死刑確定囚(2005年)



※2005年に確定した、もしくは最高裁判決があった死刑囚を載せている。
※一審、控訴審、上告審の日付は、いずれも判決日である。
※事実誤認等がある場合、ご指摘していただけると幸いである。
※事件概要では、死刑確定囚を「被告」表記、その他の人名は出さないことにした(一部共犯を除く)。
※事件当時年齢は、一部推定である。
※没年齢は、新聞に掲載されたものから引用している。

氏 名
山崎義雄
事件当時年齢
 50歳
犯行日時
 1985年11月12日/1990年3月23~24日
罪 状
 殺人
事件名
 2件保険金殺人事件
事件概要
 香川県大川郡、工員の山崎義雄被告は徳島県鳴門市の寺執事Y被告と共謀し、死亡保険金を得だまし取ろうと計画。1985年11月12日、Y被告から借金をしていた宮城県の主婦(当時49)をひもで絞めて殺害し、山崎被告の妻も手伝い、首吊り自殺を装った。宮城県警は自殺と判断した。Y被告は約2,200万円の保険金受け取り、山崎被告に報酬として700万円を渡した。
 さらに山崎被告は松山市の運転手F被告と共謀。1990年3月23日、殺害した主婦の甥である香川県の食品販売業の男性(当時48)にY被告を受取人とする保険が掛けられていると思いこみ、男性を山崎被告宅に呼び出し、保険料未納で失効していた生命保険の復活手続きをとらせたうえ、頭を鉄鉄亜鈴で殴打。さらに24日未明、徳島県内の山林で頭を鉄亜鈴で滅多打ちにし、胸を踏みつけたりして殺害、遺体を高知県北川村の林道下の山中に捨てた。甥は経営していた呉服問屋が倒産、この際の負債を伯母の主婦が肩代わりし、二人ともY被告に借金をしていた。遺体発見までの間、保険料が納められていなかったことなどから保険金を受け取ることができなかった。
 1か月後、香川の事件の被害者が遺体で発見された。安芸署などがけがや現場の状況などから転落死、自他殺の両面で捜査。その結果、徳島県で発見された男性のワゴン車から血痕が検出されたことなどから、事件に巻き込まれた疑いが強まり、高知、香川、徳島、愛媛各県警が合同捜査。男性の周辺捜査を進める中で山崎被告が浮上。捜査を続けていたところ、1994年10月24日、匿名の男性の声で「犯人は山崎と今治市でトラック運転手をしているFだ」と通報があり、内偵。11月17日、香川県警に二人を任意同行して殺人容疑で逮捕した。死体遺棄罪については時効(3年)が成立している。
 1995年1月6日、宮城の事件で山崎被告と妻、F被告を逮捕した。保険金詐欺については時効が成立している。
一 審
 1997年2月18日 高松地裁 重吉孝一郎裁判長 無期懲役判決
控訴審
 2000年10月26日 高松高裁 島敏男裁判長 一審破棄 死刑判決
上告審
 2005年1月25日 最高裁第三小法廷 上田豊三裁判長 上告棄却 死刑確定
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拘置先
 大阪拘置所
裁判焦点
 1995年1月30日の香川の事件における初公判で、山崎義雄被告は「死亡保険金入手目的ではなく被害者に頼まれて殺した」と嘱託殺人を主張した。
 その後の公判で、「主婦の家を離れた時間と死亡推定時刻に差がある」「借金を抱えた食品販売業の男性から委託されて殺害した」と被告側は主張した。
 一審重吉裁判長は保険について、被害者側が山崎被告らから金を借りる目的などで積極的に加入、当初から殺害目的で契約されたものではないと認定、「計画的で残虐な犯行だが、矯正の可能性が皆無とはいえない」「共犯者にしつこく犯行を持ち掛けられた面があり、殺害を前提に保険に加入したわけでもなかった」などとして無期懲役を言い渡した。

 量刑不当を理由に、被告、検察側がともに控訴した。
 被告側は、「宮城の事件は殺人未遂、香川の事件は被害者に頼まれた嘱託殺人」と主張した。
 二審島裁判長は「共謀後は共犯者以上に積極的に関与。非道な犯行を繰り返した点には危険で進んだ犯罪性向がうかがえる」「保険金目的の殺人を2回も犯し、まれに見る凶行。周到に計画しており卑劣で冷酷だ。遺族への真しな謝罪もなく、情状を考慮したが死刑を回避する理由が見当たらない」として一審・高松地裁の無期懲役判決を破棄し、検察側の求刑通り死刑を言い渡した。

 2004年12月7日に上告審弁論で、弁護側は「共犯者からの執拗な依頼や、被害者から頼まれて実行したもので保険金目的の認定は誤りだ」と指摘。検察側は「強盗殺人にも匹敵する犯行だ」と上告棄却を求め結審した。
 上田裁判長は判決理由で、「周到な計画に基づく冷酷な犯行。首つり自殺に見せ掛ける偽装工作をしたり、遺体をがけから投げて放置するなど犯行後の情状も悪い」「2人の生命を奪った結果は極めて重大で、慰謝の措置も講じられていない。二審の死刑判決はやむを得ないと是認せざるを得ない」と述べた。
備 考
 F被告は殺人の罪で起訴された。1995年9月11日、高松地裁(重吉孝一郎裁判長)で求刑懲役15年に対し、懲役11年判決。控訴せず確定。
 山崎被告の妻は殺人ほう助の罪で起訴された。1995年9月11日、高松地裁(重吉孝一郎裁判長)で求刑懲役7年に対し、懲役3年判決。控訴せず確定。
 Y被告は1999年3月16日、高松地裁(重吉孝一郎裁判長)で求刑無期懲役に対し一審懲役13年判決。検察側はY被告が山崎被告に殺害を依頼したと主張したが、判決では山崎被告が計画しY被告が応じたと認定した。2001年2月13日、高松高裁(島敏男裁判長)は共謀を認め、一審を破棄し懲役15年判決。2001年11月21日までに最高裁第一小法廷で被告側上告棄却、確定。
執 行
 2008年6月17日執行、73歳没。
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氏 名
間中博巳
事件当時年齢
 21歳
犯行日時
 1989年8月9日~9月13日
罪 状
 殺人、監禁、死体遺棄、恐喝未遂、詐欺
事件名
 同級生連続殺人事件
事件概要
 茨城県岩井市の建築業手伝い間中博巳被告は、小中学校の同級生だった無職男性Tさん(当時21)に手伝わせ1989年8月9日午前1時10分頃、車両火災保険金詐欺の目的で、同市の農道で自分の乗用車を焼いた。さらに午前1時半頃、岩井市幸田の残土置き場で、口封じ目的により出刃包丁でTさんの首を切るなどして殺し、その遺体を同所に埋めた。その後、Tさんの母に「Tさんがおれの車を盗んで燃やした」などと金を要求。以後約十回にわたり直接または電話で、500万円を脅し取ろうとしたが果たせず、自分の車が放火されたように装い、保険会社に490万円を振り込ませた。
 さらに間中被告は少年院で知り合った無職男性T被告と共謀して同年9月13日午前4時10分ごろ、小中学校の同級生だったトラック運転手の男性Iさん(当時21)を同市弓田の自宅から連れ出し、両手両足を縛ってワゴン車内に監禁。午前5時40分ごろに絞殺した。間中被告は遺体を近くの廃棄物処理場に捨てた。
 さらに間中被告はIさんを殺害する前、「車は自分が他の者に放火させた」などと書かせた「誓約書」を使って、Iさんの両親から874万円を脅し取ろうとした。
 境署はIさん両親恐喝の件で10月14日、間中被告を恐喝未遂容疑で逮捕。翌日、T被告を逮捕監禁容疑で逮捕した。
 Iさんの遺体は間中被告の自供で10月15日に発見された。さらに16日、間中被告の自供でTさんの遺体が発見された。
一 審
 1994年7月6日 水戸地裁下妻支部 小田部米彦裁判長 死刑判決
控訴審
 2001年5月1日 東京高裁 河辺義正裁判長 控訴棄却 死刑判決支持
上告審
 2005年1月27日 最高裁第一小法廷 才口千晴裁判長 上告棄却 死刑確定
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拘置先
 東京拘置所
裁判焦点
 間中被告は1990年2月21日の初公判で犯行を全面否認した。
 間中被告は「8月8日の深夜、Tさんと一緒にいた際に、少年院時代に知り合った男「A」の仲間3人と残土置き場でいさかいになり、Tさんが3人のうち2人に襲われた」と述べた。9月13日にIさんを監禁し絞殺したとされた件では、「Tさんを襲った2人に脅されてゴミ置き場前で2人にIさんを引き渡しただけ」だとして監禁のみを認め、詐欺事件については、車を焼いたのは自分ではない、と否認した。間中被告は恐喝未遂については認めたが、それも「Aの仲間」に、Tさん殺しの犯人にすると脅されたためにやった、とした。T被告は「いっさい殺人には関係ない」と述べた。
 次いで検察側が冒頭陳述を行い、一連の事件の動機は高級車を買い、女友達と遊ぶ金欲しさだったとし、間中被告は受け取った保険金のうち190万円で、高級乗用車のタイヤホイールなどを買っていた、などと述べた。
 弁護人によると、「A」は氏名、所在もわかっているが、「Aの仲間」が何者かはわかっていない、という。
 その後も、弁護人は「犯行を認めた捜査段階の自白調書や上申書は任意性に問題がある」と争った。
 1994年2月14日の論告求刑で検察側は、間中被告や弁護側の無罪主張について、「裏付ける証拠もなく、刑を逃れるための虚言に過ぎない。捜査段階の自白は一貫していて、間中被告の自供で遺体が発見され、Tさん殺害の凶器なども見つかった。任意性、信用性に問題はない」「少年院時代の仲間のグループが殺害したという主張は刑を逃れる虚言に過ぎない」とした。その上で「人間がやったこととは思えない冷酷、残忍、卑劣な犯行」「保険金殺人や誘拐殺人に匹敵する重大犯罪なのに、反省や改悛の情も見られない。死刑制度についていろいろ論議があるが、間中被告の極刑求刑はやむを得ない」と述べた。
 3月23日の最終弁論で弁護側は、(1)間中被告が遊ぶ金に困ったり高級車を欲しがっていたりしたというのは、事実に反する(2)放火に使われたガソリンを購入し、その後Tさんを殺したのは、給油所従業員の証言などから間中被告の言う通り、少年院時代の仲間のグループとみるのが自然(3)間中被告の捜査段階での自供は、捜査当局が行った車の燃焼実験から見てもおかしい(4)間中被告の供述や起訴状の殺害方法は鑑定書と合わない(5)高山被告がIさんの父親に出したわび状は、自分の行為(監禁)がIさん殺害を招いたことをわびたもので、殺害を認めたものではない、などと反論した。そして「殺人や死体遺棄を裏付ける証拠や動機は存在せず、犯行を認めた上申書や自白調書は任意性、信用性に欠ける」と主張した。両被告も「殺人はやっていない」と改めて「冤罪」を申し立てた。
 判決で小田部裁判長は、「被告人らの自白について信用性がなく、任意性すら疑わしいとの主張は、すべて理由がない」と両被告の捜査段階での自白の任意性・信用性を全面的に支持。被告側が主張した「別の真犯人説」についても「不合理な弁解で、一連の犯行が自己の犯行であることを自ら表明したに等しい」と結論づけた。車放火の時間も争点となったが、「検察主張にいささか無理があるものの、供述の信用性が揺らぐものではなく、アリバイの主張も採用できない」とした。そして「間中被告の自己本位の身勝手な動機にはいささかも酌量の余地はない。冷酷非情な非人間性、反社会性、残虐非道な凶行には戦慄を禁じえない。極めて卑劣、悪質な犯行であり、みじんも改悛の情を認められず、罪責の重大性から死刑をもって臨むほかはない」と述べた。またT被告に対しても、「反省の態度はまったくうかがわれず、罪責は極めて重大。積極的に加担したものでないなどの事情を斟酌しても主文のとおりの刑は免れない」とした。

