大激変(キャタクリズム)の時代という。経済恐慌だけではなく、人間社会の価値システムが音たててくずれ、気候変動や大地震、大洪水など未曾有の災害ないし大小の戦争が早晩現前するだろう、とこれまでのどの時期よりも人びとにつよく予感されている。ほとんど創世記的な規模とイメージでの破局と誕生――それがキャタクリズムである。そういった像はおぼろげながら私の脳裏をもときおり不気味にかすめていく。私にはしかし、もうひとつのはっきりした予感がある。それは、破局の寸前まで私たちの「日常」はあたかも慣性の法則のようにつづけられるだろう、ということである。日常はそして、この国のばあい、死刑制度とその執行をさりげなくつつみもつであろう、ということでもある。つまり、世界が破滅する数秒まえでも、この国においては、絞首刑を予定どおりにおこなうようなすくいがたい愚昧から脱することができないのではないのか。それほどに、死刑制度はこの国の人びとの日常にたくみに溶けこみ、きわめて不幸なことには、グロテスクに“なじんで”もいる。大恐慌の時代にはとりわけ死刑の問題はかえりみられず、死刑制度存置派はかえって勢いをさらに増すとみられる。だからこそ、私は死刑についてもっとかたらなくてはならない。
死刑を論じることについて私はすでにたじろぎつつ感じていることがある。それは、少なからぬ思想家も詩人も宗教家も平和運動家もアーティストも慈善家も法律家も、いや永年の死刑反対運動のメンバーや死刑囚自身でさえもが、こと死刑にかんして考えるところをいったん口にしはじめるや、ほぼきまって存外に鈍感で浅い思念の底をかいまみせ、世界観と人間観のまずしさ、せまさ、不備をさとられてしまう、ということだ。私もその例外ではない。これは、おもえば、まことに不思議であり、戦慄すべきことでもある。たとえば、死刑制度反対の立論のなかにはときに死刑を最終的に受容したり傍観したりしかねない弱点や無意識がかくれていたりする。死刑問題とはかくもきびしい思念の試薬なのである。それは根元的人間論にいきつくと同時に、特殊日本のばあいは、日本型ファシズムや天皇制とその遺制文化、天皇制的エトス、死生観、「個」を決定的にすりつぶした民衆世界=世間、スターリン主義的な発想を原型とする左翼・市民運動、空洞でしかなかった戦後民主主義……にもふかくかかわり、いまだかつて醒めた目で対象化されたことのない私たちの自画像でもありうる。そのことを念頭に、私は本書ではこころみに「愛と痛み」というもっぱら痛覚のふかみから死刑をかんがえてみる。死刑にふれることは私という思考の主体がそのつど痛み傷つくことである。しかし、死刑を視界にいれないことは、思念の腐敗にどこかでつうじる、と私は思っている。痛み傷つくのは、したがって、やむをえないのだ。
本書をあなたが繰っているそのあいだにも、この国では次の絞首刑の執行が着々と(法相は“粛々と”というのだが)準備されている。いまが平日の午前中なら、まさに「現在、絞首刑執行中」かもしれない。愛と痛覚をなくした時間――それが私たちの日常である。
【目次】
第1章 愛と死と痛みと
第2章 日常と諧調
第3章 日常と世間
第4章 世間と死刑
第5章 日本はなぜ死刑制度を廃止できないか
第6章 死刑と戦争
2008年4月5日、「死刑廃止国家条約の批准を求めるフォーラム90」主催による東京「九段会館」でおこなわれた辺見庸講演会「死刑と日常―閾の声と想像の射程」を改題し、講演原稿を大幅に修正、補充したものである。そのせいか117ページしかない薄い本であるし、1ページあたりの字数も少ない。普通の枠組みにしたら、本にすらならなかったであろうという分量である。それはともかく、漢字で書くところが多い部分も平仮名で書いているのは、この人の特徴なのだろうか。読みづらい。
私は辺見庸という人物が作家であるということしか知らないので、どのような思想を持っているかを全く知らない。この本1冊から受ける印象は、自分に都合のよいことを愛という言葉に置き換えているだけにしか見えないし、自分が受け入れられない「世間」を糾弾し続けているだけのようにしか見えないのだが、見る人が見たら違うんだろう、きっと。私にはこの人が理屈もなしに気にくわないことを責めているだけにしか見えないし、その延長上に「死刑」が存在しているとしか思えない。
外野席からただ「死刑! 死刑!」と騒ぐ人たち(私を含む)を嘆くのは別にいい(注:騒ぐのが悪いとは私は言っていない)けれど、死刑制度を知った上で死刑制度に賛成している人や被害者遺族で死刑を求める人たちも同列に見ている、というか区別を全くしていない時点で、この人は視野が狭いと思う。この人のファンは、一貫していることをいっているわけだから何事も受け入れるんだろうけれど。
「テレビがひりだした糞のようなタレントが数万票も獲得して政治家になるという貧しさ」と自分が気に入らないことをこういう風に決めつけているような人が、愛を語るのは間違っていると思う。結局は都合の悪いことを全て差別、区別しているだけ。自らの好き嫌い、思想にあわないことは全て間違い。こういう人が愛を語って死刑反対を語ったって、何の説得力もない。愛を語るのなら、世間も含めてまず全てを受け入れろって言いたい。そこにあるのは、ただの好き嫌いだけである。
「刑務官たちの顔が今にも泣き出しそうに見えたのは錯覚でしょうか」そりゃ錯覚だよ、自分の思想に凝り固まっているからそう見えるだけ。
「私たちは知っているはずです。死刑は、刑事事件としての殺人とは全くちがうことを」そう、知っています。死刑は、取り返しのつかない事件を起こした犯人に対する究極の刑です。死刑は刑事事件の殺人とは全く違います。
「私がいいつのっているのは、被害者と対置しての死刑囚のことではない」被害者がいるから死刑囚がいるんだよ。都合の悪いことは無視ですか、全く。
「この国は世論の大勢、すなわち日本の世間を後ろ盾にしてEU27ヶ国の理念を足蹴にしている」いや、日本が日本の理念を持って当然でしょう。日本は民主国家ですから、民主的に決められたことを守っているに過ぎないんですよ。例えそれが死刑制度だろうと。
「なぜ犬だと泣けるのか」それは犬が理不尽に殺されたからです。死刑囚は自らの罪で死ぬのですから、理不尽ではありません(冤罪の場合は除きます)。
ごめん、ツッコミどころいっぱいあって書くのに疲れます。
この本を読んでちょっとだけ同感したのは、死刑廃止を謳っているECの国々が戦争という名の下に殺人を犯していることの矛盾を突きつけている部分ぐらいかな。確かにそこは単純すぎるぐらい論理的な展開だ。
元々は講演原稿なので、実際に耳にしていたらもう少し印象が違ったのかもしれない。どちらにしても、ただの決めつけといってもよい死刑廃止論、いやもう「論」じゃなくて、ただ死刑廃止を叫んでいるだけ。論じるような中身のあるものではないし、価値もない。ただ、辺見庸という芥川賞を取った作家、講談社ノンフィクション賞を取ったジャーナリストが、自分は死刑が気に入らないから死刑廃止を叫んでますよ、と言っているだけの本である。
辺見庸は1944年宮城県生まれ。1970年に共同通信社に入社。1978年、中国報道で日本新聞協会賞受賞。1996年退社。1991年、『自動起床装置』で芥川賞受賞。1994年、『もの食う人びと』で講談社ノンフィクション受賞。
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