有栖川有栖『鍵の掛かった男』(幻冬舎)

 2015年1月、大阪・中之島の小さなホテル"銀星ホテル"で一人の男・梨田稔(69)が死んだ。警察は自殺による縊死と断定。しかし梨田の自殺を納得しない人間がいた。同ホテルを定宿にする女流作家・影浦浪子だ。梨田は5年ほど、銀星ホテルのスイートに住み続け、ホテルの支配人や従業員、常連客から愛され、しかも2億円以上預金残高があった。影浦は、その死の謎の解明をミステリ作家の有栖川有栖とその友人の犯罪社会学者・火村英生に依頼。が、調査は難航。梨田は身寄りがない上、来歴にかんする手がかりがほとんどなく人物像は闇の中で、その人生は「鍵の掛かった」としか言いようがなかった。生前の彼を知る者たちが認識していた梨田とは誰だったのか? 結局、自殺か他殺か。他殺なら誰が犯人なのか? 思いもしない悲劇的結末が関係者全員を待ち受けていた。"火村英生シリーズ"13年ぶりの書き下ろし! 人間の謎を、人生の真実で射抜いた、傑作長編ミステリ。(帯より引用)
 2015年10月、書き下ろしで刊行。

 火村英生シリーズとしては『マレー鉄道の謎』以来13年ぶりの書き下ろし長編。連載を含めても『乱鴉の島』以来9年ぶりの長編である。定期的に本屋で見かけるから、まさかこんな長い期間、長編を出していないとは思わなかった。
 火村が入学試験で忙しいことから、有栖川が単独で調査を行っている。今回は事件と言うよりも、亡くなった男の過去を探す物語であり、どちらかと言えば私立探偵物の趣がある。中之島の描写が多い点は、旅情ミステリに近いかもしれない。
 そのような設定であるから、当然展開は地味である。しかし、少しずつ解かれていく展開は丁寧に書かれており、読者を飽きさせない。とはいえこの辺は好みがあるだろうし、退屈に感じる読者もいるだろう。まあ、もう少し短くしてもよかったんじゃないかとは思うが。
 真打ち登場、みたいな形で最後に事件へ乗り出した火村によって、梨田の死の真相と意外な結末が待ち受ける。とはいえ、結末については伏線が張られているわけではなく、やや唐突な感がある。このあたりについては、惜しい、といわざるを得ない。
 火村も有栖も34歳のまま、というのはどうかと思うし、さり気なく火村の闇の部分とそれに対する有栖の思いが書かれているのは、今後の伏線だろうか。今回の小説には不要だった気もするが。
 久しぶりに火村シリーズを読んだが、安定の面白さがある力作である。どうせなら短編でもう1回、このホテルに登場してもらいたい気がする。




深水黎一郎『最後のトリック』(河出文庫)

 「読者が犯人」というミステリー界最後の不可能トリックのアイディアを、二億円で買ってほしい――スランプ中の作家のもとに、香坂誠一なる人物から届いた謎の手紙。不信感を拭えない作家に男は、これは「命と引き換えにしても惜しくない」ほどのものなのだと切々と訴えるのだが……ラストに驚愕必至! この本を閉じたとき、読者のあなたは必ず「犯人は自分だ」と思うはず!?(粗筋紹介より引用)
 2007年4月、『ウルチモ・トルッコ 犯人はあなただ!』で第36回メフィスト賞を受賞し、講談社ノベルスより刊行。2014年10月、改題、全面加筆修正の上、河出文庫より発売。

 本格ミステリで残された「最後のトリック」とも言える「読者が犯人だ」に挑んだ作品。ある意味、こういうやり方があったのか、とは思ったけれど、厳密に言えば読者が殺人の実行者、というわけでは無いので、肩すかしを食らった感が強い。さらに言えばこのトリック、とある能力が必要とされるので、ずるいと言われても文句は言えないだろう。そもそも、こんな経緯のある新聞連載、本にする出版社があるか? その時点で破綻していると思うのだが。
 これで小説が面白ければ、まだ救いがあったのだが、はっきり言ってつまらない。本筋ではない「超能力」の実験や説明のところが半分近くを占め、これがまた読んでいて退屈なのだ。よっぽど飛ばそうかと思ったぐらい。"謎の手紙"の内容もつまらないし、どこも面白いところがない。わずか一つのトリックを成立させるために、つまらないページを積み重ねたと言っていいだろう。
 「読者が犯人だ」トリックに挑んだ、以外に何も言うことがない作品。このトリックにわくわくしてどんな内容でも許せる、という読者以外には何の面白みもない。まあ、話のネタにしたい人はどうぞ、程度のものである。メフィスト賞以外だったら、誰も見向きもしなかったはず。