 控訴審途中の1999年5月6日、間中被告は初めて殺害行為を認める供述を行った。
 河辺裁判長は「大金欲しさから同級生2人を次々と殺害した凶悪事件で、犯行態様も冷酷非道」とした。間中被告について「自白したとはいえ、自分の責任をわい小化しており、完全に反省しているとはいえない」と指摘。また、殺人罪で無罪主張していたT被告について「殺人への関与を認めた捜査段階の供述調書は信用できる」と述べた。

 最高裁の弁論で弁護側は「若年で未熟な被告が、成り行きに流されるままに行った単純殺人。反省しており更生の可能性があることを考慮すべきだ」と死刑回避を求めた。検察側は「周到な準備に基づく計画性の高い犯行。責任を回避する供述を繰り返しており、反省していない」と反論した。
 最高裁は「金銭目的から、悪質、非道で計画的な犯行を1か月余りの間に2回実行しており、酌量の余地はない」と述べ、被告側の上告を棄却した。
付記事項
 T被告は監禁以外の罪を否認していたが、懲役12年(求刑懲役15年)が確定。
現 在
 2008年11月、再審請求。
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氏 名
秋永香
事件当時年齢
 42歳
犯行日時
 1989年10月1日~4日
罪 状
 詐欺、殺人、覚せい剤取締法違反、銃砲刀剣類所持等取締法違反
事件名
 資産家老女ら2人殺人事件
事件概要
 不動産ブローカー岡下香(旧姓)被告は、愛人の女性(詐欺で懲役5年が確定)と共謀し、東京都杉並区でアパートを経営する一人暮らしの老女(当時82)から土地をだまし取ろうと計画。女性は1989年6月から老女の経営するアパートに入居し、温泉旅行に連れ出すなど老女に接近した。さらに元保険代理業の男性(当時38)を長期入院中の老女の長女と戸籍上の結婚をさせた。そして1989年7月から9月にかけて、岡下被告らは老女が所有する杉並区内の土地の売買契約書を偽造し、不動産会社に勝手に転売して約2億800万円をだまし取った。
 事件の発覚を恐れた岡下被告は、10月、杉並区内の自宅マンションで老女の首を絞めて殺害した。岡下被告はさらに共犯者の男性を短銃で射殺し、首を切った後岐阜県の渓谷に捨てた。
 老女の死体は1990年1月、神奈川県の中央自動車道わきで、トランク詰めの他殺体となって見つかった。岡下被告と愛人の女性は、老女の失踪が公になった時点で逃亡。共犯者の死体は1990年7月23日に発見されたが、顔がなかったため、捜査の結果1991年2月に共犯者のものと特定された。
 1992年にはフィリピン潜伏との情報もあったが、岡下被告と愛人の女性は北九州市のマンションに潜伏、その後下妻市に身を寄せ、養鶏場に住み込んで働いていた。三年ほど前に千代田町へ転居し、中村名義で夫婦を装い土浦市内でスナックを経営。二年ほど前に町内に転居し、近くに別のスナックを開いた。スナックを閉じた後、岡下被告は1995年に中古車販売店の経営を始めていた。
 1995年5月、テレホンクラブで知り合った中村と名乗る男性に覚醒剤を打たれたという女性の通報を受け、警察が「中村」を追い、6月28日、千代田町の「中村宅」に踏み込んで二人を逮捕した。29日、女性が自供、続けて岡下被告も自供した。
一 審
 1999年3月11日 東京地裁 山崎学裁判長 無期懲役判決
控訴審
 2001年5月17日 東京高裁 吉本徹也裁判長 一審破棄 死刑判決
上告審
 2005年3月3日 最高裁第一小法廷 泉徳治裁判長 上告棄却 死刑確定
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拘置先
 東京拘置所
裁判焦点
 公判で岡下被告は詐欺については計画性を否認。老女殺害では「自宅に戻ったら死んでいた。数日前から飲ませていた精神安定剤が原因ではないかと思う」と述べ、無罪を主張。保険代理業の男性殺害については実行行為を認めたものの、計画性を否認した。
 一審で山崎裁判長は老女殺害の計画性を否定したものの、犯行そのものを批判。しかし「逃亡生活中の苦労から真面目に労働することの重要性を認識し、一端の人間性を示した」と指摘し、「極刑よりは無期懲役にして終生、被害者のめい福を祈らせるべき」と結論付けた。

 弁護側は「岡下被告は老女殺害を否認し、有罪とするには多くの疑いがある」と主張し、検察側は「無期懲役は量刑不当」と死刑判決を求め、双方が控訴した。
 二審で吉本裁判長は「2人の殺害は、完全犯罪を狙った計画的なもので、場当たり的な殺人と認定した一審判決は誤りだ」と指摘、「周到な計画的殺人で、真摯な反省の態度も見られず、極刑もやむを得ない」と述べた。

 最高裁第一小法廷は「金銭的利欲のための計画的な犯行で、冷酷、非情だ。公判廷でも不自然な弁解をしており、自責の念がうかがえない」などと述べた。
著 書
 歌集『終わりの始まり』(未来山脈社)
著 書
 旧姓岡下。参考だが、秋永は愛人女性の姓と同じである。
執 行
 2008年4月10日執行、61歳没。
 恩赦の出願を弁護士に依頼した矢先の執行だったらしい。しかし年内の執行を予想し、その年の元日に妻や師の光本らへの遺書を書き、2月下旬にはキリスト教の教誨を受けていた。死刑執行後は献体されたという。
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氏 名
宮前一明
事件当時年齢
 28歳
犯行日時
 1989年2月10日/1989年11月4日
罪 状
 殺人
事件名
 男性信者殺害事件/坂本弁護士一家殺人事件
事件概要
●男性信者殺害事件
 1989年2月10日、信者のTさん(当時21)が脱会しようとしたため、首を絞めるなどして殺害した。

●坂本弁護士一家殺人事件
 横浜市の坂本弁護士(当時33)は、オウム真理教に入信して帰ってこない子供の親たちが集まって結成した「オウム真理教被害者の会」の中心的役割を果たしていた。TBSの取材でも坂本弁護士は教団を徹底追及していくことを発言。オウム真理教の幹部たちはTBSに乗り込み収録テープの内容を見て殺害を決意。教祖麻原彰晃(本名松本智津夫)は早川紀代秀、村井秀夫、新実智光、中川智正、佐伯一明(現姓岡崎)、端本悟に殺害を命じた。実行犯6名は1989年11月4日、横浜市の坂本弁護士宅のアパートに押し入り、坂本弁護士、妻(当時29)、長男(当時1)の首を絞めるなどして殺害。遺体をそれぞれ新潟、富山、長野の山中に埋めた。
 坂本弁護士が所属していた横浜法律事務所は、オウム真理教が関わっていると主張。坂本弁護士がオウム批判をしていることと、坂本弁護士宅にオウムのバッジが落ちていたことなどが理由である。オウム真理教側は、被害者の会や対立する宗教団体が仕組んだ罠だと反論した。

