今野敏『初陣―隠蔽捜査3.5』(新潮社)

 伊丹俊太郎は、3年間務めた福島県県警本部刑事部長から警視庁刑事部長に抜擢され、4月1日には転勤する予定となっていた。私立大学卒業でキャリアの中でも反主流派である伊丹にとって、キャリアの中でも主流である薩長閥を嫌う福島県警は居心地の良い場所であった。しかし、殺人事件が発生。現場主義を貫く伊丹は捜査本部に詰めるが、後任のキャリアは現場を顧みないため、全く噛み合わない。事件解決と転勤のどちらを選択するか、伊丹は悩む。「指揮」。
 伊丹が警視庁の刑事部長へ赴任して一週間が経った。マスコミで騒がれている警察の裏金問題が国会で取り上げられ、警察庁長官の答弁を竜崎伸也が作成することとなった。東大法学部卒の主流派キャリアであり、警察庁長官官房総務課の広報室長から課長へ昇級して初めての仕事となる竜崎は、裏金問題の実態について、福島県警時代のことを伊丹へ問い合わせる。「初陣」。
 二泊三日の休暇を取った伊丹は、群馬県の伊香保温泉へ一人で出かけた。しかし大森署管内で殺人事件が発生。しかも竜崎署長は、本庁捜査一課の捜査本部設置を拒否し、自らのやり方で事件を解決すると言い出した。「休暇」。
 警務部から、捜査二課の現職刑事が参議院選挙時に選挙違反のもみ消しを図ったとの連絡が入った。しかも伊丹と親しい白峰警部補であり、警務部長は伊丹の意見を参考にして処分を決定すると言ってきた。白峰からよく話を聞くと、どうも微妙な案件だったが、問題の参議院議員は、与党の実力者である伊東耕助衆議院議員の元秘書だった。さらに伊丹の下へ、伊東から食事の誘いがかかってくる。伊丹は友人をどう裁くべきか。「懲戒」。
 流行のインフルエンザにかかった伊丹。無理矢理出勤したはいいが、荏原署管内で殺人事件が発生。ところが署内ではインフルエンザで約半数が休んでいて、人手がそろわない。しかも隣接する品川署、田園調布署でも同じ状態。唯一、人員がそろっていたのは大森署だった。伊丹は竜崎に応援を要請する。「病欠」。
 碑文谷署管内で連続放火事件が発生し、容疑者が逮捕された。物理的な証拠はいくつか見つかっていたが、その容疑者は否認。さらに留置中、新たな放火事件が発生し、現行犯で逮捕された人物は、過去の事件も自分が犯人であると自供した。先の容疑者は誤認逮捕だったのか。苦境に追い込まれる伊丹は、竜崎に電話をかけた。「冤罪」。
 連続強盗事件の指名手配犯を大森署で掴まえたと聞き、伊丹は竜崎に電話をかけた。すると竜崎から、なぜ自分がアメリカ大統領来日時の方面警備本部長を命じられたのかを知りたいから、藤本警備部長に直接問い質したいから渡りを付けてほしいと頼まれる。伊丹は藤本警備部長と会い、今回の人事の目的を聞かされる。それから二か月後、伊丹は藤本から、畠山美奈子という女性キャリアを紹介された。「試練」。
 事故死として処理した事件が、実は殺人事件であると別の事件の容疑者が自白した。車両同士の事故の対処で、運転手が係員の態度に腹を立て、大森署を訴えると言っている。窃盗事件で捜査員が話を聞いていた相手が実は犯人で、しかも逃げられてしまった。大森署で同時に起きた三つの問題。しかもそのうちの2件は、第二方面本部の野間崎管理官が、自らのところで報告を押さえていた。伊丹は慌てて大森署へ駆けつけるが、当の竜崎は平然とはんこ押しの仕事を続けていた。「静観」。
 『小説新潮』に2006年から2010年にかけて断続的に発表。2010年5月、単行本化。人気シリーズのスピンオフ作品。短編集では時系列で並べられているが、発表順はばらばらである。

