平野啓一郎『死刑について』(岩波書店)

発行:2022.6.16



 最初に死刑制度についての僕の立場を申し上げておきますと、僕は、死刑制度は廃止すべきだと考えています。「廃止派」です。しかし、最初からそうした立場だったわけではありません。
 二十代後半までは、どちらかというと、死刑制度を必要と考える「存置派」に近い考えを持っていました。当時、存置派と廃止派という対立する立場で理解していたわけではありませんが、死刑制度があることはやむを得ないと考えていました。
 ですから、廃止すべきという立場に変わっても、僕にとって存置派の人たちは、まったく理解できない人たちというふうには感じられません。むしろ、ある意味では、よく理解できるところもあります。
(中略)
 当時、なぜ死刑が必要と考えていたのか。これは、多くの存置派の人に通じると思いますが、心情的な側面が大きかったように思います。
(中略)
 しかし、こうした深刻な犯罪が起きた時、被害者が一人であろうと三人であろうと、誰が一番気の毒かといえば、殺された当人であることは間違いありません。そして、次に気の毒であり、不憫なのは、被害者の家族や友人など、被害者と深い愛情で結ばれていた人たちでしょう。この考えは、死刑を廃止すべきという立場になってからも変わりませんし、今も強くそのように考えています。
 その一方で、このように気の毒であり、不憫であるという感情を、罪を犯した人間にすぐに抱くことはなかなか難しい。むしろ、激しい憤りを覚え、やったことを考えるなら、死刑になるのもやむを得ない、と思っていました。
「死刑は必要だという心情」より一部引用)

【目次】
 死刑は必要だという心情
 「なぜ人を殺してはいけないのか」の問いに向き合って
 多面的で複雑な被害者の心に寄り添うとは――「ゆるし」と「憎しみ」と
 なぜ死刑が支持され続けるのか
 「憎しみ」の共同体から「優しさ」の共同体へ――死刑の廃止に向けて
 注
 あとがき
 付録 死刑に関する世界的な趨勢と日本
 (1)死刑廃止国と存置国
 (2)二〇二〇年二死刑を執行した国と件数
 (3)日本の死刑執行者数と確定者総数の推移
 (4)死刑をめぐる日本の世論


 著者である芥川賞作家の平野啓一郎は、元々は死刑存置派であったという。法学部出身である平野は大学時代、廃止派の友人と口論寸前の議論を行ったことがあるという。
 平野は死について、三つに整理している。<自分の死><近親者の死><赤の他人の死>である。人によっては、「一人称の死」「二人称の死」「三人称の死」と言っている人がいる。廃止派の人は、人の死を<赤の他人の死>としてしか捉えていないのではないか。存置派の人たちは、「自分が殺されたとしても、それでいいのか」「自分の肉親が殺されたとしても、同じことが言えるのか」と一人称、二人称的に死を捉えて反論する。大学の友人との議論では、いつまでも応報感情に基づいて死刑の必要性に固執する僕を野蛮人として扱っているように僕は感じた。僕からすれば、彼女の方がよほど人間性を欠いているように見えた。
 平野は被害者の側に注目して長編小説『決壊』という小説を書いた。小説を書くために、被害者遺族が描いた本、「あすの会」の集会にも取材に行った。しかし執筆後、平野の心境に変化があり、心の底から死刑制度に対して嫌気がさしてしまったという。
 平野がそう思うようになった理由は以下である。
 第一に、警察の捜査の実態を知って、それに強く批判的な思いを抱いたから。
 第二に、死刑判決が出されるような重大犯罪の具体的な事例を調べてみると、加害者の生育環境が低いケースが少なからずある。犯してしまった行為に対し、徹底的に当人の「自己責任」を追求するだけでよいのか。国が劣悪な生育環境などを放置しておきながら、罪を犯したら徹底的に自己責任を追及するということは、可能なのか。
 第三として、「なぜ人を殺してはいけないのか」という問いを突き詰めていった時に考えたのは、「人を殺してはいけない」ということは、絶対的な禁止であるべきだということ。
 他には、犯罪の抑止効果に対する懐疑も強くある。日本のように死刑制度がある国では、「死刑になりたいからやった」と述べる事件が、二〇〇〇年代に入り相次いでいる。死刑制度があることが、無差別犯罪を誘発する原因にさえなっている懸念がある。
 そもそも死刑について、死という恐怖の直面させることによって、加害者に深い反省や悔悛をさせるという考え方に、平野は懐疑的である。暴力が引き起こす恐怖を持って反省を強要するという方法は、人間の更生のあり方として正しいとは思えない。

