本書の題名は、「死刑のすすめ」としたが、本書では、互いにその意見が対立する死刑廃止論者たちと死刑存続論者たちの何れが正しいかを検証する。本書では、死刑実施の是非とともに、刑一般の軽重も論じられる。というのは、死刑廃止論者と死刑存続論者との対決は、刑一般をより軽くしてほしいと願う人々と刑一般をより重くしてほしいと願う人々の対決であると考えるからである。死刑廃止は、刑一般を軽くしたときに生ずる当然の帰結と考える。
前提として、この書は被害者サイドに全く咎が認められないケースのみを扱う。例として、強盗殺人事件、誘拐殺人事件、婦女暴行殺人事件、保険金殺人事件、スリ、痴漢行為etc。この前提は、勿論刑の軽重を論じやすくするためである。被害者にも若干の咎が認められ、被害者がいささかでもその報いを受けたのであれば、犯人の刑の確定には、被害者の咎の見積もりが必要になる。
また本書では、被告の有罪性が疑い得ないケースのみを扱う。過去に警察の見込み捜査によって、冤罪事件が少なからず発生した。死んでから無罪が確定したものも存在する。勿論真実のところはよく分からないが、警察の捜査に問題があったことは確かである。本書では、初めからその有罪性について、全く疑い得ない犯人がこの世に存在すると仮定して、議論がすすめられる。勿論疑おうと思えば何でも疑えるが、しかしそれではデカルトの哲学の世界に入ってしまうのである。
【目 次】
第一章 刑雑感
第二章 未成年及び精神病者、弁護士
第三章 ドメスティックバイオレンス
第四章 死刑廃止理由
第五章 報復
第六章 情状、検察、裁判官
第七章 性悪説
第八章 人権及び更生
第九章 ドナーカード
第十章 抑止力
作者の長田鬼門という名前は初めて見た。著者紹介もないし、自費出版を取り扱う中央公論事業出版より発売されていることからすると、多分一般人だろう。別に学者でなければ死刑論を語ってはいけないといういうつもりはないので、そこは間違えないでほしい。
書かれている内容なのだが、これがどうもまとまりのないものなので困ってしまう。「死刑廃止論者たちと死刑存続論者たちの何れが正しいかを検証」するという割には、肝心のその論者たちの意見そのものが取り上げられていない。論の検証というのに、その論がどこから引用されているのか、などといった初歩的なことがなされていない。常に「死刑廃止論者は〜」「人権団体は〜」「弁護士は〜」「犯人は〜」の繰り返しだけであり、誰が、いつ、どこで、何を言ったのか、という当たり前のことに一切触れられていないので、書いてある内容に説得力が欠ける。
書いてあることは、“論”と仰々しく銘打たれるほどのことはない。ただ、統計などで賛成する人たちが死刑に対して考えることは、何も難しい論を必要とするわけではない。「人を殺した人は死刑になるべきだ」「何でこんな残酷なことをした犯人が死刑にならないんだ」という意識ぐらいしか持ち合わせていない人もいるだろう。しかしそれは、ごく当たり前の感想ともいえる。「人を殺してはいけない。だから、人を殺した人は、死刑になって当然」。この単純な論法を覆すのは、容易なことではないはず。
例えばオウム真理教事件を考えれば簡単だ。「あれだけ悪いことをしたから、サリンを撒けと指示をしたから、麻原は死刑になって当然だ」。これは、日本国民の多くが持ちあわせている意見だと思う。死刑廃止論者や弁護士などが「麻原を死刑にする前に、なぜオウム真理教が生まれたか、なぜ頭脳明晰な人々が彼に従ったかを考えるべき」「麻原を死刑にしたら、事件の真相が闇に消える」などと“正論”を口に出したとしても、「悪いことをした」事実が消えるわけではない。単純明快な意識を覆すのは、とても難しい。
これを一部の“人権論者”は「日本人は人権意識を持ち合わせていない」と非難するのだが、これは単に自らの意見が通らないことを別の理由に置き換え、自らが優越感を持つための手段としているに過ぎない。はっきり言ってしまえば、彼らは自らの意見が通らない人物を差別しているのである。
