市川悦子 『足音が近づく』
(インパクト出版会)


発行:1997.10.10



 小島繁夫は1956年頃、共同で営んでいた飲食店がうまくいかなくなって、共犯者Tの家に転がり込み、一緒にパチンコなどに耽っていた。同年9月、飲食店で知り合ったN銀行行員T(当時34)を襲って金品を強奪することを計画。9月5日、行員Tを共犯者Tの家に誘致、対談中に、共犯者Tが背後より手斧を以て行員Tの頭頂部に一撃を加え、さらに小島が口を塞ぎ、共犯Tが行員Tの右脇腹を突き刺して殺害、行員T携帯銀行所有の4万7千円、小切手三枚(額面15万8299円)、書類数十点などを強手。さらに行員Tの死体を海中に放棄した(このとき、共犯Tは逃亡した)。強盗殺人罪により小島は死刑、共犯Tは無期懲役を求刑された。大分地裁は1958年9月1日、求刑通りの判決。にて一審判決、1958年9月1日確定。1959年4月30日、福岡高裁で被告側控訴棄却。1960年6月28日、最高裁で被告側上告棄却、確定。判決訂正申し立ても棄却され、1960年7月19日、小島の死刑は確定した。そして8月2日、未決囚を収容する土手町拘置支所から福岡市百道(ももじ)の福岡刑務所に移され、「特別舎」に収容された。「特別舎」は確定死刑囚のみの収容区画である。そして、小島の「死を待つ日々」が始まる。

 以後は、小島の日々の様子を書いた秘密書簡である。小島の悲願は、秘密のヴェールに閉ざされた死刑囚の生活を世間の人に知ってもらうことであった。手紙は全て検閲され、世間に知れて差し支えないことしか、書くことを許されない。小島はキリスト教信者となり、罪滅ぼしとして自由時間のほとんどを点訳にあてていた。小島は教会新聞などを通して、手紙による友を得ることができた。東北出身、東京在住の22歳の竹内幸子もその一人であった。文通を続けているうちに、二人は友情以上のものを芽生えさせていった。そして1964年、入籍。小島40歳、幸子24歳。幸子は福岡へ移住した。しかし、金網越しの愛は、いつしか越えがたい溝を刻んだ。そして1968年8月9日以降、二人の通信は途絶えた。小島が処刑されたのは1970年6月3日。享年46歳。死刑確定から約10年。死刑確定から執行までの平均年数が約3年というこの頃としては、異例の歳月である。
 この手記は1979年、小島から幸子さんへの秘密通信約1500枚、検問済みの手紙7000枚の一部を、幸子さんと親しく交際するようになった市川悦子が纏め、立風書房から出版された。小島の希望は、死後9年経って、ようやく叶ったのである。
 手記の内容のほとんどが、日常に費やされている。監獄の中での日常に弱音を吐いたり、励ましの手紙で感動に打ち震えたり、時には死刑執行のための足音に怯えたり、いつ来るか分からない執行に恐怖したり。死刑囚の本音がここまで書かれた本もないであろう。現在、免田栄氏の獄中日記が数冊出ているが、氏の場合は、再審という大いなる希望があった。小島にはそんな希望は全くなかった。ただただ、一日を生き延びることに全精神を集中していた。この獄中日記では、被害者に大してほとんど述べられていない。反省らしい言葉もほとんどない。しかし、死を迎えるという状況で反省などできるのだろうか。大いなる疑問であり、当たり前のことなのかも知れない。
 面白いといっては失礼だが、今でも再審請求が行われている福岡事件の元死刑囚二人や、免田氏と予想される人物も出てくる。死刑確定囚から見た彼らの姿は、当人が語る姿と大いに異なっており、興味深いものがある。
 そんな死刑囚の実状をもっと日本は、法務省は世に問う必要がある。アメリカなどと比べていかに死刑囚が虐げられているか、秘密のベールに隠されているかを我々はもっと知る必要がある。
 ただし、私は死刑賛成派である。死刑囚の現状を改善することには賛成するが、やはり彼らは死を以て償うべき必要があるのだと考えている。いったいどこまでの罪が「死」に値するのかという議論はこれからの課題ではあるが。
 なお、小島繁夫という名前や死刑囚を始めとして、この本に登場する人物は全て仮名である。ただ一つの実名は、小島と同様、キリスト教誌を通じて知り合った女性と獄中結婚した山口清人元死刑囚(1960年8月31日執行)著『愛と死のかたみ』だけである。この本は、山口元死刑囚と獄中結婚をした相手との書簡集である。

 この本に出てくる小島繁夫死刑囚の実名であるNは1973年5月11日に執行されている。

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