 とりあえず、平野が死刑廃止論に傾いた理由を抜粋してみた。しかし、この程度で死刑廃止論に傾くんだという気持ちの方が強い。
 第一の警察の実態であるが、そう思うのであれば警察のやり方を是正する方向に動くべきではないか。死刑だろうが無期懲役だろうが有期懲役だろうが、冤罪で受けるダメージは計り知れないし、元通りに回復することはできない。死刑にならなければいつかは冤罪を晴らすことができるというのは、それこそ第三者の視点だ。
 第二だが、生育環境が低いケースと犯罪にいたるまでの自己責任は別物である。同情すべき点はあっても、殺された側にとっては、何の違いもない。
 第三だが、だったら正当防衛すら禁止するのか、と逆に問いたい。死刑を廃止している国の多くは、捜査中に攻撃を受けた際の犯人の射殺を否定していない。
 抑止効果についても疑義を示しているが、だったら平野は、無期懲役になりたいと言って殺人事件を犯す人がいるが、では無期懲役を無くすべきだとでもいうのだろうか。そもそも「刑務所で食事を食わせるから犯罪を犯す人がいるんだ」と言って刑務所を廃止すべきだとでもいうのだろうか。そう思う人が死刑になりたいと言っているより何倍も多いことは、いくら平野でも当然知っているだろう。さて、この問いに平野はどう答えるつもりだろうか。
 それに、死刑になりたくないから自首をするケースもある。一例として、闇サイト殺人事件がある。つまり、抑止効果は「ゼロ」ではないのだ。少しでも抑止することができるのであれば、制度として残しても当然だろう。

 他にも平野は、死刑を求めないということと、犯人をゆるすということは、一度切り離して考えるべきでしょう、と語っている。「もし僕の家族が犯罪によって殺されるようなことがあったら、僕は犯人を一生ゆるさないかもしれない。でも、僕は死刑を求めません。これは両立可能なのです」と書いているが、では自分が殺されてもなんとも思わないのだろうか。そもそも、平野は両立可能と言っても、他の人は可能ではない、というかもしれない。勝手に決めつけるな、という話である。

 しかし平野は、「加害者が更生するということも、被害者の側にとって本当によいことなのかは、単純には言えない。たとえ加害者が更生しようが、自分たちの悔しさ、悲しみの気持ちは何も変わらないという心情も現実的にはある」と語っている。仰るとおりである。「死刑廃止運動が成功していない要因の一つとして、被害者の方たちへの理解、そしてケアという視点が弱かったからではないかと考えている」のはその通りである。ところがその後、被害者遺族へのサポートや「憎しみ」と「赦し」の話になってしまう。被害者や遺族へのサポートはまったく別方面の話である。ケアすべきというのは当然のことでしかない。そしてケアと犯人への憎しみとは全く別の話である。平野はこの点について、ぼやかしてしか書いていない。そりゃそうだろう、全然別の話だからである。

