免田栄『免田栄獄中ノート』
(インパクト出版会)


発行:2004.8.10



【目 次】
はじめに
1章 海軍航空廠に徴用―戦時下の悲惨な生活の中から
2章 不当逮捕
3章 死刑囚の烙印を押されて―無実の人間にこれ以上の人権侵害があるか
4章 獄中で死刑制度を考える―被害者感情という名の「敵討ち」思想による死刑制度
5章 刑場に消えた人々
6章 再審の開始
資料 第三次再審開始決定(西辻決定)
あとがき

 1948年12月30日午前3時半頃、熊本県人吉市で祈祷師一家が鉈でめった打ちにされ、現金が盗まれているのを、夜警見回りから帰ってきた次男が発見した。祈祷師夫婦(76、52)が死亡、長女(14)、次女(12)が重傷を負った。1949年1月13日午後9時過ぎ、免田栄さん(23)が球磨郡の知人宅から連行され、翌日別件の窃盗事件で緊急逮捕された。不眠不休、拷問といった執拗な取り調べの末、16日に強盗殺人で再逮捕。その翌日から自白調書が作られた。4月14日の第3回公判から全面無罪を訴えるも、1950年3月23日、熊本八代支部で一審死刑判決。1951年3月19日、福岡高裁で被告側控訴棄却。1952年1月5日、最高裁で上告が棄却、死刑が確定。
 1952年6月10日、福岡高裁へ初めての再審請求。1956年8月10日、第3次再審請求をした熊本地裁八代支部で再審開始決定(西辻決定)。しかし即時抗告により1959年4月15日、福岡高裁は決定を取り消し、再審請求を棄却した。
 1972年4月17日、熊本地裁八代支部に第6次再審請求。1976年4月30日、地裁は請求を棄却するも、1979年9月27日、福岡高裁は再審開始を決定。1980年12月11日、最高裁は検察側の特別抗告を棄却し、再審開始が確定した。
 1981年5月15日、熊本地裁八代支部で再審第1回公判。1983年7月15日、地裁は事件当日のアリバイを認定するとともに自白調書に信用性がないとしたことから、強盗殺人について無罪を言い渡した(別件の窃盗事件については懲役6ヶ月、執行猶予1年が言い渡されている)。免田死刑囚は34年ぶりに釈放された。検察側は控訴を断念し、無罪判決は確定した。死刑確定囚の再審無罪は初めて。


 日本初の再審無罪判決を受けた死刑囚である免田栄氏による著作。事件から再審無罪までについては過去の著作である『免田栄獄中記』『死刑囚の手記』『死刑囚の告白』などに書かれていることであるが、そのいずれもが既に絶版であることから改めて書いたのだろう。当時の捜査における拷問、不当裁判、再審が認められるまでの長い道のり、再審後などについての記録は、日本の裁判史、犯罪史における負の歴史として、長く語り継がれなければいけないものだからである。
 それにしても、刑事補償が全額認められた折、「尾崎さん(尾崎陞弁護団団長)が3000万円寄付せよ、と言うている」と荒木哲也弁護士に渡したら、1500万円は日弁連から領収書が来たが、残り1500万円については荒木弁護菓子が熊本弁護士会の会長選出馬時の運動費にでも使ったのか、他の弁護士に費用は渡されていない、と『死刑囚の手記』に書いたら人権擁護委員長から告訴するというお叱りの手紙をもらった、というのには呆気に取られた(告訴はなかった)。人権、人権などと訴えても所詮弁護士も金次第か。本書には、日弁連の中には免田の救援に金ばかりかかるのではないか、という批判の声もあった、と書かれている。金に苦労する人権保護には手を出したくないというのが一部弁護士の本音なのだろう。
 また、免田栄氏が死刑確定した翌年の1952年7月、福岡刑務所教育部は郷里の門徒明覚寺に処刑通告を促すとともに、免田氏の実家に火葬代700円位を請求。その後再審請求を提出したことから火葬代が800円に値上げになった旨も伝えている。恐ろしい話である。

 本書で新しい部分といえば、5章の「刑場に消えた人々」だろうか。過去の著作を全て読んでいるわけではないので、詳細なところはわからないのだが。ここでは免田氏が福岡刑務所と拘置所において、刑場に、直接別れの握手を交わし、見送った人々56名の死刑囚を列挙してみようと思う(敬称略)。ただし、誤りやつじつまの合わないものもあるので、注意すべきである。

