定は、抽出作業後の抽出物の成分分析は行っておらず、現鑑定で得られた結果の信頼性を揺るがすほどの証拠価値があるとはいえない、と判断。新鑑定では、ニッカリンTにぶどう酒のような水分を加えると、水溶液中に副生成物が大量に発生するが、ペーパークロマトグラフ試験の準備のために行われる抽出作業を経ると、副生成物が検出されなくなる結果が示されているため、農薬「ニッカリンT」に含まれる不純物が事件当時の鑑定で飲み残しのぶどう酒から検出されなかった原因は、事件から鑑定まで1日以上が経過していたためだと推論できると指摘し、ぶどう酒にニッカリンTを混入したとする奥西死刑囚の捜査段階の自白の信用性に問題はないと結論づけた。 さらに、「新旧証拠を総合して検討しても、奥西死刑囚以外に毒物を混入できた者はいない」と言及。また、「奥西死刑囚が逮捕前から行った自白の根幹部分は十分信用できる」とも指摘し、「確定判決の事実認定に合理的な疑いを生じる余地はない」と結論づけた。 ただし、時間の経過を問題とする主張は差戻し審で検察側も弁護側も示しておらず、裁判所の独自の見解である。 弁護団は5月30日、名古屋高裁決定を不服として、最高裁に特別抗告した。弁護団は毒物をめぐる高裁の判断を「証拠に基づかない裁判官の推論で不当」と批判している。 2013年10月16日付で最高裁第一小法廷(桜井龍子裁判長)は、請求を退けた名古屋高裁の差戻し異議審決定(2012年5月)を支持し、死刑囚側の特別抗告を棄却する決定を出した。裁判官4人全員一致の意見。検察官出身の横田尤孝裁判官は審理を回避した。小法廷は「弁護側が新証拠として提出した鑑定は、毒物がニッカリンTであることと何ら矛盾しない。死刑囚が事件前に自宅で保管していたという状況証拠の価値や、自白の信用性にも影響は及ぼさない」と結論付けた。 【判決文】(「裁判所ウェブサイト」内のPDFファイルが開きます。リンク先をクリックする前に、注意事項をご覧下さい) 2013年11月5日、弁護団が名古屋高裁へ第八次再審請求申立。 2014年5月28日、名古屋高裁は請求を認めない決定をした。決定理由で、石山容示裁判長は弁護団が提出した証拠について「全証拠と総合考慮したとしても、確定判決に合理的な疑いを生じさせるものではない」などと指摘。「無罪を言い渡すべき明らかな証拠を新たに発見したとはいえず、再審は認められない。第七次請求と同一の証拠、同一の主張で、もともと請求権は消滅していた」と結論づけた。約半年で判断を示した理由として、決定は「奥西勝死刑囚の健康状態の悪化と加齢の程度」を挙げた。6月2日、異議申し立て。 2015年1月9日、名古屋高裁刑事2部(木口信之裁判長)は異議を棄却した。異議審で弁護側は「新たな証拠を追加しており、同一とは言えない」と主張したが、木口裁判長は「無罪を言い渡すべき明白性や新規性はない」と判断し、「(再審を認めなかった)決定に誤りはない」とした。1月14日、特別抗告した。 2015年5月15日、弁護団は毒物特定に関する再現実験の報告書などを新証拠として「犯行に使われた毒物は、当初の自白通りでないことが明らかになり、自白の信用性は失われた」と主張し、第九次再審請求を名古屋高裁に申し立てた。最高裁に特別抗告中だった第八次請求は取下げた。鈴木泉弁護団長は「仮に最高裁で訴えが認められても、高裁への差戻しなどで長期化は必至。奥西さんの病状を考え、新たな請求が一刻も早い再審無罪につながると考えた」と、方針転換の理由を説明した。ニッカリンTをめぐっては事件当時、三重県衛生研究所がぶどう酒に混ぜ反応を見る鑑定を実施。弁護団は今回、同じ手法で再現実験を行い、ニッカリンTの量や室温など条件を変えて12パターンを調べた結果、「犯行に使われた毒物はニッカリンTでないことが実証された」としている。新証拠はほかにぶどう酒の王冠を第三者が歯で開けた可能性を示す歯学博士の意見書などで計8点。弁護団は「新旧の全証拠を総合的に再評価すると、奥西さん以外に犯行の機会がなかったとは認定できず、確定判決には合理的疑いが生じる」と主張している。 奥西死刑囚が死亡したため、名古屋高裁(石山容示裁判長)は10月15日、第九次再審請求の審理を終了する決定をした。 