斎藤充功『戦後日本の大量猟奇殺人』(ミリオン出版)


発行:2014.12.10



 大量殺人者(スプリー・キラー)の意義付けは学者によって異なるが、米国司法省では「大量殺人は1か所で多数の人間を殺害(マス・マダー)し、連続殺人(シリアル・キラー)は殺人と殺人の間のスパンに時間差がある」と定義している。だが、大量殺人における「被害者の数」は、とくに限定した基準などは設けていないようだ。また、警察庁所管の科学警察研究所(科警研)は被害者数・発生場所・発生時間ともに単一の場合を「単発犯」と規定し、被害者数・発生場所が複数で異なる時間帯に犯行を繰り返す形態を「連続犯」に分類している。しかし、大量殺人における被害者数の数をもって、「何人以上が大量殺人」と、認定する基準はない。通例上、「4人以上の被害者」が発生した場合を大量殺人と呼んでいるようだ。
 大量殺人の「1か所で多数の人間を殺害」という定義を当てはめてみると、日本の戦後にもマス・マダーの事例は数多くあり、発生時期は昭和20年代から昭和30年代にかけて集中していることが、犯罪統計などから確認できる。この時代、国民は多大な戦禍を被りながらも、ようやく平和を実感できる時代を迎えたが、現実的には困窮した生活に塗炭の苦しみを味わっていた。ことに敗戦後しばらくは警察機能が麻痺した状態の世の中で、各地では殺伐な事件が起きていた。大量殺人事件も然りである。
(中略)
 戦後の混乱した社会状況の中、帝銀事件に始まり下山、三鷹、松川事件など、不可解で真犯人逮捕に至らなかった重大事件が多発していた時代。本書は、同時代に起きた大量殺人事件を取り上げ、「日本の大量殺人史」のアンソロジーとして編んだものである。第2章では、7件の大量殺人事件の現場に改めて赴き、現地取材を通して事件の背景や裁判の経過、人間関係などを今日的な視点で検証を行った。
(中略)
 最近の殺人事件は「加害者と被害者の人間関係が希薄」で、金銭を触媒にした殺伐な事件が多すぎるが、本書で取り上げた全12件は「犯行に濃密な人間の感情が投影された」殺人事件ばかりである。そこには、人間が感情の動物である限り、憎しみもまた人間の持つ普遍的な要素で、その感情がぎっしりと詰まっている人間の正体というものが、殺人という行為で剥き出しになることを、これらの事件は教えてくれる。
 読者の皆さんが本書を通して、「日本型大量殺人」といった事件がどのような状況下で起きたのかを知る手立てとして利用してもらえば、筆者として無上の喜びである。

(「はじめに」より引用)


<目次>
 [巻頭写真]大量殺人者の風景
 [はじめに]戦後日本の“黒い霧”に隠された「大量殺人」
【第一章】悪魔の所業
 東京「10件連続強姦殺人」1945 「性獣」小平義雄の正体
 千葉「8人連続強盗強姦殺人」1951 おせんころがし――2度の死刑判決が下された“ハヤブサの源”
 兵庫「加古川7人殺害事件」2007 “火の玉殺人”で一族7人を殺した死刑囚
 神奈川「一家5人惨殺事件」1949 「小田原銭湯殺人事件」犯人の少年Aは再犯後獄中自殺していた?
 茨城「一家9人毒殺放火事件」1954 第二の帝銀事件
【第二章】一族殺し
 青森「8人放火殺人事件」1953 「リンゴ園8人殺し」の犯人が無罪放免の不思議
 北海道「一家8人惨殺事件」1948 “8人殺害”で「無罪」の陰に漂う政治的な匂い
 和歌山「一家8人殺害事件」1946 死刑台から生還した男
 福岡「一家11人殺傷事件」1954 悪は善に帰らず――恨み骨髄の凶行に及んだ男の最期
 東京「昭島8人放火殺人事件」1957 暴走した父性愛の果てに
 長野「一家7人殺害事件」1946 時効になった終戦直後の7人殺し
 三重「熊野猟銃乱射10人殺傷事件」1980 まるで「八つ墓村」……特異性と謎に満ちた“一族殺害”の全貌
【第三章】海外の狂人
 アメリカ「13人連続殺傷事件」1976 懲役315年の刑が下された連続射殺魔
 [総論]大量殺人、その真相


