鎌田忠良『迷宮入り事件と戦後犯罪』(王国社)

発行:1989.9.30



 日本の警察の検挙率は極めて高い。国際的にみても、検挙率は西ドイツやイギリスを抜いて世界一の高さを誇る。
 観点をかえると、同様のことは犯罪の発生率にもみられる。人口十万人あたりの犯罪発生率の国際比較をみると、日本はアメリカ、イギリス、西ドイツ、フランスなどと比較して非情に低い。すなわち、もともと発生率の低いところへ検挙率が図抜けて高いのだから、治安は自ずと非常によいと言うことになる。
 しかしいま、未解決事件という観点から捉え直した場合、世界に誇るこうした検挙率や発生率にも一つのウィークポイントがあることが明らかとなる。
 つまり、高い検挙率を支えているのはなにか? その対象となっているのは旧来型の犯罪が大半であって、同時に小犯罪=マイナー・クライムが多くを占めている。そして、これまで犯罪統計をみるにあたって欠落していたのは、こうしたことに着目する視点であったと言えるのではないだろうか。
 だからこそ、高検挙率を誇りとする日本の警察が、グリコ・森永事件に代表されるような新型犯罪に不思議なほどにも太刀打ちできない疑問と矛盾、そのことの理由が一向に明らかにされることがなかった。
 すなわち、わが国の犯罪捜査が伝統的に得意としてきたのは、貧困、怨恨、情欲等々を原因とする旧来型犯罪に関してであって、それらに対する捜査技術はきわめて綿密にして卓抜なものがあると言えた。しかし同じ犯罪でありながら、新型犯罪の場合、東京や大阪などの巨大都市を背景として発生する上、その犯罪原因そのものが、旧来型犯罪やマイナー・クライムとは明らかに異なるものがみられる。営々と長い年月をかけ積み上げてきた伝統的捜査技術であるのだが、昨今、そんな新型犯罪の捜査については残念ながら微妙なズレがみられて、ともすれば後手にまわりがちな傾向がみられる。その理由はこれまで伝統的捜査技術の踏襲に主眼がおかれていて、新型犯罪に対抗する捜査の技術確立については遅滞をきたしていたことにあると言えまいか。
(中略)  これまで時効犯罪や未解決事件は、それらのみを対象として注目されたことはほとんど例がなかった。しかし、改めてこの観点にもとづいて多くの事例をピックアップし検討を加えていく時、意外にもグリコ・森永事件と底流で結びついているような忘れられ埋もれていた幾つかの類似の犯罪があぶりだされてくることを知る。そのことにわれわれは驚かされもすれば、同時にこうした観点から犯罪が見直されていい時期がきていると、つくづくと思わずにはいられないのである。

(「序章 時効犯罪からのメッセージ」より抜粋)



【目 次】
序章 時効犯罪からのメッセージ
第一章 ニセ夜間金庫のトリック
第二章 爆破事件をあやつる兄弟
第三章 母の書いた脅迫状
第四章 逃げ去った毒入り事件犯
第五章 戦後犯罪の変容
第六章 ニセ千円札「チー37号」の顛末
第七章 アンチ・ヒーロー「草加次郎」
第八章 都市の仮面
第九章 乱射の導火線
第十章 3億円の街頭アクロバット
終章 昨今の迷宮入り事件


