小沢信男『犯罪専科』(河出文庫)


発行:1985.4.4



 東海道新幹線が高度成長のバラ色の夢をのせて走るとき、その新幹線に乗って連続殺人に赴く朝鮮戦争孤児の混血少年。外交官を父に持つ良家の令嬢がどうして道端の黒焦げ死体となったのか。太腿に弁天小僧の刺青のフーテンマコが天国にゆくとき、原宿族の二人娘は心中して…これやこの経済大国ニッポンの、ひと河裏に渦巻いたにんげんの物語。ここ二十年の犯罪年表と共におくる今日の稗史。

(粗筋紹介より引用)
【目 次】
 差別−混血少年連続殺人事件
 設計−保険金殺人事件
 中産−外交官令嬢焼殺事件
 非行−神田錦町娘心中
 無法−フーテン・マコの短い華麗な生涯
 美徳−未亡人のツバメ殺し
 誘拐−“鬼夫婦”幼女殺し
 物慾−悪女の極付・日本閣事件
 企業−ドロボウ会社始末記
 決算−マダムと硫酸――古今妾考
 犯罪年表 一九六四〜一九八四年
 著者ノート 今日の稗史として

 『タウン』『問題小説』(徳間書店)に1967年から1970年まで隔月で掲載。三一書房から『犯罪の主役たち』(1968年)、『悪女』(1970年)にまとめられる。その後、作品を取捨選択して『犯罪専科』正続(東邦出版社)として出版。本書はその中から編集し直し、河出文庫より出版したものである。
 連載当時の1967年から1974年の事件を中心にまとめられている。「日本閣事件」だけは古いが、執行されたのは1970年であり、時代を彩っていることに変わりはない。
 犯罪の裏には人の歴史がある。ドラマがある。殺害された者にはたまったものではないし、罪が許されるものではないが、加害者側にも人生があることに間違いはない。どんな時代にも人は罪を犯すものであり、そこには何らかの光と影があるのである。
 内容としては、時々読者に語りかける形になっているのは気に入らないし、どうせなら判決まで書いてくれやと思うものもあるが、取材費が出るとはいえ儲け代が少ないと思われるノンフィクションをこれだけ書き続けたことは大したものと思ってしまう。

 収録されている事件の簡単な概要をここで示す。

<差別−混血少年連続殺人事件>
米黒人兵と日本人女生との間に生まれた少年T(16)は、小さい頃から縮れ毛、皮膚の色が黒いという理由で差別感を持ち、ひねくれ出すようになった。中学時代に窃盗で補導、宮城県立の矯護施設に移された。卒業した1966年、東仙台の自動車整備工場で働くも、6月に入って蒸発。そのまま九州や大阪で空き巣を繰り返しながら放浪し、9月に仙台に捕まって空き巣で逮捕。少年鑑別所に送られたが、集団赤痢の疑いで市内の病院に入院し、10月4日に脱走。以後、窃盗を繰り返しながら、放浪を続けた。
 1966年12月13日、愛知県豊橋市の会社員の妻Aさん(24)の首を絞め、猿ぐつわをはめ乱暴し殺害。現金20,000円を奪った。Aさんは臨月だった。死体は水の張られた浴槽に投げ込まれていた。
 12月27日、千葉県葛飾郡の職員宅に忍び込んだが、妻Bさん(28)が帰宅。ナイフで脅し、ヒモ、目隠し、猿ぐつわをしたうえ乱暴。その後、ヒモで殺害し、現金24,000円を奪った。
 1967年1月16日、山梨県甲府市の職員の娘Dさん(25)の首を絞め、猿ぐつわをはめ乱暴、殺害し、現金を7,000円を奪った。死体は全裸のまま鴨居からぶら下がっていた。
 1月23日、江戸川区の近くの団地6軒に侵入、現金約10万円を盗んだが、駅前で警戒中の警察官に逮捕される。同日、警察庁広域重要指定106号事件に指定された。求刑は死刑だったが、少年法により罪一等減じて1972年9月9日に千葉地裁で無期懲役判決。控訴せずそのまま確定。1988年に仮出所している。

