森達也『死刑』
(朝日新聞社)


発行:2008.1.20



【目次】
プロローグ
第一章 迷宮への入り口
第二章 隠される理由
第三章 軋むシステム
第四章 元死刑囚が訴えること
第五章 最期に触れる
第六章 償えない罪
エピローグ



 オウム真理教のドキュメンタリー映画『A2』を撮り終えてしばらくが過ぎた後、拘置所にいる多くの元オウム幹部たちとの付き合いがきっかけとなり、作者である森達也は死刑について考え始め、死刑をテーマにした本を書いてみたいと思い始めるようになる。しかし、森はすぐに悩み始める。「死刑」という刑の定義は何か。死刑を考えるためには、制度的に捉えるだけではなく、歴史的に捉えるだけではなく、人が人を殺すということを今よりももっと強く、もっと真っ直ぐに見つめることが必要になる。
 森は直視する。できることなら触れてみる。さらに揺り動かす。死刑は不要なのか。あるいは必要なのか。人が人を殺すことの意味は何なのか。罪と罰、そして償いとは何なのか。

 本書は映画監督で作家の森達也が、“死刑”について考え、結論に至るまでの悩みを書き記したものである。森達也の他の著書を見ていただければわかるかと思うが、とにかく森は悩む。ぐじぐじ悩む。そして悩んで仕事が遅れることを言い訳しまくる。悩むだけならまだしも、他の仕事が忙しいなどと関係ないところでぐだぐだ書くのは腹が立ってくる。どうしてこの人は、本質と関係ないことをこう自分の著書に書くのだろう、と。
 森は死刑について調べるとともに、様々な人とのインタビューを試みる。安田好弘弁護士、岡崎一明死刑確定囚(確定判決直後)、郷田マモラ氏(『モリのアサガオ』作者)、保坂展人社民党衆院議員(「死刑廃止を推進する議員連盟」事務局長)、戸谷茂樹弁護士(宅間守元死刑確定囚弁護人)、亀井静香国民新党代表代行(「死刑廃止を推進する議員連盟」4代目会長)、三井環元大阪高検公安部長、免田栄氏(元死刑確定囚、再審無罪が確定)、石井健治郎氏(「福岡事件」元被告)、坂本敏夫元刑務官、カトリック神父(教誨師)、野口善國弁護士(神戸児童連続殺傷事件加害少年弁護士)、藤井誠二氏(ジャーナリスト)、松村恒夫氏(「あすの会」幹事)。さらに間中博巳死刑確定囚、本村洋からの手紙もある。
 森は死刑存置派ではなかった。そして様々な悩みの末にたどり着いた結論、それはこうだ。

 僕は彼らを死なせたくない。論理ではないし情緒でもない。水が低きに流れるように、冬が来れば春が来るように、昼食を抜けばお腹が空くように、父や母が子供を慈しみ、子供が父や母を慕うように、

 僕は願う。彼らの命を救いたい。


 「人は人を殺す。でも人は人を救いたいとも思う。」 カバーにも書かれている言葉である。結局森は、死刑を否定し、この言葉を残す。それはたぶん、人の本能の一つなのだろう。しかし、そこには救われない人もいる。森はそのことを無視する。どのように救うつもりなのか。そのことも森は無視する。ここにあるのは、己の感情でしかない。
 水が低きに流れるのは地球に重力があるからだ。冬が来れば春が来るのは日本に四季があり、地球が公転しているからだ。昼食を抜けばお腹が空くのは人の活動ができなくなるために脳が要求するからだ。父や母が子供を慈しむのも、子供が父や母を慕うのも本能だ。
 だが、彼らの命を救うというのは本能ではない。そこにある当然の理でもない。本人の満足と、自己弁護に過ぎない。「なぜ」も、「どうして」も、「どのようにして」もない結論に、何の意味もない。ここで書かれているのは、ある大学に受かりたいとだけ宣言して、どのように勉強するかを全く考えない学生と何ら変わりない、ただの願望でしかない。
 長々と森は書いているが、結局は己の感情を正当化するためのものでしかない。救いたいと思うのなら、救うという方法を示せ。私が森に言いたいのはそのことだ。

 森達也は1956年広島県呉市生まれ。映画監督、作家。
 1998年、自主制作ドキュメンタリー映画『A』を発表。2001年、続編『A2』が山形国際ドキュメンタリー映画祭にて審査員特別賞、市民賞を受賞。
 著書に『放送禁止歌』(知恵の森文庫)、『職業欄は江スパー』(角川文庫)、『いのちの食べかた』(理論社)、『悪役レスラーは笑う』(岩波新書)、『東京番外地』(新潮社)、『クォン・デ』(角川文庫)、『王様は裸だと言った子供はその後どうなったか』(集英社新書)、『ぼくの歌・みんなの歌』(講談社)などがある。

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