 序章にも書かれているとおり、主な迷宮入り事件を通して戦後犯罪の変容を明らかにしようとしたものである。確かに迷宮入り事件を多く扱っているが、実際には犯人が逮捕され解決済みの事件も多く出てくる。犯罪を見直そうとするのであれば、迷宮入り事件だけではなく、解決済みの事件も扱う必要があるのは当然である。ただ、それだったらわざわざタイトルに“迷宮入り事件”と大きく謳うこともなかったと思うのだが。
 終章で「犯行の凶悪化傾向、陰湿化傾向が際だっている」と書かれている。そして「犯人調査の長期化、難航化が問題」とも書かれている。何のことはない、いつの年だって同じようなことが書かれているのだ。時代が変化することにあわせ、犯罪の内容も変化する。当たり前のことである。そしてそれに追いつけない警察の姿を嘆き、変革を求めようとすることも、昔から変わらない。
 いつの時代でも、識者や評論家などと自称する人たちは、似たような言葉を並べ、変革を求める。しかし人が未来を見通せないように、だれも組織を変革することなどできない。組織の変革には金と痛みを必要とする。そして金を使おうとすると反対意見を出すのは、その識者や評論家と自称する人たちだ。見通す保証のない未来に金を払おうとすると、誰もが反対する。結局、組織はいつも時代から取り残されていく。せいぜいできることは、時代に取り残される時間を少なくしようと努力することでしかない。

 著者の鎌田忠良は1939年青森県生まれ。ラジオやドラマの執筆を経て、ドキュメンタリー活動にはいる。



 本書に収録されている事件は以下。ただし、数行程度しか書かれていないものについては省略している。

ニセ夜間金庫のトリック
 1973年2月25日午後8時40分頃、大阪市の三和銀行梅田北支店通用口前に、何者かがニセ夜間金庫を設置した。これにだまされた預金者が次々と投入し、現金2,576万円までになった。しかし午後9時20分頃、投げ込まれた現金袋の重みでニセ金庫の前面のベニヤ板がわん曲し、偽物であることが発覚して未遂に終わった。迷宮入り。

爆破事件をあやつる兄弟
 1974年2月18日未明、大阪市天王寺区の近鉄線地下駅にあるコインロッカーの一つが時限爆弾を仕掛けられて爆発し粉微塵となった。けが人はなかったが、爆破箇所の近くのロッカーから、5000万円を要求する脅迫状が見つかった。さらに1時間前には同社広報を担当する常務のところに予告電話がかかっていた。
 近鉄社と捜査本部は脅迫状に従って新聞広告を出し、金を準備。複数回のやりとりを経て、3月13日午後11時10分、旧枚方バイパス宇治ドライブイン付近に現れた犯人を逮捕。男は神戸市の無職A・T(44)。さらに同じ頃茨木インタ付近の検問で不審な男を見つけ、それがAの実弟で会社員T・T(31)だった。捜査本部はニセ夜間金庫事件や大丸恐喝未遂事件との関連も追及。T兄弟は近鉄恐喝未遂は認めたが、他は否定した。
 3月17日、近鉄アパートの催し上で、時限爆弾が爆発。さらにT兄弟を釈放しろという脅迫状が見つかった。

母の書いた脅迫状
 3月17日、近鉄アパートの催し上で、時限爆弾が爆発。さらにT兄弟を釈放しろという脅迫状が見つかった。差出人である“ウルトラ山田”という名前は、7年前の1967年1月、神戸大丸デパートの便所が爆破された際の脅迫状の署名主であり、この年の6月にあった山陽電鉄爆破事件(死者2名)とともに未解決事件だった。
 さらに同日からウルトラ山田の名前で近鉄デパートに脅迫電話が数回かかってくる。複数の証拠からT兄弟とは無関係であることが判明。さらに4月7日、近鉄デパートにいた作業員が受け取った不審な懐中電灯を派出所で調べている途中で爆発し、巡査1名が重傷、他5名が軽傷を負った。T兄弟は恐喝未遂で起訴されたが、ウルトラ山田による爆発事件は続いた。
 9月25日夜、家に忍び込んでいた男を中学2年生の男子A(14)が発見し、通行人とともに取り抑えた。このとき、Aは参考人として調書に指紋を押したが、この指紋が爆破事件の遺留指紋とよく似ていたことから照合し、同一指紋と判明。26日、Aが逮捕され、犯行を自供した。しかも脅迫状は母親が代筆したものだった。ただし、Aの犯行として立証されたのは一連の事件の内3件に過ぎなかった。