 1995年3月20日の地下鉄サリン事件発生後、オウム真理教への強制捜査を開始。9月10日までに三人の遺体が発見され、7日に5人が、22日には松本被告と実行犯5名が再逮捕された。村井秀夫容疑者は1995年4月23日、東京・南青山の教団総本部前で殺害されたため不起訴。殺人犯は一審懲役12年が確定している。
一 審
 1998年10月23日 東京地裁 山室恵裁判長 死刑判決
控訴審
 2001年12月13日 東京高裁 河辺義正裁判長 控訴棄却 死刑判決支持
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上告審
 2005年4月7日 最高裁第一小法廷 島田仁郎裁判長 上告棄却 死刑確定
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拘置先
 名古屋拘置所
裁判焦点
 弁護側は「岡崎被告は当時、松本被告のマインドコントロールで心神耗弱の状態にあった」と主張。また「自首で捜査に貢献した」と死刑回避を求めた。検察側は、自首成立を否定していた。
 判決は坂本事件について、松本智津夫被告の指示を認定。
 山室裁判長は「当時捜査機関は犯人を特定しておらず、自供は犯罪発覚の前になされた」と自首成立を認めた。しかし「自供の動機は真剣な反省の結果ではなく、教団から身を守るための自己保身にあった」とし「捜査機関の事情聴取に平然とうそをつき、遺族の救出活動を目にしながらも関与を隠し続けた態度は、したたかで狡猾」と非難し、刑の軽減はできないとした。
 教団によるマインドコントロールの影響については「犯行を隠すのに冷静で合理的な行動をとっており、善悪の判断能力は著しく減衰はしていなかった。自らの判断と意思で(松本被告の)指示に従った」として「犯行以外の行動を期待するのは困難だった」との弁護側主張を退けた。
 その上で「教団批判の急先ぽうだった弁護士らを将来の障害になるとして抹殺した短絡的で常軌を逸した犯行。松本被告の指示なら殺害も正当化されるという独善的な教義自体が許されるものではなく、責任はいささかも軽減されるべきでない」と指摘。
 「子供の助命を懇願する母親の声をも無視した残虐極まりない犯行で、五年以上も生存を信じ続けた遺族が極刑を望むのは当然」とし「事件解明に大きく貢献し反省しているなどの事情を酌んでも刑事責任はあまりに重大。無期懲役にする事案とは一線を画している」「犯行の準備段階から積極的に関与しており、極刑をもって臨まざるを得ない」と結論づけた。

 二審でも弁護側は「岡崎被告は当時、松本被告のマインドコントロールで心神耗弱の状態にあった」と主張。また「自首で捜査に貢献した」と減刑を求めた。
 判決で河辺裁判長は、改めて両事件の首謀者を麻原彰晃こと松本智津夫被告(46)と認定。その上で反社会的な教義に基づく指示に従うことを自分の修行に役立つと合理化しており、人格自体が破壊されていたわけではない」と判断し、心神耗弱の主張を退けた。また自首の成立は認めたが、「報道を通じて遺族の悲痛な姿を知りながら、長期間自首しなかった事実は、責任を減少させるにはほど遠く、減刑は相当ではない」と退けた。そして「卑劣、残忍で、法治国家の理念を踏みにじる理不尽極まりない犯行だ」と述べて一審判決を支持し、被告側の控訴を棄却した。

 2005年2月の最高裁における弁論で、弁護側は(1)林受刑者が無期懲役だったことなどを考えても、岡崎被告を死刑にするのは罪刑の均衡を甚だしく欠く(2)二審判決が、長期間自首しなかったことを非難して減刑しなかったのは、自己に不利益な供述の強要を禁止した憲法に違反する――などと主張した。
 判決理由で第一小法廷は「動機は組織防衛のみが目的で酌量の余地はない。犯行態様は組織的かつ計画的で、冷酷、残忍だ。遺族の処罰感情は厳しく、社会に与えた影響も大きい」と述べた。そのうえで、「自首し、反省していることなどを考慮しても、刑事責任は極めて重大と言わざるを得ない」とした。
その他
 事件当時の姓は佐伯。逮捕当時の姓は岡崎。上告中、養子縁組で宮前に改姓した。
その後
 2008年7月23日、再審請求。本人自ら申し立てた。関係者によると、岡崎死刑囚は犯行を認める点に変化はないものの、死刑執行のペースが最近、ほぼ2ヶ月おきと早まっているため、事件の一部被害者が、「生き証人」としての岡崎死刑囚に対する執行をしないよう法務省に執行停止を申し立てたことを挙げ、「自分だけ無関係とは言っていられない」と説明しているという。ただし、請求書に理由を記していないため、東京地裁は10月末までに提出するよう求められたが、弁護士が地裁と交渉し、提出期限は2009年2月まで延期された。
 東京地裁、東京高裁のいずれもが再審請求を棄却。
 2010年10月25日、最高裁第一小法廷(白木勇裁判長)は宮前死刑囚の特別抗告を棄却する決定をした。宮前死刑囚側は他の元幹部らが発行した書籍や手記などを新証拠に「犯行当時、心神耗弱だったことは明らか」などと主張したが、小法廷は「抗告理由に当たらない」と退けた。
 2014年当時、第二次再審請求中か? 執行時点ではすでに棄却されている。
 2018年3月14日、東京拘置所から名古屋拘置所へ移送された。
執 行
 2018年7月26日執行、57歳没。
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氏 名
西川正勝
事件当時年齢
 35歳
犯行日時
 1991年12月13日~1992年1月5日
罪 状
 強盗殺人(3件)、殺人、窃盗、強盗殺人未遂、強盗致傷
事件名
 警察庁広域重要指定119号事件
事件概要
 1991年12月から1992年1月にかけて、西川正勝被告は、大阪、兵庫、島根、京都の4府県でスナック経営者ら女性5人を殺傷した。「警察庁広域重要指定119号事件」の概要は以下。
  • 1991年12月13日午前2~4時頃、兵庫県姫路市でスナックの女性経営者(当時45)の首を絞めて窒息死させた。その後、額面17,000円相当の商品券や現金を盗んだ。検察側は強盗殺人で起訴したが、本事件のみ殺人+窃盗の判決となっている。
  • 12月21日午後1時頃、島根県松江市でスナックの女性経営者(当時55)の首を絞め、腹や胸を刃物で刺し、窒息死させた。さらに現金20万2,000円を奪った。
  • 12月26日未明、京都市でスナックの女性経営者(当時55)の首を絞め、左首などを刃物で刺し失血死させた。さらに現金3万数千円を奪った。
  • 12月28日午前6時頃、京都市でスナックの女性経営者(当時51)の左胸を刃物で刺し、失血死させた。さらに現金1万数千円を奪った。その後6時40分頃、女性経営者の息子?(当時26)の首を絞めて押し倒し、ウイスキーの瓶で頭を殴り、一週間の怪我を負わせた。
  • 1992年1月5日午前10時半頃、大阪市のアパートで女性落語家の首を絞めて失神させた上、現金14万円を奪った。
 1月7日、西川被告は大阪市のマンションの一室に押し入ったが、同室の女性は隙をみて逃走。警察官が駆けつけ、逮捕された。
 西川被告は18歳のとき、鳥取市内のスナックで女性経営者を包丁で殺害。約10年服役し、出所2か月半後旅館の従業員の首を締めて金を奪おうとして、強盗致傷事件を起こし、また服役した。西川被告は服役していた鳥取刑務所を、1991年10月25日に出所したばかりだった。姫路市での犯行以前、倉敷市の暴力団事務所に身を寄せていたが、そこでも組員宅に押し入り金を要求する事件を引き起こした。さらに岡山県内の刑務所仲間宅に一泊したとき、現金約10万円を盗んでいる。
一 審
 1995年9月11日 大阪地裁 松本芳希裁判長 死刑判決
控訴審
 2001年6月20日 大阪高裁 河上元康裁判長 控訴棄却 死刑判決支持
上告審
 2005年6月7日 最高裁第三小法廷 浜田邦夫裁判長 上告棄却 死刑確定
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拘置先
 大阪拘置所
裁判焦点
 一審にて被告・弁護側は全面無罪を主張。
  • 姫路市の事件の日には、別の店で飲んでおり、被害者のスナックには行っていない。
  • 松江市の事件では、被害者のスナックに行ったことは一度もない。
  • 26日の京都市の事件では、事件の時間帯は別の場所にいた。
  • 28日の京都市の事件では、被害者のスナックには行ったが、経営者を殺して金を奪った記憶はない。また男の人ともみ合いになったのは事実だが、瓶で殴っていない。
  • 大阪市の事件では14万円を奪ったが、殺意はなかった。
  • 凶器がいずれも発見されておらず、28日の京都市の事件を除いては入手経路もはっきりしていない。
  • 一部事件では犯行時間の特定が出来ておらず、アリバイ立証が難しい。
  • 現場から発見された指紋は、事件以前に飲みに来たときについたものである。
  • 犯行現場に残っていた足跡は、警察の鑑定結果でも、西川被告のものと酷似しているものの断定はしていない。
  • 捜査段階の自白調書は、警察官に睡眠を与えられずに取られたもので信用性がない。
 一審で松本裁判長は、一連の事件を認めた供述書について「強制誘導はなく、任意かつ自発的だ」として信用性を認めた。
 そのうえで、各事件について検討。姫路事件については被害者の遺体の損傷が激しい点などから「激情的な犯行で、強盗目的とするには合理的疑いが残る」とし、検察側の強盗殺人罪の主張を退け、殺人と窃盗のみ認定した。
 また、松江事件については、西川被告のジャンパーに付着していた血痕がDNA(デオキシリボ核酸)鑑定で被害者の血液と一致したことなどを挙げ、被告の犯行と断定した。
 京都第一、第二の両事件については、被害者の着衣に、西川被告のジャンパーと同種の繊維片が付いていたことなどの状況証拠を基に、西川被告の犯行とした。
 情状で松本裁判長は「被害者四人の無念さは察するに余りあり、一般市民に不安と衝撃を与えた。反省の態度はなく、不遇な生い立ちなどの事情を考慮しても極刑をもって臨むしかない」と述べ、「犯罪史上まれにみる凶悪、重大事件で、動機も同情の余地はない」として求刑通り死刑を言い渡した。

