木々高太郎『推理小説読本』(読売新聞社 サラリーマンブックス)

 木々らしいやや独善的なものの見方と論文調の文章に辟易しながらも、中身は結構面白いし、こういう視点もあるのかと勉強になった。ただこの人の問題は、自分の理論を結局実践に移せなかったことなんだよな。もし木々の「推理小説文学論」に則ったミステリが実際に書かれていたら、日本ミステリの歴史は大きく変わっていたかも知れない。




北村薫『リセット』(新潮社)

 「時と人」シリーズ3部作の最終作。シリーズといっても、話は独立しているからどれから読んでも一緒だけど。
 ミステリ味は全くなし。古いネタを使ってこういう小説を作り上げた腕は認めるけれど、それだけ。ネタが古く、結末が見えてくるので、読んでいて退屈だった。さくさくとは読めるけれどね。小説を読むと、どうしても何らかの仕掛けを求めてしまうから、こういう小説には点が低くなる。全然感動できないということは、感受性が低いのかな。だけど、単純なストーリーとしか言い様がない。30年前の漫画を読んでいる気分だった。それに、北村薫の女性一人称の書き方は、背筋が寒くなってくるぐらいわざとらしい。戦前はこういう言葉遣いをしていたのかも知れないが、それを抜きにしても気色悪い。男性の考える理想女性像の典型。汚い部分を全く見せようとしない。ジュヴナイルでさえ、今ではダークな部分を見せるのが当たり前なのに、そういう部分を一切排除している。人はお人形さんじゃないんだって、言いたい。
 某掲示板にあったけれど、細かいエピソードを重ねれば、もっと出来や感じ方が違っていたかも知れない。戦争部分を書きたかったのかも知れないけれど、この程度でははっきり言って甘いし、悲惨さはまるで伝わってこない。
 恋愛ものとしても、SFものとしても、小説としても、全ての点において中途半端。それが結論です。
 もうこのシリーズは終わったから、ミステリに戻ってきて、お願い。




殊能将之『黒い仏』(講談社ノベルス)

 九世紀、天台僧が唐から持ち帰ろうとした秘法とは。助手の徐彬を連れて石動戯作が調査に行った寺には、顔の削り取られた奇妙な本尊が。指紋ひとつ残されていない部屋で発見された身元不明の死体と黒い数珠。事件はあっという間に石動を巻き込んで恐るべき終局へ。ついにミステリは究極の名探偵を現出せしめた。(粗筋紹介より引用)

 あらすじを紹介する元気なし。読み終わって残ったのは脱力感だけ。三作目でこう来るかい。タイトルはトリプル・ミーニングなんだろうなあ。確かにこの作品を賛美する人がいないというのはわかります。
 この作品の狙いの一つは、「名探偵の存在崩壊」ではないだろうか。もっとくだけて言ってしまえば、「絶対的名探偵へのおちょくり」。既成概念に対する挑戦としてみれば、それはそれで納得いったのかもしれないが、やはりアリバイトリックがちゃち。もう少し込み入った複雑なものだったら、まだ許せたと思う。
 この作品の最大の欠点は、主題がまるで見えてこないこと。話の流れが二つ+αとあるが、流れとしては完結しながらも、物語としては全く完結していないため、一体何を訴えたかったのか、そしてどこに焦点を合わせるべきだったのかがわからないまま終わっている。<続き>のある話とも思えないし、不満の残る結末といってよいだろう。ミステリファンにとって楽しかったくすぐりも、話そのものがつまらないと逆に鼻についてくる。
 三冊読んで、この作者の欠点が見えてきましたね。技巧に頼りすぎ。まず、面白い話を作ることから始めないと、ますますランクが下がっていくと思う。




リチャード・ハル『他言は無用』(創元推理文庫)

 英国紳士の社交場であるクラブ。ある日、料理人が間違って薬の過酸化水銀をクラブに持ってきて、しかも料理に使ってしまい、一人の死者が出た。あせる料理人に幹事。担当の医者にすべてを話し、表紙ということで片付けてもらい、なんとかクラブの名誉は保たれた。しかし、翌日から幹事へ奇妙な脅迫状が次々に届く。クラブの潤滑な運営を目指す幹事の悩みは果てしなく続き、共犯者であるはずの医者は全くあてにならない。そして物語は意外な方向へと進み出す。
 『叔母殺人事件』のリチャード・ハルの第二長編。もっとも、『叔母殺人事件』は倒叙ものの名作といわれているけれど、実際はそれほど評価の高い作品と思えないというのが正直なところ。言ってしまえば、「乱歩が誉めれば皆誉める」の典型的な作品だと思っている。では舞台を一転して都会のクラブに求めた二作目はどうだったか。
 きっぱり言えば、英国ユーモア、そして上流社会のクラブというものをを解しないと面白みのないストーリーである。もっとも、解してもそれほど面白いとは思えないが。嫌な書き方をすれば、英国流のテンポののろいユーモアサスペンスである。確かに結末になって意外な展開こそあるものの、それすらものんびりとしたペースである。例えていえば、人を殺す最中でも午後三時になると犯人と被害者が一緒になってお茶を飲むような、そんな和やかな雰囲気のサスペンスである。上流社会の風刺を効かしているつもりなのかも知れないが、それもから話周りに終わっている。英国ミステリに見られる重厚な味があるのであれば、このようなのんびりとしたテンポも楽しむことが出来るのだが、筆があまりにも軽いから、このゆっくりとしたテンポに苛立ちすら覚えてくる。
 自分が英国ミステリを解していないだけだ、と言われればそれまでなのかも知れないけれど、退屈したのは事実。英国ミステリは、当たりと外れの差が激しい。




