結城昌治『ゴメスの名はゴメス』(光文社文庫 結城昌治コレクション)

 失踪した前任者・香取の行方を探すために、内戦下のサイゴンに赴任した坂本の周囲に起きる不可解な事件。自分を尾行していた男が「ゴメスの名は…」という言葉を残して殺されたとき、坂本は、熾烈なスパイ戦の渦中に投げ出されていた。香取の安否は? そして、ゴメスの正体は? 「不安な現代」を象徴するものとして、スパイの孤独と裏切りを描いた迫真のサスペンス!(粗筋紹介より引用)
 1962年4月、早川書房より日本ミステリ・シリーズ第四巻として書き下ろし刊行され、その後数回改稿された、日本スパイミステリの金字塔。

 日本のスパイミステリ史を語る上では外すことの出来ない、そして今でもトップの位置に燦然と輝く傑作。角川文庫版で読んだのがもう20年以上も前であり、久しぶりの再読になる。スパイミステリをほとんど知らなかった当時とは違い、色々なミステリを読んだ今になってこの作品を読み返すのは結構勇気を必要とした。当時は傑作だと思っていたのだが、今読むと古びているのではないか、と。幸い、そんな心配は裏切られたのでホッとした。
 戦争などの舞台で活劇シーンを交えて活躍するスパイと異なり、スパイ本来の持ち味である地味で、そして孤独な姿を投影した本作品は、舞台こそまだ南北に別れていた頃のベトナムであるとはいえ、今読んでも全く色褪せない傑作である。ただ、登場人物の内面や舞台の複雑さについて必要以上にページを費やしている今の小説に比べると、物足りなさを感じる人がいるかもしれない。しかし、本来語られていない行間に隠された様々な想いを読み取ろうとすることが、本作の楽しみではないだろうか。
 傑作はいつ読んでも傑作。幸いこの作品については、そう言うことが出来たのでホッとしている。
 光文社文庫から出ているコレクションシリーズは、装丁がすぐに色褪せそうで気に入らないのだが、それを除けば満足なシリーズだと思うので、出来る限り買い続けようかと思う。




高木彬光『刺青殺人事件 新装版』(光文社文庫)

 東大医学部のうす暗い標本室に並ぶ、刺青をした胴体。不気味な色彩で浮かび上がる妖術師「大蛇丸」。この一枚の人皮から、恐ろしい惨劇が始まった。密室殺人と妖しく耽美な世界に神津恭介が挑む、戦後本格推理小説の礎となった処女長編。デビューにいたるまでを綴ったエッセイや、最近発見された初期の未発表短編「闇に開く窓」を収録。(粗筋紹介より引用)
 1948年5月、岩谷書店より刊行。戦後の本格探偵小説のブームの一端を担った、作者の輝かしいデビュー作。

 この作品の素晴らしさについては、私のような凡人が今さら語る事はないと思う。『本陣殺人事件』『蝶々殺人事件』『獄門島』の横溝正史、『高木家の惨劇』の角田喜久雄のような戦前デビュー組だけでなく、高木彬光のような戦後派新人が先頭を走ることにより、本格探偵小説ブームは隆盛を極めたのだと思う。占い師に示唆されたデビューという伝説も含め、作者がいなかったらここまで戦後の本格探偵小説ブームが拡がっただろうか。そう考えると、この作品は日本ミステリを語る上で重要な位置を占めるものと思われる。
 本作は後に書き足されたバージョンである。とはいえ、文章のあちらこちらに、若書きと思いたくなるような筆の走りが見えるのは、処女作であることも含め仕方がないことだろうか。完成度という点では後に書かれた数多くの作品の方が上である。しかし、刺青というインパクト、神津のカリスマ、機械的+心理的密室の素晴らしさは、本作品を名作の位置まで押し上げるのに相応しい仕上がりであると言ってよいだろう。
 とはいえ、過去に10回以上も読んだことがあるので、今読み返すのはさすがに退屈な部分があったというのは否定しない。後に書かれた高木彬光の名作群はそんなことがないので、若書きな部分があるというのはやはり間違いないだろう。読んだことがない人は、歴史的な作品というだけでなく、本格ミステリとしての要素が全て入った傑作という意味とともに、勢いに任せて書いてしまったことの恐ろしさを知るというためにも、手に取ってみるべきだと思う。
 同時に収録されている未発表短編「闇に開く窓」は、未発表なのは正解だったと思わせる程度の出来。まあ、未発表作品を読めれば幸せ、程度の感覚でいればよいだろう。



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