警察、検察、裁判官が自らの能力を過信し、傲慢になったとき、冤罪事件は簡単に起こる。
曖昧な目撃証言のみによる逮捕、それに続く自白の強要。たとえ目撃者が証言を撤回したくても警察はそれを認めないという、信じられないような実例を、次々と紹介し検証する。
「自白をすれば証拠をみせる」「(警察の)暴行の事実はなかったと
【目次】及び内容
警察が捏造した「目撃証言」
1981年8月3日、アパート2階に住む女性(32)が風呂場を覗かれた。110番通報後の目撃証言を元に、偶然現場近くを歩いていた男性(33)が逮捕された。女性は自信がなかったが、自白しているとの警察官の言葉を信じ、面通しで男性が覗いたと証言した。男性は実のところ否認していたが、仕事であるタクシー運転は歩合制のため、いつまでも留置場にいるわけにはいかず、検察官の指示通りに自白調書を作り捺印。略式手続で罰金を仮納付する手続きをして釈放された。ところが男性は気になり、被害者である女性のところへ行き確認。さらに会社の上司に訴えると上司は無罪を信じ、裁判となった。ところが、男性に労働組合がついたことで警察の態度が硬化。女性は警察に何度も目撃証言の撤回を求めるが、警察は受け付けなかった。1984年4月23日の地裁判決では有罪、罰金1万円の判決。1985年4月30日の東京高裁判決では、女性の目撃証言で犯人を特定することは不可能と断定、無罪判決が言い渡され、そのまま確定した。
遅すぎた雪冤
松尾政夫氏は1954年8月13日に女性(21)を強姦してけがを負わせたとして、1955年12月23日に熊本地裁で懲役3年の判決を言い渡された。1956年4月13日、福岡高裁で控訴棄却、そのまま確定した。松尾氏警察で一度自白したものの、その後は無罪を主張。満期出所後は再審請求を続け、13度目の請求が通り1988年3月28日、熊本地裁で再審開始の決定が出されてそのまま確定した。しかし松尾氏は5月5日に食道静脈瘤破裂により死亡。享年71。公判で検察側は全く争おうともせず、求刑も行われずに2回で結審。1989年1月31日、熊本地裁は松尾氏に無罪判決。そのまま確定した。
裁判所が創作した「新事実」
1975年12月20日午後9時25分頃、新潟県東蒲原郡を通る国道49号線で、車に轢かれた男性の死体が発見された。被害者は酒を飲んだ友人と別れて駅に向かう途中、泥酔して路上に寝込んでしまったところを、頭から胸部にかけてくる間に轢かれたとみられた。
仙台市内の運送会社に勤めるトラック運転手の男性(20)は事件時刻前後、その国道を通りかかっていた。警察の任意調査で調べられたトラック右後輪に大きなシミがついているのが発見された。後日、血痕、毛髪、肉片などが車体の各部に付着していたと実況検分調書に記される。しかし警察に調べられる前、会社でトラックをチェックしたときにはそのようなものは何も見つかっていなかった。さらに自白調書では供述と全く違う内容が書かれ、抗議しても受け付けられずに捺印する羽目になった。
2ヶ月後、業務上過失致死で起訴。新潟地裁での公判で、検察側は右後輪の大きなシミにおける鑑定結果を提出。弁護側は北里大教授に再鑑定を依頼。その結果、人血痕の付着は認められないという鑑定結果を提出した。さらに成蹊大工学部教授は、本件事故でこのシミのような被害者の血が付着することは有り得ないという鑑定結果を提出した。検察側はさらに新潟大教授による新たな鑑定を請求。弁護側は反対したが裁判所は期日外に再鑑定を決定。その結果、タイヤのシミは人血であるとの結論が出された。ただしこの鑑定方法はまだ実用化には乏しいものだった。さらに弁護側は、逮捕前に国道であった検問や、任意調査前に会社の人たちがチェックしたときにはシミが発見されなかったことなどを追求。また未提出の供述調書や被害者のシャツ、検問票などの提出を求めたが検察側は認めず、裁判所も却下した。