<設計−保険金殺人事件>
 1967年4月19日、宇都宮駅前のバーのマスターであるHN(28)は行き付けの喫茶店のママに、常連である自動車整備士の男性H(27)を呼び出させ、さらに洋服店勤務の男性T(23)を呼び出させた。HもTも、HNのバーの常連で、さらにHNが会長になったボーリング友の会の会員だった。3人は午後8時ごろからHNのバーで飲んでいたが、Hの飲むカクテルには睡眠薬が入っていた。午後9時30分、HNはホステスを帰させた。午後11時ごろ、意識を失ったHを連れてHの車で郊外の工業団地予定地に行き、HNの命令でTがピストル型ライターで何度も殴った。その後、近くの踏切に車ごと放置して貨物列車に轢かせて事故死に見せかける計画だったが、うろたえたHNは踏切を通過してしまう。市内のグランドに入り、HNは虫の息だったHの顔を座布団で覆い、殺害。浄水場のある山へ車を向けたが、途中で車はスリップし、動かなくなる。ジャッキなどを使って車ごと崖に落とそうとしたが、土管に車が引っかかり動かない。そこで死体を引きずり出し、崖下に放り込んだ。
 2か月前の2月8日、HNはHを誘い、日本生命の満期100万円の保険に互いを受取人として加入した。死んだ場合は満期の3倍が支払われ、さらに死亡原因が災害だったときは満期額が加算される契約だった。HNは腰巾着のTを誘い、過去に二度Hを殺害しようとしたが失敗していた。HNは結婚したい女性がいたが、女性よりバーの主人では両親が許さないと言われ、小料理屋を開こうとする資金が必要だった。また、車の購入や遊興による借金が180万円あった。
 20日、トレーニング中の競輪選手が車を発見し通報。遺体が発見された。HNは刑事に当日夜来たが、女のために金を貸してくれと言われたので貸したと答え、警察の捜査も一度はそちらの方向に傾いた。しかしすぐに嘘は発覚し、25日、捜査本部はHNとTを逮捕した。

<中産−外交官令嬢焼殺事件>
 1967年6月29日午後6時ごろ、貿易商社社員のKM(30)は交際していたブラジルR市駐在の総領事の娘(29)とドライブ。食事後の午後9時ごろ、世田谷区多摩川堤の路上で結婚をめぐり口論。女性になじられたKMはカッとなって女性を殴り、さらに蹴り飛ばして失神させた。そして車のトランクからガソリン5リットル入りの補助タンクを持ち出して半分ほどを体に浴びせ、ねじった紙にライターで火をつけた。女性は直前で意識を取り戻したが、KMはかまわず投げつけ、女性を焼死させた。30日午前5時30分、ヤクルトの配達人が焼死体を発見。家族からの届け出で身体的特徴が一致。捜査本部は7月4日、KMを逮捕。KMは犯行を否定するも、車の中に女性の指環などが発見され、さらに自宅から女性の真珠のネックレスが発見されたため、9日にKMは犯行を自供した。KMは数回の逮捕歴があり、1956年には窃盗で懲役4年以上6年以下の不定期刑を受けて少年刑務所に5年服役していた。
 KMは1966年1月、女性がタイピストとして勤めていた商社に入社。女性は5月、給料の良い別の会計事務所に移ったが、KMは女性に接近し、7月から交際を始める。KMには4歳下の妻と息子がいたが、別れ話が出ていた。KMは将来独立すると言って女性から都度金を引き出し、合計で100万円を超えた。しかしいつまでたっても離婚をしないので、女性は約束を守るよう、KMに求めていた。
 女性の母親はブラジルの夫の元へ戻るが、後に首を吊って自殺。父親も退官隠棲した。
 KMは殺人と窃盗で起訴され、1968年6月4日、東京地裁は計画的犯行として求刑通り死刑判決を言い渡す。1973年3月9日、一部無罪となって無期懲役に減刑。上告するもすぐに取り下げ、刑は確定した。

<非行−神田錦町娘心中>
 渋谷区の高級住宅地で、日大生のO(20)は叔父宅の留守を任されていたが、若者のたまり場となっていた。1967年3月25日、O、S(21)、Kの男性3人とKK(20)、OK(19)の女性2人は遊びづけで汚れた部屋を掃除させようと、KKの洋裁学校の友人A子を用事があると誘い出した。男性たちは輪姦しようとし、応接間の隣に布団と録音テープを用意した。A子が来たところで怖気づいたKは帰宅。4人は目薬入りの紅茶を飲ませたが、頭痛を訴えて帰ろうとしたA子を隣の部屋に引きずり込み、OとSが強姦しようとし、OKはからのカメラで撮影するふりを続けた。KKは隣室で耳をふさいでいた。しかしA子は服を切り裂かれながらも必死の抵抗を続け、30分後に戸外に脱出。下着姿のA子を通行人が保護し、渋谷署に駆け込む。4人は逮捕された。後に示談が成立。OKは未成年だったため、少年鑑別所に送られる。9月13日、OとSに強姦未遂で懲役2年執行猶予3年が言い渡される。18日、KKは強姦教唆で同じ判決が言い渡された。25日、KKは神田に住む写真材料会社社長の娘WT(20)のところに転がり込む。このころWTは付き合っていた3歳上の男性と結婚したがったが、相手が遊び人ということで両親から反対されていた。二人は神田錦町のビルにある父親が借りている部屋に転がり込み、籠城。3日後の9月30日、神田錦町のビルの一室でガス自殺をした二人の女性が発見された。

