青地晨『冤罪の恐怖 無実の叫び』(社会思想社 現代教養文庫)


発行:1975.1.30



【目次】
I 免田事件―アリバイのある死刑囚―
II 丸正事件―利用されたお人好し―
III 竜門事件―ゆがめられた青春―
IV 島田事件―警察に狙われた精薄者―
V 帝銀事件―ねじ曲げられた捜査方針―
VI 徳島事件―検察権力の重さ―


 冤罪事件の被疑者のほとんどは初犯である。彼らは生まれてはじめて逮捕され、はじめて取調べを受ける。警察の手の内はなに一つ知らない。だから強盗殺人の嫌疑で調べを受けていても、「白状さえすれば明日は出してやる」という甘言に、うまうまと引っかかるほど甘いのだ。そのトリックが見抜けないほどウブだし、「白状しなければ、おまえの母親もぶち込んでやる」という刑事の言葉をまにうけ、母親に迷惑をかけないためにウソの自白をやったりする。つまりシャバではとても考えられぬ異常な心理なのである。

(本文より引用)


 作者青地晨(あおちしん)は評論家。戦争中の言論弾圧事件(横浜事件)で投獄された体験から、冤罪事件について数々の執筆を行っている。
 本書に載せられている事件は、執筆時点ではいずれも冤罪を訴えて再審請求を起こしたものばかりである。そのうち、免田事件、島田事件、徳島事件では無罪が確定している。もっとも徳島事件では、無罪確定前に死亡してしまったが。
 なぜ冤罪が起きるのかということをこつこつと調べ上げたのが本書である。証拠の隠匿、証拠・鑑定の捏造、拷問による自白、見込み捜査など、警察・検察・裁判所が被告に有利な証拠を無視して“犯人”を作り上げていく様がはっきりとわかる。丸正事件、帝銀事件では冤罪を晴らすことなく、亡くなっている。裁判の遅延にも筆者は怒りの声を上げている。なぜ裁判所は真実に耳を貸さないのか。弁護側があげた数々の証拠を、たった一言で切り捨てる裁判官が多すぎる。
 人はなぜ「自白」するのか。もし無実なら絶対自白なんかしないはずだ。そう考える人は多いだろう。そんな声に作者は答を提供してくれる。上にその一部を引用したが、他にも捜査側の「自白」を引き出すテクニックは多種多彩である。我々もいつ冤罪に巻き込まれるかわからない。我々も捜査・裁判の真実を知る必要がある。本書はそんな“真実”の一つである。

免田事件=1948年12月29日、熊本県人吉市で起きた祈祷師一家殺傷事件。犯人とされたMは執拗な取り調べの末、自白。後に犯行を否認するも、1952年12月、最高裁で死刑が確定。1980年に再審が開始、1983年、無罪が確定。死刑確定囚の再審無罪は初めて。

丸正事件=19555月12日、静岡県三島市で起きた女性店主殺人事件。犯人とされたRは犯行を否認、Sは自白するも後に否認。1960年、Rに無期懲役、Sに懲役15年の判決が確定。1963年に再審請求、1986年に静岡高裁で棄却。即時抗告中の1989年にRが、1992年にSが死亡。請求は審理途中で終了した。正木、鈴木弁護士は著書で別人が犯人であると公表、名誉毀損で訴えられた。

竜門事件=1953年1月12日、和歌山県竜門村にある神社のそばの谷川で、女性(19)の暴行死体(ただし、凌辱の実態はない)が発見された。凶行に使われた棍棒の切れ端が発見されたことから、農業F(62)と作男K(18)が逮捕。Kは当初単独犯を自供したが、後にFとの共謀を自供。Fは犯行を否認。Fが女性にふられたことが動機とされているが証拠はない。1953年11月、一審でKは懲役5〜10年の不定期刑、Fは無罪が言い渡された。二審で、Fは懲役8年の実刑判決、Kは懲役6年が言い渡された。Fのみが上告したが、1959年、最高裁で刑が確定。1961年3月、Fは再審請求。

島田事件=1954年3月10日、静岡県島田市で起こった幼女暴行殺害事件。犯人とされたAは別件逮捕され、拷問により自白。後に犯行を否認するも、1960年12月、最高裁で死刑確定。1987年に再審が開始、1989年、無罪が確定。

帝銀事件=1948年1月26日、東京豊島区の帝国銀行で起きた12人毒殺、現金強奪事件。8月、人相書きとは似ても似つかぬ、一般人の日本画家平沢貞道(56)が逮捕され、自白により起訴、1955年に死刑が確定した。その後、17度の再審請求、3度の恩赦願が出されたが受け入れられず、一方歴代の法務大臣が死刑執行命令を出さなかったため、約32年間、ついに執行されることなく、肺炎で獄死した。享年95。

徳島事件=1953年11月5日、徳島県で起きた殺人事件。5ヶ月後別人が逮捕されるもの釈放。入れ替わりに内妻Fが逮捕される。二審で懲役13年の判決、上告後の1958年5月に上告を取り下げ、確定。1980年に再審が開始、1985年7月に無罪が確定。しかしFは1984年11月に癌で死亡していた。



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