2015年11月6日、奥西元死刑囚の妹が名古屋高裁へ第十次再審請求を申し立てた。弁護団は、ブドウ酒の王冠に封をしていた紙(封緘紙)ののりの成分を分析した鑑定結果など計28点の証拠を提出。「犯人が一度開けて毒を入れ、のりで封緘紙を貼り直したと推認される」などと訴えた。混入毒物は確定判決が認定した「ニッカリンT」でないとの主張を補強するデータも出した。さらに、30人で実験したが自白通りの犯行は不可能だったとも訴え、いずれも元死刑囚以外に真犯人がいる可能性を示す新証拠としていた。検察側は弁護団が提出した証拠の信用性を否定する意見書を出した。2017年9月には妹が意見書を提出し、「証拠や書類をしっかり見て頂き、きちんと証拠調べをして頂きたい」と再審開始を求めた。 名古屋高裁刑事1部(山口裕之裁判長)は2017年12月8日、「(弁護団の)新証拠は無罪を言い渡すべき明らかな証拠に当たらない」とし、請求を棄却した。山口裁判長は、封緘紙ののりの分析結果は誤っているとの見解を示した上で、封緘紙の状況について「事件から長い時間が経過し、このような実験などから結論を導き出すのは合理的でない。実験方法に多大の疑問がある」とした。毒物のデータに関しても「条件のわずかな違いで結果は異なるのに、事件当時の条件の詳細は分からず、実験は何の意味も持たない」と退けた。犯行再現も客観的意味を持つとは考えがたいと判断した。 名古屋高裁(鹿野伸二裁判長)は2022年3月3日、再審開始を認めない決定を出した。第10次再審請求が棄却されたことに対する弁護団の異議申し立てを棄却した。弁護団は、ぶどう酒瓶の封かん紙から、製造時とは異なるのりの成分が検出されたとする鑑定結果を提出。「真犯人が毒を入れてから封かん紙を貼り直した」と主張し、検察側は「他の物質を検出した可能性がある」と反論していた。決定で鹿野裁判長は、鑑定結果について「専門的知見に基づく科学的根拠を有するものとは言えない」と指摘。製造時に使用されたのりと異なるのりが付着したのは明らかではないとし、「提出された新証拠も、無罪を言い渡すべき明らかな証拠に当たらない」と結論付けた。弁護団は特別抗告した。 最高裁第三小法廷は2024年1月29日付の決定で、特別抗告を棄却した。再審開始を認めなかった名古屋高裁の判断が確定する。裁判官5人のうち4人の多数意見。学者出身の宇賀克也判事は「再審を開始すべきだ」とする反対意見を述べた。長嶺安政裁判長は、封かん紙が発見されるまでに何らかの物質が付着した可能性があると指摘。事件から長期間が経過し、封かん紙や付着物の成分に様々な変化が生じたとも考えられるとした上で、鑑定には「何者かが毒物を混入した後、再度封かん紙をのり付けした可能性を示すような証拠価値はない」と判断し、「確定判決の有罪認定に合理的な疑いが生じる余地はない」とした。 【判決文】(「裁判所ウェブサイト」内のPDFファイルが開きます。リンク先をクリックする前に、注意事項をご覧下さい) | |
奥西死刑囚は2013年5月27日夜、拘置所の独房で約38度の熱を出し、名古屋市内の病院に入院したが、呼吸困難で一時危篤状態となった。6月11日に八王子医療刑務所に移送され、再び危篤状態に陥り、その後も人工呼吸器や栄養剤を取り込む点滴チューブなどにつながれたまま寝たきりの状態が続いた。2015年5月上旬ごろから高熱が続き、8月下旬にも一時危篤となるなど、危険な状態が続いていた。 2015年10月4日午後0時19分、肺炎のため収容先の八王子医療刑務所で死亡。89歳没。 | |
名張事件を支援する会兵庫支部 名張毒ぶどう酒事件 奥西さんを守る東京の会 | |
映画『約束 名張毒ぶどう酒事件 死刑囚の生涯』(2013年2月公開)、『ふたりの死刑囚』(2016年1月公開)、『眠る村』(2019年2月公開)がある。いずれも東海テレビ制作で、1978年より取材を始め、定期的にドキュメンタリーやドラマを制作している。 現場となった公民館は1987年12月に取り壊された。 |
冨山常喜 | |
46歳 | |
1963年8月26日 | |
殺人、私文書偽造、同行使 | |
波崎事件 | |