以下、書いてある内容を抜粋する。
第1章は本当に雑感しか書かれていない。内容もあちらこちらに飛ぶ。抜き出してみるとこんなところだ。
日本の量刑は短い。刑期短縮を望むのは、反省していない証拠だ。反省していない服役囚は、刑を伸ばすべき。自首に対する過大な評価は誤り。死刑回避は死刑廃止論者たちにとって大勝利、被害者サイドにとっては大敗北。被害者本人不在の裁判は、犯人に有利に働く。一人殺しただけでは7〜10年程度の刑期で済むのは誤りだ。少年に対する刑が甘すぎる。ヤクザにも刑が甘すぎる。殺人の時効15年(当時)は短い。死亡保険金制度の改革が必要。日本は死刑廃止論者たちや人権擁護者たちや弁護士たちのおかげで、犯罪者の天国になった。死刑の犯罪抑止力を過小に評価するのは誤り。死刑廃止論者に女性が多いのは、女が持つ一般的な欠点である、目の前の現象しか見ることができないためである。
第2章は抜粋するとこんなところか。
凶悪犯罪を犯す少年は、大人の犯罪者よりたちが悪い。少年犯罪の写真や名前をさらすのは、人権蹂躙ではなく、当然のことだ。
少女暴行殺人や保険金殺人など分かり切った事件で、精神鑑定を請求する弁護団の意図が分からない。鑑定をするのは弁護団の方だ。精神異常があるから無罪にするというのは大きな間違いである。正常者に比べて異常者が判断能力に劣るのであれば、逆に刑を重くしないと危険だ。
弁護士がしていることは、見込み弁護もしくは決めつけ弁護だ。弁護士は被告の真実に興味を持たない。検察を妨害することのみに思考する。
薬物服用者が無罪というのは誤り。薬物服用は法律で禁止されているのだから、薬物殺人者は全て死刑にすべきだ。
第3章は大体こんなところ。
児童虐待については、犯罪者を長期の懲役によって徹底的に懲らしめること。児童虐待について、疑わしきはすぐに実行。死刑廃止論者は子供が可哀相ではないのだ。だから彼らは「被告を赦せ」と言う。死刑存続論者は、子供が可哀相でとてもそんなことはいえない。児童虐待殺人者を、一度死刑にしてみろ。それで虐待が減るのであれば、喜ばしいことはない。
第4章は死刑廃止理由について考えている。
第1は、死刑より無期懲役の方が実は重いという意見である。しかし、犯人が後悔しない場合はどうなるのだろうか。
第2は死刑に犯罪抑止力がないというもの。しかしそれは、現代の死刑は極希な実施と非公開主義であるからだ。適用件数を大幅に増やし、処刑の模様を後悔すれば様相は違ってくる。そのとき初めて、死刑の抑止力が問われることになる。
第3は死刑制度が存在すると、犯人は捕まると死刑しかないと考えて、犯行を重ねる懼れがあるというもの。しかし死刑が廃止されると、逆に犯人は何人殺しても無期懲役と考えるのではないか。
第4は冤罪事件の可能性。これについては、最初に断っている。ただ、人間がすることであるから、冤罪を完全になくすことは不可能である。冤罪者には、運が悪いと、あきらめてもらう意外にない。
第5は死刑が単純に人権に反するというもの。これは別に項を設ける。
第5章は報復について。ここで報復は正当な権利であることが簡単に書かれている。
第6章は情状、検察、裁判官について。
弁護側は育てられた環境を理由に情状酌量を求めるが、それは間違いだ。提案であるが、被告の有罪審議裁判と、有罪決定後の具体的な刑の宣告裁判を切り離すのである。有罪決定後に、裁判官を入れ替える。被告に一度もあったことのない裁判官に総入れ替えするのだ。そうすれば、弁護士のテクニックによって加害者が被害者に祭り上げられて刑が少なくなるということもない。
検察はサラリーマンであり、殺人事件は毎度のことである。彼らは求刑についてそれまでの経験と判例から、常識的なところで手を打つ。検察が満足する刑と、被害者サイドが満足する刑が同じにならない。