岡嶋二人『コンピュータの熱い罠』(光文社文庫)

 夏村絵里子はコンピュータ結婚相談所のオペレータ。データを見たいという女性の申し出を断った翌日、その女性が殺された! 疑問を抱いた絵里子はデータを調査、システム上で何かが動いていることを知る。プログラムに隠された巨大な陰謀。そして次の犠牲者が……!?
 情報化社会に警鐘を鳴らす、著者得意のハイテク・サスペンス!(粗筋紹介より引用)
 1986年5月、カッパノベルスより書き下ろし刊行。1990年2月、文庫化。

 久しぶりに手に取った岡嶋作品。代表作はほぼ読んでいるが、それなりに好評だった作品はほとんど読んでいない。ということで、家にあった一冊を取り出してみた。  当時のハイテクを駆使した、井上泉色が濃厚な一冊。フロッピーディスクや音響カプラなどはさすがに時代を感じるが、取り扱われているデータの使用方法や結婚問題は現在でも十分通用する内容。逆に言えば、時代を先取りしすぎた作品だったかもしれない。
 当時のコンピュータ技術がわからない人でも説明が過不足無く入っているのでわかりやすいし、物語の流れに沿った書き方になっているので、読者の興味を削ぐようなことが無いのもさすが。少しずつ謎が明かされると、さらに継の事件が起きて読者の興味を引き続ける書き方も、手慣れたもの。長さも手頃だし、一気に読み終えることができる。
 問題は、ヒロインに魅力が無いことかな。ちょっと間抜けすぎるし、殺された人も含め、メモぐらい残さんのかい、とは言いたくなる。まあ、最後のエピソードはちょっと格好良かったが。
 割と地に着いた題材のトリックを使っていたためか、今読むと古くさいところもあるのは仕方が無い岡嶋作品だが、中身を取ってみれば、今でも十分読み応えがある。当時は職人色が強かった岡嶋二人だが、ミステリブームの頃に出ていれば、もっと売れっ子になっていたのかもなあ、と当時考えていたことを思い出してしまった。




藤原伊織『シリウスの道』上下(文春文庫)

 大手広告代理店・東邦広告に勤める辰村祐介には、明子、勝哉という2人の幼馴染がいた。この3人の間には、決して人には言えない、ある秘密があった。その過去が25年の月日を経た今、何者かによって察知された……。緊迫した18億円の広告コンペの内幕を主軸に展開するビジネス・ハードボイルドの決定版ここに登場。(上巻粗筋紹介より引用)
 新規クライアントの広告コンペに向け、辰村や戸塚らは全力を傾注する。そんな中、3通目の脅迫状が明子の夫の許に届いた。そして勝哉らしき人物が上野近辺にいることを突き止めた辰村は、ついに行動を起こす! 広告業界の熾烈な競争と、男たちの矜持を描くビジネス・ハードボイルドの結末は?(下巻粗筋紹介より引用)
 『週刊文春』2003年11月6日号~2004年11月23日号連載。2005年6月、文藝春秋より単行本刊行。2006年12月、文庫化。

 電通社員だった藤原伊織にとっては、まさに自分のフィールドでの作品ということもあり、広告をめぐる争いについてはリアリティがある。下手な作家ならここで専門的な内容をずらずら並べそうなところだが、さすがにそんな無様なまねはしないばかりか、スピード感にあふれるから、読んでいて目が離せない。一方では過去の秘密に絡む脅迫事件が出てきて、昔惚れた女と久しぶりの再会。酔っぱらいでヘビースモーカーな無頼の主人公なのに、やっぱり人間として魅力があるから、そばにいると惚れるんだろうね。ずるいというしかない。どんなに損なことでも己の美学に誠実だし、頭も切れるし、部下のこともしっかりと見ているから、男でも惚れてしまうよ、これは。
 『テロリストのパラソル』と世界が共通しており、ある登場人物が作中に登場。読者サービスの部分があるのは否定しないだろうが、こればっかりはこの人物が必要と判断してのことだろう。
 それにしても、タイトルもいい。「シリウス」の意味を知ったら、泣けてきた。エンディングまでの流れも巧いとしか言いようがない。下種な人物をここまでリアルに描いてしまうところも流石だ。
 他の登場人物も魅力的だし、セリフの言い回しなどの世界観も、まさにハードボイルド。やはりすごい作家だと改めて認識してしまう作品。ただ、女性が読んだらどう思うのだろう、という気もする。




