明治、大正、昭和(戦前)を代表する猟奇事件の全貌。
古い事件をよく調べたな、という想いはあるが、これだけの猟奇事件からなにを引き出すことができたか、という点は全くない。事件の紹介のみで終わっているのは、全く勿体ないことである。できればもう少し、時代背景と絡めた視点で書いた方がよかったのではないか。
【目 次】
第一章 明治篇
ストリップの元祖! ハイカラ毒婦・自転車お玉
“全裸美女惨殺”第一号 「お茶の水おこの殺し」
明治のプレイボーイ “三母娘”相姦図
第二章 大正篇
尼僧強姦殺人魔! 大正の妖僧・大米竜雲
焼けただれた乳房 小口末吉事件
遺骨の前でからみあう 保険金殺人・川本匡事件
第三章 昭和篇
女性器をえぐり愛食した「逆・阿部定」事件
美青年・車次久一の異常愛の果て
第二次大戦前夜のスワッピング殺人事件
【自転車お玉】
神奈川県藤沢市の小作農の一家に生まれたお玉は、生活苦(別説有り)から6歳の時、娘手踊り一座の座頭に売られた。12歳で座頭(当時60とも70ともいわれる)に女にされた。16歳で一座を飛び出し、その後横浜遊郭に入った。そこでは、三味線と太鼓に合わせて「チョンキナ、チョンキナ、チョチョンガナンノサノ、チョチョンガヨンヤサ」と歌いながら、着物を一枚ずつ脱いでいくチョンキナ踊りの名手として圧倒的な人気を博した。
明治4年、貿易商の老人が彼女を妾にしたいと口説いたが、彼女ははねつけた。ところが遊び人の陣内松三郎が交渉に入り、陣内はそのままお玉とできてしまった。お玉は陣内の計略で妾に入り、5日後、老人が新しい取引で用意していた2000円を盗んで陣内とともに逃亡、上京した。贅沢三昧でアッという間に使い果たすと、今度は自転車を乗り回す様相美人というふれこみでホテルのコマーシャル・ガールとして雇われ、人気を博した。
明治4年5月、ホテルにいたお玉のところへ老人の貿易商の支配人となった青年(31)が訪れ、現金2000円を返してほしいと訴えてきた。陣内の策で、青年をたぶらかそうとし、チョンキナ踊りまで踊ったが、青年が全く心を動かさなかったことで激怒。その場にあった牛刀で青年を殺害した。そして陣内とともに死体を大川へ投げ込んだ。
お玉は連行されそうになったが、着替えると偽って窓から陣内とともに東京を脱出。明治7年頃は、大阪、京都、名古屋、神戸、岡山、広島などで強盗を繰り返した。特に陣内は、押し込み強盗先に女性がいると、必ず強姦した。
明治8年春、二人は東京に舞い戻ったが、そこでお玉は御用となった。陣内は逃亡した。お玉は明治9年に市ヶ谷監獄で獄死。享年27。
【お茶の水おこの殺し】
明治30年4月27日午前5時頃、巡行中の巡査が、お茶の水の神田川の水底から、女性の裸体死体を発見した。女性の顔は切り刻まれていたため、身元探しは難航。そのうち、牛込に住む男性(42)と同棲していたおこの(40)ではないかという聞き込みがあった。男は遺体の首実検をしたがおこのではないと断言した。
おこのは淫奔な性格で、数々の奉公先で色事のトラブルで首となり、何人もの男の妾として転々としていた。今では小口の高利貸しをやっており、松平はその用心棒だった。
警視庁は200円の懸賞金を出し、時事新報が金時計を提供した。その結果、幾つかの有力証言が集まり、松平は逮捕された。動機は、おこのの浮気に対する嫉妬、おこのがケチだったこと、連れ子に辛く当たったことなどをあげた。松平は無期懲役の判決を受けた。
【明治のプレイボーイ】
野口男三郎のこと。詳細は省略。
【大正の妖僧・大米竜雲】
強盗強姦殺人4件、強盗強姦5件、強盗7件、窃盗9件で起訴され、大正5年5月21日、死刑となった。
【小口末吉事件】
大正6年3月2日夕方5時過ぎ、東京下谷の開業医が急病人との知らせに、大工小口末吉(30)の家に駆け付けた。布団で寝ていた内妻ヨネ(27)は、左の乳から胸に書けてうすく黒く不気味に焼けただれ化膿していた。体のあちこちには、鋭利な刃物で斬りつけられた傷跡が見られた。応急手当後、医師は警察に通報。駆け付けた警察医は、内妻の左手指2本、右足指2本が切断されていること、背中の2箇所や左右の腕に「小口末吉の妻」と刻み込まれているのを発見した。警察医の手当にも関わらず、ヨネは午後9時過ぎに死亡した。
ヨネは吉原の楼で働いていた女中(娼婦ではない)だったが好色で、好きな客には銭金抜きで抱かれていた。小口は楼に出入りする大工で、低脳で醜男だったが、なぜかヨネは小口に惚れた。小口は妻や子供を捨て、ヨネの家に転がり込んで同棲を始めた。二人は淫蕩な生活を続けたが、ヨネは浮気をやめられなかった。
ヨネの四度目の浮気の仲直り後、反省したヨネは小口に、焼けた火箸で「小口末吉の妻」と書いてくれと要求。以後も同様の要求や、指を切断したりなどを繰り返した。ヨネは典型的なマゾヒストだった。
【保険金殺人・川本匡事件】
電気技師として働いていた川本匡(まさし)は、神奈川県の未亡人方に下宿していたが、未亡人の娘二人友が川本に惹かれた。積極的にアプローチしてきたのは妹の方だったが、結局川本は姉と結婚した。しかし半年後、姉の不在時に妹が川本宅に訪れ、匡を誘惑。そのまま関係ができた。
二人の関係はやがて姉にばれ、別れることとなったが、実際は密かに続いていた。
