長谷川博一『殺人者はいかにして誕生したか 「重大凶悪事件」を獄中対話で読み解く』
(新潮文庫)


発行:2017.4.1



 世間を震撼させた凶悪事件の犯罪者たち――。臨床心理士として刑事事件の心理鑑定を数多く手がけてきた著者が、犯人たちの「心の闇」に肉薄する。拘留施設を訪ねて面会を重ね、幾度も書簡をやりとりするうちに、これまで決して明かされなかった閉ざされし幼少期の記憶や壮絶な家庭環境が浮かび上がる……。彼らが語った人格形成の過程をたどることで、事件の真相が初めて解き明かされる。(粗筋紹介より引用)
 2010年11月、新潮社より単行本刊行。2017年4月、文庫化。

【目 次】
はじめに
第一章  なりたくてこんな人間になったんやない 大阪教育大学付属池田小学校児童殺傷事件 宅間守
第二章  私は優しい人間だと、伝えてください 東京・埼玉連続幼女誘拐殺人事件 宮崎勤
第三章  ボクを徹底的に調べてください 大阪自殺サイト連続殺人事件 前上博
第四章  私のような者のために、ありがとうございます 光市母子殺害事件 元少年
第五章  自分が自分でないような感覚だった 同居女性殺人死体遺棄事件 匿名
第六章  一番分からなくてはいけない人間が何も分からないのです 秋田連続児童殺害事件 畠山鈴香
第七章  常識に洗脳された人間に、俺のことが理解できるかな!! 土浦無差別殺傷事件 金川真大
第八章  私は小さな頃から「いい子」を演じてきました 秋葉原無差別殺傷事件 加藤智大
第九章  命日の十一月十七日までに刑を執行してほしい 奈良小一女児殺害事件
第十章  これって私の裁判なんですね。はじめて裁判官の顔が見えました 母親による男児せっかん死事件 匿名
おわりに


 著者は1954年、名古屋生まれ南山大学文学部教育学科卒業後、名古屋大学大学院へ進学。臨床心理士。刑事事件における被告の精神鑑定を行い、拘留中の殺人犯に独自に接見している。また子どもの虐待問題にも積極的に取り組んでいる。2012年東海学院大学を退職後、一般社団法人・こころぎふ臨床心理センターを設立しセンター長に就任。著書多数。(著者紹介より引用)


(前略)
 私はどの人も、生まれ落ちた時には純真無垢な清い存在だと信じています。仮に犯罪者になったとしても、なろうとして能動的に犯罪者になった人はいない、そう考えています。心理学はそのことを強く主張する学問です。人間の性格や行動は、遺伝的基盤に従属しながらも、環境、すなわち経験に大きく依存すると考えます。近年は脳の画像診断技術の発達や、脳内物質の役割が明らかにされ、経験が脳のはたらきを変えることを証明しています。
 犯罪者は放置されたままの過去の被害者であり、臨床心理士としてその人々にかかわることも必要ではないかという考えは、犯罪者に会い、その心に触れる体験を積むにつれ、益々強くなっていきました。犯罪加害者の過去を知るほど、悲嘆にくれる犯罪被害者がいるという現実を前にして、どうして防げなかったとやるせない気持ちになるのです。
(中略)
 犯罪者を理解?
 「とんでもない!」というお叱りの声が聞こえてきそうです。罪を犯したのだから償ってもらえばいい、という意見にも納得はできます。しかし社会は、個々の犯罪者を罰することだけを考えれば十分なのでしょうか。法改正等、犯罪への厳罰化の傾向が進みましたが、それでも犯罪は減りません。逆に「死刑になるために人を殺す」という人まで現れてきているのが、現実なのです。
 本来犯罪とは無縁な多くの人々もともに幸せを実感するために、犯罪が起きないような工夫を凝らすことは犯罪防止に役立ちます。そのために、罪を犯した「人間」をもっと追ってみることが求められるのではないでしょうか。個人の生育のストーリーを丹念に辿り、精神疾患との関連も検討し、犯行時に置かれていた環境を精査する……。このような作業を通してこそ、「なぜ、それは起きたのか?」への納得のゆく解答が見つかるかもしれません。そうして初めて、長期的視野に立ち、犯罪を防ぐ手立てをみんなで考えることができるものと信じています。
(後略)

(「はじめに」より一部引用)



 臨床心理士として著名な長谷川博一による、犯罪者への接見と分析を読みやすくまとめたもの。有名事件から匿名のものまで、範囲は広い。
 犯罪者のうち子供のころにどれだけ虐待経験があったのかは、もしかしたら統計結果があるのかもしれないが、残念ながら私は知らない。ただし、子どもの頃の虐待やいじめ、病気、悲劇などが大きな傷として心に植え付けられた人物がいたことも事実である。とくに警察庁広域重要指定108号事件(少年連続ピストル射殺事件)の永山則夫は有名である。本書はそのような犯罪者ばかりだ。もし彼ら、彼女らがそのような状況になかったら、今も普通に暮らしていたのかもしれない。
 ただ、犯人の都合は被害者にはまず関係ない(例外があるケースもある)。罪は罪として償うべき。それは当然のことだろう。検察側にとってそのような活動は、邪魔と考えているのかもしれない。逆に弁護人にとっては、被告人に少しでも有利な証拠を得ようとするだろう。本書では、光市母子殺害事件の被告人Fの(高裁差し戻し後の)弁護団が、Fとの文通を重ね接見している筆者に近づき、広島の主任弁護士は弁護団の依頼として動いてもらいたいと告げ、それを断ると主任弁護団も接見を断ると告げている。彼らにとって不都合な事実は隠そうとするのだろう(検察側も一緒だろうが)。しかもFに圧力をかけ、接見を断るようにしているというから恐れ入る。さらに弁護人の一人から、「裁判でのストーリー(新供述)は、本人と弁護団で話し合って作った部分がある」と告げられ、弁護団の依頼によるFの鑑定時には弁護人が立ち会って言葉をはさむということをしているのだから、何ともはや。
 筆者はあくまで中立な立場で犯罪者に向かい合う。「はじめに」に書かれているように、罪を犯した人物を知ることで原因の深層を把握し、犯罪防止に役立てることはできるはずだ。だからこそ、これからも第三者の立場で見てほしいものだ。

 「私は死刑制度に対して、否定も肯定も、意見を持たないようにしています。それを持つことが、私の職責を全うするうえで邪魔になると考えるからです。現に私は法律学者ではなく、相手がだれであってもその心に寄り添う臨床心理士なのである」(p49)
 これは死刑制度について語っているが、多分裁判そのものについても同じなのだろう。「裁判は真実を明らかにする場ではない」ことを筆者はよくわかっている。そして、現在の裁判員裁判制度が裁判の簡略化につながり、犯罪を解読する機会を失う方向に進んでいることを憂いている。とはいえ、プロの裁判官だけでは世間の感覚と大きなずれが生じていることも事実であるし、難しいところである。


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