1963年8月26日午前0時20分ごろ、木箱販売業・冨山常喜被告の内妻のいとこで、茨城県鹿島郡波崎町に住む農業Iさん(当時35)が、自宅から約1.3キロ離れた冨山被告宅から帰宅した後、苦しみ出し、病院へ収容されたが、午前1時半ごろに死亡した。このとき、Iさんは妻に、「箱屋にだまされ、薬を飲まされた」と呟いた。司法解剖の結果、「青酸中毒死の疑いを抱く」という鑑定結果が得られた。 冨山被告が保険金をだまし取ろうとして、Iさんに600万円の生命保険をかけさせたあと、交通事故死にみせかけようと計画、立ち寄ったIさんに青酸化合物入りのカプセルを飲ませたものとされる。 10月23日、別件の私文書偽造、同行使容疑で富山被告を逮捕。11月9日、釈放すると同時に殺人容疑で再逮捕した。 他に、1959年6月3日午後8時30分ごろ、富山被告の内妻の叔父夫婦が、侵入した賊に棍棒で殴打され、全治2週間の傷を負った殺人未遂事件でも追起訴された。 | |
1966年12月24日 水戸地裁土浦支部 田上輝彦裁判長 死刑判決 | |
1973年7月6日 東京高裁 堀義次裁判長 一審破棄 一件(殺人未遂)無罪、一件(殺人)につき死刑判決 | |
1976年4月1日 最高裁 藤林益三裁判長 上告棄却 死刑確定 【判決文】(「裁判所ウェブサイト」内のPDFファイルが開きます。リンク先をクリックする前に、注意事項をご覧下さい) | |
東京拘置所 | |
物証、自白は一切ない。被害者が死ぬ前に「冨山にやられた」と呟いたことのみが唯一の「証拠」であり、生命保険金の受取人が富山被告であったことが状況証拠としてあるだけである。毒物を飲ませるところを見た証人もなく、毒物の入手先も処分方法も不明のままで死刑を言い渡している。 一審では殺人未遂事件も有罪となったが、二審では富山被告のアリバイが成立して無罪となっている。 | |
最高裁判事の陪席として座っていた団藤重光は、退廷時に傍聴席にいた家族らしき人物から「人殺し」と罵声を浴びたことがきっかけとなり、退官後、死刑廃止論を展開するようになる。ただし、罵声を浴びせたという男性は、「無実の人間を死刑にするのか」と言ったと証言している。 | |
1980年4月9日、第一次再審請求。1984年1月25日、棄却。1985年2月25日、異議申立棄却。 1987年11月4日、第二次再審請求。2000年3月13日、棄却。2002年、異議申立棄却。 第三次請求準備中の2003年9月3日午前1時48分、収容されていた東京拘置所で死亡した。同拘置所は慢性腎不全による死亡と発表した。86歳没。 遺族が死後再審を引き継いだとの報道があったが、2017年現在、「波崎事件対策連絡会議」のメンバーたちと一緒に再審で富山元死刑囚の無罪判決を勝ちとるすべを模索しているが、再審請求人になってくれる遺族が見つからない現状とのこと。 | |
冤罪:波崎事件 ‐波崎事件の再審を考える会‐ |
大濱松三 | |
46歳 | |
1974年8月28日 | |
殺人、窃盗 | |
ピアノ騒音殺人事件 | |
神奈川県平塚市の団地に住む無職大濱松三被告は、5年前に引っ越してきた階下に住む会社員の家族がピアノを弾いたり、大工仕事で出したりする音に悩まされていた。特にピアノの音については再三注意をするものの、止める気配をまったく見せなかった。仕事の方も退職させられて自棄になっていたところに、騒音でノイローゼ状態になっていた大濱被告は殺人を決意。1974年8月28日午前9時10分頃、会社員方で妻(当時33)、長女(当時8)、次女(当時4)の3人を、刺身包丁で複数回突き刺して殺害。このとき「迷惑かけるんだからスミマセンの一言位言え、気分の問題だ、来た時アイサツにもこないし、馬鹿づらしてガンとばすとは何事だ、人間殺人鬼にはなれないものだ」と襖に書き付けている。 その後、大濱被告は海で死にたいと思いさまよったが死にきれず、三日後に自首した。 別件でシャツ、ズボンの窃盗がある。 | |
1975年10月20日 横浜地裁小田原支部 海老原震一裁判長 死刑判決 | |
1976年10月5日 控訴取下げ。1977年4月16日、取下げ確定。 | |
東京拘置所 | |