 作者の斎藤充功はノンフィクション・ライター。著書多数。

 戦後の大量殺人についてまとめたムック本。連続殺人も2件あるものの、そのほとんどが大量殺人事件を取り扱ったものである。
 筆者は、「日本の大量殺人は「血族」と「身内」という限定された人間関係の中で起きた犯行が多かった」とあるが、これは単に、当時の日本が大家族だったからにすぎないのであり、一家皆殺しにしようとしたらたまたま大量殺人になった、と考えた方がよいのではないだろうか。日本のスプリー・キラーの代名詞となっている津山30人殺しにしても、村全体が家族のようなつながりのあった時代であったことを考慮すべきである。むしろ海外にあるような連続殺人が少ないことを、もっと検討すべきではないだろうか。
 小平義雄を「10件連続」と形容しているが、3件については証拠不十分で無罪となっているのだから、このような誤解を招く書き方はやめるべきだろう。北海道「一家8人惨殺事件」では無罪判決について「政治的な匂い」とタイトルで書いているものの、文中にそのような内容は一切無いので、そのような扇情的なタイトルの付け方は控えるべきだっただろう。「「小田原銭湯殺人事件」犯人の少年Aは再犯後獄中自殺していた?」とあるが、根拠は刑務所と70代という年齢が一致するだけであり、根拠としてはあまりにもいい加減。「加古川7人殺害事件」を2007とタイトルで書いているが、犯行があったのは2004年である。「「リンゴ園8人殺し」の犯人が無罪放免の不思議」とあるが、心神喪失状態が無罪になるのは、法律上当然のこと。こういった点が、本書の出来に疑問符を浮かべるところになっている。
 第三章のアメリカの事件は蛇足だった。日本の大量殺人と比較するのであれば、もっと件数が必要であるし、そもそも比較するのであれば銃を使った大量乱射殺人事件などを持ち出すべきだっただろう。そうでなかったら、日本の殺人事件だけでまとめるべきだった。  本書は犯罪史でもあまり触れられない事件を扱っており、そういう意味では持っていて損はないだろう。ただ、当時の状況を取材するというのは、近所に住む人たちにとっては迷惑極まりない行為であるのかもしれない。しかし、事件の概要や影響を知るという点について、現地取材は欠かせない。暴露本にならないように取材を続け、執筆をするかというのは、とても難しいことだ。本書が(出版社の性格もあるだろうが)暴露本に近いような作りになっているのは残念であり、できればもっと統計立てた作りにすれば良かったのではないかと思われる(まあ、こうやって事件概要をまとめている自分も、人のことは言えないか)。


 各事件の概要は以下。

●東京「10件連続強姦殺人」1945
 1946年8月17日、東京芝浦の増上寺境内の裏山で、死後10日は経っていた20歳くらいの女性の全裸死体が発見された。しかも10m離れた場所から、もう一体の白骨化した死体が出てきた。その後、全裸死体は立行司Iの三女であることが判明。そして就職斡旋をしていたおじさんこと小平義雄(42)が8月20日に逮捕される。小平は1923年、18歳で海軍に入り、中国大陸で現地人を次々強姦、殺害。勲八等旭日賞をもらって除隊後の1932年に、家出した妻の父を殺害して懲役15年の刑に服し、2度の恩赦後、1940年に出所していた。出所後はボイラーマンとして働き、1944年8月に再婚、長男も生まれていた。1945年5月の事件後はボイラーマンを辞め、運送屋の手伝いをしていた。
 その後の調べで小平は以下の事件を起こしていたことが判明。  1945年5月から1946年8月まで上記を含む合計10名を殺害していたとして起訴された。これ以外にも、小平は約30件の暴行を行った旨を供述している。裁判では10件の殺害のうち、3件については証拠不十分で無罪、7件について死刑判決を言い渡した。1947年6月18日、東京地裁で死刑判決。1948年2月27日、東京高裁で控訴棄却。1948年11月16日、最高裁で上告棄却。1949年10月5日、宮城刑務所で執行、44歳没。