 二審で弁護側は、姫路の事件についてのみ罪を認めたが「人格・精神障害に加え、飲酒で異常酩酊下にあった」などとし、責任能力を否定していた。また他の事件については全面無罪を主張した。
 河上裁判長は、被害者の血液と西川被告のジャンパーの血痕が一致したとするDNA鑑定、被害者の着衣にジャンパーと同種の繊維片が付着していたとする繊維鑑定などの結果を総合的に検討。いずれの殺人事件も手口が酷似しているうえ、犯行現場に西川被告がはいていた靴と同種の靴底模様のある足跡が残っていたことをとらえ「被告が犯人であることのがい然性は極めて高い」と指摘し、被告の犯行に間違いないと認定した。逮捕された直後、すべての事件の犯行を認めた概括的な自白については「客観的な犯行状況と矛盾がなく、信用性は十分認められる」と述べた。さらに責任能力についても問題ないとした。

 最高裁の最終弁論で弁護側は姫路の事件については認めたが、島根と京都の計3件について「被告は犯人ではない」と全面無罪を主張。大阪の事件については殺意を否定した。さらに、西川被告が成人してから事件までの約16年のうち15年以上、刑務所で服役していたことを指摘。「矯正教育そのものが犯罪傾向を著しく高めてきたと言える」としたうえで、「兵庫の事件については衷心からの反省と悔悟の情を抱いており、人間として改善の可能性がある」と訴えていた。
 浜田裁判長は法廷で、「殺害された被害者は4人に上り、いずれも確定的殺意に基づく残忍な犯行だ」と判決理由の要旨を朗読した。同小法廷は理由の中で「安易に凶悪犯罪に及ぶ傾向が認められる。遺族の被害感情も厳しく、不遇な成育歴などを十分考えても、死刑を是認せざるを得ない」と述べた。
その他
 控訴審判決(2001年6月20日)の約2年前、兵庫県内に住む宗教家と養子縁組して金田と改姓した。最高裁判決(2005年6月7日)前に、元の西川姓に戻っている。
その後
 2008?年、再審請求。2009?年に棄却されたものと思われる。2011年時点で第三次再審請求中。2017年の執行時では第十次再審請求中。
執 行
 2017年7月13日執行、61歳没。再審請求中の執行は、1999年12月17日執行の小野照男元死刑囚以来。10回の再審請求は理由も実質的にはほとんど同じだったため、法務省は「再審事由はない」と判断し、執行に踏み切ったとみられる。執行後に記者会見した金田勝年法相は、「再審請求を行っているから執行しないとの考えはとっていない」と発言。また、西川死刑囚が再審請求中とは言及しなかったものの、「再審事由の有無などを慎重に検討し、事由がないと認められた場合に初めて執行を命じる」と述べた。
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氏 名
鎌田安利
事件当時年齢
 44歳
犯行日時
 1985年5月28日~94年3月28日
罪 状
 殺人、死体損壊、死体遺棄、拐取者身の代金要求、窃盗
事件名
 警察庁広域重要指定122号事件
事件概要
 大阪市西成区の無職鎌田安利被告は、大阪市内で1985~87年に女性3人、1993~94年に女性2人を殺害した。概要は以下。
  • 1985年5月28日、西成区のバーに勤めていた主婦の女性(当時46)を誘い出し、自室で一緒に酒を飲んでいたが、飲酒をやめなかったことに腹を立て殺害。運びやすくするために遺体をバラバラにした後、29日、神戸市西区の山林に遺棄した。自供後の1995年5月29日、遺体が発見され、8月16日に身元が判明した。死体遺棄については時効が成立している。
  • 1985年4月16日、付き合っていた女性(当時19)に小遣いをせがまれカッとなり自室で殺害。運びやすくするために遺体をバラバラにした後、17日、奈良県広陵町の山林に遺棄した。遺体は6月17日、発見された。遺体発見から三ヶ月後の9月、「怪人二十二面相」と名乗って詳細な殺害方法を明かした挑戦状を警察に送っている。死体遺棄については時効が成立している。
  • 1987年1月22日、いたずら目的から大阪市内の小学三年生の女児(当時9)を誘拐したが、騒がれたため殺害。翌日、大阪府豊能町の山林に遺棄した。さらに身代金3,000万(のちに1,000万)要求の電話を小学校に4回かけた。遺体は5月4日に発見された。死体遺棄については時効が成立している。
  • 1993年7月24日昼ごろ、付き合っていた大阪市西成区のスナック従業員の女性(当時45)に借金を申し込まれてカッとなり、殺害。遺体を自室でバラバラにした後、大阪府箕面市の山林に遺棄した。遺体は1994年4月3日、発見された。
  • 1994年3月28日夕方、付き合っていた大阪市中央区の料理店従業員の女性(当時38)に借金を申し込まれてカッとなり、殺害。遺体を自室でバラバラにした後、大阪府箕面市の山林に遺棄した。遺体は1994年4月4日、発見された。
  • 2月23日午後0時半ごろ、大阪市中央区内のビルの倉庫に忍び込み、紳士用スラックス78本(計46万円相当)を盗んだ。
 大阪府警は箕面市の連続女性バラバラ殺人事件の捜査で、事件への関与の可能性がある人物の一人として鎌田被告をリストアップ。1995年2月に鎌田被告が6の窃盗事件を起こしていたことを掴み、4月10日、逮捕した。
 箕面市の事件の遺体の切断の仕方が2の事件と似ていたことから、「挑戦状」から採取した指紋と鎌田被告の指紋の照合を試みたところ、一部が一致。5月10日、大阪府警は奈良県警と合同捜査本部を設置。5月12日、2における殺人容疑で鎌田被告を再逮捕。6月12日、4における殺人、死体損壊、遺棄容疑で鎌田被告を再逮捕。警察庁は同日、一連の事件について、「連続女性バラバラ殺人・死体遺棄事件」として広域重要122号事件に指定した。7月14日、5における殺人、死体損壊、遺棄容疑で鎌田被告を再逮捕。8月17日、1における殺人容疑で鎌田被告を再逮捕。9月25日、3における殺人と身代金要求容疑で再逮捕。
 鎌田被告は逮捕後、3の件について殺害容疑を否認。「西成区にいた知り合いの男が女児を自分のアパートに連れてきて、外出している間に殺害していた」と、名前を上げて供述した。捜査本部はこの供述に基づいて、これまでの交遊関係を調べたほか、西成区一帯の聞き込み、事件当時鎌田被告が住んでいたアパートの住人だった人らの追跡捜査をしたが、供述と一致する人物はいなかったため、単独犯行と断定した。
一 審
 1999年3月24日 大阪地裁 横田信之裁判長 死刑+死刑判決
控訴審
 2001年3月27日 大阪高裁 福島裕裁判長 一審破棄(1,2,3の事件が破棄、4,5は控訴棄却) 死刑+死刑判決
上告審
 2005年7月8日 最高裁第二小法廷 福田博裁判長 上告棄却 死刑+死刑確定
 判決文「裁判所ウェブサイト」内のPDFファイルが開きます。リンク先をクリックする前に、注意事項をご覧下さい)
拘置先
 大阪拘置所
裁判焦点
 鎌田安利被告は1989年9月と1991年7月の二度、窃盗罪で実刑判決を受け、1993年3月まで服役していたため、1985年~87年の事件と、1993年~94年の事件は刑法45条の規定で併合されなかった。そのため、検察側はそれぞれの事件について死刑を求刑し、それぞれに死刑判決が出されている。鎌田被告は捜査段階で5人の殺害を認めていたが、公判になって否認している。