1982年9月3日、新潟地裁で禁固6ヶ月、執行猶予2年が言い渡された。しかも裁判所は、検察側ですら主張していない事故態様、アリバイの認定などについて、事実を「創作」し、被告の罪とした。
1984年4月12日、東京高裁で控訴棄却。しかし1989年4月21日、最高裁第二小法廷は原判決を破棄、無罪判決を言い渡した。事故から13年4ヶ月後のことだった。差し戻しせずに無罪を言い渡すのはきわめて稀なことであった。
1991年1月7日に男性は弁護士とともに国会賠償訴訟を起こした。相手は国と起訴した検察官、一・二審の裁判官6人である。だが一・二審とも請求は退けられ、2003年7月に最高裁第二小法廷は上告を棄却し、確定した。
「法医学鑑定」の欠陥部分
1984年3月23日朝、横浜市の会社員Yさん(45)が起きたところ、隣で寝ていた妻のNさん(44)が亡くなっていた。Yさんはすぐに病院等に連絡を入れた。ところが警察がやってきて、Nさんは変死扱いということで解剖、扼殺と判断され、Yさんが逮捕された。取り調べで「自白」を強要。Nさんは重い心臓病であり、裁判で弁護側は、死体に扼痕が残っていない、頭部内出血は薬によるものであり、病死であると主張。第三者鑑定で東大法医学教室が乗り出し、I教授は殺人と判定。ところが裁判所は、弁護側が要求した第四鑑定を認め、藤田学園保健衛生大学法医学教室のN教授は病死と判定。1987年11月、横浜地裁無罪判決。検察側は控訴せず、そのまま確定。
なぜ虐待される女性被疑者
1988年2月2日午前1時過ぎ、スナックの女性店長(35)が帰る途中に無免許ならびに酒酔い運転で警察に捕まった。女性は長野南警察署に連れて行かれ取り調べを受けたのち、薬の疑いをかけられ、女性補導員の目の前で裸にさせられた。生理中のタンポンも外させられた。翌日には、トイレで採尿させられた。採尿は礼状がない限り任意提出となるのだが、警察はそのことについて一言もいわなかった。しかもトイレの扉は半開きにさせられ、後方には男性警官もいた。さらに車の持ち主である内縁の夫も警察に呼び出され、共犯として取り調べられた。女性は結局3日後に釈放。略式裁判で二度の無免許運転と飲酒運転で罰金18万円を受けた。
ところが2月19日、信濃毎日新聞の記事で、県警が覚せい剤摘発を狙って全逮捕者から採尿していたことが判明。人権侵害、違法捜査の疑いが濃厚だった。女性は弁護士に相談し、陳謝を要求したが警察署長は適法であるとの返答。女性は長野県警を相手取り、330万円の慰謝料等を求める国家賠償書証を起こした。1990年11月15日、長野地裁は強制採尿は違法でないとしながらも身体検査は違法であるとして35万円の支払いを命じた。県警側が控訴したため、原告側も控訴。1992年9月24日、東京高裁は双方の控訴を棄却。1997年11月、最高裁第二小法廷は双方の上告を棄却し、一審判決が確定した。
なお残る警察の暴力的体質
1984年10月21日午後10時過ぎ、スーパーの駐車場に車を止めて話をしていたところへ、取り締まりのパトカーが到着。境署の巡査部長が運転手の男性1名の胸ぐらをつかんで尋問し、さらにパトカーに押し込んで署まで連れていき、無理矢理長時間尋問。男性の友人が無免許運転をしたと強引に決めつけた。翌日、男性とその友人が境警察署に出頭させられ、再び尋問。巡査部長は頭を殴ったりの暴力を繰り返した。警察署に訴えたが、捜査を強引に進めるため、友人の父親は弁護士に相談。弁護団は巡査部長を特別公務員暴行陵虐罪と同致傷罪で告訴するとともに、水戸地方法務局人権擁護課と水戸弁護士会人権擁護委員会に調査警告を申し立てた。さらに茨城県警宛に巡査部長の処分を求める懲戒処分を請求した。このとき茨城県警は制服、私服の警察官20人ほどがガードして、本部に入れさせなかった。
