日垣隆『そして殺人者は野に放たれる』(新潮文庫)


発行:2006.11.1



 「心神喪失」の名の下で、あの殺人者が戻ってくる! 「テレビがうるさい」と二世帯五人を惨殺した学生や、お受験苦から我が子三人を絞殺した母親が、罪に問われない異常な日本。“人権"を唱えて精神障害者の犯罪報道をタブー視するメディア、その傍らで放置される障害者、そして、空虚な判例を重ねる司法の思考停止に正面から切り込む渾身のリポート。第三回新潮ドキュメント賞受賞作品。(粗筋紹介より引用)


【目 次】
序章 通り魔に子を殺された母の声を
第1章 覚醒剤使用中の殺人ゆえ刑を減軽す
第2章 迷走する「責任能力」認定
第3章 不起訴になった予告殺人
第4章 精神鑑定は思考停止である
第5章 二つの騒音殺人、死刑と不起訴の間
第6章 分裂病と犯罪の不幸な出合い
第7章 日本に異常な犯罪者はいない?
第8章 闇に消える暗殺とハイジャック
第9章 心神耗弱こそ諸悪の根源
第10章 判決に満悦した通り魔たち
第11章 刑法四〇条が削除された理由
第12章 日本は酔っ払い犯罪者天国である
第13章 もう一つの心神喪失規定「準強姦」
第14章 女性教祖「妄想」への断罪
第15章 家族殺しが無罪になる国
第16章 人格障害者という鬼門を剥ぐ
終章 古今東西「乱心」考


 ノンフィクションライターである作者が1993年より取材を始め、当初は単行本で出版されるはずが筆が進まず、その後『新潮45』で連載され、2003年12月に新潮社より単行本刊行。2004年、第3回新潮ドキュメント賞受賞。2006年11月、新潮文庫化。

 刑法の第七章は犯罪の不成立及び刑の減免について定められている。このうち、裁判で最も焦点として挙げられるのが、心神喪失及び心神耗弱に書かれた刑法第三十九条である。

 第三十九条 心神喪失者の行為は、罰しない。
 2 心神耗弱者の行為は、その刑を減軽する。

 コトバンクから引用すると、心神喪失とは「精神の障害により、是非の弁別能力または行動を制御する能力を欠くことをいう」。心神喪失と判断されたら、多くは不起訴となる。裁判で心神喪失と判断されたら、無罪となる。無罪判決が出た場合は、検察官が地方裁判所に審判の申し立てをし、処遇(入院、通院、治療不要)を決める鑑定が行われるとともに、社会復帰調整官による生活環境の調査が行われる(医療観察制度のしおりより)。  心神耗弱とは「精神の障害により、善悪を判断する能力(是非弁別能力)またはこの善悪の判断に基づき自己の行動を抑制する能力(行動制御能力)が著しく劣っている場合をいう」。裁判で心神耗弱と判断されると、減刑される。

 刑事裁判では、心神喪失もしくは心神耗弱状態であったと弁護側が「責任能力」を訴えるケースが見られるが、認められることはあまりない。しかし認められた場合、心神喪失なら無罪となるし、心神耗弱なら減刑される。
 本書はその「責任能力」の認定に関し、被害者やその遺族から見た理不尽さについてまとめられている。
 覚醒剤やアルコール(海外ではアルコールや薬物を摂取しての犯罪では、心神耗弱も認めないとあると、ここでは書かれている)。分裂病などの精神病のみならず、騒音、受験などの外的要因、宗教などによる要因など、様々な「責任能力」についての事例を紹介し、その理不尽さについて語られている。
 確かに責任能力のないものを裁くことはできない。犯人に責任を取らすことはできない。法律はそうなっている。では、その「責任能力」の線引きはどこなのか。あまりにも曖昧である。裁判所によって判断が変わるケースもある(一審無罪、二審有罪など)。納得いかないところがあるのは、間違いない。
 さらに被害者やその遺族からしたら、犯人が責任能力を持っているか持っていないかなどは全く関係のない話である。ただでさえ理不尽に人の命が失われたのに、さらに裁かれないというのでは、司法に怒りを覚えてもおかしくはない。弁護側が心神喪失、心神耗弱を訴えることに怒りを覚える人もいるだろう。
 さらにマスコミには、責任能力のないものの実名は出てこない。被害者は実名が出されるのみならず、その私生活まであからさまにされる。確かにこの差も理不尽に感じる人はいるだろう。