 1995年10月25日、窃盗の件について初公判が開かれ、鎌田被告は「身に覚えがない」と起訴事実を全面的に否認、無罪を主張した。鎌田被告は窃盗罪の取り調べで、取調官から殴られたり、首を絞められるなどの暴行を受けたと話しているといい、公判で調書の任意性を争う構えを見せている。
 1996年3月13日の初公判において、鎌田被告は「全く身に覚えがない」と全面否認し、特に3については「起訴状に書いてあることはでたらめ」と言った。
 検察側は冒頭陳述で、鎌田被告がささいなことで被害者と口論になり激高して絞殺。犯行を隠すため、うち四人の遺体を自宅でバラバラに切断したと、残忍性を指摘した。
 弁護側は、自白調書は「取り調べ時の暴行によって得られた自供で任意性はない」と無罪を訴えた。
 鎌田被告は、小学生誘拐事件では「知り合いの男性が殺害し、遺体は頼まれて捨てただけ」、残りの事件についても「親交のあった会社社長が共犯者」と主張した。
 1998年2月4日の公判で、鎌田被告の自供調書など検察側申請の証拠百十点について、「任意性を認められる」として証拠採用した。
 1999年1月8日の論告で検察側は、「犯罪史上まれにみる悪質で凶悪な犯行。公判ですべての犯行を否認する態度には反省、悔悟や人間性のかけらもうかがえず、極刑が相当」と述べ、死刑を求刑した。検察側は「五人の女性を次々と殺害して尊い命を奪ったうえ、犯行を隠すためにうち四人の遺体をのこぎりで切断、バラバラにして山林に捨てた残虐非道な犯行。動機は自己中心的で酌量の余地はない」と厳しく指弾した。鎌田被告は、論告が女児の身代金要求の場面に移ると突然、「検察官は嘘ばっかりいっとる」と叫び始め、横田裁判長にたしなめられても顔を紅潮させて「百%嘘や」、「退廷したい」と勝手に発言を続けた。弁護団がなだめてようやくおさまったが、論告は三度にわたって中断した。
 2月3日の最終弁論で弁護側は、「それぞれの事件の犯人と被告を結びつける客観的証拠が極めて乏しい。捜査段階での自白は警官の暴行、脅迫によって得られたもので証拠能力はない」と無罪を主張した。
 判決で横田裁判長は鎌田被告の捜査段階の自白について「警察官から取り調べ中に暴行を受けたとする被告の供述は不自然、不合理で信用できない」と判断。「逆に、自白に基づき被害者の遺体が山中から発見されるなど自白の信用性は非常に高い」と述べた。
 そのうえで、金銭トラブルなどが殺害の動機であることや、それぞれ首を絞めて殺し遺体を捨てたことなどを認定。小学生殺害については「わずか9歳の女の子が泣きだすとちゅうちょすることなく殺害しており、冷酷非道極まりない」とした。
 しかし、小学生が行方不明になった後、学校にかかった身代金要求電話は「被告の自白はなく、当時、誘拐の事実が広く報道されており、第三者による便乗的犯行との疑いをぬぐえない」と判断した。
 そして「まれに見る凶悪かつ重大な犯行。動機は極めて短絡的で、刑事責任は極めて重大」とし、「反省しておらず、極刑はやむを得ない」と死刑選択の理由を述べた。

 2000年10月3日の控訴審初公判で、弁護側は一審に引き続き無罪を主張した。検察側も、身代金要求は有罪であるとして控訴した。
 判決で福島裁判長は捜査段階の自白について「警察官から取り調べ中に暴行を受けたとする被告の供述は不自然、不合理で信用できない」と判断。「逆に、自白に基づき被害者の遺体が山中から発見されるなど自白の信用性は非常に高い」と述べた。身代金要求罪についても、「身代金要求犯と鎌田被告の声紋が一致するとした警察側鑑定は信用できる」と有罪とした。

 最高裁で福田裁判長は「いずれも短絡的で身勝手な動機で、異常かつ残虐な犯行だ」「特に9歳の前途ある女児を殺害した上、安否を気遣う父親に対し身代金を要求した所為は冷酷、卑劣極まりない非人間的な所業というほかない。まな娘を奪われた両親ら遺族の被害感情が峻烈なのも当然だ」と指摘。「罪責は誠に重大で、捜査段階で自白し、反省の態度を示していたことなどを考えても、死刑とした一、二審の判断は、やむを得ないものとして是認せざるを得ない」と結論づけた。
その他
 鎌田被告は、一審で無罪認定された身代金要求について、二審では有罪認定されたため、控訴審では一審破棄、あらためて2件について死刑判決が下された。
その後
 2008?年、再審請求。棄却されたものと思われる。
執 行
 2016年3月25日執行、75歳没。
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氏 名
高根沢智明
事件当時年齢
 36歳
犯行日時
 2003年2月23日/2003年4月1日
罪 状
 強盗殺人、死体遺棄、建造物侵入、窃盗、窃盗未遂
事件名
 群馬県パチンコ店員連続強盗殺人事件
事件概要
 群馬県太田市の無職高根沢智明被告と、栃木県南河内町のコンビニ店員小野川光紀被告は、2003年2月23日0時30分頃、群馬県伊勢崎市のパチンコ店従業員の男性(当時47)を誘って小野川被告の乗用車に乗せ、群馬県宮城村の路上での首を絞め殺害。奪った合鍵で男性の勤務する店から現金300万円を盗み、遺体を埼玉県行田市の福川に捨てた。
 奪った金でブランド品のバッグや財布を購入したり、パチスロや風俗店で連日遊んだりして1か月で使い果たし、別の襲撃を計画。高根沢被告が以前に勤務したことがある別のパチンコ店従業員を襲撃する計画を立てたが、従業員の退店時間が特定できずに断念。さらに別の従業員襲撃も計画し、3月27日未明、パチンコ店駐車場で従業員を待ち伏せしたが、店から出た従業員がすぐに自分の乗用車に乗り込んだため失敗に終わった。
 4月1日午前2時10分頃、群馬県太田市の駐車場に停めた乗用車内で同市のパチンコ店従業員の男性(当時25)の首を絞め殺害した。さらに合鍵で店に侵入し金を盗もうとしたが、金庫が鍵のほかにダイヤル錠でも施錠されるなどしていたため開けることができず、あきらめて逃走し、遺体を福川に捨てた。
 高根沢被告と小野川被告は1996年8月頃、太田市のパチンコ店の姉妹店で働いて知り合った。高根沢被告は1998年に伊勢崎市のパチンコ店で働いていた。両被告は太田市のパチンコ店員の勤務先の常連客だった。
 最初の事件で奪われた300万円のうち100万円分が500円硬貨だったが、事件後、小野川被告が大量の500円硬貨を群馬県内の金融機関で両替していたことを捜査本部が突きとめ、2003年7月20日に両被告を1番目の事件の死体遺棄容疑で逮捕し、その後強盗殺人容疑で再逮捕。8月29日、2番目の事件の強盗殺人、死体遺棄容疑で再逮捕。
一 審
 2004年3月25日 さいたま地裁 川上拓一裁判長 死刑判決
控訴審
 2005年7月13日 本人控訴取り下げ、確定。
拘置先
 東京拘置所
裁判焦点
 2003年11月4日の初公判で、両被告はともに「間違いありません」と起訴事実を認めた。
 検察側は冒頭陳述で、別のパチンコ店従業員も殺害しようと計画していたが、失敗に終わっていたことを明らかにした。
 高根沢被告の弁護人は1番目の事件について「死因は窒息死だが、川で窒息死した可能性がある」として死体遺棄罪について無罪を主張した。また小野川被告の弁護人は「高根沢被告が計画から最後まで主導し、小野川被告は従属的だった」と主張した。
 3月5日の論告で、検察側は犯行の動機について「自らが享楽的な生活をするための金を手に入れることのみ」と指摘した。「顕著な残忍性、冷酷性を有し、反社会的性格は極めて危険で、もはや改善更生は不可能」などと断じた。
 判決で川上裁判長は、高根沢被告の主張について「首の骨が折れていることや、呼吸をしていないことを確認していることなど、遺棄する前にすでに死亡していたことを示すものばかり」として退けた。また小野川被告の主張について「いとも安易に犯行に加担し、第2の事件については積極的に犯行を計画し、主体的に犯行を遂行しており、両被告の刑事責任に差はない」と断罪した。そして「高根沢被告は主導的役割を果たし、小野川被告も安易に加担したうえ、犯行を積極的に計画した」と認定。「わずか2ヶ月の間に2度も殺害を繰り返した極悪非道な犯行。反規範的人格態度はもはや矯正不可能と言わざるを得ない」と述べた。

