八月のある日、著者の許に一通の手紙が届く。差出人の住所は豊島区西巣鴨。東京拘置所に収監されている死刑囚からの手紙だった。「俳句年鑑」で目にした著者の句に感動したといい、俳句を習いたいとあった。著者は、とまどいながらも手ほどきを始める。死の恐怖から逃れようと、句作に没頭する死刑囚。毎日届く手紙。嫌悪と憐憫のあいだで揺れ動く著者。俳句に向かう死刑囚の情熱は、いつしか著者への恋慕の情に変わっていた。十か月後、彼はついに愛を告白する。――女流俳人と死刑囚の息づまるような文通の日々を綴る。(粗筋紹介より引用)
【目次】
序章
第一章 巣鴨からの手紙
第二章 死刑囚・武田二郎の手記
第三章 命がけの句作
第四章 独房の冬
第五章 水仙の差し入れ
第六章 仙台押送
第七章 恩赦願い
第八章 虹の橋
第九章 愛の告白
第十章 執行
終章
あとがき
本作品は死刑囚・武田二郎と群馬に住む女流俳人・山崎百合子の文通をまとめたものである。正確に書くと、武田からの便りと、それに対する山崎の想い、そして返信をまとめたものとなる。序章では、執行から16年後、秋田にある武田の実家を訪ねた山崎の様子が書かれている。武田の父親、祖母が山崎の若さに驚いているのだが、著者紹介から計算すると山崎が文通していたのは25か26歳。俳人というと年を取っているというイメージがあるだろうし、武田が「先生」と呼んでいたことから、もっと年輩の方だと思ってもおかしくはない。
武田と山崎が実際に文通をしていた期間は、昭和34年8月から執行される昭和35年5月27日までの約10か月。粗筋紹介ではいきなり死刑囚と書いているが、武田は当初、死刑囚であることを隠していた。武田が死刑囚であることを打ち明けたのは、文通を始めてから1か月後である。
武田二郎は当然仮名。H・Jが起こしたのは「杉並重役夫人殺人事件」である。
秋田県本荘市の農家に生まれたHは、学校卒業後、ぶらぶらしながら家の金を盗んだり米を盗んで売ったりし、遊郭通いを続けた。その後、工務店で手に職を付け、礼文島に出稼ぎするが、遊郭通いが親方にばれ、金を盗んで逃げだして家に戻った。その後、家を飛び出し、上京。工事現場を渡り歩くが、金は遊びで使いまくった。横浜で米軍宿舎を作る仕事でうまくいかず、金目のものを持ち出して売りさばき、10数万円を持ち出す。使い果たしたのち、睡眠薬自殺、首吊り自殺をするが失敗し、警察に保護され秋田に変える。ところが1週間後、家の通帳から全額をおろし、遊んだあと上京。建築現場で働き、近くの飲食店の女中、しず子(仮名)と結婚する。3か月後にしず子は妊娠。その頃、ある建設会社に引き抜かれ、直接工事を請け負ったもののそれはインチキ会社で、自分で部下に賃金を払う羽目に。やけになってしず子に中絶させ、そのまま荷物を実家へ送って行方をくらました。しかししず子はHを探し出し、再び一緒に住む。ところはしず子が妊娠するとHは工事現場から同線などを盗んで36万円を持ってキャバレーの女性と遊び歩き、2か月後、再びしず子の元に戻る。建築工事の現場で働くも、日当が低いことに憤り、通勤時間が長いことを理由に現場に泊まり込み、事務員の女性と関係ができる。女性と遊ぶうちに、礼文島時代の女と再会するも、女は数日後に失踪。失意のHはしず子のところに帰った。
次の日(1957年4月24日)、Hはしず子が外出中、台所より肉切り包丁を持ち出して辻強盗をしようとしたが度胸が出ず、家に戻った。そして包丁を戻そうとしたが、そのまま杉並に住む重役の家に向かった。そこは1年前に大工として改築に行ったことがあった。優しそうな重役夫人にお金を貸してくれと頼みこむが、当然夫人は断る。Hはにじり寄るが夫人は大声を上げたため、Hはポケットに隠していたノミで夫人を殺害。3000円を奪い、近くで包丁と上着を捨て、浅草で酒を飲んだ。2日後に金が無くなり、着ていた上着を質に入れ、2000円で娼婦を次々3人買い、酒を飲んで金が無くなった後、交番に自首した。5日後、殺害した夫人の夫がショックで病死した。
Hは係官の言うがままに自供し、裁判も異例と言われるほどのスピード判決が出た。1957年12月21日、東京地裁で求刑死刑に対し無期懲役判決。しかし検察側は「実際は夫婦殺害も同然」「態度横柄」「悔悛の情皆無」「情状酌量の余地なし」として控訴。1958年9月9日、東京高裁で逆転死刑判決。1959年5月14日、最高裁で上告棄却、死刑が確定した。
武田は毎日手紙を出し、俳句を送ってくる。時には切手が無くなり、山崎にもねだる始末。それでも武田は何とも思わず、俳句に没頭し、めきめきと上達した。大晦日の数日前、毎日新聞記者が訪ねてきて、死刑囚と文通していることを知り詳細を聞かせてほしいと頼み込む。山崎は問われるままに喋りこそしたが、記事にはしてほしくないと頼み込むも、次の日には写真付きで大きく掲載されていた。新聞記者に抗議するも、逆にトップ記事になったと自慢するばかりで話にならなかった。あちこちから激励の手紙が届き、しかも交際してほしい、息子の嫁に、などという手紙まで届く。その新聞記事は後日、武田も見ることとなった。
1月19日、所要があって上京した折、東京拘置所を訪れるも、一度来てほしいと言っていた教育課長は、武田のことを竜頭蛇尾的人物で、粗暴で僻み根性が強く、手に負えない人間だと罵倒した。さらにラジオドラマで女の声を聴くだけで興奮するようなやつだと言われてしまい、山崎は武田と面会する気を無くした。山崎は名前を告げないことを条件に水仙を差し入れし、東京を去った。