リチャード・ニーリィ『殺人症候群』(角川文庫)

 生来内気で、仕事にも女にも引っ込み思案のランバート。すべてにおいて積極的で自信に満ち溢れたチャールズ。対照的な二人の男を結びつけたのは凄まじいまでの女性への憎悪だった。ランバートを愚弄した女性を殺害したチャールズは、やがて"死刑執行人"と名乗る残虐で大胆な連続殺人犯へと変貌していく――。殺人犯の歪な心理のリアルな描写と衝撃の結末。鬼才ニーリィによるサイコ・サスペンスの傑作。(粗筋紹介より引用)
 1970年、発表。1982年2月、角川書店より邦訳刊行。1998年9月、文庫化。

 評論家、瀬戸川猛資が名著『夜明けの睡魔』で絶賛していたニーリィ。『ミステリマガジン』で読んだ時は購入することができず、買おうと思った時にはすでに絶版になっていたのでどうしようもなかった。解説の千街晶之も同じようなことを書いていたが、そのような読者も多かったのではないか。角川文庫から出たときはすぐに買ったのだが、読むのは今頃。まあ、買っただけで満足してしまうということだ。
 折原一が大好きといっている時点でどのような作風かだいたい予想がつくというものだが、本作品もサイコ・サスペンスに仕掛けを施したもの。そういう意味では、日本でこのような作品が出てくるよりかなり早く、はっきり言えば先駆者である。もし綾辻行人が出版されてすぐに本作が訳されていたら、大絶賛されていたのではないだろうか。日本の読者から見ると、早すぎた作家である。
 本作は1938年にチャールズ・ウォーターが犯した連続殺人を綴ったもので、なぜ作者がそんな古い事件を取り上げているかは、最後まで読めばわかるようになっている。『ニューヨーク・ジャーナル』広告勧誘員家具付き部屋担当のランバート・ポストと、中途入社で同居するようになる同じ家具付き部屋担当のチャールズ・ウォルターの視点が交互に語られる。それと同時に、事件を追う同じ『ニューヨーク・ジャーナル』の事件記者、モーリー・ライアンの視点が挟まれる。
 ランバートは内気で臆病、ウォルターは派手な自信家。女性にバカにされたランバートの代わりにウォルターは復讐するため悪戯を仕掛け、遂には手にかけてしまう。そしてウォルターは次々と殺人に手を染めるようになっていく。このランバートがバカにされる描写や、ウォルターの殺人の描写が妙にエグイ。この辺が当時の日本の読者に受け入れられなかった点ではないだろうか。
 事件の真相は、ちょっと勘のいい人ならすぐにわかってしまうだろう。それでも読んでいて引き込まれてしまう展開の巧みさはなかなかのものだし、エンディングまでの流れは洒落ている。なぜ当時、もっと評判にならなかったのか、不思議で仕方がない。もし『このミス』があったなら、もっと売れていたんじゃないだろうか。単行本で出たという点も、あまり読者が手に取らなかった原因かもしれない。何とももったいない作家だった。




柳広司『ジョーカー・ゲーム』(角川文庫)

 結城中佐の発案で陸軍内に極秘裏に設立されたスパイ養成学校“D機関”。「死ぬな、殺すな、とらわれるな」。この戒律を若き精鋭達に叩き込み、軍隊組織の信条を真っ向から否定する“D機関”の存在は、当然、猛反発を招いた。だが、頭脳明晰、実行力でも群を抜く結城は、魔術師の如き手さばきで諜報戦の成果を上げてゆく……。
 吉川英治文学新人賞、日本推理作家協会賞に輝く究極のスパイ・ミステリー。(粗筋紹介より引用)
 『野性時代』掲載作品に書下ろしを加え、2008年8月に角川書店より単行本刊行。2009年、第30回吉川英治文学新人賞受賞。同年、第62回日本推理作家協会賞長編及び連作短編集部門受賞。2011年6月、文庫化。

