東京拘置所はどこにあるか。北千住駅から東武伊勢佐木線に乗り換えて一つ目の小菅駅で降りる。下町的な佇まいの町並みを歩いていくと、目的の建物に辿り着く。一般住宅が建ち並び、買い物に出掛ける主婦、ジョギングをしている中年男性、学校帰りの子供たちなどの日常的な光景が並ぶその横に東京拘置所がある。そしてこの閉ざされた建物の中で、多くの囚人が、そして死刑確定囚がいるのである。そして、年に1,2回行われる死刑執行も、法務大臣に判子を押された死刑確定囚が東京拘置所にいた場合、ここで執行されるのである。しかし法務省はその事実を一切公表しない。最近漸く、執行の事実のみを公表するようになった。なぜ法務省は死刑の実体を隠すのか。それを明らかにするために書かれたのがこの本である。
死刑賛成にも反対にも偏らないと書くわりには、死刑賛成にずいぶん批判的でな意見ばかり載せているような気がする。また、死刑反対論者の声ばかり大きく載せ、死刑賛成論者の声をほとんど載せないというのはかなり恣意的。そして、既成の意見、既成の反対論から全く抜け出ていない。言い換えると、目新しい意見は何もない。確かに現在の法務省における「死刑隠し」や死刑確定囚、未決死刑囚に対する処遇は問題だと思うが、それと「死刑廃止」を絡めることは全く別問題である。死刑賛成論者の有力な論拠の一つである「被害者感情」は死刑問題とは全く別問題であると書かれているが、では被害者遺族が死刑を求めている声をなぜ載せようとしないのか。また、「償い」とはいったいなんなのか。結局死刑反対、反対へ持っていこうとする意識の現れが随所に出てきている。
唯一新しい見方として「ダブルアンダースタンド」という表現を使い、戦争に反対しながら湾岸戦争では賛成にまわるという矛盾と、死刑反対といいながらオウム真理教のような重大犯罪の被告に対しては死刑を求めるのは矛盾であると、同列に並べようとしているが、残念ながら「国連」というレベルと「国家内」というレベルを同一レベルで論じようという方が間違っている。また、他国が死刑廃止に傾いているから自分たちも死刑廃止すべきだという意見は、欧州・米国・アジア、そして日本という国の土壌を全く無視している。「人が人を殺す」行為が野蛮であるのであれば、殺人者はどうなのか。「過ち」という一言で片付けようとするのか。「償いたい」というが、「では償いとして死ね」と言われたら喜んで死ぬのか。「償いたい」というのは「生きたい」の言い換えに過ぎない。
残念ながら、現在の死刑反対論者の意見では、死刑賛成論者を納得させることはとてもできない。確かに死刑反対論を掲げるとすぐに暴言を吐いたり、脅迫したりという行為が出てくるのは情けない限りだが、だからといっていつまでも脆弱な、そのくせ同様な論理を持って本を書かれても納得できないのである。
もし「死刑廃止」を訴えるのであれば、まず「死刑判決」が出た時点で抗議すべきではないか。アムネスティをはじめとし、「死刑判決」に抗議するというのは聞いたことがない。被害者を救済するというのであれば、ただ国が金を出すという無謀な意見を振り回すのではなく、もっと論理的な救済方法を考え、提唱していくべきだ。死刑廃止を訴えるのは、先ず被害者、そして被害者遺族を救ってからだと思う。
【目次】
序 東京拘置所
第一章 生きている死刑囚
第二章 法律に見る死刑制度
第三章 死刑再開
第四章 死刑制度の存廃論争
第五章 被害者感情というもの
第六章 被害者の人権と死刑確定囚の人権
第七章 死刑をめぐるダブルスタンダード
原裕司は東京都生まれ。早稲田大学商学部を卒業後、北海道新聞記者を経て1988年から朝日新聞記者。取材テーマは死刑問題のほか、人権問題、冤罪問題、昭和史、占領史、鉄道問題、地方分権問題、町づくり問題、教育問題、労働問題、漁業問題、都市災害、安全問題、メディア批評など多岐に渡る。死刑問題の取材は20年間に及ぶ。
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