<無法−フーテン・マコの短い華麗な生涯>
 1967年2月16日午後4時過ぎ、横浜市のアパートで女性の遺体を大家が発見。殺害されたAM(19)は片桐摩湖と名乗り、14,5歳ごろから外人バーに勤め、ヌードショーにも出て、ピンク映画『体当りマンハント旅行』(豊原路子主演)にも水原リサの名前で出演経歴があった。ただしこの映画はあまりにも不出来で没となっている。左太ももに弁天小僧の刺青があり、伊勢佐木町などのナイトクラブ、外人バーではフーテン・マコとして知られていた。交友メモなどからは254人の男性の名前が挙がった。
 小沢昭一は1966年4月18日付の『内外タイムス』で彼女と対談しており、事件後に「絵に書いたような“ハマのズベ公”で、日本のズベ史に残る女」(週刊新潮)と語っている。
 4月8日、捜査本部は横浜でポン引きをしていたT(25)を逮捕。当時1万円を借金していたTは返済のため友人知人を駆けずり回るうちにマコのことを思い出し、顔を合わせたことしかなかったが金を借りに行った。姉御肌のマコは鷹揚に承知し、さらにしばらく女性経験のなかったTはマコを抱きたいと頼んでそのまま関係を結んだが、Tはあっという間にいってしまった。時間が短いことからさらにサービスを要求したマコを鬱陶しくなったTは肘で顎のところを押すと気絶してしまった。慌てたTは電気毛布のコードで絞殺して殺害。現金は指輪などを盗んで逃亡したものだった。マコのものらしいライターを持っているという噂から足がついた。

<美徳−未亡人のツバメ殺し>
 1969年2月17日午後9時半ごろ、兵庫県揖保郡に住む衣類行商のKS(47)宅に愛人の無職男性(31)がやってきて、2000円よこせと言った。KSが1000円を渡すと出て行き、午後11時20分ごろ、酔っ払ってバーの女性(30)とともに戻ってきた。靴を叩きつけてガラス戸を壊し、さらにKSに出て行け、権利書をよこせなどを暴言を吐き、さらに風呂を焚かせて女性と一緒に入った。KSは二人に精力剤と称して睡眠薬を飲ませて眠らせ、18日午前1時ごろ、そばにあったタオルで女性の首を絞めつけ、さらにプロパンガスボンベを運んで男性の鼻先にガスコンロを置き、座布団をかぶせて栓を開いて殺害した。KSは二人の死体を床下の貯蔵用穴に隠し、19日夜に女性の体をバラバラにしようとしたが、片足を切ったところで精根尽きた。22日夜、KSは二人の死体を庭に埋め、翌日朝、姫路市にある男性の親許を訪れ、「息子が女と心中したので、困って庭に埋めた」と言って姿を消した。びっくりした両親がKSの家に行くと庭に赤土の山があったが、勝手に掘っていいのか迷っているうちに近所の人が竜野署に急報。刑事立会いの下で掘り返し、二人の死体を発見した。同日夕方、警察は行商仲間である知人の家にいたKSを逮捕した。
 KSは1958年に夫と死別し、36歳で未亡人となり子供はいなかった。男性は行商の得意先の一人息子であり、男性の高校時代からの知り合いで話し相手として時々遊びに来ていた。1959年9月、二人は関係ができ、付き合うようになった。10年も経つと金はむしられ、乱暴され、よその女を連れこまれるなどの苦しみを受けていた。バーの女性はたまたまこの日、客であった男性と付き合っただけだった。

<誘拐−“鬼夫婦”幼女殺し>
 1969年9月27日昼、横浜市磯子区で兄弟と遊んでいた女児(2)が中年女に抱きかかえられ、車で連れ去られた。兄弟の話を聞いた母親が警察に通報。兄弟は連れ去った中年女を「ライオンおばちゃん」と証言。身代金等の電話がなかったことから単純誘拐と判断した捜査本部は10月7日に公開捜査。13日、捜査本部は横浜市中区の長屋に住む生活保護受給の女性(46)とその夫(33)を逮捕。その後の捜査で、前年8月15日に先天性股関節脱臼の障害を持つ娘(1)を夫が殺害して床下に埋めたことを自供。誘拐された女児は娘の代わりだった。ところがその娘は実子ではなく産婦人科の医師から斡旋された赤ん坊だった。しかも6年前の1963年8月、結婚直前だった女は簡易宿泊所で出産したが育てる当てのない女から男の子の赤ん坊を譲り受けたが、すぐに世話を面倒臭がったので、8月8日に夫が赤ん坊をカトリック教会に預けたまま行方をくらましていた。
 逮捕された女は劣悪な環境に育ったため無学で知能程度が低く、姉に遊郭へ売られて女郎生活を送ったためか、妊娠しても流産し続けた。今の夫と結婚してからも6回流産していた。
 夫婦は殺人、死体遺棄、未成年者略取の共同正犯として起訴された。1970年5月22日、横浜地裁は2人に懲役15年(求刑無期懲役)を言い渡した。検察側は刑が軽すぎると控訴、妻も刑が重すぎると控訴した。1971年1月26日、東京高裁で検察・被告側控訴が棄却され、刑は確定した。