 ただ、法律、裁判、報道といった内容がひとまとめに語られている分、まとまりのつかないものになっている。犯罪の被害者が置いてけぼりになっている点については共通しているのだが、理不尽さについて語られているだけで、それ以上のものがない。作者自身の結論については語られているのだが、単に作者の答えが最初からあるだけであり、理路整然としたものではない。
 もう少し分野ごとに整理してみてはどうだっただろうか。取材から導き出された感情の赴くままに書いている部分がある。話題が飛び飛びになっているので、結論が出てこないのだ。

 責任能力の問題について切り込んでいることは間違いない。そういう意味では、タブーに触れた一冊になっている。ただ、どうしても感情に訴える内容になっている。そして、被害者側の感情を無視するわけにもいかない。こう書いている自分も、どこに結論を持っていけばいいか、わからなくなる。正直言って、上の文章も全然まとまらないままで終わっている。ただ、犯人側の方に手厚い状況は是正されるべきだと思う。

 本書で取り上げられた事件は以下。戦前の事件はここに記していない。また、詳細がわからないなどで記載していない事件もあることはご了承いただきたい。


 1996年6月9日午後2時30分、兵庫県明石市のJR明石駅で土木作業員の男性N(当時47)は、近所の割烹店の跡継ぎで、店員の男性(当時24)が歩いているところをいきなり背中を刺して殺害。その5分後、交差点で信号待ちをしていた若い夫婦に襲い掛かり、身重の妻(当時20)をかばった夫(当時20)の右わき腹を刺して重傷を負わせた。Nは通行人に取り押さえられた。そのときに軽いけがをしたため、Nは病院に運ばれた。どちらもNとは面識がなかった。Nはその後逮捕されたが精神鑑定の結果、12月17日、不起訴となった。

 N・K(当時34)は1996年7月26日夜、名古屋市中区栄のマンション7階で、帰宅した写真店経営者(当時70)と妻(当時66)の胸などを文化包丁で刺して殺害、現金約10万円などを盗んだ。警察は当初、合鍵を持っていた長女夫婦を疑っていたが、7月30日、岐阜市で水に溶かした覚醒剤を注射し、農道で半裸姿で徘徊していたNを覚醒剤取締法違反で逮捕。Nの指紋が、夫婦宅に残されていた指紋と一致したため、8月に逮捕。N被告はこのほか、強盗致傷や強制わいせつの罪にも問われた。
 公判では、事件当時覚醒剤を使用していたとするNの責任能力が焦点となった。捜査での簡易鑑定は責任能力を認め、一審での2回の精神鑑定は、刑事責任を問えない「心神喪失」と、責任能力を限定する「心神耗弱」に結論が分かれた。2001年4月18日、名古屋地裁は「極刑に処するべきだが、覚醒剤使用による影響で心神耗弱状態だった」として、求刑死刑に対し一審無期懲役判決。2002年5月9日、名古屋高裁で検察側控訴棄却。上告せず確定。

 1996年7月2日午後5時45分、宮城県多賀城市の会社社長の男性(当時48)は、自社の駐車場で元社員U・Kに刃物でメッタ突きに刺されて死亡した。
 Uは1992年1月まで男性の会社の社員だったが無断欠勤が続いて退社し、その後は自分の会社を興して男性の会社から仕事を受注するも、納期を守らないことが多く、取引を打ち切られる。1993年11月26日、Uは会社を訪問し、社長に殴りかかって怪我を負わせた。社長は塩竃署に被害届を出すも、小さな事件だからと受理されなかった。さらに塩竃署は告訴取り下げを勧告。Uはその後も社用車を傷つけるなどの嫌がらせを続け、1994年8月9日、精神病院に入院し、精神分裂病と判断されるも、Uは人権擁護委員会と精神医療審査会に対し人権侵害であると訴え、退院請求を行ったため、10月1日には退院。その後も自活しながら嫌がらせを続けていた。
 Uは心神喪失で不起訴処分となった。

 1997年9月、栃木県で男性(当時58)が隣人の老姉妹を殺害。精神鑑定の結果、幻覚症による心神喪失だったとして、1998年3月11日に不起訴。

 1998年1月28日、群馬県内で母親が軽乗用車内で次男(生後三か月)を包丁で何度も刺して殺害、そのまま一時間ほど高速道路を走り、長男(当時5)を刺して怪我を負わせた。精神鑑定の結果、精神分裂病による妄想下での行為だったとして不起訴。