1974年10月28日の初公判で、大濱被告は殺人行為こそ認めたが、被害者一家との感情の対立が書かれていないと不服を示した。弁護人も、大濱被告は1970年頃から憎しみを持つようになっていたが、本年7月頃から被害者宅の前を通る度に身の危険を感じ、被害者にやられるのなら先にやってしまおうという気持ちになった。また重傷を負わせるつもりであり、死ぬかどうかは決行してみての結果であると考えていた、と述べた。 1975年2月24日の第4回公判では、犯行直後に平塚警察署の依頼で大濱被告の部屋の騒音を計測した市職員が証人として出廷。1回目は午後2時から測定したが、周囲の暗騒音の中央値が44ホンであり、階下で弾くピアノの音を測定できなかった。2回目は午前7時30分から測定したが、窓を開けた状態でも上限値44ホン(中央値40ホン)であった。1971年5月に閣議決定された「騒音に関わる環境基準」では、住宅地において昼間50ホン以下、朝夕45ホン以下、夜40ホン以下であるため、階下のピアノの音は環境基準値以内であったことが証明された。ただし、このときピアノを弾いた時間は約15分ぐらいで、しかも弾いたのは平塚警察署の男の人であった。また、この測定方法は神奈川県公害防止条例に基づくものであるが、条例では40ないし45ホンの場合に人体に対する影響は「睡眠がさまたげられる、病気のとき寝ていられない」と書かれていた。 3月17日の第5回公判で、大濱被告を精神鑑定した医師が出廷。大濱被告は精神病症状は見られず、知能も普通であり、責任能力はある。しかし、道徳感情が鈍麻した精神病質に該当すると述べた。 4月14日の第6回公判では、被害者の夫と兄が証言台に立ち、死刑判決を求めた。 5月12日の第7回公判では、「騒音被害者の会」代表が弁護側証人として出廷。大濱被告への同情論が圧倒的であると述べた。なお会が集めた嘆願書は地裁へ提出される予定であったが、大濱被告は辞退している。 同日の公判では大濱被告の元妻(事件後に離婚)が出廷。大濱被告が音に対して異常に神経質であったことや怠け者であったことなどを述べたが、同時に階下の音は度が過ぎている、被告が帰ってきたところを狙ってピアノが鳴り出すことがしばしばあったと証言した。 6月2日の本人尋問で、大濱被告は今までの「かっとしてやった。被害者の夫に襲われるかもしれないと思って予防のつもりでやった。被害者には申し訳ないと思う」と述べてきた供述を翻し、「死刑になりたいからやった。事件を起こしたことに悔いはない」と述べた。 8月11日の第9回公判における論告求刑で検察側は、「事件は計画的犯罪であり、殺害方法は残虐。ピアノの音が不快であるという犯行の動機に酌量の余地はない。極悪非道の犯罪であり、極刑をもって挑む以外にはない」と述べた。 同日の最終弁論で弁護側は「被告は犯行当時精神病質の程度が特に重く、心神耗弱だった。被告は音に対する特殊な恐怖心、憎悪感情を持ち、これに対して復讐の念に燃える殺人行為に及んだものである。正常心理学の範囲内では了解不可能な精神異常者であったと認められる」と述べた。また弁護側は「音の量より性質が問題であり、音に対する反応は個人差が大きい」などとした学者の見解を紹介した。 最終陳述で大濱被告は「私としては、死刑台の椅子に座りたい。それだけです」とだけ述べた。 判決で裁判長は「事件は被害社宅からのピアノの音、日曜大工もしくはベランダのサッシ戸の音などに端を発したものであるが、ピアノの音は睡眠を妨げられ、病気の人は寝ていられないという程度の音である。被害者方と被告との間に意志の疎通があれば十分犯行は防止得た。ただ被告は自らの取った態度を考えずに被害者たちだけを責め、報復として犯行を用意周到に計画。罪のない幼女2人まで刃物で突き刺し、しかも1名については手応えがないとさらしで首を絞めるなど残虐。法廷でも己の犯した罪に悔悟の情を示していない」として死刑を言い渡した。 大濱被告は控訴を望んでいなかったが、第一審の弁護人が控訴した。ただし、大濱被告は1976年2月9日、24日、3月1日、3日付けの4度に渡って自ら書いた控訴趣意書約80枚を提出。控訴趣意書では、「死刑になりたかった」という公判での証言を翻し、「被害者の夫に襲われると思ったから先にやった」という警察などで述べた供述に戻っている。