 1952年4月20日 山田梅造 - キリスト教を信仰。
 1952年6月21日 伊豆野由夫 - 確定後恩赦請求棄却。1952年5月に再審請求棄却。
 1952年9月20日 西郷里辰巳 - 子供の頃の火傷で右手は親指と人差し指しか利かないのに、重い銃をもって犯行に及んだとされた。
 1952年9月20日 内野実 - 再審手続き中の執行。
 1953年9月16日 坂本登 - 古屋という人物に誘われて家の外にいただけで、何の罪も犯していないと無罪を主張。再審を検討したがあきらめた。共犯は古屋惣吉であったが、この事件ではあくまで共犯を主張し、懲役13年が確定した。出所後、別の事件で死刑が確定した。
 日付不明 後藤義雄 - 水をもらおうと勝手に炊事場に入ったら、激しい夫婦喧嘩をしていたので隠れていると、火事になったので逃げ出したところを見付かって、放火殺人で死刑となった。
 日付不明 兎威文 - 朝鮮人。看守に暴力をふるって、すぐに移送され処刑された。
 日付不明 江藤徹 - 免田氏の再審請求の相談相手だった。
 1955年12月24日 浜崎
 1957年2月13日 福島
 1957年5月12日 田村 - 事ある毎に「ばっさりやってくれ」と言っており、巡視に来る人は彼を避けていた。
 1958年2月20日 渡辺
 1958年2月28日 白浜 - 吃音で十分に話ができなかった。再審請求棄却。
 1958年3月27日 山崎
 1958年4月12日 梶原
 1958年4月14日 内田又雄 - キリスト教信徒であり、カルバリ会(福岡刑務所藤崎拘置区内での伝道活動グループ。内田、内野実、西郷里辰巳、免田栄、青山佑一?、木谷久雄、沢崎登?の名前が残されている)の指導者として全国に名が通り、キリスト教関係者から処刑延期の願書が法務大臣に出されていた。再審請求棄却。免田氏の心の支えであった。
 1959年2月21日 早稲田
 1959年6月10日 下村、中田 - 共犯。中田は再審請求棄却。執行の日、下村は中田に詫びた。
 1959年6月13日 寺本 - 再審請求を再三棄却。
 1959年6月13日 高島
 1959年12月3日 時松
 1953年12月11日 滝野、山野 - 共犯。滝野は再審請求するも取り下げ。
 1953年12月20日 大村
 1960年2月9日 木谷
 1960年3月1日 木村
 1960年6月2日 青山
 1960年8月31日 岩沢
 1960年8月31日 山口清人 - 獄中結婚し、後に『愛と死のかたみ』が出版された。ところが、許可を得ていない書信が出たいたことがわかったため、死刑囚全員の手紙が止められる。後に山口が点訳を梱包する際、立会の部長が目をそらした隙に手紙を入れていたことが判明し、現場での梱包は止められた。
 1960年9月14日 黒木 - 犯行は妻の仕業と主張。再審請求を検討するも金がなく断念。
 1961年2月21日 大原
 1961年2月21日 久保章 - 人と対話することができなかった。事件は警察が仕組んだとの噂が流れた。
 1961年8月10日 松園、山下 - 共犯ではないが、処刑は一緒に受けようと話し合って懇願し、その通りになった。
 1961年12月21日 三枝 - 日弁連人権擁護委員会副委員長も面会に来て、再審の準備をしていた。
 1962年9月14日 藤本松夫 - 藤本事件の死刑囚。再審準備中。
 1963年2月14日 今村
 1965年2月29日 中村
 1967年10月21日 山田 - このときから、新しい拘置所での執行のとき、カターンという音がするという噂が流れた。主任が実験し、俵を落としたら本当に音がして、死刑囚のいるところまで聞こえたので修理され、その後1年間執行がなかった。
 1969年2月5日 彦田
 1969年10月18日 平
 1969年12月19日 内田、中尾 - 大阪刑務所で知り合い、出所後中尾が先に出た内田の所を訪ねたら、誘われるままに人家で金を物色。老夫婦に見付かったので中尾が内田の持っていた凶器を奪って殴り殺した。逮捕後、中尾は老夫婦が内田の両親であることを聞かされた。中尾は控訴せず確定。内田は控訴するも、姉や弟たちが悲しむからと控訴取り下げ。
 1970年6月21日 坂野三雄 - 再審棄却と同時に処刑通知が来た。本人は「女性18人を殺したが、警察が調べたのは8件で、残りは調べが難航して放棄した」と免田氏に話している。ちなみに起訴されたのは3人である。
 1970年9月19日 木田熊人 - 「共犯に騙された」と常に口にしていた。
 1970年9月19日 杉村サダメ
 1970年10月29日 栗林 - 執行寺は病に冒されて1人では立てず、看守が2人がかりで連れていった。
 1970年12月11日 西口彰 - 『復讐するは我にあり』のモデル。
 1973年5月11日 二宮邦彦 - 『足音が近づく』の死刑囚。再審請求棄却。
 1974年1月24日 宮崎 - 元町会議員。数回再審請求棄却。病舎に入院中に死去。
 1975年6月17日 西武雄 - 福岡事件の「主犯」。  1975年6月20日 石井健治郎 - 福岡事件の「共犯」。恩赦。
 1975年7月11日 小池
 1975年10月3日 山口勝夫
 1975年10月3日 津留静生 - 創価学会信者であり、学会の教誨師を入れてほしいと訴えていたが、認められなかった。前日に執行を言い渡されていた。当日朝5時頃、隠し持っていた安全カミソリ(点訳を行うために持っていた)で右手首を切って自殺。事件後、転房が6ヶ月から2ヶ月毎となった。また書類(再審書類)などを書く場合には前もって願書を出して許可を受けるようになった。
 1975年10月5日 香月 - 再審請求を検討するも、金と弁護士の都合が付かず断念。
 1976年9月2日 喜瀬川幸雄 - 再審請求を検討するも、金と弁護士の都合が付かず断念。
 1976年10月2日 香野圭造
 1976年11月16日 川辺敏幸 - 『曠野へ―死刑囚の手記から』のモデル。
 1980年12月16日 大城秀男

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