 警視庁刑事部長・伊丹俊太郎を主人公とした短編集。といっても、ほとんどで伊丹が悩んだり苦境に追い込まれたりして、竜崎に助けを求める展開ばかり。こうしてまとめて読むと、なぜ伊丹が刑事部長まで出世できたのだろうとまで思ってしまう。まあ、竜崎が左遷されたのは息子の不祥事が理由であって本人自身のミスによるものではないし、元々は竜崎の方が出世していたのだから、こういう展開も仕方がないのかも知れないが、この伊丹の姿はちょっと情けない。
「試練」を除くいずれの短編も、伊丹の悩みを竜崎が原則主義と合理的思考に従って解決への道筋を与えてしまうのだから、伊丹の目から見ると、竜崎新也がスーパーマンに見えてしまうのは仕方がないのか。長編では逆に、竜崎の方が伊丹に嫉妬しているのだから、二人の関係というのは実に面白い。ただ、もう少し伊丹が強いところを短編でも見せて欲しかった。
「試練」は、長編『疑心―隠蔽捜査3』の裏話ともいえる短編。むしろこういう作品の方が、二人の長所と短所を浮かび上がらせているので、個人的にはこの系統の作品も書いて欲しいと思う。
 それと、「病欠」で戸高のみインフルエンザにかかってしまうところなど、さりげないところでクスッとしてしまうような描写が実にうまい。
 この短編集はスピンオフであり、いずれも過去の3長編を読んでいないと、面白さが半減する。逆に読んだ方からとしたら、実に面白い短編集である。ただ、キャラクター小説と化すのは勘弁してほしいな。




大下宇陀児『奇蹟の扉』(春陽文庫)

 画家の江崎良造は、異母妹の淑子が自分を愛していることも知らず、銀座裏の酒場で見つけたモデル久美子のあやしい美しさに魅せられて結婚してしまった。が、久美子の過去には何か秘密があるらしい。江崎は次第に妻の行動に疑問をもちはじめた。江崎の知人、伊豆原浩を紹介された久美子は、一瞬、幽霊でも見たようにまっさおになってしまう。そして、この夜、一発の銃声が江崎邸にひびきわたった。人々が駆けつけたとき、久美子は白い寝衣を血に染めて、ベッドの上に息たえていた。右手の指先に一丁のピストルが落ちていたが、自殺か他殺か……久美子をめぐる男たちのなぞが次第にあばかれていく。江戸川乱歩、横溝正史と並んで戦前の推理小説ファンを魅了した著者の代表的傑作。(粗筋紹介より引用)
 1932年7月、新潮社の「新作探偵小説全集2」として書き下ろし刊行。1959年2月、春陽文庫化。