 1984年3月12日、H(当時26)は、歩行中の横浜市立高校一年生の四人をめがけ、ワゴン車を加速させて背後から跳ね飛ばした。N君を衣服ごと車のシャフトに巻き込んで約100m引きずり、角を曲がって駐車した後、用意していた登山ナイフを見せながら高校生に謝らせたうえ、倒れて動けなくなっていたI君、O君、T君を次々と刺し、車に戻る直前、再びI君とO君の顔面と瀬名kを刺した。I君は1週間後に死亡、他の三人も重傷を負った。取り調べに対し「あいつらの歩き方が悪かったからだ」と答えている。
 Hは前年7月18日、トラックを止めて荷物の調整をしていたスーパー店主を車中から罵倒し、車を降りてきて相手の左目を殴りつけ、傷害容疑で逮捕された。その後横浜市内の病院に通院し、精神分裂病の疑いを示唆されるも、四回の投薬を受けただけで通院を止めていた。
 二度の精神鑑定の結果、Hは精神分裂病と判断され、不起訴となった。Hは措置入院となったが、三か月後に開放治療に切り替えられ、その四か月後には自宅に戻っている。
 遺族は審査会に不起訴は不当であると訴え認められたが、検察は起訴しなかった。

 神奈川県平塚市の団地に住む無職O(46)は、5年前に引っ越してきた階下に住む会社員の家族がピアノを弾いたり、大工仕事で出したりする音に悩まされていた。特にピアノの音については再三注意をするものの、辞める気配をまったく見せなかった。仕事の方も退職させられて自棄になっていたところに、騒音でノイローゼ状態になっていたOは殺人を決意。1974年8月28日午前9時10分頃、会社員方で妻(33)、長女(8)、次女(4)の3人を、刺身包丁で複数回突き刺して殺害。このとき「迷惑かけるんだからスミマセンの一言位言え、気分の問題だ、来た時アイサツにもこないし、馬鹿づらしてガンとばすとは何事だ、人間殺人鬼にはなれないものだ」と襖に書き付けている。その後、Oは海で死にたいと思いさまよったが死にきれず、三日後に自首した。
 ピアノ騒音に悩む人たちから同情の声もあがったが、1975年10月20日、横浜地裁小田原支部で死刑判決。弁護人が控訴。控訴審の精神鑑定で、Oはパラノイアで事件当時の責任能力はないという鑑定がなされたが、拘置所内の騒音に悩まされたOは鑑定書が提出される前に控訴取下書を提出。弁護人によって異議申立も提出されたが、1977年4月16日、取り下げが認められ、死刑判決は確定した。

 1982年10月6日、大学生のM(当時22)は、テレビの音がうるさいと、下宿先の大家の女性(当時95)とその次女(当時65)を包丁で刺して殺害。さらに「子どもの声がうるさい」と隣家の女性(当時44)と長男(当時10)、次男(当時4)を包丁で何度も刺して殺害した。
 Mの父親は元中学教師で、国立市議会の文教委員、共産党市議団長を務めていた。母親も元教師で共産党系の組織に勤めていた。Mは大学入学後、両親から民青(共産党下の青年組織)をオルグされるも拒絶し、家を出て下宿を始めた。しかし帰宅中の小学生を怒鳴ったり、近所にテレビを消せとクレームを付けるなどの奇行が激しくなり、大家は父子を呼び出して出ていってほしいと懇願するも、Mは大家二人を罵倒し、父親は頭を下げるばかりだった。
 Mは犯行後、服を着替えて外出するも、逮捕された。精神鑑定の結果、精神分裂病による心神喪失状態であったとして不起訴になった。Mは1983年3月24日、措置入院したが、10月31日に解除。ただし入院先では「幻覚妄想は一切なし」と診断され、殴打事件を三度起こしている。しかし両親が帰宅を拒否したため、入院を続けた。