 高根沢被告の控訴審第1回公判は2005年7月13日に予定されていたが、被告が出廷を拒否し、同日、控訴も取り下げた。弁護人によると、高根沢被告は「死んでおわびしたい」「裁判を続けても結果が見えている」と話し、不安定な状態だった。
 弁護側は「被告は正常な判断ができない状態で控訴を取り下げており、無効」と主張、公判の続行を求めた。東京高裁は弁護側、検察側双方の意見を聞き検討。東京高裁(白木勇裁判長)は2005年11月30日、控訴取り下げを有効と判断し、訴訟終了を決定した。
 弁護側は特別抗告したが、最高裁第2小法廷(今井功裁判長)は2006年6月6日、弁護人の特別抗告を棄却する決定をした。
備 考
 共犯の小野川光紀被告は2009年6月9日、最高裁で死刑が確定。
その後
 2011年6月2日、第一次再審請求。2015年3月19日、第二次再審請求。
 2020年3月1日、第三次再審請求。
執 行
 2021年12月21日執行、54歳没。第三次再審請求中の執行。
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氏 名
松沢信一
事件当時年齢
 33歳
犯行日時
 1993年10月8日~12月20日
罪 状
 住居侵入、強盗殺人、建造物侵入、強盗殺人未遂、詐欺、銃砲刀剣類所持等取締法違反、火薬類取締法違反、強盗、器物損壊、傷害
事件名
 警察庁広域重要指定121号事件
事件概要
 下山信一被告(旧姓)は黄奕善被告らと共謀し、警察庁広域重要指定121号事件の主犯として以下の事件を引き起こした。
  • 1993年10月8日、下山被告、YS被告は静岡県沼津市のパチンコ店で、従業員2人をナイフで脅し、現金約1,050万円を奪った。この事件ではYS被告が中心的役割を果たしたとされる。
  • 10月27日、下山被告、黄被告、YT被告、YS被告、MT被告は滋賀県八日市市の金融業者の男性(当時53)宅へ押し入り殺害、上着ポケットにあった現金約160万円のほか、現金約1240万円在中の耐火金庫や高級腕時計等、合計3,000万円余相当の金品を奪った。
  • 12月10日、下山被告、黄被告、SH被告は、東京都足立区の金融業者に押し入り、現金を奪おうとして従業員の男性(当時56)の胸部を数回包丁で刺して重傷を負わせたが、騒がれたため金銭を奪うことができず、逃走した。
  • 12月12日、下山被告、黄被告は、群馬県高崎市のゲーム喫茶経営者の男性(当時40)を拳銃で射殺、約9万円などを奪った。
  • 12月20日、下山被告、黄被告、SH被告、MK被告は足立区の不動産賃貸業者の男性(当時59)方に侵入し、男性をハンマーで殴り、包丁で突き刺して殺害。現金115蔓延等鵜が入った金庫を奪った。
 他に下山被告は、SH被告、MK被告と共謀。1993年1月下旬、SH被告の外車の車体や窓ガラスをわざと壊したり、車の付属品となっているテレビを持ち出したりして警察に被害届を出した。契約している保険会社に「何者かに車を壊され、付属品も盗まれた」とうそを言って、同年3月、保険金375万円をだまし取った。

 下山被告、YS被告、MT被告の3人は1987年3月~1989年11月までの間に、姫路刑務所で知り合った。下山被告は友人のYT被告に依頼し、中国系マレーシア人の黄被告ら外国人殺し屋を名古屋周辺で雇い入れていた。
 下山被告、SH被告、YS被告らは数年前から自動車のあたり屋などを繰り返していた保険金詐欺仲間だった。

 八日市市の事件の捜査本部は、被害者の交友関係を調べるうちに暴力団組員YT被告が浮上。周辺の捜査で下山信一被告、YS被告らを含むグループが判明。1994年3月中旬、捜査本部は下山被告、YS被告を強盗殺人容疑で逮捕し、YT被告を指名手配した。下山被告、YS被告は取り調べに対し、その他の犯行も自供。3月30日、MT被告を逮捕。4月1日、黄奕善被告を逮捕。6月2日、YT被告を千葉県内で逮捕した。
 警察庁は4月18日、一連の事件を広域重要指定121号事件に指定した。
 5月10日、足立区の不動産賃貸業者に対する強盗殺人容疑で下山被告、黄被告を再逮捕。現場の見張り役だったMK被告、情報提供者のSH被告を新たに逮捕した。
 6月4日、足立区の金融業者に対する強盗殺人未遂容疑で下山被告、黄被告、SH被告を再逮捕した。
 6月20日、高崎市の強盗殺人容疑で下山被告、黄被告を再逮捕した。
 7月27日、沼津市の強盗容疑で下山被告、YS被告を再逮捕した。他に2人逮捕されたが、後に不起訴となっている。
一 審
 1998年5月26日 東京地裁 阿部文洋裁判長 死刑判決
控訴審
 2001年5月30日 東京高裁 龍岡資晃裁判長 控訴棄却 死刑判決支持
上告審
 2005年9月16日 最高裁第二小法廷 中川了滋裁判長 上告棄却 死刑確定
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拘置先
 東京拘置所
裁判焦点
 1994年10月21日の初公判で、下山信一被告は「全部の事件を黙秘します」と述べ起訴事実の認否を拒否した。弁護人は「起訴事実が証明されたら死刑という過酷な求刑が予想される」と慎重審理を求めた。
 弁護側は「被害者を殺してまで金を奪うことは計画してなかった」として強盗罪にとどまるなどと主張した。
 判決で阿部裁判長は、「強盗殺人を企てたと述べた共犯者の供述は信用できる。周到に準備された極めて計画的犯行で、被告は主導的、中心的役割を果たし、率先して殺害行為に及んだ」などと指摘し、強盗殺人を認定。「何ら責められる事情のない三人が殺されて一人が重傷を負った結果は極めて重大で、社会に与えた衝撃も大きい。事件の凶悪性や遺族の処罰感情などを考えると、死刑をもって臨むほかはない」と述べた。

 2000年11月8日の控訴審初公判でも、弁護側は「被告に殺意はなく、死刑は重すぎる」として減刑を求めた。
 判決で龍岡裁判長は「首謀者として果たした被告の罪はあまりに重く、死刑が重すぎて不当とはいえない」と述べた。

 2005年7月4日の上告審弁論でも弁護側は「相手を殺す認識はなかった」と殺意を否定、「深く反省しており、更生の可能性がある」「死刑は憲法違反」など、死刑判決の破棄を求めた。検察側は「いずれの事件でも殺意は明白。凶悪、重大な事件で死刑が相当」と主張した。
 判決で中川裁判長は「わずか2カ月の間に何ら落ち度のない3人を殺害した冷酷非道な犯行」と断じた。そして下山被告について「常に主導的地位に立って犯行を進め、奪った金銭の分配でも主導権を握って多額を得た。罪責は極めて重い」と指摘した。
その他
 黄奕善死刑囚は1996年7月19日、東京地裁で求刑通り死刑判決。1998年3月26日、東京高裁で被告側控訴棄却。2004年4月19日、最高裁第一小法廷で被告側上告棄却、確定。
 SH被告は1997年4月18日、東京地裁(阿部文洋裁判長)で求刑通り無期懲役判決。控訴せず確定か。
 YS被告は1998年1月20日、大津地裁(安原浩裁判長)で求刑無期懲役に対し懲役15年判決。強盗殺人で起訴されたが、安原裁判長は「犯行は悪質。責任は重大で酌量の余地はない」としながらも、「殺害までは予見できなかった」などとして強盗致死を認定した。1999年5月6日、大阪高裁(福島裕裁判長)は一審を破棄して強盗殺人を認定し、求刑通り無期懲役判決を言い渡した。2000年6月10日までに被告側上告棄却、確定。
 YT被告は1998年1月20日、大津地裁(安原浩裁判長)で懲役5年(求刑懲役10年)判決。強盗致死で起訴されたが、強盗致死ほう助を認定した。1999年5月6日、大阪高裁(福島裕裁判長)は一審を破棄して強盗致死を認定し、懲役8年判決を言い渡した。2000年6月10日までに被告側上告棄却、確定。
 MK被告は1995年3月31日、東京地裁(阿部文洋裁判長)で懲役13年(求刑懲役15年)判決。控訴せず確定。
 MT被告は強盗致死に問われ、1999年7月27日、大津地裁(安原浩裁判長)で懲役12年(求刑懲役15年)判決。被告側は控訴したが、その後は不明。おそらく棄却されたものと思われる。
備 考
 黄奕善死刑囚(分離公判)の主犯。旧姓下山。
現 在
 2014年時点で再審請求中。
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氏 名
堀江守男
事件当時年齢
 35歳
犯行日時
 1986年2月20日
罪 状
 強盗殺人、死体遺棄
事件名
 仙台老夫婦強盗殺人事件
事件概要
 宮城県仙台市の左官堀江守男被告は1983年2月20日午後2時頃、以前入院していた病院で同室だった仙台市に住む元国鉄北海道支社副支社長の男性(当時82)宅に金を借りに行き、断られたことから用意していた鉄棒で頭を数回殴ったうえ、電気コードで首を絞めるなどして殺害。室内を物色中、男性の妻(当時75)が帰宅したため、やはり鉄棒で殴り殺した。
 堀江被告は郵便貯金証書など額面約450万円相当と現金12,000円を盗んだあと、同日午後10時ごろ、二人の死体をビニールシートに包み、トラックで同市の松林に運んで捨てた。
一 審
 1988年9月12日 仙台地裁 渡辺達夫裁判長 死刑判決
控訴審
 1991年3月29日 仙台高裁 小島建彦裁判長 控訴棄却 死刑判決支持
上告審
 2005年9月26日 最高裁第二小法廷 今井功裁判長 上告棄却 死刑確定
 判決文「裁判所ウェブサイト」内のPDFファイルが開きます。リンク先をクリックする前に、注意事項をご覧下さい)
拘置先
 仙台拘置支所(2010年頃までは八王子医療刑務所)
裁判焦点
 弁護側は「必ずしも計画的な犯行とはいえない」としていたが、判決で渡辺裁判長は「凶器として使った鉄の棒を拾って以来、被害者宅を数度訪れて犯行の機会をねらっていた」と、弁護側の主張を退けた。そして「犯行は金銭欲から企てられたもので情状酌量の余地はない。本件は冷酷な計画的強盗殺人で、地域社会に大きな衝撃を与えており、極刑もやむを得ない」と述べた。