 さらに、日本でこれほどまでに死刑が支持されているかについて述べている。
 一つは、日本において人権教育が失敗している。個人として有する当然の権利としての人権について、歴史的に、概念的に説明する、ということはほとんどない。しかしこれは勝手な決めつけだろう。平野は一例としてとある件のネット炎上の話を挙げているが、同じようなことは、恐らく平野が人権教育が成功していると思い込んでいる欧米などでも当たり前に起きていることである。そもそも、欧米で平等な権利があるとでも思っているのだろうか。人種の違いにおける不平等さやネット炎上は、日本も欧米も変わらない。
 また、メディアの影響も無視できない。勧善懲悪の物語が多い、と言っている。勧善懲悪の物語が喜ばれるのは、どこも変わらないと思うのだが。そもそもアニメ『アンパンマン』の例を挙げているのがおかしい。いつもばいきんまんが排除されるとあるが、なぜばいきんまんがいつも「アンパンチ」を食らっているのか、わかっているのだろうか。
 日本には、死に謝罪や責任を取る意味を認める文化が根強くある。このことが死刑の支持に影響を与えている。これは否定できない、というか、この意見は私も支持する。
 死刑が支持される背景に宗教的な問題もある。日本で死刑廃止運動に関わっている方の中には、クリスチャンが少なからずいる。キリスト教では、最終的には神によって裁かれることを前提にしており、審判を下せるのは神のみである、という考え方をしている。しかし日本では、宗教的な規範意識が弱く、神の存在はもちろん、死後の世界に対する観念もとても曖昧である。絶対的な神の存在がなく、最終的に人を裁くのが神であるという形而上学的な価値観もない社会では、人間社会で起きたことは全て人間社会の中で解決しなければならないという考え方につながっていく。死刑にすべきだというのは、この社会に自分たちの手で地獄を作らなければならない、という発想である、と語っている。
 私も宗教は死刑存廃に大きく関わっているとは思っているが、それは逆に死刑問題を髪という言葉で放棄していると私は言いたい。それに平尾もいったい何を言いたいのか、さっぱりわからない。日本には絶対的な神の存在がない? その通り。「八百万の神」という言葉があるくらいである。その歴史と文化を、平野は否定するのだろうか。ヨーロッパの歴史は、「神」を偽って支配してきた者たちの歴史でもある。そして唯一の「神」のみを信じ、他の「神」を否定してきた者たちの歴史であり、それは今も続いている。多様性とはまったく相反する行動だ。「神」という言葉に逃げるのは、人間社会が解決すべきという当たり前のことを放棄しているに過ぎない。そんな社会を、平野は求めているのだろうか。

 最後に平野は、どうやったら死刑を廃止する方向に転換していけるかについて考えている。
 日本国内のことだけを視野に、日本人だけで議論をしていても限界がある。他国の状況なども視野に、国際社会の中で議論していることが大切である、と語っている。ノルウェーの連続テロ事件の例などを挙げているが、私から見たら議論ではなく、日本的な価値観を否定しているだけにしか見えない。
 死刑という問題はやはり基本的人権から考えていくべき、人間は誰からも生存の権利を奪われてはならないという大前提について、もっと社会的な認識が深まる必要があると述べている。「人間は誰からも生存の権利を奪われてはならない」とあるが、では死刑廃止を先駆けた欧州が本当にそのように考えて行動しているだろうか。普通に軍隊を持ち、武器をぶら下げているではないか。そして、国を守る、という前提で人を殺しているではないか。
 平野は、死刑廃止運動だけではなく、私たちの社会自体が、加害者への憎しみという点では被害者に共感を持つのに、社会から置き去りにされ、孤独な状況に追いやられている被害者のケアという点では十分ではなかった。だから、今の日本の国家は人に優しいとは言えない、国家に優しくなってもらいたい、と語っている。まずは、犯罪を犯していない人たちに優しくなってもらいたいものである。

 とりあえず、平野が死刑廃止論に傾いた理由を抜粋してみた。しかし、この程度で死刑廃止論に傾くんだという気持ちの方が強い。結局、ヨーロッパの死刑廃止に被れている、としか思えない内容である。そんな呆れた気持ちについて、一部書いてみた。
 平野の意見は、結局「許すべきだ」という押し付けを人権などの言葉のごまかしでオブラートに包んでいるとしか思ないのだが、違うだろうか。所詮、ヨーロッパかぶれ、キリスト教かぶれにしか見えない。こういうのを読んでも自分の心はまったく死刑廃止に結びつかない。そんな自分のことを、多分平野は「憎しみの社会」に生きているとでもいうのだろう。勝手に思っておけ、というところである。
 まあ、被害者やのケアをまずは優先してほしい。
 本書は2019年12月6日に開催された、大阪弁護士会主催の講演会「芥川賞作家 平野啓一郎さんが語る死刑廃止」の記録をもとに、2021年10月12日に開催された日本弁護士連合会主催のシンポジウム「死刑廃止の実現を考える日2021」での発言等を加えて再構成し、大幅に加筆・修正したものの、とのことである。

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