 書き下ろしで刊行された「新作探偵小説全集」(新潮社)では、甲賀三郎『姿なき怪盗』、浜尾四郎『鉄鎖殺人事件』といった作者の代表作といえる作品が出ている反面、江戸川乱歩『蠢く触手』といった代作も出ており、全体としての評価は微妙か。
 手元にあるのは1976年9月発売の第10版で、古本屋の書き込みもないから、当時春陽文庫の古いものを置いていた近所の本屋で買ったものと思われる。購入当時に読んでいたのだが、本を整理している途中で出てきたので、懐かしくなって再読。こうして読むと、当時は結末の意外性ばかりに目を引かれていて評価も今一つだったが、今改めて読むと、男女の愛憎劇という面の方が強い作品であり、意外に面白かった。
 久美子が死んだ夜は、かつて同棲相手で自殺した伊豆原修の兄、浩が友人である江崎を訪れており、さらにかつての亭主で前科者、しかも別の強盗事件で警察に追われている坂田四郎が押しかけてきたので屋敷の三階に匿っている状態。異母妹である淑子は江崎に密かに惚れていて、江崎家と親しい老医師芹沢の息子である医者の新一は淑子にプロポーズするも断られている状況。まあ、よくもこれだけこんがらがった状態の夜に、都合良く事件が起きるものだ、という冗談はさておき、登場人物の様々な思惑が、事件を不明瞭なものとし、謎が徐々に色濃くなってゆく。
 探偵役である芹沢新一は、プロポーズを断られた腹いせで事件の謎解きに挑む。そう、この作品は、大下宇陀児にしては珍しい、本格探偵小説の形式となっているのだ。謎があり、手掛かりが残され、そして探偵役が論理的に謎を解こうとする作品なのである(まあ、トリックの出来についてはとやかく言うまい)。それにしても、これほど動機が不純で、正義とかけ離れた、そして性格の悪い探偵役がいただろうか(もちろん、探偵=犯人は除く)。どことなく皮肉も感じられる作品なのだが、宇陀児は自分なりの本格作品に挑んでみたら、このような作品ができあがっただけなのだろう。色々な意味で、現代の昼メロドラマっぽい波瀾万丈の展開になっているのは、この作品の書かれた時代を考えると、皮肉としかいいようがない。ある意味、早すぎた作家だったといえる。
 一時期、大下宇陀児全集が三一書房で検討されていたようだが、いつの間にか立ち消えになってしまった。確かに通俗作品も多いだろうが、大下作品の選集やベストセレクションすら一度も編まれていないというのは、戦前に乱歩と並ぶ人気作家だったという実績から考えてもおかしいと思う。ここらでどこかの出版社が、手を挙げないだろうか。




北村薫『盤上の敵』(講談社文庫)

 我が家に猟銃を持った殺人犯が立てこもり、妻・友貴子が人質にされた。警察とワイドショーのカメラに包囲され、「公然の密室」と化したマイホーム! 末永純一は妻を無事に救出するため、警察を出し抜き犯人と交渉を始める。はたして純一は犯人に王手をかけることができるのか?誰もが驚く北村マジック。 (粗筋紹介より引用)
 小説現代別冊『メフィスト』に1998年5月~翌年9月まで5回連載された作品に加筆修正を加えたもの。1999年9月、講談社より単行本が刊行。2001年10月、ノベルス化。2002年10月、文庫化。
 タイトルはエラリー・クイーン『盤面の敵』からによる。

 出版された当初から話題になっていた、ノンシリーズ長編作品。当時、北村作品は全て単行本で購入して読んでいたはずなのに、なぜか買うのをためらった作品だった。今回初めて読んでみて、その理由がやっとわかった。面白くないという直感が働いたからだった。
 作者がノベルス版で「今、物語によって慰めを得たり、安らかな心を得たいという方には、このお話は不向きです」と断っているとおり、これまでの北村作品では有り得ないような、救いようのない悪意を持つ人物が登場する。確かに読み終わっても、思い出すだけで嫌になるような人物だ。そういう点でも「読まなければよかった」と思わせるような作品ではあるのだが、本作品で面白くなかったのはその点ではない。
 粗筋紹介で書かれている「北村マジック」が、私には全く感心できないものだったのだ。
 本作品は、白のキングである主人公が、白のクイーンを救い出すべく、色々と動く作品である。物語は、白のキングの行動と、白のクイーンによる回想が交互に並べられ、キングとクイーンの話から、“盤上の敵”が鮮やかに浮かび上がってくる。その手法や構成、最後の“北村マジック”に至るまでの手腕はすごいと思う。ただ感心しないのは、事件発生に至る偶然性や後始末はどうするかといった点も含め、都合がよすぎるとしか思えないところだ。将棋の例えで言うと、相手(読者)は普通に並べているのに、自分(作者)だけ都合の良いように駒を配置し、さらにそれを目隠し将棋よろしく隠しているところである。
 そんなことを言ったら、どのミステリでも一緒じゃないの、と言われそう。だが普通の本格ミステリなら「あっ、やられた」と膝を打つのだが、本作品は「何だよ、これ」と呆れてしまったのである。本格ミステリが100%フェアでなければいけないというつもりはないし、叙述ミステリならほとんどは作者の都合に合わせて書いているだろう。そんなことは十分わかっているのだが、それを抜きにしたところで全く感心しなかった作品だったのである。なんだろうね、この読後感。まあ、少なくとも本格ミステリじゃないでしょう。「論理的」謎解きなんかないのだから。
 ということで、多分本能でこの作品を避けていたのだろうなあ。そのまま従っていればよかったのに……と今更ながら後悔。いや、ほとんどの人が絶賛している(ですよね)作品を、こんな感情的なことで貶すのもどうかなあ、と思うんだけど、そういう読後感なのだから仕方がない。