 佐久間陸軍中尉は参謀本部の武藤大佐の命令により、結城中佐の発案で昭和12年秋に極秘に設置されたスパイ養成学校“D機関”へ連絡係として出向させられた。1年後、D機関には12人の学生が残った。佐久間は参謀本部から、スパイの容疑がかかったアメリカ人、ジョン・ゴードンの証拠をD機関のメンバーとともに見つけろと命令される。佐久間たちは憲兵隊に化け、ゴードンの家に踏み込むが、証拠は何も見つからない。「ジョーカー・ゲーム」。D機関設立が描かれた短編。陸軍中尉を出すことによって陸軍とD機関のメンバーとの違いを明確に浮き彫りにする設定は見事である。証拠となるマイクロフィルムの隠し場所についても、確かに盲点。タイトルもまた意味深だし、結末までの流れも面白い。傑作と言ってよい出来である。それにしても、当時の陸軍、というか軍隊って本当に馬鹿だったと思うし、新興宗教と何ら変わらないと思うのだが、今でもそれを認めない人はいっぱいいるのだろうな……。
 横浜の憲兵隊が捕らえた支那人の取り調べより、皇紀二千六百年の記念式典で、爆弾による要人暗殺計画が進んでいることが発覚。しかし具体的なことが分からないまま、拷問で支那人を死なせてしまった。捜査の結果、全ての監視場所に立ち入った人物がいた。それが駐横浜英国総領事アーネスト・グラハム。国際問題になることを恐れた陸軍参謀本部は憲兵隊の動きを押さえ、D機関に調査を依頼した。公邸に出入りしている洋服屋の店員蒲生次郎と入れ替わり、グラハムとチェスをする間柄になったが、蒲生の判断は、心証的にシロだった。ただし、0%ではなかった。「幽霊(ゴースト)」。状況はクロで心証はシロというねじれた現象の解明はなるほどと思わせる物であったが、いきなり蒲生がスーパースパイのような動きを見せるものだから、少々戸惑ってしまう。なにも、ここまで完璧でなくても。それにしても、当時でも情報合戦は恐ろしい、と思ってしまうが、考えてみれば戦国時代でも似たようなことをやっていたかと思いだした。当時の戦国武将たちは徹底したリアリストだったのに、なぜ日本の軍隊はロマンチストになったのだろうか。武士に対するアンチテーゼか。
 前田倫敦写真館の甥としてロンドンに入った伊沢和男だったが、かれはD機関所属のスパイだった。しかし、ロンドン駐在になったばかりの外交官、外村均が英国のセックス・スパイに引っかかり、簡単に伊沢の正体をしゃべってしまったため、伊沢は英国諜報機関に捕まってしまう。取り調べに当たったのは、英国諜報機関の元締めの一人であり、結城中佐を知る、ハワード・マークス中佐。もちろん伊沢は、D機関で敵に捕まった場合の対処方法を学んでいた。「ロビンソン」。伊沢が如何にして相手をだまし、逃げることが出来るかどうかという話だが、もちろんそれにも裏があった。それはともかく、ここまで対処できるスパイって、本当に化物だと思うのだが、そう思わせないのがスパイなんだろうなと思ってしまう。まあ、本当に出来るのかどうかなんて知らないが、さすがにそれぐらいは作者も調べているだろう。
 元特高刑事で、上海に派遣された本間英司憲兵軍曹は、陸軍参謀本部からも高く評価されている及川政幸憲兵大尉より、憲兵隊の中にいる敵の内通者を調べろを命令を受けた。前任者は三日前、巡回中に背後から銃撃を受け殺されていた。その命令を受けている途中、及川の家が爆破された。各国が複雑に絡み合う上海の租界警察から派遣されたジェームズ警部は、まともに捜査する気がない。翌日、知り合いの上海の日本人記者より、D機関に入った大学時代の同級生、草薙行人が地元中国人の服装をしているところを見かけたと聞かされ、さらにD機関は中国国内の民間秘密結社青幇(チンパン)と手を組み、偽造紙幣を上海に持ち込んで中国全土に流通させ経済崩壊を企んでいると知らされた。「魔都」。いくら憲兵隊とはきえ、D機関の存在を知られてしかも人物まで特定されてどうするのかと思ったが、そういう真相があったのかと読み終わって納得。D機関の人物を主人公にするより、こうやって事件の裏側に位置する立場にある方が、その存在感がより強まると思う。
 3年前、ドイツ有名新聞の海外特派員として来日したカール・シュナイダーは、連日酒宴と乱痴気騒ぎのパーティーを開いていたが、実は独ソの二重スパイだった。取扱いに困った各組織は、D機関に後始末を押し付けた。陸軍所属の飛崎弘行少尉は、大隊長に逆らって逆らって謹慎していたところを結城中佐にスカウトされ、卒業試験としてシュナイダーの調査を任された。飛崎は調査の結果、シュナイダーがドイツのスパイを演じながらも、実はソ連のスパイであった事を突き止め、日本国内のスパイ網を押さえた。あとはシュナイダーの身柄を確保するだけだったが、シュナイダーは死亡した。遺書が残っていたことから憲兵隊は自殺と結論付けたが、飛崎は自殺でなく、殺人の可能性があると指摘。D機関の面々は、調査を開始した。「XX(ダブルクロス)」。形的には密室殺人のように見えるのだが、それはさておいて、スパイとなる人物にも弱さ、盲点があったというのは、それはそれで面白い。