武田は1月21日、仙台に移送される。それはすなわち、死刑の執行が間近に迫ってきたということだった(当時、東京に執行場所はなく、死刑囚は仙台に送られていた)。死刑確定者の中では最も新しかったにもかかわらずである。数日後、東京拘置所に勤務する看守・牟田口より山崎の許へ手紙が届く。そこには、武田への厚意に感謝するとともに、立場上できない自分に変わり、今後も文通を続けてほしいというお願いであった。武田は東京よりも規制が厳しい仙台にがんじがらめになりながらも、切手の続く限り山崎へ俳句を送り続けた。彼の俳句は最後には『小説新潮』サロンの俳句欄で入賞するまでになった。
春、武田は十姉妹を飼うも10日後に死んでしまった。さらにそのことを隣房の死刑囚に話し、「処刑は夜中に行われる」とうそを言われたのを真に受け睡眠不足になり、食事ものどを通らなくなった。後に謝られたが、不安が広がった武田はどん底に落ちていく。さらに山崎への手紙も二度検問を通らず、死によって解放されたいと思い込んだ武田は死刑執行願を提出した。ところが二日後、武田は生き抜きたいと考えなおし、死刑執行願無効届を提出するとともに、皇太子殿下御成婚に伴う恩赦の出願を行う。同時に再審請求をすべく、法律の勉強を始めることを決心した。山崎は武田に、「死に目的と義務が課せられている。死にたくないと思ったところで、死ななければならない。あなたの命がこの世から消えたとしても、あなたの俳句は生きて残る。句作に励め」という意味の手紙を送った。
山崎は武田から便りが届くたびに気重さを感じるようになる。武田に「死ぬことが使命」と平気で言うことに、嫌悪感を抱く。それでも山崎は武田と文通を続けた。5月になろうとする頃、山崎は武田のおねだりに負け、自らの写真を送る。
武田の便りが12日間途絶えた5月27日、武田から手紙が届く。そこには5日分の手紙が入っており、最後の日付には武田からの愛の告白が書かれていた。山崎は上京する用事があったため、それは本当に愛なのか、もう1度確かめてほしい、という手紙をとりあえず送り返す。東京から帰ってきた山崎が机の上に見たのは、受取人不在と書かれた自分が送ったはずの手紙であった。6月8日、武田の父親から執行された旨の葉書が届く。それは5月27日、山崎が愛の告白を読んだ日であった。
6月9日、東京拘置所の牟田口から武田の処刑についての手紙が届く。そこには死刑制度に反対する、制度に問題点があることも書かれており、最後に武田への厚情に感謝する旨が書かれていた。
武田の遺体は岩手大学で解剖されたのち、荼毘に付された。宮城刑務所で約1年間安置され、春の合同慰霊祭を済ませて遺族の許に還された。処刑から1年後、武田の父親によって遺骨は埋葬された。
武田の長すぎる手紙に戸惑いながらも、一人の俳人として句作を評価し、死刑囚に接し続けた山崎。死を間近に控えた錯乱も当然あっただろうが、あまりにも不躾な内容もありながら、武田に向かい続けた山崎。死刑囚に向かい、「死ぬことが使命」と言い切れるのは、どれだけ勇気がいったことだろうか。彼女の勇気と精神力には脱帽せざるを得ない。ただ正直に言うと、文通期間が10か月程度だからまだ続けられたという気がしなくもない(私だったらすぐに音を上げるので、10ヶ月つづけたことだけでもすごいことなのだが)。これが1年、2年、5年と続いていたならどうなっただろうか。山崎は同じように接し続けることができただろうか。それとも愛が深まって結婚しただろうか。逆に付いていけなくなり、文通を止めていただろうか。意地の悪い自分はそんなことを考えてしまうのである。
本書は死刑囚の変わり続ける心情がよく描かれており、死刑囚を知るという意味でも興味深い一冊である。俳句の出来に関しては私は素人であるが、季語も知らないような最初のものと比べると全然違うことぐらいはわかる。多分かなり早い上達だったのだろう。こうして世に出ることができ、武田も地の底で喜んでいるに違いない。
エピローグ。山崎は武田の墓参りを済ませ、田沢湖へ行く。旅館に泊まった山崎は、武田の処刑後に職を辞した牟田口へ手紙を書く。二人は手紙のやり取りや訪問など、親しく付き合っていた。お互いに年寄りだと思っていたのだが、牟田口は山崎の二つ上なだけだった。そして武田は山崎の一つ上。同じ年代に生まれ育った3人であった。
山崎は42歳を迎えるころ、かつて願った通りに死が訪れるのではないかと不安になり、身辺整理しようと原稿用紙に向かい、本書を書き上げた。もっとも原稿は10年以上押し入れに眠っていたのだが、草思社の厚意によって本となった。
意外なことに、本作品は1991年、日本テレビでドラマ化されている。武田二郎は奥田英二、山崎百合子(ドラマでは山東百合子)は永島暎子が演じた。もっとも内容は大きく脚色されており、武田二郎が結婚していたしず子と百合子がそっくりという設定であり、しかもしず子(ドラマでは静子)は永島が二役を演じ、武田の逮捕後酒びたりになって、交通事故で死んでしまう。看守は日高という名前で、益岡徹が演じた。
山崎百合子は昭和8年、群馬県安中市生まれ。群馬県立安中高等学校卒業。17歳から俳句を始める。句集に『百合子句集』『洗ひ髪』がある。
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