●千葉「8人連続強盗強姦殺人」1951
 闇米のブローカーだった静岡県駿東郡原町(現・沼津市)の栗田源蔵(21)は地元のH子(20)と夫婦になる約束をしていたが、H子の友人であるY子(17)とも付き合っていた。1948年2月8日、H子に結婚を迫られた栗田は海岸に誘い出して松林の中で性行後、首を両手で絞めて絞殺。数日後、Y子を同じ海岸に誘い出して性行したが、H子との関係を執拗に問いただされたため殺害したことを思わず告白してしまう。警察に行くというY子を栗田は絞殺した。
 栗田は原町を離れ、関東各地の飯場で土工の仕事をしていたが、傷害事件と窃盗事件で二度刑務所に入れられた。
 出所後の1951年8月8日、栃木県下都賀郡小山町で天理教布教師宅に押し入り、妻のH子さん(当時24)を強姦のうえ殺害、自転車、衣類などを強奪した。
 栗田は1951年10月10日午後11時ごろ、千葉県小湊町で、3人の幼児と共に駅前のベンチでいた休んでいた女性(29)に強姦目的で近づいた。おせんころがしと呼ばれる断崖に差し掛かると、まず5歳の男児と7歳の女児を崖下に投げ捨て、女性を強姦。その後2歳の幼女とともに首を絞めながら投げ落とした。崖の中腹に引っかかっていたことに気付いた栗田はさらに崖から降りて、女性、男児、女児を石で殴って殺害した。このとき、7歳の女児は崖の途中に引っかかって茂みに隠れたため、奇跡的に命を取り留めた。
 1952年1月13日、栗田は千葉県で泥棒に入った家の主婦(24)を絞殺、死姦。いっしょにいた叔母(63)も出刃包丁で刺し殺し、死姦した。このとき指紋を残したため、1月17日に栗田は逮捕された。
 1952年8月13日、栗田は千葉地裁で求刑通り死刑判決。栗田は控訴した。
 千葉市警は栗田の起訴後も余罪を追及していた(おせんころがし事件についても追及されたが、栗田は当初否認した)。栃木県警と合同で取り調べた結果、栗田は残り3件について自供した。なお、1951年10月24日、青森県南津軽郡内の山林で女性(24)を強姦して殺害した事件も自供したが、物証が得られなかったため起訴は見送られている。
 静岡の事件以外の残り3件で1953年12月21日、宇都宮地裁で求刑通り死刑判決。栗田は控訴した。
 東京拘置所に移された栗田であったが、拘禁ノイローゼにかかる。1954年10月21日、両件の控訴を自ら取り下げ、死刑が確定した。
 殺害した人数は計8人。他にも殺人未遂、窃盗事件などがあり、戦後もっとも凶悪な男と呼ばれた。1956年に死刑反対運動が盛んになった頃、矯正不可能な人種がいるということで栗田の名前が挙げられた。1958年からの死刑反対運動のさなか、だれが死刑を執行しても問題がないという観点から栗田が選ばれ、1959年10月14日執行。33歳没。この頃は、死の恐怖からか、ところ構わず無罪を訴えていたという。

●兵庫「加古川7人殺害事件」2007
 兵庫県加古川市に住む無職F(47)は2004年8月2日午前3時半頃、自宅東隣に住むおば(80)宅を襲い、おばと次男(46)を牛刀で刺し、次男を殺害した。続いて自宅西隣にある親類の男性宅を襲撃。男性(64)、妻(64)、長男(27)、長女(26)を牛刀で殺害した。その後、もっとも恨んでいたおばにとどめを刺すためにおば宅へ戻り、まだ息があったおばにとどめを刺した。そこへおば宅の隣に住む長男(55)と妻(50)が駆けつけてきたため、牛刀で刺して長男を殺害、妻に重傷を負わせた。
 その後、Fは自宅に戻り、用意していたガソリンをまいて放火し、自宅は全焼した。一緒に住んでいた母(73)は就寝中だったが、事件中に目を覚まして近くの交番に保護を求めたため、怪我はなかった。
 Fは事件後、自家用車で逃走。同市内の弟宅に立ち寄り、犯行を打ち明けた後、ガソリンで焼身自殺しようとして止められた。そして現場から南に約1km離れた国道バイパスの交差点で停止中、後から来たパトカーに気づいて車を急発進させ、高架の橋脚に衝突して炎上。両腕に重度のやけどを負って神戸市内の病院に入院していた。救出された際、警察官に犯行を示唆したため、県警は殺人容疑で逮捕状を取り、事情を聴いていた。 回復後の8月31日に逮捕された。
 Fは3年前から近所の人を包丁で追い回すトラブルを再三起こしていた。粗暴であったことから周囲より邪魔者のように扱われたため、20年以上も恨みを抱いていた。
 裁判では刑事責任能力が問われたが、2009年5月29日、神戸地裁で求刑通り一審死刑判決。2013年4月26日、大阪高裁で被告側控訴棄却。2015年5月25日、最高裁で被告側上告棄却、死刑確定。