 1971年10月3日、神奈川県足柄下郡で、中学三年生の男子F(当時15)は、後輩の一年生女子(当時12)を近くの山へ誘い出し、人目につかない場所で遊びと偽って女子を後ろ手に紐で縛り目隠しをしたが、そのまま棍棒で頭を殴り、紐で絞殺した。Fは卓球部の部長を務めていたが、同じ部の後輩である女子が生徒会役員の立候補にするので応援演説を頼まれていたが、演説をしたくなかったため、演説日の前日に殺害したものだった。
 女子の両親が当日に捜索願を出し、Fも捜索活動に加わっていた。3日の真夜中に遺体が発見。二人が一緒にいた目撃証言や、遺体の周辺に残された靴跡からFが容疑者として浮かび上がり、逮捕された。
 Fは中学一年生の時、近所の四歳下の女の子が呼び捨てにしたという理由で自宅に呼び出し、首を絞めていたところを母親に見つかり、庭の池に女児を投げ入れて逃げだした。それぞれの学校の担任が間に入り、事件は表に出なかった。
 Fは医療少年院に送られた。入所中の医療検査により、Y染色体を二個持つ性染色体以上が確認されているが、F本人には伝えられなかった。Fは1年11か月で出院し、その後米国で修業。帰国後、調理師として働いていた。Fは他人の首筋や鎖骨を触ると異常に興奮するという性癖を持っていた。
 1987年2月28日夜、F(当時30)は港区のスナックでたまたま会った渋谷区の通信教育学生の男性(当時22)が米国留学予定と聞いて自らの体験を話すうちに意気投合。3月1日午前2時、新宿区にある自らのマンションに誘い、酒を飲み始めた。しかし部屋にあったタオルで男性の首を絞めて失神したところを後ろ手に縛り、ガムテープで目隠しして足を紐で拘束したうえ、鎖骨の窪みへの愛撫を繰返した。しかし男性が意識を取り戻して暴れたので、肉包丁の柄で後頭部を何十回も殴りつけ、ビニール紐で絞殺。死体をマンションの非常階段に放置した。
 Fはその日も普通通りに出勤。5日、牛込署は傷害致死容疑でFを逮捕。裁判では殺意のみに焦点が絞られ、Fの性格については触れられなかった。東京地裁は殺人罪でFに懲役12年の実刑判決を言い渡した。しかし1998年9月8日、東京高裁はFに殺意はなかったと認定して一審判決を破棄、傷害致死罪で懲役7年を言い渡し、確定した。
 Fは出所後、母親の強い願いで精神病院に入院するも、同じ行為を繰り返したとのことだが、報道がないため詳細は不明である。

 1992年5月31日午後4時過ぎ、埼玉県入間郡のパチンコ店員T(当時43)はアパートの自室で同居するスナックホステスの女性(当時32)を殺害。Tは勤め先に殺害したことを伝えた後、女性の車を無免許運転し逃亡。運転中に人身事故のひき逃げ事件を起こしている。勤め先の店長が午後9時50分ごろに部屋を訪れ、遺体を発見した。
 女性は既婚で子供二人がいたが、Tと結婚を約束。Tは2月20日ころにアパートを借り、同居していたが、離婚話は進んでいなかった。さらに女性には多額の借金があり、女性が家事をしないということでTとの口論が絶えなかった。
 Tは指名手配され、6月5日、東京都練馬区内にいたところを逮捕された。
 弁護側は、Tが心神喪失もしくは心神耗弱だったと主張。1992月12月18日、浦和地裁川越支部は殺人罪でTに懲役9年(求刑懲役12年)を言い渡した。しかし東京高裁は無免許運転、人身事故、轢き逃げについては心神耗弱状態であったと認めて一審破棄、懲役7年を言い渡し、確定した。

 1980年8月19日21時過ぎ、新宿駅西口バスターミナルで停車中の京王バスに、建設作業員M(38)が後部乗降口から火のついた新聞紙と、ガソリンが入ったバケツを放り込んだ。炎の回りは早く、乗客6人が焼死、22人重軽傷。Mは現行犯で逮捕された。Mは1973年に精神分裂病の疑いで4か月間の入院歴があった。
 Mは建造物以外放火と殺人他の罪で起訴。1984年4月24日、東京地裁はMが事件当時心神耗弱であったとして罪一等を減じ無期懲役判決(求刑死刑)。1986年8月26日、東京高裁で検察側控訴棄却。上告せず確定。
 Mは服役中の1997年10月、千葉刑務所作業場の配管にビニール紐をかけ、首吊り自殺。55歳没。

 1981年6月17日、東京深川の商店街で、元すし職人K(29)が主婦二人(33)(29)、幼児二人(3、1)を包丁で刺殺、女性二人に重軽傷を負わせた。さらに別の主婦を人質にして中華料理店に立てこもった。約7時間後に逮捕。就職を断られたことが直接の動機だが、血液と尿から覚醒剤が検出された。また立てこもっているときも「黒幕を出せ」「電波を送られる」などと叫んでいた。
 心神耗弱という鑑定結果から、検察側は死刑ではなく無期懲役を求刑した。1982年12月23日、東京地裁は求刑通り無期懲役判決を言い渡した。Kは当初は控訴する予定だったが、担当の国選弁護人が説得してやめさせ、一審で判決確定。

<リストに戻る>