<物慾−悪女の極付・日本閣事件>
 K(52)は栃木県塩原温泉で土産物店、食堂店を開いていた。土産を仕入れるときは代金の代わりに身体で払い、店自体も色仕掛け、肉体仕掛けで稼いだ。しかし、Kの野望は旅館経営であった。物色しているうちに、温泉街の外れにあるホテル日本閣に目を付ける。そこは経営者の才覚のなさか、場所が悪いのか、温泉を引き湯する権利がないからか、客数は今ひとつであった。Kはホテルの乗っ取りを計画、経営者Uさん(53)の愛人になり、さらに色仕掛けで仲間に引き込んだ従業員のO(37)と共謀し、Uさんの妻(49)を1960年2月6日に殺害。そのままホテルに乗り込み采配を始めた、今まで貯めた金をホテルの再建につぎ込んだが、二重三重に抵当に入っていることがわかり激怒。さらにUさんが全然仕事をせず、Kを追い出そうとしたため、12月31日にOとともにUさんを殺害した。その後もホテルを経営していたが、1961年2月19日に逮捕。自供中に、9年前に当時同棲していたN巡査(役職は当時 34)と共謀して夫(当時49)を青酸カリで毒殺したことも自白した。
 1963年3月18日、宇都宮地裁はKに求刑通り死刑、Oに無期懲役(求刑死刑)を言い渡した。N元巡査には夫殺害について無罪を言い渡し、銃刀法違反で懲役1年を言い渡した。1965年9月15ン道、東京高裁はKの被告側控訴を棄却(破棄自判)、Oの一審判決を破棄し求刑通り死刑判決、Nの一審判決を破棄し夫殺害を有罪として懲役10年を言い渡した。1966年7月14日、最高裁は上告を棄却し3人の刑が確定した。
 1970年6月11日、K、Oは揃って死刑執行。K、61歳没。O、46歳没。Kは戦後3番目の女性死刑確定囚、戦後に執行された第1号の女性死刑囚である。

<企業−ドロボウ会社始末>
 1966年夏、S(23)は懲役3年の刑を追えて前橋刑務所を出所。窃盗には仲間が必要と感じ、叔父(39)や兄(25)を口説き、1967年2月、渋谷区の叔父の家に「ニッポウ企画」の看板を出した。叔父が社長、専務がS、顧問が父(49)、社員に仲間2人を呼んだ。捜査の的を絞られぬよう、関東や東海に遠出して、窃盗を行ってきた。翌年、前科十一犯である姉の旦那(37)が懲役10年の刑を終えて出所し、会社の参謀となって、一極集中型の犯罪に切り替えた。1968年7月、「同和企画」社が設立され、横浜市に看板を掲げた。さらに仲間2人が加わった。午前中は特訓、午後は下見を繰り返して犯行。サラリー制で、弁護費用は会社が持つ決まりとなっていた。3年間で現金3000万円、貴金属類1億2000千万を盗んだ。もっとも貴金属は換金の際に1〜3割程度にしかならなかった。しかし参謀が警察の職務尋問に引っかかり、その時はうまく言いぬけたものの「仕事」を控えざるを得なくなった。給料でSの貯蓄はどんどん減り、しかたなく女房たちの「内職」(万引き等)を許したが、そこから足がついた。1970年7月9日、社員10名、盗品故買関係6人が逮捕された。1971年12月、横浜地裁でSは懲役6年、参謀は懲役4年6月、他は懲役4年以下の実刑判決が確定した。

<決算−マダムと硫酸――古今妾考>
 1974年3月3日夕方、恵比寿の高級マンションに住む銀座のクラブのママ(31)に、製菓会社社長(50)が希硫酸20ccを顔にぶっかけた。男はそのまま車で交番に乗りつけて自首。ママは病院に運ばれ全治50日間のやけどを負った。ママは8年前からパトロンだった社長に別れ話を持ちかけたため、カッとなったものだった。


 小沢信男は1927年、東京生まれ。日大芸術学部在学中に、短篇「新東京感傷散歩」で花田清輝に認められ、以後、小説、ルポ、評論、戯曲等に多彩な活躍をつづけている。主な著書に『わが忘れなば』『小説昭和十一年』『若きマチュウの悩み』『犯罪紳士録』等。(著者紹介より引用)

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