 弁護側は、「更生の意思があり、死刑判決は厳しすぎる」と控訴した。
 判決で小島建彦裁判長は「犯行は無抵抗の老夫婦を用意周到に殺害したまれに見る冷酷残虐なもので、遺族の被害感情や社会的影響も重大。若干物事を判断する能力に障害があることを考慮しても、原判決を破棄する理由はない」と控訴を棄却した。

 判決後、堀江被告の弁護士は再三にわたって最高裁判所へ上告するよう説得したが、堀江被告は「一、二審で死刑判決を受け、もう判決は変わらない。もうダメだ」などといって上告を拒否したが、後に上告。1992年に堀江被告は上告を取り下げたが、上告取り下げを無効とする弁護団の異議申立が認められた。最高裁第二小法廷(大西勝也裁判長)は1992年、職権で訴訟能力についての精神鑑定の実施を決めた。鑑定で、「上告取下書提出当時の精神状態は、拘禁精神病による幻覚・妄想の影響下にあったため、自己の意思を理性的に決定する精神能力を完全に欠如していた」「現在の精神状態は、…自分の重大な利益を防御し、理性的に自己の意思を決断し、かつそれを他人に了解可能な方法で表明する精神能力がまったく欠けた精神状態にある」との所見が示された。1993年5月31日付で、堀江被告は心神喪失状態にあるとして、公判手続きを停止する決定をした。心神喪失者の公判手続き停止を定めている刑事訴訟法の規定が、最高裁で適用されたのは初めて。
 1997年に再鑑定を行った結果、「訴訟能力がある」として1998年3月18日付で公判が再開された。
 2003年、3度目の鑑定を行った結果、公判続行に問題がないとされ、同小法廷は2004年7月、弁論期日を9月22日に指定した。9月22日の弁論で弁護人は「被告が心神喪失状態にある」として公判停止を求め、同小法廷は精神鑑定を行うか判断するため、再度弁論を開くことを決めた。上告審で弁論が2回以上開かれるのは異例。
 2005年7月15日の弁論で、弁護側は「心神喪失状態が続いており、被告に訴訟能力はなく、治療を受けて回復するまで結審するべきではない」と公判手続きの中断を求めたが、同小法廷は異議を棄却した。弁護側は事件について、周到な計画性はなかった▽当時、被告に責任能力はなかった--などと主張。これに対し検察側は「金品を取る強い決意があり、手順は計画的」「事件時の責任能力は認められる」としていた。
 判決で今井裁判長は「被告の完全な責任能力を認めた二審判決は正当。犯行は冷酷、非情、残虐で死刑はやむを得ない」と判決理由を述べた。
その後
 2014年8月21日に日本弁護士連合会人権擁護委員会事件委員、同年11月4日に同委員及び精神科協力医が本人と面会。協力医意見書にて、本人が長期にわたって拘禁精神病に罹患するうちに、もともと持っていた統合失調症の発病脆弱性が刺激され、拘禁精神病と統合失調症が重畳した病状を呈していると考えられる。重篤度については、幻覚妄想などの活発な精神病症状に人格ないし精神生活全体が支配され、正常な論理的思考力が大きく損なわれて、自らの置かれた状況について正しく認識することができなくなっていることから重症というべきであり、病識も完全に欠如している、との所見が示された。
備 考
 アムネスティの報告書によると、重度の精神病であり、病状は重く、判決の意味が理解できていないらしい。
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氏 名
陸田真志
事件当時年齢
 25歳
犯行日時
 1995年12月21日
罪 状
 強盗殺人、死体遺棄、窃盗、有印私文書偽造、同行使、詐欺、銃砲刀剣類所持等取締法違反
事件名
 SMクラブ連続殺人事件
事件概要
 双子の弟・陸田真志(むつだしんじ)被告は給料面などの待遇面に関するトラブルから、勤務先である東京都品川区東五反田のマンション内にあったSMクラブの乗っ取りを、双子の兄らとともに企てた。
 1995年12月21日午前10時30分頃、907号室のSMクラブの待合室で、店長の男性(当時33)が勤務明けで眠っているのを目にし、急遽殺害を思い立った。602号室で系列店の受付をしていた兄を呼び出し、事前に準備していた斧やハンマーなどを持ち出し、兄が店長の頭部を斧で殴り、真志被告がハンマーで頭を殴り、兄がバタフライナイフで上半身を刺し、真志被告が紐で首を絞めるなどして殺害した。兄は602号室の受付に戻った。
 午前11時30分に出勤したA被告と真志被告、さらに兄が遺体を902号室のユニットバスに隠した。
 真志被告は面接があるなどと嘘を言ってクラブの経営者の男性(当時32)を呼び出したが、兄は疲弊していたため殺害を断り、A被告と2人で実行。午後5時頃、経営者を907号室におびき入れ、真志被告が背後からハンマーで殴り、さらにA被告が押さえつけたところをバタフライナイフで何度も突き刺し、紐で首を絞め、斧で殴り殺害した。そして現金20万円(検察側は約50万円としていたが、裁判所にて約20万円と認定)が入った財布や乗用車の鍵、マンションの鍵などを奪った。
 翌日、経営者の遺体を902号室に運び込み、報酬としてベンツ2台と現金1000万円を支払うことを約束し、無職男性T被告に遺体の処理を依頼。T被告、暴力団員N被告、暴力団組員Y被告、暴力団組員M被告は2人の遺体を木箱に入れてコンクリート詰めにし、1996年1月21日、茨城県の鹿島港に捨てさせた。
 陸田真志被告は経営者の男性がSMクラブの経営に関わっていた痕跡をなくして犯跡を隠蔽しようと考え、12月24日深夜、東京都渋谷区内のマンションの経営者の住居に侵入し、クラブの書類関係を奪った。さらに翌日も侵入し耐火金庫を発見したが、重過ぎて運び出せずに一旦引き上げ。同日午後9時ころ、クラブの従業員の男性2名に金庫を707号室まで運び出させた。真志被告は金庫を破壊し、定期預金通帳等を奪った。
 真志被告とT被告は共謀し、1996年1月5日から9日までの間に、計3回、銀行から偽の委任状を作って現金2502万7548円及び額面500万円の小切手3通を騙し取った。
 他に真志被告は兄と共謀し、兄宅に拳銃1丁と実弾を保持した。
 SMクラブは真志被告が経営し、8月に発覚するまで1億3千万円以上の利益を出した。

 経営者の男性は慶応大学卒業後、大手不動産会社に就職したが1年ほどで退社し、自ら不動産業を始めたが失敗。1992年春に風俗店経営の友人の紹介で風俗経営コンサルタントと知り合い、セミナーに参加して経営のノウハウを教わった。1993年頃から品川区五反田でSMクラブの経営を始め、事件が起きたマンションの902号室、907号室、602号室の他、品川区や港区のマンション数カ所の部屋を借りて計6店舗まで拡大していた。
 陸田真志被告は1994年10月より従業員となって経営を見るようになり、経営者に売り上げを伸ばせば歩合を付け、新店舗ができたら任せると約束された。また1日の利益が基準を超えたら日当を増額する旨の約束もあり、陸田真志被告は努力の末売り上げを上げることに成功したが、約束は果たされなかった。さらに1995年2月には客だった男性を店長として雇い入れたため不満を募らせた。そして自分よりも高給であることや従業員への態度が悪いこと、禁止された売春を行っていることなどに反発し、経営者に文句を言ったが相手にされなかった。
 1995年8月、陸田被告の兄が従業員として入り、9月にはA被告が従業員として入った。9月ごろ、陸田真志被告は独立を計画したが資金不足で断念。11月頃、再び経営者に報酬の約束の件を持ち出したが「文句があったら辞めろ」などと言われ不満が爆発。乗っ取りを計画するようになった。