若竹七海『スクランブル』(集英社)

 1995年1月22日、結婚披露宴。花嫁を含む6人は高校の同級生で、しかも文芸部に所属していた。披露宴の合間に6人はそれぞれ高校時代を思い出す。それは15年前学校内で起きた未解決の殺人事件、そしてそれぞれに起きた「小さな事件」であった。女子校という舞台で、6人の身に起きた弁当消失事件、階段転落事件、同級生のひき逃げ事件、保健室での吐瀉剤誤飲事件。殺人事件の影を落としながらも、それぞれの事件で推理が繰り広げられた。そして15年目の今日、ついに犯人が分かり、エピローグで語られる。
「スクランブル」「ボイルド」「サニーサイド・アップ」「ココット」「フライド」「オムレット」を収録した連作短編集。

 若竹お得意の連作短編集。中高一貫の高校ながらも高校受験組、いわゆる「アウター」である5人+中等部から浮いていた1人の6人のエピソードがそれぞれ回想されるのだが、この6人の会話がなんともいえず楽しい。いかにも文芸部らしいマニアックさと、女子高生らしい潔癖さ、というか若さが、今の自分の年齢で読むと実に楽しいのだ。もちろん、私と同世代でなくても楽しむことが出来るだろう。やはり高校時代というのは人生で希望に満ちあふれていた時代だったのだから。ただ、ネックになっているのは、6人の書き分けがあまり出来ていないこと。はて、これ誰の発言? というところが随所に出てくる。推理の部分は根幹こそ殺人事件ではあるが、日常ものらしく謎に対する軽めの、しかし論理のある推理がこれも楽しい。こういう作品を読むと、やはり若竹七海はうまい作家であると確信してしまう。

 しかし、当時新刊でハードカバーで買いながら、既に文庫が古本屋にさえ出ている本を今頃読むというのは、ちょっと虚しいものがあるなあ。




山田風太郎『天狗岬殺人事件』(出版芸術社 山田風太郎コレクション1)

 山田風太郎の単行本未収録作品を全三巻に集大成したファン待望のコレクション、ついに登場!第一巻には、奇抜なトリックが冴える表題作「天狗岬殺人事件」、名探偵エラリー・ヴァンス氏と思考機械、ヴァン・ドゥーゼン教授が、それぞれ究極の密室に挑む「二つの密室」などの本格推理から、現代の若者が江戸時代にタイムスリップしてしまう「江戸にいる私」、不随意筋を操れるようになってしまった男の悲喜劇「こりゃ変羅」などのナンセンス奇想小説まで、バラエティ豊かな17篇を収録。(粗筋紹介より引用) 「天狗岬殺人事件」「この罠に罪ありや」「夢幻の恋人」「二つの密室」「パンチュウ党事件」「こりゃ変羅」「江戸にいる私」「贋金づくり」「三人の辻音楽師」「新宿殺人事件」「赤い蜘蛛」「怪奇玄々教」「輪舞荘の水死人」「あいつの眼」「心中見物狂」「白い夜」「真夏の夜の夢」の17編を収録。

 なぜこれだけの作品が未収録だったのかは確かに疑問だけど、作品自体についてよく読むと、大騒ぎするほどのことはないような感じがする。山田風太郎の過去の短編から見たら並クラスじゃないだろうか。“山田風太郎”だから皆が大騒ぎしている感がある。ただ、このような未収録作品が読めること自体は素直に嬉しい。コレクション2,3に期待したい。むしろそっちのほうが楽しみなんだよな。




赤江瀑『オイディプスの刃』(角川文庫)