また一審で行われた精神鑑定に不満を持ち、再鑑定の希望を述べた。 控訴審では新たな国選弁護人が精神鑑定を請求。4月27日、高裁は採用した。 5月6日、東京拘置所に移っていた大濱被告は「隣房の水洗便所の音がうるさい」と控訴取下書を提出。しかしすぐに取下げた。 鑑定人は「被告の知能は平均をこえるにもかかわらず、客観的な事実の認知には著しい欠陥があり、過敏、小心で猜疑心が強く、容易に独断的嗜好、判断に走りやすい傾向がある。被告は本件犯行当時、パラノイアに罹患しており、妄想に基づいて殺人行為を実行したものである」と結論づけた。また「妄想に動機づけられた本件犯行の殺人に関しては、責任無能力が認められるべき」という参考意見を記した。 しかし鑑定書の完成(11月25日)前の10月5日、大濱被告は控訴取下書を提出。取下書の書類を要求した職員に「精神鑑定をされているから無期懲役になるだろう。刑務所で一生を送るのはごめんだ。死刑は怖いが、早く死にたい」と述べている。隣房からの水洗便所の音がうるさいと再三訴え、10月1日には空いている隣の房へ移っていた。 10月9日、弁護人は東京高裁に「取下書は正常な精神状態で書かれたか疑問があるので身長に取り扱うべき」という上申書を提出した。 11月30日、東京高裁の裁判長は職権で鑑定人の尋問を行った。鑑定人は、正常な面と妄想する面を併せ持つパラノイア状態は続いているが控訴取下書は正常な面で書かれており、有効であると述べた。 12月16日、裁判長は大濱被告の控訴取下申立は有効であるとの決定を下した。【判決文】(「裁判所ウェブサイト」内のPDFファイルが開きます。リンク先をクリックする前に、注意事項をご覧下さい) 12月20日、弁護人は異議申立書を提出。東京高裁は1977年2月9日、鑑定人と大濱被告に対する尋問が行われた。4月11日、裁判長は異議申立を棄却。大濱被告は特別抗告をしなかったため、4月16日に一審死刑判決が確定した。 | |
事件当時は近隣騒音に対する被害を訴える声が相次いでおり、「騒音被害者の会」も結成されていた。また1974年10月10日には、埼玉県朝霞市のアパートで、ステレオの音がうるさいと注意された若い会社員が苦情を申し入れた隣室の夫婦を果物ナイフで刺して重傷を負わせるという事件も起きた。 パラノイアと鑑定された患者による事件は日本の裁判史上初めてであった。 | |
「自殺したいができないので、国の手で殺して欲しい」と自殺志願ともいえる側面を持つ事件であるが、拘禁症か精神病のため、皮肉なことに、未だ刑は執行されていない。 |
近藤清吉 | |
32歳 | |
1970年7月28日/1971年5月20日 | |
強盗殺人、殺人、死体遺棄 | |
山林売買強殺事件等 | |
徳島県西白河郡表郷村の土地ブローカー、近藤清吉被告は共犯者1名と共謀して、1970年7月28日、保険金騙取の目的で知人の雑貨商(当時42)に生命保険を掛けてこれを殺害した。 また単独で1971年5月20日夕方、山林売買にことよせて知人である同村の山林仲介業者(当時44)を呼び出し、これを殺害して204万円を強取した後、死体を水田に遺棄した。 警察は5月23日より近藤被告を取り調べ、自宅の畳の下から現金155万円が見つかったことから、強盗殺人、死体遺棄容疑で近藤被告を逮捕した。 | |
1974年3月29日 福島地裁白河支部 磯部喬裁判長 死刑判決 | |
1977年6月28日 仙台高裁 三浦克巳裁判長 控訴棄却 死刑判決支持 | |
1980年4月25日 最高裁 栗本一夫裁判長 上告棄却 死刑確定 【判決文】(「裁判所ウェブサイト」内のPDFファイルが開きます。リンク先をクリックする前に、注意事項をご覧下さい) | |
仙台拘置支所 | |
保険金殺人については否認し、事故死を主張。 最高裁は「犯行の態様も残虐であることなど、各犯行の罪質、動機、計画性、態様、被害結果及び社会的影響の重大性などの諸点にかんがみると、犯情は極めて重く、その刑責は重大である」と述べた。 | |
4回に渡り再審請求するも、全て棄却。 | |
1993年3月26日執行、55歳没。 |