逃げ去った毒入り事件犯
 1977年1月4日、東京・品川区で、電話ボックスの中に置いてあったコーラを拾い、持ち帰って飲んだアルバイト帰りの高校1年生(16)が死亡。同じく4日、電話ボックスから600m離れた地点で、無職男性(47)が死亡。そばにはコーラ瓶があった。コーラには青酸ナトリウムが混入されていた。捜査の結果、北品川の赤電話の前にもコーラ瓶が置かれており、拾った中学生は警察の知らせで命拾いをした。物的証拠に乏しく、1992年に時効成立。
 さらに1977年2月14日、東京駅八重洲地下街で男性が階段の下にショッピング袋があるのを発見。中から40箱のチョコレートが出てきた。不審に思った男性は袋を派出所に届ける。袋はそのまま築地署に回され10日間保管されたが落とし主が現れないため、同署はメーカーである江崎グリコ東京支店に引き渡した。調べたところ、製品番号を削り取った痕と箱を開けた痕があったことを発見したため、大阪の研究所に送った。化学検査の結果、4箱の各1粒ずつに青酸ナトリウムが検出されたため、大阪・西淀川署へ届け出る。そこから警視庁が現物を引き取って調べたら、1箱から犯行声明文が見つかった。犯人の似顔絵が公開されるなどしたが、時効が成立した。

戦後犯罪の変容
 犯罪の変容推移について大まかに記述。

ニセ千円札「チー37号」の顛末
 1961年12月7日、日銀秋田支店の発券課員が、損傷券を扱う廃札係に回される直前でニセ千円札を発見。真券よりほんの少し薄く、ツルツルした感じで艶があったが、そのあまりもの精巧ぶりに専門家が「見事」というほどの出来映えであった。その後、1963年11月4日までで、秋田から鹿児島にかけて22都府県下で合計343枚発見された。しかも、報道を受けて欠点を少しずつ修正していくという技術であった。
 今回の事件を受け、大蔵省は1963年11月1日より千円札の図柄を聖徳太子像から伊藤博文像に切り替えた。以後、ニセ千円札は出てこなかった。
 目撃証言等もあったが、事件は迷宮入りし、時効が成立した。

アンチ・ヒーロー「草加次郎」
 1962年11月4日、東京都品川区の歌手島倉千代子後援会事務所で爆発が起き、事務員がけがを負った。原因はボール紙製の爆発物で、「草加次郎」の署名入りだった。「草加」はほかにも東京・京橋の地下鉄京橋駅ホームで10人の重軽傷者を出した爆発事件など、この年に6件の爆発騒ぎを起こした。その後も次々と事件を引き起こし、爆発7件、脅迫状14件、狙撃1件。負傷者14名にのぼる。犯人は「草加次郎」と名乗り、指紋も検出されたが、1978年9月5日、時効成立。

都市の仮面
 1964年4月24日午前0時30分頃、東京都港区で、CMソングを専門に製作するプロダクションの社長(29)が、会社から自宅のアパート前まで自家用車で帰ってきたとき、待ち伏せをしていた若い男に柳刃包丁で襲われて死亡した。約1ヶ月後、プロダクションの総務課長N(29)とタクシー運転手S(25)が逮捕される。Nはある経理事務所から2年前に引き抜かれたが、1年足らずで会社の金を100万円使い込んでいた。しかもNは社長に無断で裏金づくりをしておりその金額は600万円にのぼった。そのことが社長にばれたため、Nは会社乗っ取りをたくらみ、Sに報酬120万円で社長殺害を依頼したものだった。
 法廷でNは情緒不安定であったという証言が続いたため、裁判所は精神鑑定の実施を決定。二度行われた結果、1965年10月4日、東京地裁でNは精神分裂病で犯行前から心神喪失の状態であったとして無罪判決(求刑死刑)。Sは無期懲役(求刑同)、Sの共犯Tに懲役4年が言い渡された。ところが東京高裁では再び精神鑑定が行われ、Nの「妄想型精神分裂病」は仮病と判断された。1969年3月26日、東京高裁で無期懲役の判決が言い渡された。

