ロバート・ゴダード『千尋(ちいろ)の闇』上下(創元推理文庫)

 一九七七年の春、元歴史教師のマーチンは、三十を迎えて職もなく、友人宅に居候を決め込んでいた。ポルトガル領マデイラに住む悪友から、遊びにこないかと誘う手紙が舞い込んだのは、そんな折りのことである。いづらくなっていた頃合いでもあり、瓦と柳細工の地へマーチンは赴く。思えば、それが岐れ目だった。到着の翌日、友人の後援者である実業家に招かれた彼は、謎めいた失脚を遂げた半世紀以上前のある青年政治家にまつわる、奇妙な逸話を聞かされることになったのだから……! 稀代の語り部が二重底、三重底の構成で贈る、騙りに満ちた物語。(上巻粗筋より引用)
 一九〇八年に成立したアスキス内閣において、チャーチルやロイド・ジョージとともに若くして大臣に抜擢された、新進気鋭の政治家ストラフォード。晩年このマデイラに引きこもった彼は、大部の回顧録(メモワール)を残した。確たる理由もなく婚約者に去られ、閣僚の座を追われた経緯を顧みながら、彼は改めて問う――なぜだ? 歴史の闇に立ちすくむストラフォードを思い、元教師マーチンは、いにしえの謎に踏み入ることにした。一編の回顧録を手がかりに、埋もれていた絶望が、悪意が、偽りが焙り出されていく。物語は、運命の転変が鮮やかに立ちあがる終幕へ。(下巻粗筋より引用)
 英国の人気作家、ゴダードが1986年に発表した処女作。1996年翻訳。

 例によって例のごとく、ダンボールの底から出してきた一冊、いや二冊。このミスで評判がよかったから買ったんだったかな。これは買ってすぐ読むべきだった。面白い。一気に読んじゃったよ。
 若き政治家ストラフォードの栄光と挫折を書いた回顧録そのものも面白いし、その謎を元歴史教師のマーチンが追いかける展開もハラハラドキドキ。真相が見えてきたと思ったら突き落とされる衝撃の事実。絶望の裏にあった意外な真相。新たに立ちはだかる謎。衝撃の結末。とても処女作とは思えない完成度。ストラフォードの謎だけでも十分面白いのに、さらに現代にまで謎が広がるその発想力。主人公であるマーチン自身の過去やロマンスすらも物語へ巧みに織り込むその構成力。人が持ち合わせる愛情、信頼、友情、憎しみ、裏切りなどを全て詰め込んだ大河サスペンス。全てが一点に集中するクライマックスと、余韻が続く静の結末。どれをとっても傑作の名に相応しい。
 もう一度書くが、買ってすぐに読むんだった。これほど後悔したのも久しぶりである。若島正の解説もオススメである。
 なおタイトルの「千尋」を、訳者の幸田敦子はちいろと読ませている。原題はPAST CARINGであり、「千尋」とは関係ない。再版では幸田敦子がその理由を書いている。




大沢在昌『氷の森』(講談社文庫)

 私立探偵緒方洸三の敵は、罪の意識を一切感じないで他人の弱味を握り、野望達成へと突き進む特異な犯罪者だった。ヤクザすら自在に操り、平然と殺人を犯しながら姿を見せようとしない“冷血”な男との闘いに、緒方も血だらけになって挑む。「新宿鮫」の原点となる鮮やかなハードボイルド・ミステリー!(粗筋紹介より引用)
 1989年4月、講談社より書き下ろしで刊行。1991年、ノベルス化。1992年、文庫化。

「『新宿鮫』の原点になるハードボイルドミステリー」と書いてあるのだが、この惹句はやや疑問。大沢在昌は元々ハードボイルドを書き続けていた作家だし、この作品が特別というほどのことでもない。大沢のことだから、この作品が売れればシリーズ化を考えただろう。
 主人公である私立探偵緒方洸三は、どちらかといえば私立探偵像のステロタイプそのものであり、一作読む限りでは構わないがそれほど魅力的と言える人物ではない。ストーリーはテンポこそよいが、姿を見せない人物を追うという展開のわりには軽さが目立つ。暗い過去を背負う人物ばかりが登場し、事件もかなり重いものを背負っているのに、この軽さは非常にマイナス。「特異な犯罪者」がなぜそこまで影響力を持っているのか、全然納得できなかった。恐ろしさも伝わってこない。当時の描写力に問題があったのか、それともあえて読みやすさだけを選んだのか。
 娯楽として読むのなら問題ないが、ハードボイルドとしてはもっと深みがほしかったところである。最後は駆け足すぎ。もう少しページを割いてほしかった。
 作品とは関係ないが、解説の関口苑生。つまらない大沢論はどうでもいいから、もう少し作品のことをきちんと語れよ。




ルース・レンデル『荒野の絞首人』(角川文庫)

 風に伏しなびく苔桃やヒースの茂み。刻々と移りかわる空を背に黒くそびえたつドルメン岩。靄のヴェールをかぶった小高い山々。この荒涼たる原野(ムーア)がスティーヴンの恋人だった。彼こそがこの土地の君主なのだ。幼い頃から山に登り、廃坑の坑道を探検し、彼は原野の隅々まで知りつくしていた。
 その荒野で起きた異常な殺人事件、それに最初に気づいたのもスティーヴンだった。金髪を丸坊主に刈りとられた若い女の死体を見つけたのだ。彼の原野を侵す何者かが現れた……。
 やがて発見された第二の死体も、金色の髪を刈りとられていた。そしてスティーヴンは、見棄てられた坑道の奥に奇妙なものを見つけたのだが……。(粗筋紹介より引用)
 1982年作品。1985年翻訳。

 例によってダンボールの奥底にあった一冊。『わが目の悪魔』や『ロウフィールド館の惨劇』はそれなりに面白く読んだ記憶があった(どちらかと言えば前者が好き)し、この作品も評判になったよななどと昔を思い出しながら読んでみたのだが、がっくり。うーん、出来云々じゃなくて、肌に合わない。訳したのが、私の嫌いな小泉喜美子だからか(すごい偏見)。
 狂気という下り坂をゆっくりゆっくり転がり落ちていく作品なのだが、なんなの、この退屈さは。たぶんね、この作品はじっくりねっとり読むのがベストだと思うのだが、自分にそんな余裕がないことも原因かな。まどろっこしくて耐えられない。荒野という舞台が読んでいる自分の心をも荒らしているようだ。それもじわりじわりと。英国サスペンスってこういうところがあるよね、たぶん。
 精神状態が落ち着いているときにしかおすすめしません。それもこういう心理サスペンスが好きな人だけ。



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