 今まで歴史上の人物を扱ったミステリを書いてきた柳広司が、初めてオリジナルの人物を主人公に据えた連作短編集。どちらかと言えば知る人ぞ知るといった作者が世に知られるきっかけとなったヒットシリーズである。スパイと探偵とは似て非なるものであるが、スパイ小説と本格ミステリは通じるところがある。手がかりや言動をきっかけに事件の真相に気づく点は、どちらも同じだ。そういう意味では、スパイ機関を連作短編集の主人公に据えるという設定は、ありそうであまりなかったものであり、よくぞ見つけてきたものだと思う。登場するD機械のスパイの面々が超人すぎるところがやや気にかかるものの、当時の不安定な世界情勢を基に活躍する姿は、読んでいて実に痛快。協会賞などの受賞も当然であろう。
 とはいえ、日本が戦争で負けたのは事実だし、諜報合戦ではお話にならなかったぐらいレベルが低かったのは歴史的事実。そことの整合性をどうとるかが、今後の課題だろう。そうしないと、ファンタジーの方向に流れてしまう。




東野圭吾『ガリレオの苦悩』(文藝春秋)

 銀行に勤める江島千夏が、マンションの自室から転落して死亡した。鍋で殴られた跡があったため、他殺の可能性もあると捜査。大学のテニス同好会時代の先輩であった岡崎光也が、勤める家具店のベッドのパンフレットを持って千夏の家を訪れ、帰宅途中に転落する場面を目撃したと告白。さらにそのとき、ピザ屋の店員とぶつかったと告げた。その店員は、岡崎とぶつかった時に千夏が転落したと証言。捜査本部は自殺と結論しようとしたが、内海薫は女性用下着が入った宅配便が玄関にあったことから、千夏と岡崎が不倫関係にあり、岡崎の犯行だと断言。しかし岡崎のアリバイが解けないことから、草薙たちの賛同を得られない。内海は草薙を通じて湯川に協力を仰ごうとする。しかし湯川は、もう協力するつもりはない、と断った。「第一章・落下る(おちる)」。
 「メタルの魔術師」と呼ばれた元帝都大学助教授・友永幸正の家で、かつての教え子たちとの飲み会が開かれていた。幸正は席を外し、教え子たちが酒を飲んでいると、離れの家から炎が上がり、息子の邦宏が死亡。しかし邦宏は焼死ではなく、刺殺だった。邦宏は1歳の時に幸正と母が離婚し、母に引き取られていた。久しぶりに顔を出した時は借金5000万円を抱え、幸正が代わりに払っていた。以後も暴力的でルールを無視し、周囲から嫌われていた。離れは密室で、凶器も見つからず、何が凶器かもわからない。動機のある幸正は家におり、しかも脚が悪く車椅子の生活。内縁の妻の娘で、幸正の身の回りを世話している新藤奈美恵も、教え子たちと一緒にいた。捜査に駆けつけた草薙たちは、そこに湯川がいたことに驚く。湯川も元教え子で、皆とは遅れて来ていた。「第二章・操縦る(あやつる)」。