乱射の導火線
 1965年7月29日午前11時頃、神奈川県座間町の山中、銃の禁止区域内でライフルを発砲していた少年K(18)を職務質問しようとしたT巡査(21)が、ライフルで撃たれて死亡。「おどかすつもりでライフルを右に振りながら引き金を引いたら、引くのが早すぎて当たってしまった」との供述が残されている。Kは巡査から警察手帳、拳銃、制服、ズボンを奪って警官になりすます。発砲後、まもなくパトカーで駆けつけたT巡査(27)、S巡査(23)がパトカーから降りた瞬間、Kは両巡査に発砲して逃走。S巡査は重傷、T巡査はバンドの留め金に弾が当たったため奇跡的に無傷であった。
 その後Kは人質を取って車で逃走。銃砲火薬店に人質4人を取って立て籠もり、銃を乱射した。午後7時、警察からの催涙弾で、二人を盾にして外に出てきたところを逮捕される。警官隊との市街戦で16名が重軽傷を負った。Kは警察の調べに「好きな銃を思いっきり撃ってスカッとした」と供述した。
 少年であったことから矯正の可能性があると、東京地裁で一審無期懲役判決。しかし、K自身が「銃への魅力は、今なお尽きない。将来社会へ出て、再び多くの人に迷惑を掛けることのないように、死刑にしてほしい」と主張したためか、二審東京高裁で死刑判決。1969年、最高裁で死刑確定。1972年7月21日、死刑執行。25歳没。

 その他、この時期に続けて起きた爆破事件について記述。

3億円の街頭アクロバット
 1968年12月10日午前、日本信託銀行の現金輸送車は、東芝府中工場従業員のボーナス約3億円を積んで、府中刑務所北側の道路を走っていた。突然、白バイが急接近してきて、停車を命じた。若い警官は、この車に爆弾を仕掛けたという連絡があったと告げ、四人の行員を下車させた。警官は輸送車を点検するふりをして、発煙筒に点火。煙を見て四人の行員が避難するのを見ると、警官は輸送車に飛び乗って逃走。その後、車を乗り換えた後、足取りは消えた。遺留品も多く、モンタージュ写真も作られたが、捜査は難航。1975年、時効成立。

 1968年12月27日、京都国立近代美術館で11月4日から開催中の「ロートレック展」の会場から、19世紀末のフランス画壇の巨匠であり、36歳で早世したアンリー・ド・トウールズ=ロートレックの代表作である油彩絵画『マルセル』(時価3500万円相当)が盗まれた。この絵画はフランス・アルビの市立美術館が所蔵しているものであり、フランス文化省の好意により、今回初めて日本の展覧会に貸し出されたものであった。
 翌日、主催者であった読売新聞社などは発見者や情報提供者に1000万円の懸賞金を送ると発表。また美術館の館長は辞意を表明した。翌年1月4日、事件当日の当直守衛(55)が自宅で自殺した。
 絵は発見されず、1975年12月27日に時効となった。ところが翌年、大阪に住む会社員夫婦が、友人である中学教師(28)から風呂敷に包まれた状態で2年半前から預かっていた保管物を、海外旅行に行って留守にするからと開けてみたところ問題の絵画であることが判明。1976年1月29日、新聞社に連絡をした。鑑定の結果、絵画は本物であることが判明した。
 京都府警は夫婦や中学教師を調べようとするが、すでに時効を迎えているために難航。特に民事時効の方はまだ成立していなかったため、中学教師は自分も中身を知らずに友人から預かったとしか答えず、さらにその友人の名前はいっさい出さなかった。
 結局事件の概要は分からないまま、主催者である読売新聞社の方から名画は無事にフランスへ返還された。


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