11月29日、水戸地検は不起訴を発表。地検側から不起訴事件を公表するケースは異例。翌年12月7日、弁護団たちは付審判請求を水戸地裁に提出した。
水戸弁護士会は1985年4月28日、県警本部長と堺署長宛に警告書を発した。しかし県警は本部長名でこの警告書を水戸弁護士会に送り返した。
1988年4月25日、水戸地裁は巡査部長を特別公務員暴行陵虐罪の被告人として水戸地裁下妻支部の審判に付する決定を出した。ただし、同致傷罪については診断書等がないことから退けた。1993年4月21日、地裁は無罪を言い渡した。
接見禁止が招いた虚偽の自白
1985年4月11日、大学女子寮で深夜強姦未遂、ならびに現金37500円が奪われる強盗事件が発生。板橋署の捜査で7月17日、会社員の男性(23)が逮捕された。その男性は5月28日に別の窃盗罪で逮捕、後に3件の窃盗事件で起訴され、豊島簡易裁判所は7月17日に懲役1年6月、執行猶予3年を言い渡したばかりだった。証拠があったわけではなく、男性は強盗強姦未遂事件については無罪を主張し、かつアリバイを主張した。7月22日、依頼のあった弁護士が板橋署に赴くが、接見禁止がついたため面会することができなかった。尋問に屈し、男性は自白。しかし裁判では無罪を主張。証拠である靴が男性のものではないこと、残された足跡が男性と一致しないことが判明。さらに自白調書を取った板橋署の係長へ弁護人だけでなく裁判官自らが尋問し、深夜に及んだ取り調べについて追求し、最後は自白の任意性を否定し、調書の証拠申請を却下した。検察側は求刑を放棄し、裁判所は12月26日、無罪判決を言い渡した。裁判長は警察の捜査方法を厳しく批判した。判決はそのまま確定したが、男性は妻と離婚し、勤め先も解雇されていた。
警官の証言は信用できるか
1986年9月12日、八王子市の路上で駐車したまま男性友人と眠っていた男性は八王子署の警官に逮捕された。罪状は住居侵入。ただしこれは、間違って暴力団員に追われて知らない民家に逃げ込んで通報されたものだった。八王子署は、男性が覚せい剤をやっているものと決めつけ、車を捜査。任意で尿検査を求められたが拒否。知り合いの弁護士を呼んで無罪を訴えた。その後、釈放されると同時に別の事件で微罪で逮捕状が出され、略式命令や不起訴で釈放するとすぐに別の警察署から逮捕状が出されることの繰り返しだった。最後は男性友人に覚せい剤を渡すと同時に使用した容疑である。
11月27日に東京地裁八王子支部で初公判が開かれたが、男性は無罪を主張。検察側の証人として出てきた男性友人は、裁判で証言を翻し、男性から覚せい剤をもらったことはないと主張。さらに男性を取り調べした係長や看守係も、男性の腕に注射痕を見つけながら当初は見逃すといったような不自然な証言を繰り返した。弁護側は男性のアリバイも提出した。
焦った検察側は、男性を逮捕した八王子署の警官を商人として呼びだした。ところがその証言は、持っていない男性の免許証で顔と名前を確認して逮捕したとか、当時は少年院にいるはずなのに1年以上覚せい剤をうち続けている痕があったなどといった、捏造といってよいものだった。1987年12月16日、裁判所は無罪を言い渡し、判決はそのまま確定した。
少年にも再審=名誉回復の機会を
1985年7月19日、高校の裏手で土木作業をしていた男性が死体を発見。八潮市に住む中学三年の女子(15)と判明。7月23日、三人の少年(15,14,14)が埼玉県警に任意同行され、強姦殺人容疑で逮捕。さらに一人の少年(13)が補導された。8月3日、共犯で少年(14)が強姦容疑、少年(15)が強制猥褻容疑で逮捕された。
全員が無罪を主張したが、浦和家庭裁判所は全員を少年院送致と決定した。五人の少年は東京高裁に抗告したが、1986年6月16日に退けられた。ただしこのとき、強姦は既遂から未遂に変更されて、さらに死亡した場所も変更されている。少年たちは最高裁判所へ抗告したが、1989年7月20日に棄却された。