 湯川は友人の藤村伸一に密室の謎を解明してほしいと誘われ、藤村の経営するペンションに来た。宿泊客だった原口清武の部屋を訪ねたところ応答がなく、ドアチェーンと鍵がかかっていた。少し経って、2度目に声を掛けた時は部屋にいる気配がする物の返事がなく、しばらくすると窓が開いていて部屋から転落死していた。どうやって鍵のかかった部屋に原口は入ったのか。捜査を始める湯川だったが、途中で藤村は捜査の中止をお願いする。「第三章・密室る(とじる)」。
 一人暮らしの老人、野平加世子が殺害され、金の地金が盗まれた。さらに、飼っていた犬もいなくなった。事件当日、加世子の家を訪れていた保険会社のセールスレディ、真瀬貴美子が容疑者として上がったが、証拠は見つからない。加世子の家を見張っていた内海と岸谷刑事は、加世子の中学生の娘である葉月が外出したので後を付けると、ゴミステーションのゴミ箱から、母の無実の証拠となる飼い犬の死骸を発見した。加世子は自分の持つ水晶の振り子でダウジングをして、この死骸を発見したという。ダウジングはほんとにあるのか。書き下ろし、「第四章・指標す(しめす)」。
 警視庁に、「悪魔の手」と名乗る者から手紙が届いた。この人物は、自在に人を葬ることができると警察を挑発。さらに、T大学のY准教授に助太刀してもらうとよい、どちらか真の天才科学者か勝負するのも一興だと、挑戦状が書かれていた。しかも同じような手紙が湯川の元にも届いていた。湯川は、マスコミに取材されて記事になったからこうなったのだと怒る。そして「悪魔の手」の予言通りの墜落事件、交通事故が続けて起こった。「第五章・攪乱す(みだす)」。
 『オール讀物』『別册文藝春秋』他掲載に書き下ろし1編含む。2008年10月、単行本刊行。ガリレオシリーズ第4作。

 『容疑者Xの献身』でもう警察の仕事には関わらないと宣言した湯川だったが、新登場キャラクター、内海薫刑事の誘いに負け、再び捜査に助言することとなる。内海は、テレビドラマ『ガリレオ』が放映されるのに合わせ、産み出されたキャラクターとのこと。逆に言えば、ドラマが始まらなければガリレオシリーズが再開されることはなかったと言えるかもしれない。
 今回は湯川の恩師や友人が出てくるなど、やや趣の違ったところがあるため、過去2作の短編集よりも読み応えがある。逆に言えば、湯川や草薙に血が通うようになったため、物語に深みが増したとも言えよう。特に「第二章・操縦る(あやつる)」は本作品中のベスト。科学技術を使用したトリックが使われているものの、トリックがメインとならず、人間ドラマがメインとなった佳作である。
 シリーズ物のキャラクターが走りすぎると、ミステリとしての面白さが脇に置かれてしまいがちだが、さすがに東野圭吾は基本的に謎の方に重点を置いているため、本格ミステリとしても面白い物が多い。ガリレオシリーズが一皮むけたのが、本作品集だったと言える。




井上譲二監修『昭和プロレス 迷宮入り事件の真相 YouTube時代に出た最終結論』(宝島社)