裁判官は死刑判決において、「自分が殺す」と錯覚する。自信が国民の意思の代行者であることを忘れ、一個の人間として苦しむ。愚かな錯覚である。
恩赦とか特赦はおかしな制度である。服役囚が早めに出てきたら、被害者サイドは悲しむ。国民的慶事で服役囚に喜んでもらうのであれば、悲しみにうち沈む犯罪の犠牲者サイドにも喜んでもらわなければならない。それには、服役囚の刑を重くする必要がある。無期懲役囚は、死刑にするとかである。
第7章は性悪説。
「被告を犯罪に導いた社会が悪い。被告に罪はない。彼はむしろ犠牲者である」。これは、弁護士や死刑廃止論者がしばしば展開する主張である。これは、社会をよくすることが、現実にはいかに難しいかを全く分かっていない。
死刑存続論者は、人間は先天的に善性も持つが、悪性も持つと考える。これは当たり前の話である。そして社会は、人間の持つ先天的な悪性を、多くの局面において抑制しているのである。人間には、犯罪体質が本質的に備わっているのであり、犯罪との闘いは人類において不滅であり、永遠に逃れることはできない。これが、死刑廃止論者と決定的に異なる点である。
第8章は人権及び更生について。
死刑廃止論者は、殺人犯人を殺さないことで、人を殺すことを認めている。どんな悪事を働いても、被告を殺さないのであれば、人を殺しても悪いことではないのだ。
犯罪者を少しでも赦すことはとんでもない間違いである。罪もない人を殺すことが、人権に反するから死刑にするのだ。被告を殺さないことは、明らかに人権に反する。
殺人犯人が、自身の事情を持ち出して、死刑を免れるのであれば、人間は、他人の都合によっては、いかなる理由があっても、決して殺されない権利を持たないのである。他人の勝手な都合によって、殺されても仕方がないのだ。死刑廃止論者や人権擁護者は、人間の死を軽く見過ぎる。人間の命を明らかに侮辱している。
死刑によって、被告の事件が損なわれても、その原因は、被告自身にある。自身が原因で生じる自身に対する人権侵害は、人権侵害とは言わない。
被告の弁護人や死刑廃止論者たちがよくやるように、被害者の人権を省みず、被告の人権のみを、絶対的なもののように喚くのは、幼稚で、卑劣きわまりない行為である。
死刑廃止論者は、被害者サイドにも、裁判官にも、被告を赦すべきであると迫るのが常である。被害者サイドは、被告を赦すのが、人間として正しい道であるという。なぜ被告にも完全に償え、償えと迫らないのか。凡人である被害者サイドに聖人のように振る舞えと責めながら、被告は凡人のままで放置する。これは汚い欺きである。
妥協案は簡単だ。双方とも、聖人のように心を大きくするのだ。被害者サイドは被告を赦す。被告は赦されたのにも関わらず、進んで死につく。これが最も美しい解決方法である。
第9章はドナーカードについて。
提案として、「処刑カード」を挙げている。万が一犯罪に巻き込まれ、その犠牲になったと仮定して、本人がその際犯人の死を望むか否かをあらかじめこのカードに記録しておくのである。被害者本人の意思が、法廷に登場するのである。個人の意思を尊重し、少数意見及び個人意見も尊重するという民主主義の大原則に沿っている。死刑存続、死刑廃止いずれにしても、個人の意志が無視される事態が生ずる。「処刑カード」はその矛盾を解消している。
第10章は抑止力について。
内容の抜粋ではあるが、話が色々な方向に飛ぶため、作者の本当に言いたいことを抜き出すことができていないかもしれない。それは、私の責任である。
いずれにしても、研究者でない人物が書いたからこそ書くことができた、かなり過激な論法である。この挑戦に、死刑廃止論者は応えることができるであろうか。
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