 2月、経営者の両親が警視庁に捜査願を提出。警視庁捜査一課と渋谷署は経営者の自宅を検証したところ、争った跡があり血痕が見つかったことなどから周辺を捜査。失跡後に無職男性が経営者の多額の預金を、経営者の通帳と印鑑などを使って下ろしていたことが分かったため、8月30日までにT被告を詐欺と有印私文書偽造、同行使の容疑などで逮捕。
 一方、現場の状況などから経営者は殺害された疑いが強いとみられ、同課では、兄宅など約二十か所を殺人と死体遺棄の疑いで家宅捜索した。その結果、短銃や薬物が見つかったため、8月30日までに兄を銃刀法違反容疑で、N被告を覚せい剤取締法違反容疑などで現行犯逮捕した。
 9月6日までに陸田真志被告が出頭し、詐欺他の容疑で逮捕された。
 9月6日午前、供述に基づき捜査本部は遺体の捜査に着手し、木箱を発見。木箱の中から遺体を発見した。
 9月25日、捜査本部は陸田真志被告、兄、A被告を強盗殺人他の容疑で逮捕、T被告、N被告、Y被告を死体遺棄容疑で逮捕した。26日、覚せい剤取締法違反罪で服役中のM被告を死体遺棄容疑で逮捕した。
 10月24日、真志被告とT被告を詐欺容疑で、Y被告とN被告をSMクラブ事務所に銃を隠し持っていたとして銃刀法違反容疑で再逮捕した。
一 審
 1998年6月5日 東京地裁 岩瀬徹裁判長 死刑判決
控訴審
 2001年9月11日 東京高裁 高木俊夫裁判長 控訴棄却 死刑判決支持
 判決文「裁判所ウェブサイト」内のPDFファイルが開きます。リンク先をクリックする前に、注意事項をご覧下さい)
上告審
 2005年10月17日 最高裁第一小法廷 泉徳治裁判長 上告棄却 死刑確定
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拘置先
 東京拘置所
裁判焦点
 1997年3月3日の初公判で陸田真志被告は強盗殺人などの起訴事実を大筋で認めたが、「(被害者二人から)金を奪う意図はなかった」と一部を否認した。兄は「経営者の殺害には加わっていない」と一部を否認した。A被告は「事前共謀はしていない」と起訴事実を否認した。
 1998年3月16日の論告で検察側は、真志被告について「殺害計画や凶器の選定などを主導した首謀者で刑事責任は極めて重く、自ら二人を殺害した」と指摘して死刑を求刑し、兄について「店長を殺害するなど積極的に加担し、真志被告に次いで重要な役割を果たした」と述べ、無期懲役を求刑した。
 判決で岩瀬徹裁判長は真志被告を事件の首謀者と認定。兄にも経営者殺害について「直接手は下さなかったが、死体の運搬などを手伝い、犯行の成功報酬を得ていた」と共謀を認定した。「計画的で悪質であることはもちろん、金銭欲を満たすために手段を選ばず、自己中心的かつ短絡的な態度が表れたもの」と両被告を厳しく批判。「犯行の執よう性、残虐性は目を覆うばかりで、刑事責任はいずれも極めて重い」などと述べた。そして真志被告に「被告は事件の首謀者として主導的役割を担い、共犯者を巧みに誘って犯行を実現した。殺害後に風俗店を乗っ取った行動は大胆不敵と言え、犯行の残虐性などを考えると死刑をもって臨むほかはない」と述べた。兄にも「事前にバタフライナイフなどの凶器を準備したほか、最初の犯行で被害者を殴ってその口火を切るなどし、関与がなければ乗っ取り計画は実現されなかった」と認定し、無期懲役を言い渡した。

 被告側は量刑不当を理由に控訴。
 控訴審で判決は「周到に計画された極めて残忍、冷酷非道な犯行」と指摘。陸田被告が起訴事実を認め、5000万円を遺族に渡すなど反省していることを踏まえても、「一審判決の量刑が重すぎて不当とは言えない」と述べた。

 被告側は量刑不当を理由に上告。弁護側は上告審で「犯行は計画的ではなく、深く反省している」と死刑回避を求めた。
 泉裁判長は判決で「店を乗っ取り、収益を奪おうとした一連の犯行であり、人の命を犠牲にして自己の利得を図ろうとした動機、罪質は悪質極まりない。周到に準備した計画的犯行で、殺害方法も残虐で、死刑とせざるを得ない」と理由を述べた。
付記事項
 兄は控訴審の途中から公判が分離された。2001年9月6日、東京高裁で被告側控訴棄却。高木俊夫裁判長は「周到に計画された残忍、非道な犯行で、一審の判決が重過ぎて不当とはいえない」とした。上告したかどうかは不明だが、無期懲役判決が確定。
 A被告は一審の途中から公判が分離された。1998年10月5日、東京地裁は懲役15年(求刑無期懲役)判決を言い渡した。中山隆夫裁判長は「兄弟が経営者になれば給料が良くなり、報酬金ももらえると考え、安易に犯行に加わった。殺害方法などの残忍性は社会に強い衝撃を与えたが、被告が実際に行ったのは経営者の体を押さえ付けるなど一部にとどまった」と述べた。
 T被告他は不明だが、実刑判決を受けたものと思われる。
著 書
 池田晶子、陸田真志『死と生きる―獄中哲学対話』(新潮社、2002)
執 行
 2008年6月17日執行、37歳没。
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氏 名
上田宜範
事件当時年齢
 37歳
犯行日時
 1992年6月19日~93年10月29日
罪 状
 殺人、死体遺棄
事件名
 警察庁広域重要指定120号事件(大阪愛犬家連続殺人事件)
事件概要
 大阪府八尾市の上田宜範被告は1991年9月頃から「犬の訓練士」を名乗るようになり、業界紙に広告を出して出資者を集めようとしていた。1992年5月末頃、長野県塩尻市内の知人が所有する休耕中の畑地を、「犬の訓練場にしたい」と借り受けた。その後、1992年6月~1993年10月29日までに、親交のあった犬のブリーダー(繁殖家)ら20~47歳の男女計5人を、知人の獣医からもらった筋肉弛緩剤を注射して殺害、死体はいずれも塩尻市内の訓練所予定地に埋めた。概要は以下。
  1. 1991年8月頃に勤務を始めた運送会社で知り合ったアルバイト仲間の男性と1992年5月に再会。男性(当時23)に「悪口を言いふらされた」と責められたため、1992年6月19日頃男性を呼びだし、酒を飲ませて眠らせたところへ筋肉弛緩剤を注射して殺害した。
  2. 1991年秋に愛犬雑誌を通じて知り合い、交際を続けていた男性にペットショップを開設しようと持ちかけ、現金を借り受けたが、男性(当時35)から約束のペットショップの開設資金を払うよう迫られたため、1992年8月頃、殺害した。
  3. 運送会社で知り合ったアルバイト仲間の男性(当時22)に犬の運動を手伝わせたが、アルバイト料を要求されたため、1992年8月頃、殺害した。
  4. 1992年10月頃に知り合った主婦に犬の繁殖の仕事を持ちかけ、1993年10月頃、出資金として80万円を引き出させたが、主婦(当時47)に犬の調達を迫られたため、1993年10月26日に殺害した。
  5. 1991年10月頃に犬の散歩中に知り合った主婦に1993年10月29日、マイカー内に置いたロッカーに隠していた主婦の遺体を見つけられたため、連れ去り殺害した。
 5番目に殺害された主婦の家族が捜査願いを出したため、大阪府警が捜査本部を設置。1994年1月26日、4番目に殺害された主婦の遺体が発見され、上田被告は逮捕された。
 他に静岡県内のパチンコ店員の男性(当時18)殺害も供述し、富士山麓の樹海で大掛かりな捜索が行われたが、遺体は見つからず、立件されなかった。
一 審
 1998年3月20日 大阪地裁 湯川哲嗣裁判長 死刑判決
控訴審
 2001年3月15日 大阪高裁 栗原宏武裁判長 控訴棄却 死刑判決支持
上告審
 2005年12月15日 最高裁第一小法廷 横尾和子裁判長 上告棄却 死刑確定
 判決文「裁判所ウェブサイト」内のPDFファイルが開きます。リンク先をクリックする前に、注意事項をご覧下さい)
拘置先
 大阪拘置所
裁判焦点
 上田被告は捜査段階で5人の殺害と遺棄を認めたが、公判では一貫して「調書は警察官の暴行で強要されたもので任意性、信用性がない」などと無罪を主張。弁護側は「死刑は違憲で死刑廃止が世界のすう勢」としたうえで、5人に注射した筋弛緩剤は致死量でない▽上田被告の供述と少し異なる場所から遺体が見つかるなどしており、自白は有罪の立証につながらない▽検察側が「筋弛緩剤を人間にも試したかった」などとした動機の証明は不十分――と主張していた。

 控訴審では、一審で弁護側が申請して退けられた上田被告の精神鑑定も行われたが、責任能力は問えるとされた。裁判長は、死刑は合憲としたうえで、一審と同様、調書の任意性については「警察官の暴行、脅迫で自白したと疑わせる状況はない」と判断。「供述通りに土中から被害者の遺体が見つかった」と供述調書の信用性も認めた。さらに「被害者が筋弛緩剤で窒息死した状況や被告人の動機にも不自然な点はない」と指摘した。

 最高裁で弁護側は、「警察官の暴行、脅迫によって作成された自白調書を証拠採用したのは違法で、被害者を殺害する動機もなかったから、被告は犯人ではない」「一・二審が認定した筋弛緩剤の量で殺害は不可能。自白調書の信用性も疑問がある」と無罪を主張したが、同小法廷は「記録を調査しても、死刑判決を破棄する事情は認められない」として退けた。
 判決理由で横尾裁判長は「何の落ち度もない5人を身勝手な理由で殺害しており、冷酷、非道な犯行。安易に殺人に及ぶ傾向が著しく、死刑を是認せざるを得ない」と述べた。
付記事項
 筋弛緩剤を同被告に譲渡した獣医師はその後、獣医師法違反の罪で罰金刑を受けた。
現 在
 2008?年、再審請求。2011年時点で第二次再審請求中。
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