川本は妻へ第一生命に2000円、明治生命に3000円の保険をかけた。大正9年3月1日、妻が軽い下痢をしたのをチャンスと見、医者の診断を受けた。そして医者からもらった薬の代わりに、塩酸モルヒネを飲ませ続けた。妻は次第に衰弱していったが、なかなか死にそうになかったので、匡は硝酸ストリキニーネを飲ませた。妻は8日に死亡した。医者から「脳膜炎」という死亡診断書をもらった匡は、遺体をそうそうに火葬した。
4月13日、匡は第一生命を訪ね、保険金2000円を受け取った。15日、明治生命を訪れて保険金を請求したが、明治生命は調査員を派遣して調べて回った。匡は青くなったが、6月10日、明治生命は3000円の保険金を支払った。
半年後、匡は妹と再婚し、贅沢三昧の生活を続けたが、半年後には金がなくなった。
匡は身寄りのない青年を秘書として雇い、二社から保険金計20000円をかけた。しかし殺害には失敗した。
匡は代診として雇われ、病院にきた19歳の女給に目を付け、関係を持つようになった。匡は二社から計15000円の保険金をかけた。ただし、このとき保険会社の健康診断を受けたのは、新しく妻となった妹であった。
匡は女給にモルヒネを注射して殺害、その後診断書を受け取るとさっさと火葬した。しかし、女給の兄や保険会社が不審の目を向け警察に通報。保険金を受け取る前に、二人は逮捕された。
川本匡は死刑となったが、後に無期懲役に減刑となった。妻は懲役6ヶ月、執行猶予3年の判決を受けた。
【「逆・阿部定」事件】
昭和7年2月7日早朝、名古屋市で農業を営む男性の長男が、納屋で女性の死体を発見した。警察が駆け付け調べると、首が無く、さらに両方の乳の部分、臍、性器の部分がえぐり取られていた。
最初は納屋の持ち主の男性一家が疑われたが、無実と判明。近くの川に捨てられていた風呂敷包みから、若い女性の写真と数通の手紙が発見された。手紙は、名古屋市の八百屋の未亡人の娘(19)から、東京市の男性(44)に「送られたものと判明。女性の死体は、娘と判明した。
男性は菓子職人として名古屋におり、その時、娘と深い関係になった。男はその後、職場を辞めて東京に帰っていた。
4日後の11日、犬山市の木曽川の川岸で、女性の生首が発見された。髪の毛は頭の皮ごとはぎ取られ、眼球も耳もえぐり取られていた。
3月5日、犬山橋のそばにある茶店で、観光シーズンとなって再開するために訪れた船頭が、男性の首吊り遺体を発見した。女性の首からはぎ取った髪の毛付の頭皮を、頭にかぶっていた。殺人の動機は不明である。
【美青年・車次久一】
昭和8年の夏、関東煮を商う店の店主が、2年前に娘の長唄の師匠から預かった荷物が邪魔になったため、柳行李の中を開けてみると、血痕の付いた布団カバーなどを発見、警察に通報した。警察は、柳行李に入っていた水甕の中から人間の髑髏を発見した。
警察の捜査の結果、長唄の師匠とは杵屋彦太郎、本名車次久一と判明。車次は美青年だったが、男性女性の両刀使いだった。車次は西宮市でアメリカ人貿易商の男性に妾として囲われたが、男性が商売で日本にいないときは、大阪市に住む男性(31)と関係を持っていた。ところが男性は浮気をしていたため、自らも浮気をしようと決意。
昭和3年1月26日、神戸市で美青年を見つけ、家に連れ込んで関係を持った。ところが男性が帰ってきたため、二人を発見して大騒ぎ。車次はさんざんに殴られた。それは28日の朝まで続いたので、殺害を決意。酒を飲んで寝ていた男性の頭を斧で殴りつけ、西洋剃刀で喉を切って即死させた。そして死体を物置に隠した。ところが、貿易商の男性が日本へ行くという電報が来たため、2月10日、鋸で首を切り離し、供養のために埋葬しようと水甕に入れた。死体は裏庭の便所の前を掘って埋めた。
車次は女形として幾つかの劇団を転々として、全国を地方巡業して回っていた。しかし捜査の手が迫ったことを知った車次は、大阪府でルンペンに混じって暮らしていたが、昭和8年9月30日に逮捕された。
【スワッピング殺人事件】
昭和15年2月8日、東京都渋谷区の木型職工、平木文治(32)の家から白い煙が吹き出した。近所の数人が家の中へ駆け込み、ぼやで消し止めた。ところが座敷には二人の若い女が焼け死んでいた。平木の家には、妻(32)、妻の妹(22)、(20)が同居、さらに平木の友人が二階の一間に間借りしていた。友人の首実検で、遺体は妻と末妹と判明。そして映画を見に行っていた中妹が帰宅。三姉妹は全員、平木と関係していたことを告白した。
最初は平木が働き、三人を養っていたが、一年後にはダウンして床についた。そこで三姉妹が働きに出ることとなり、元気になった平木は二度と働きに出ず、夜の生活の方に専念していた。昭和14年12月15日、妻が失踪。2月2日、末妹が失踪した。そして当日は、姉と妹の行方を追及した中妹を無理心中しようとしたが、中妹の友人が訪れてきたため失敗。床下から二人の死体を取り出し、火を放って逃げたものだった。動機は、体が弱ってきたため、こんな乱れた生活を続けたら死んでしまうと思い、一番好きな中妹とまともな夫婦になろうとしたと供述した。
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