 元『週刊ファイト』の編集長だった、フリーライターの井上譲二が、謎と議論を呼んだ昭和プロレス25戦(試合じゃないものもあるが)についての真相を解き明かす、という設定の本。2016年11月、刊行。取り上げられた試合については、目次を転載する。
第1章 謎の遺恨試合
 アントニオ猪木vs前田日明戦中止(1986年3月26日・東京都体育館)
 前田日明vsアンドレ・ザ・ジャイアント(1986年4月29日・三重県津市体育館)
 長州力、谷津嘉章vsブルーザー・ブロディ、キラー・ブルックス(1985年3月9日・両国国技館)
 前田日明、高田延彦、木戸修vs長州力、マサ斎藤、ヒロ斎藤(1987年11月19日・後楽園ホール)
 ジャッキー佐藤vs神取しのぶ(1987年7月18日・神奈川県大和車体工業体育館)
 アントニオ猪木、藤波辰爾、長州力vsアブドーラ・ザ・ブッチャー、バッドニュース・アレン、S・D・ジョーンズ(1982年10月8日・後楽園ホール)
 前田日明vsスーパータイガー(1985年9月2日・大阪府立臨海スポーツセンター)
第2章 名勝負の真実
 アントニオ猪木vsハルク・ホーガン(1983年6月2日・蔵前国技館)
 ザ・ファンクスvsザ・シーク、アブドーラ・ザ・ブッチャー(1977年12月15日・蔵前国技館)
 前田日明vsドン・中矢・ニールセン(1986年10月9日・両国国技館)
 タイガーマスクvsダイナマイト・キッド(1981年4月23日・蔵前国技館)
 アントニオ猪木vsモハメッド・アリ(1976年6月26日・日本武道館)
 アントニオ猪木vs藤波辰爾(1988年8月8日・横浜文化体育館)
 アントニオ猪木vsハルク・ホーガン(1984年6月14日・蔵前国技館)
第3章 疑惑の数字
 力道山vsザ・デストロイヤー(1963年5月24日・東京都体育館)
 アントニオ猪木vsラッシャー木村、アニマル浜口、寺西勇(1982年11月4日・蔵前国技館)
 第二次UWF旗揚げ戦(1988年5月12日・後楽園ホール)
第4章 リング外の暗闘
 タイガーマスク、突然の引退発表(1983年8月11日)
 ザ・ファンクスvsブルーザー・ブロディ、ジミー・スヌーカー(1981年12月13日・蔵前国技館)
 ジャイアント馬場、アントニオ猪木vsアブドーラ・ザ・ブッチャー、タイガー・ジェット・シン(1979年8月26日・日本武道館)
 アントニオ猪木、谷津嘉章vsスタン・ハンセン、アブドーラ・ザ・ブッチャー(1981年6月24日・蔵前国技館)
 ブルーザー・ブロディ刺殺事件(1987年7月16日、プエルトリコ・バヤモン市・ロプリエルスタジアム<バヤモン球場>)
第5章 伝説の綻び
 ローラン・ボックvsアンドレ・ザ・ジャイアント(1979年12月16日・ドイツ・ジンデルフィルゲン)
 ザ・グレート・カブキvsジム・デュラン(1983年2月11日・後楽園ホール)
 力道山の死去(1963年12月15日・赤坂山王病院)
ボーナストラック 筋書きの破壊
 橋本真也vs小川直也(1999年1月4日・東京ドーム)

 プロレスラーへの取材経験や知識が豊富な峰尾宗明の執筆協力を得て、現在確定できた最終的なデータを存分に盛り込んだ、とある。
 確かにプロレスファンの間で語られてきた試合と現象をピックアップしている。全日本プロレスより新日本プロレスの方が圧倒的に多いのは、場外も含めたスキャンダラスな試合を多く提供してきたからだろう。
 ただ内容の方だが、今までマスコミなどから漏れてきた内容や、プロレスファンの間で語られてきたことや、プロレスラーの自伝等に書かれていることをまとめているだけに過ぎない。タイトルにあるような「迷宮入り事件の真相」とか、「YouTube時代に出た最終結論」にはほど遠い内容になっている。「真相」とは“YouTube時代”などと言っている割に、YouTubeが活用されているのは、せいぜいアンドレがボディスラムで投げられた相手の検証程度に過ぎない(しかも、猪木がアンドレをボディスラムで投げた日付を間違っているし)。
 とはいえ、知らなかった話(ブロディがデビット・フォン・エリック死亡時、部屋内の薬物を水洗トイレに流して証拠隠滅したこと、ブロディがアンドレをボディスラムで投げたというのは、井上譲二がでっち上げた話だったことetc)もあったことは事実。結局、単なるまとめ本ではあるが、当時プロレスファンで今はプロレスから離れてきた人が読むには、それなりに楽しめるかもしれない。コアなファン向けでないことは、間違いない。
 それにもっとあげられるべき試合もあるはず。IWGP第2回決勝での長州の乱入とか、藤原の長州襲撃とか。猪木絡みでももっといっぱいあるよな。
 まあ、今のプロレスはすごいけれど、「迷宮入り」とまで言われそうな事件は、なかなか起きないな。私は別に起きなくてもいいけれど、猪木ファンあたりからしたら、物足りないのかも。そのあたりが、「今のプロレスには何かが足りない その答えは本書にある」という煽りなんだろうけれど。とはいえ、金を払って身に来た客からすると、不透明決着なんて勘弁してほしいというのが本音だろうに。