 惨劇は、明るい陽光のふり注ぐ夏の日の午後、大迫家に起こった。……
 庭木立の、赤いハンモックにまどろむ、刀研師秋浜泰邦の若々しい肉体に振り下ろされた名刀「次吉」の白刃、その刃で胸を突いた母の死、それに続く父の割腹。白日夢に似た三つの死は、大迫家を一挙に瓦解させ、残された異母兄弟三人は別々の人生を歩むことになったが……。
 美貌の母と妖刀「備前次吉」の魔力と、疑惑の花「ラベンダー」の芳醇な香りに魅かれて運命を狂わす三人の兄弟を描き、妖美華麗なロマンの世界を織りなす、俊英初の長編小説。第一回角川小説賞受賞作。(粗筋紹介より引用)

 『オイディプスの刃』は再読だと思っていたが、物語に記憶がない。記録をひっくり返したら初読だった。うーん、記憶力落ちているなあ。
 妖美な世界観が広がるので、好きな人にはたまらないだろう。その妖美な世界が、物語をちょっと見えにくいものにしているような気もする。ギリシャ神話のオイディプスをモチーフにするのなら、様々な登場人物の心理的な葛藤などをもう少し書き込んでもよかったのではないだろうか。




瀬名秀明『八月の博物館』(角川書店)

 理科系ミステリー作家である彼は、スランプ気味だった。自分の専門分野では博士号を取っているが、文学に関しては素人以下だ。そう書かれることが多くなり、理系と文系の間で身動きが取れなくなってきていた。彼は今、ポスターを見て夏休みであるということに気付く。急に東京科学博物館に行きたくなった。そこにあったフーコーの振り子。そしてあの八月を思い出す。物語はここから始まった。
 小学六年生の終業式、亨は校門を出ると、いつも通い慣れた景色がまるで知らない世界に見えた。歩き続けると、そこに博物館があった。中に入り、そして彼は黒い猫を抱いた見知らぬ少女と出会う。彼女の名前は黒川美宇といった。そして無限の可能性を秘めた冒険の旅が始まった。パリ万博、古代エジプト、遺跡発掘……そして亨と美宇はアビスの謎に挑むことになる。

 最初の理科系ミステリー作家のぼやきなどは瀬名秀明自身のぼやきなのか、それとも逆説的な皮肉なのかわからない。しかし、亨の物語になってから、話は俄然面白くなる。読んでいるうちにふと気付く。これは「ドラえもん」の世界だと。現実の世界にいる子供が、異世界の冒険の旅に出る。まさに『大長編ドラえもん』ののび太の世界なのだ。そう思って結末まで読むと、「本書を、故 藤子・F・不二雄に捧げる」とある。ああ、やっぱりとここで思う。この物語は、大人も楽しむことが出来る、そして子供の頃夢に描いた「ぼうけん物語」なのだ。「冒険」ではない。あくまで「ぼうけん」である。ドキドキワクワクのぼうけん物語なのだ。
 だから、話の途中で作者が出てくるのにものすごい違和感と嫌悪感を抱いた。ただ、これには意味があることなので文句は言えない。しかし、「ぼうけん物語」には邪魔だった。『大長編ドラえもん』ではあくまで現実→異世界→現実というパターンが守られている。だからこそ読者は異世界のぼうけんを楽しむことが出来る。しかしこの物語では現実と異世界を行ったり来たりしている。その分、読者は“ぼうけん”に没頭することが出来ない。“ぼうけん”の途中で現実の世界に引き戻されるほどつまらないことはない。
 古代エジプト、そして遺跡発掘と魅力的な設定を思いついたのだから、それだけで物語を進めるべきであったと思う。いかにも「小説的な」結末は、物語の魅力をそいでしまう。面白いのだが、失敗作。残念としか言いようがない。




横山秀夫『動機』(文藝春秋)

 非番時における警察手帳一括保管制度を始めたU署で30冊の警察手帳が紛失した。状況から内部の者による犯行の可能性が高い。しかも保管制度は現場の刑事たちからは「警察官の魂をなんと心得る」と反発が強かった。J県警警務課企画調査官であり、一括保管制度の推進役である貝瀬警視は、マスコミに発表するまでに何とか犯人を見つけようとするが。警察官の心について警察手帳を通して描いた「動機」。殺人の前科を持つ男が見知らぬ男から殺人を依頼され、会社やかつての家族などのことを苦慮し、とうとう殺人を引き受ける「逆転の夏」。弱小地方新聞の女性記者が中央紙への引き抜きを受けて悩む「ネタ元」。法廷で裁判官が居眠りをしてしまい、新聞記事になることを恐れて動くうちに意外な事実が発覚する「密室の人」。以上4編からなる短編集。