少年たちはその後、浦和家庭裁判所に再審を請求したが、1990年7月に棄却した。特に2人に対してはすでに成人に達していることから保護処分を取り消す余地はないと門前払いにした。残り3人についても、たとえ無実であっても他の事件で少年院送りになるから再審の必要性はないとした。高裁、最高裁でも同様の決定であった。
被害者女性の両親は元少年たちやその親を相手取って損害賠償を求める民事訴訟を起こした。1993年3月31日、浦和地裁は原告側の請求を棄却。さらに判決理由では捜査機関へ厳しい批判を付け加え、少年たちが殺害したという請求原因事実は証拠がなく認められないとした。
少年たちは後に第二次再審請求を浦和家庭裁判所に提出したが、同様の理由で退けられた。
1994年11月、東京高裁は一審判決を破棄し、元少年たちに約4600万円の支払いを命じた。2000年2月、最高裁は二審判決を破棄し、審理を東京高裁へ差し戻した。2002年10月、東京高裁は一審判決を支持し、原告側の請求を棄却した。2003年3月、遺族側が上告を取り下げ、元少年たちの“無罪”が確定した。
今、なぜ冤罪を問うのか――あとがきにかえて
文庫版へのあとがき
新風舎文庫あとがき
解説 佐木隆三
本書は1988年6月号から89年2月号まで「諸君!」(文藝春秋)に掲載された(「少年にも再審=名誉回復の機会を」だけ1990年1月号掲載)ものに加筆されたものをまとめたものである。1991年3月、社会思想社より刊行され、1994年10月には社会思想社現代教養文庫から刊行された。そして今回、2004年に新風舎文庫から新たに刊行された。
江川紹子はオウム真理教事件を追い続けたことで有名であるが、本書はその江川紹子の最初の本である。江川紹子は早稲田大学を卒業後、神奈川新聞に入社。1987年に退社後、フリージャーナリストに転向。本書はフリーとなって初仕事だったとあとがきに書かれている。
免田事件など死刑確定囚による再審無罪事件などが続いた頃、こういう意見があった。ああいうような拷問や違法捜査などは戦後の混乱時期だったからであり、現在の警察や裁判所でこのような冤罪が起こることは有り得ない、と。しかし実際は違った。警察官による暴力、連日深夜まで続く取り調べ、自白の誘導、そして検察や裁判官の警察盲信などはずっと続いているのである。ここで収められたのはそのほんの一部であろう。
一部では、微罪程度でがたがた言うな、という人もいる。確かに本書で収められたものの中にも、執行猶予判決のものが存在する。しかし、罪を被せられた当人にとっては、どのような罪であってもたまったものではない。しかも、たとえ無罪になったとしても、時間も名誉も帰ってこない。妻や子供と別れた人や、裁判中であることを理由に見合いでも断られたケースがここでも語られている。そして、たとえ無罪になったとしても、警察や検察は何ら補償をしてくれるわけではない。たとえ訴えても、違法捜査、逮捕ではなかったと退けられるだけである。新聞などのマスコミは、一時だけ無罪判決を騒いでもその場限りである。そして逮捕されたときに書いた記事については頬被りをしてしまう。結局馬鹿をみるのは捕まった人間だけであり、そして警察の権威は形だけでも保たれるのである。
ジャーナリストたちはこうして現在の組織や法律の欠陥を指摘する。少しずつ、ほんの少しずつ改善されているのかもしれないが、冤罪事件は今でも続く。裁判所が、マスコミが捜査方法を非難しても、何ら変わらないというのが今の警察なのである。
本書は江川紹子の原点である。と同時に、巨大権力の前には、ジャーナリストの力は小さいものであることも知らされる一冊である。
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