【目次】
〔I〕仁保事件
拷問に屈服するのは、肉体的な苦痛からばかりではない。いくら真実を述べても、相手はてんから取り上げず、まるで四方をとりまく厚い鉄壁をこぶしで叩くような絶望感が、虚偽の自白へとみちびくのだ。
〔II〕島田事件
再審の門は狭いというよりむしろ閉ざされているという方が真実に近い。それは日本の裁判の誤判率の低さを証拠だてるのではなく、裁判の権威の維持を人権よりも重しとする権威主義の象徴なのだ。
〔III〕松山事件
嘘の自白という問題は、権力がつくる「魔の時間」を考慮に入れなければ、とうてい考えられない。そして有能な係官ほど、被疑者にカリスマ的魔力を発揮し、「魔の時間」をやすやすとつくりあげる。
〔IV〕梅田事件
日本の検察庁は、被告に有利な証拠を公開しないという、まことにフェアーでない習性――伝統的な慣行をもっている。公正な裁判をやり、真実を発見するのが、「公益の代表」の役目ではないのか。
〔V〕名張毒ぶどう酒事件
私たち日本人には、いまも官尊民卑の風習が残っている。まして地方の農村の中年以上の年齢層では、こうした風習がいっそう強い。ことに強制捜査権をもつ検察官は、鬼よりこわい存在なのである。
〔VI〕弘前大教授夫人殺し事件
学問のヨロイに武装された学者の鑑定が大手をふって罷り通り、有罪のきめ手となっている例がすくなくない。学問とは何か、学者とは何かという疑問を、改めて私たちにつきつけないではおかない。
本書は1970年~1976年に「展望」「現代」に掲載された六編をまとめたもの。元々は筑摩書房から発行されている。
作者青地晨(あおちしん)は評論家。戦争中の言論弾圧事件(横浜事件)で投獄された体験から、冤罪事件について数々の執筆を行っている。
本書に載せられている事件は、執筆時点ではいずれも冤罪を訴えて再審請求を起こしたり、裁判中だったりしているものである。なお本書が出版された1980年時点では、仁保事件が裁判で、弘前大教授夫人殺し事件が再審で無罪が確定している。さらに付け加えるなら現時点において、島田事件、松山事件、梅田事件が再審で無罪に、名張毒ぶどう酒事件は再審開始が決定したものの、検察側が即時抗告を申し立て、審理中である。
ここに収録された事件は、いずれも無罪もしくは再審が決定しているものである。後の裁判では捜査のずさんさ、違法捜査、拷問による自白の強要、警察による証拠の捏造、被告に有利な証拠の隠匿、古畑種基教授をはじめとする検察側に有利な鑑定の捏造などが指摘されている。しかし、本書が執筆された1970年代では、まだ警察・検察・裁判所の権威が絶対とされていた時代であり、このような冤罪の訴えなど、ごく一部の支援者を除いてはとうてい受け入れられないものであったと想像する。今でこそ、情報が公開されるようになり、多くの人たちが知ることとなった冤罪事件(もっとも、今でも受け入れていない人たちはいるのだが)であるが、冤罪にいたるまでは逮捕された元被告たち、支援者たちの並々ならぬ苦労があったに違いない。そういう時代に書かれた本書は、冤罪という恐怖と、警察・検察・裁判という権威に立ち向かっていた道程の記録なのである。
仁保事件=1954年10月26日、山口県山口市仁保下郷で起きた一家六人殺害事件。犯人とされたOは別件逮捕され、拷問により自白。後に犯行を否認するも一・二審死刑判決。1970年7月、最高裁で広島高裁差し戻し判決。1972年12月、無罪確定。
島田事件=1954年3月10日、静岡県島田市で起こった幼女暴行殺害事件。犯人とされたAは別件逮捕され、拷問により自白。後に犯行を否認するも、1960年12月、最高裁で死刑確定。1987年に再審が開始、1989年、無罪が確定。
松山事件=1955年10月18日、宮城県志田郡松山町で起こった一家四人殺害放火事件。犯人とされたSは別件逮捕され、強引な取り調べにより自白。後に犯行を否認するも、1960年11月、最高裁で死刑確定。1983年に再審が開始、1984年、無罪が確定。
梅田事件=1950年10月10日、北海道北見市で起こった公金拐帯者殺害事件。主犯の自供によって共犯とされたUは令状なしに逮捕、拷問により自白。後に犯行を否認するも、1958年11月、最高裁で無期懲役確定。1971年5月、仮釈放。1985年に再審が開始、1986年、無罪が確定。
名張毒ぶどう酒事件=1961年3月28日、三重県名張市葛尾部落で起きた大量殺人事件。犯人とされたOは、いったんは自白したが後に否認。一審は証拠不十分で無罪となったが、二審で逆転死刑判決、1972年6月、最高裁で確定。2005年再審開始が決定、高検により即時抗告。
弘前大教授夫人殺し事件=1949年8月6日、青森県弘前市で起こった殺人事件。犯人とされたNは一貫して無罪を主張。一審は証拠不十分で無罪となったが、二審で逆転懲役15年判決、1953年2月、最高裁で確定。1963年仮釈放。1971年、真犯人が名乗り出たため再審請求。1976年再審開始が決定、1977年、無罪が確定。
【リストに戻る】