佐々木譲『笑う警官』(ハルキ文庫)

 札幌市内のアパートで、女性の変死体が発見された。遺体の女性は北海道警察本部生活安全部の水村朝美巡査と判明。容疑者となった交際相手は、同じ本部に所属する津久井巡査部長だった。やがて津久井に対する射殺命令がでてしまう。捜査から外された所轄署の佐伯警部補は、かつて、おとり捜査で組んだことのある津久井の潔白を証明するために有志たちとともに、極秘裡に捜査を始めたのだったが…。北海道道警を舞台に描く警察小説の金字塔、「うたう警官」の文庫化。(粗筋紹介より引用)
 2004年12月、『うたう警官』のタイトルで角川春樹事務所より単行本で発売。2007年5月、文庫化にあたり改題。

 改題したのは、映画化時の監督である角川春樹の助言によるものらしいが、何が「笑う」なのかさっぱりわからず、元のタイトルである「うたう」(警察用語で自白を意味する)の方がよっぽどよかったと思う。やっぱりタイトルは作品の顔なのだから、安易な改題はよくない。
 本作品は、作者の道警シリーズ第1作。組織的「やらせ捜査」疑惑も持ち上がった稲葉事件と、道警裏金事件にヒントを得て書かれたという。本作品の発端となった事件は稲葉事件と重なるところがあるし、主人公である佐伯警部補や、容疑者として追われる津久井巡査部長が行った「おとり捜査」については、稲葉事件で捕まった稲葉元警部の経歴にもつながるところがある。
 ストーリーは、佐伯が有志とともに、ミス道警と呼ばれた女性巡査殺害の容疑をかけられ射殺命令を出された元恋人の津久井を、翌日開かれる道議会の百条委員会に証人と出席するまで匿い、同時に真犯人を一晩で探す、という展開である。タイムリミット・サスペンスの要素もあるせいか、展開は極めてスピーディーで、ページをめくる手は早い。ただ、佐伯、津久井、若手の新宮刑事、総務係の女性小島を除くと、誰が誰なんだかさっぱりわからない。もう少し書きようがあったのではないかと思う。その不満を除けば、結末に至るまでは面白く読めた。
 ただ、読み終わってみると不満点も多い。そもそも、この容疑でSATが出てくることが信じられないし、射殺命令を出すこと自体もおかしい。それを不思議に思わない警察官がいることも異常だ。また、表にばれず、簡単に犯人に辿り着くという展開も、よくよく考えてみると都合良すぎ。真犯人は簡単に自白するし、その後の佐伯たちの行動にも疑問点が多い。ラストもちょっとわかりづらい終わり方である。それにあんな場所で派手な騒ぎを起こして、秘密を覆い隠せるとでも思っていたのだろうか。1日で全てを終わらせるために、色々な疑問点・矛盾点を押し込めてしまった感がある。安っぽいドラマならこれでいいかもしれないが、佐々木譲にこんな作品を書いてほしくなかった。
 シリーズものにするため、このような作りにしたのかもしれないが、道警の、というか官僚の闇を暴こうという警察小説を書きたいのであったなら、ここはもっとじっくり書いてみても良かったと思う。せっかくの題材を、安っぽく料理して終わった感が強い、残念な作品。



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