戸川安宣/空犬太郎編『ぼくのミステリ・クロニクル』(国書刊行会)

 東京創元社の伝説の名編集者、戸川安宣のミステリ一代記。生まれから少年時代のミステリ体験、立教大学ミステリクラブの創立、東京創元社入社から退社まで、そしてミステリ専門書店「TRICK+TRAP」の運営と、今までのミステリ一代記を、「読む」「編む」「売る」の三章に分け、ライターの空犬太郎が聞き書きしてまとめた一冊。2016年11月、刊行。
 海外ミステリは名作から読み始めたため、やはり最初に手に取ったのはラインナップがそろっている創元推理文庫だった。ハヤカワ・ミステリ文庫は新作、というイメージがあったし、その頃は古典がほとんどなかった。ポケットミステリは、残念ながら近くの書店にはほとんどなかった。
そんな読者からしたら、戸川安宣はやはり伝説の名編集者。特に「シャーロック・ホームズのライヴァルたち」シリーズの詳細すぎる解説は、読んでいるものをわくわくさせたものである。当時の書誌も含め、一体どうやってこれだけのことを調べたのだろうと不思議に思ったものだし、ミステリの編集者ともなるとやはりこれだけの知識が必要だと思ったものだ。
 その後、忘れられないのは「日本探偵小説全集」の企画。当時、なかなか手に入らない日本の古典を読もうと、必死に「日本推理小説大系」(東都書房)を古本屋で探していたのが懐かしい(周りの人に聞くと、だいたいがそうだったようだ)。日本探偵小説全集はだいぶお世話になったが、第11巻が長く出版されなかったことには、今でも悔しい思いがある。それにしても本書で初めて知ったが、当時のカバーで売っていたものがあったとは。教えてほしかった。無念。
 他にも「鮎川哲也と十三の謎」などの叢書、鮎川哲也賞など、ミステリファンにとっては忘れられない企画があった。
 本書は戸川安宣の一代記であるが、やはりこれだけの編集者となるためには、ミステリへの深い愛情と経験が必要だということがよくわかる一冊だった。「読む」のところで語られる作品のラインナップを見るだけでも楽しいし、当時の横のつながりは羨ましい限り。「編む」で語られる東京創元社の歴史は、そのまま日本の翻訳ミステリの歴史といっても過言ではない。そういえば創元ノヴェルズとか、ゲームブックとかあったよなあ、なんて思い出してしまうのは、年寄りの証拠か。創元が国産ミステリを出版したのにも驚いたが、当時の講談社ノベルスと同じく新本格の歴史を作ってきたし、数多くの作家を生み出したのも特筆すべき事柄。まあ、なかなか出版できずに別の出版社に移った人も多かったのは残念だが。書いたままになっている原稿が金庫に数多く眠っていた事実は、流石に書けなかったか(苦笑)。
 ミステリ専門書店「TRICK+TRAP」については、残念ながら当時は東京にいなかったので、わからない。ミステリ専門書店なんて売れないことが分かっているのに、よく手伝ったものだ。
 戸川安宣さんとは、二、三回お話しした記憶がある。確か名張だったと思うが、『ラッフルズの事件簿』がなぜ出せないかとか、いろいろ聞いたなあ。素人のぶしつけな質問にも丁寧に答えてくれたのが印象深い。
 ミステリファンなら必読。ミステリをより深く知ることができ、ミステリへの愛情がより深まる一冊だ。私みたいな年寄りには、当時を思い出させてくれる一冊だし、今の若いファンにはミステリの歴史の一端を知ると同時に、ミステリへの情熱がどのようなものかを知ることになるだろう。
 ただ、今年の本格ミステリ大賞にノミネートされそうな気がする。資格は十分あるだろうと思うとともに、そういう次元とは無縁の位置にあってほしいと思うのは勝手な話だろうか。



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