 とにかくリアリティがある。“真実”からくるリアリティだけではない。“物語”であるとわかったうえで、なおかつ真実味が伝わってくるのである。小説を読んで、頭の中にその姿が浮かんでくるという体験を久しぶりにした。描写が上手い。臨場感がある。主人公のせっぱ詰まった気持ちが伝わってくる。いや、迫って来るという方が正しい。とにかく驚いた。これほどの作家がまだいたのかと。これは確かに昨年度のベスト級の作品である。まいったというしかない。
 個人的には協会賞を取った「動機」よりも、書き下ろしの「逆転の夏」が好みである。最後の“逆転”があまりにも悲しい。ただ残念なのは、男性体験だけならいざ知らず、妊娠をしていたら、さすがに検察側も裁判で隠し通すのは難しいのではないだろうか。ただ、その程度のことは実際の裁判でもありうるので、何とも言い難いが、引っかかったのは確かである。
 とにかく傑作。是非とも読むべき。こうなると前作『陰の季節』も読んでみようという気になる。




大野晃『手塚治虫・<変容>と<異形>』(翰林書房)

 あまり振り返られることのない、手塚治虫の絵の部分に注目し、<変容>と<異形>というテーマを通じて手塚作品を再評価した評論。
 手塚評論は正直言って出尽くされた感がある。もちろん、全集だけで400冊、作品数にしても400を越え、そしてありとあらゆるテーマを包括しているのだから、どの様なテーマを取り上げても、一つの手塚論を語ることが可能である。マンガからのアプローチというと夏目房之助が有名であり、代表的であるが、残念ながらその域を超えたものではない。目新しい論が見られず、既成の枠内に収まっているままである。
 手塚治虫が訴えたかったメッセージはあまりにも多い。我々はそのメッセージをいかにして読みとるかが求められている。




対論佐木隆三 永守良孝『事件1999-2000』(葦書房)

 作家佐木隆三と毎日新聞西部本社編集局長兼論説委員永守良孝が毎月様々な事件について対談したものを纏めたもの。1999年10月から毎月1回、毎日新聞(西部版)に掲載された対談「マンスリー事件簿」に加筆、注記を加えている。
 どちらも事件ウォッチャーとしてベテランであるため、様々な事件に対し、特に偏ることなく論じられており、素直に読むことが出来る。
 警察不祥事、少年犯罪、通り魔、保険金殺人、ストーカー……どんどん事件が凶悪化している現代を見ると、本当に21世紀をまともに過ごすことが出来るのか、不安になってくる。様々な組織・体制を一度解体し、組み立て直す必要があると思うが、日本人って民衆が革命を起こしたりすることなく、ただ上意下達を守っているばかりの人種だから、無理だろうなあ。




乙一『失踪HOLIDAY』(角川スニーカー文庫)

 六歳で母が再婚したため、大金持ちの娘となった「菅原ナオ」。しかし母は二年後に亡くなり、それから六年後、父はキョウコと再婚した。ところがどうも最近、部屋の中に誰かが入った違和感がある。犯人はキョウコに違いない。キョウコとナオは仲が悪かった。そんな違和感が続くにつれ、ナオは敵愾心を感じた。しかし証拠がない。しかも些細なことでまたもケンカをした。そこでナオは家出をすることにした。中学二年の冬休みに入った日のことだった。家出先は、住み込みで働く使用人の「離れ」の建物。ちょっと動きがとろい使用人楠木クニコの三畳の和室に居座ることを決め、張り込みを行うことにしたのだ。一応、友達の家にいるということにして手紙を出したから、両親も一向に探そうとしなかった。しかし、13日経っても何の変化がない。しかも両親は小母さんとと楽しく団らんしている。腹が立ったナオは狂言誘拐を思いつき、強迫状を出すことにしたのだが、自体は思わぬ方向に流れていって……。
 他人と接することが苦手な大学新入生の「僕」と、「僕」の住む家で殺された女性の幽霊、そして子猫の物語、短編「しあわせは子猫のかたち」を併録。

 「失踪HOLIDAY」の方はさすがに設定がナンセンス。いくら友達の家にいるからという手紙が来たからと言って、中学二年生の女の子が2週間も連絡をよこさないという時点で親が心配しないというのがとても信じられない。特に誘拐されたと知った時点での両親の心配ぶりと比較すると、あまりにもギャップがありすぎる。しかし、あえてその設定に目を瞑ることが出来たら、面白く読むことが出来る誘拐ものである。舞台設定も人物描写も荒い。誘拐事件における警察の捜査、誘拐計画も杜撰である。ただ、主人公である菅原ナオのきらめき。その魅力的な存在と、何もかもが対照的であるが故に逆に心に残る楠木クニコ。この二人の存在が物語を成立させており、面白い青春小説に仕上がっている。ただ、デビュー作の鮮烈さに比べたら色褪せた感は拭えない。むしろ短編「しあわせは子猫のかたち」の方に、作者の才能を感じさせられた。
 まだまだ面白い小説を書ける才能であると信じている。まだまだ作者は若い。これからに期待したい。



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