●神奈川「一家5人惨殺事件」1949  小田原市の元工員SMは地元企業で旋盤工として働いていたが、1945年2月に解雇されて失業状態だった。SMは叔父の家の2階に弟と住んでいた。6月ごろ、SMが部屋の窓から隣にある銭湯の女湯を覗いているところを、銭湯の主人が発見し、注意。銭湯の主人は女湯を覗かれないようにと、叔父の家との境にある薪置き場の屋根を高くした。SMはそのことを逆恨みした。
 1949年9月14日午前1時40分ごろ、SM(19)は隣家に侵入。銭湯経営の主人(45)、妻(43)、長女(19)、次女(7)、長男(4)、妻の母(81)を薪置き場にあった鉈と持参した肉包丁でめった切りにした。5人が即死、長女のみ重傷を負ったが命を取り留めた。SMは犯行後、同居する叔父に犯行を語り、叔父とともに警察署に自首した。
 SMは殺人罪で起訴され、1950年1月12日、横浜地裁小田原支部で求刑通り死刑判決。SMは控訴したものの取り下げる手続き進めようとしたが、それを聞いた死刑反対派の一審担当判事が2月6日、SMに控訴するよう説得し、SMは取り下げを止めた。1951年3月20日、東京高裁で被告側控訴棄却。1951年9月6日、被告側上告棄却、確定。
 1952年4月28日、サンフランシスコ平和条約発効記念により政令恩赦が実施され、SMがその1人として選ばれ、無期懲役に減刑された。
 1970年3月、仮釈放され、宮城刑務所を出所。刑務所で覚えた技術を生かし、都内の印刷会社に勤めた。
 SMはその後、横浜市のアパートに住み、部屋は家出少女や不良少女のたまり場となった。1982年ごろ、近所に住む父子家庭の小学六年生の女児がSM宅に入り浸るようになり、その後女児は家出して同居を始める。しかし1984年7月8日、中学二年生になっていた女児(13)はSM宅を飛び出し、東京都杉並区にある中学三年生の女児の先輩(14)宅へ逃げ出した。この先輩の少女も、SM宅に入り浸る常連だった。SMは先輩が二人の仲を引き裂こうとしていると思い込み、午前10時ごろ、先輩方を訪れて女児に復縁を迫るも拒まれた。さらに二人の友人の中学生五人から「おじさん帰りなよ」と言われたため、SMは近くの商店で登山ナイフを購入。午後6時ごろ、二人を駅前に呼び出して再度復縁を迫るも断られた。少女二人は帰ろうと歩道橋まで進んだが、後ろを付けていたSMは登山ナイフで二人を刺した。女児は7か所、先輩は3か所刺されたが、家まで逃げ込んだ。しかしSMはさらに追いかけてきたため、二人は逃走。近くの公園で倒れたが、付近の住民が110番通報し、二人は助かった。SMは事件後、逃走。翌日午前2時40分ごろ、自宅に戻ろうとしたところを張り込んでいた警察官に捕まった。SMは仮出所を取り消された。
 殺人未遂他で起訴されたSMは1985年10月、東京地裁で懲役8年(求刑懲役12年)判決を受け、控訴せずそのまま確定した。
 斎藤充功は、宮城刑務所で2009年2月15日に首吊り自殺した70代の男性受刑者がSMではないかと推測しているが、年齢が70代ということ以外に根拠は見当たらない。

●茨城「一家9人毒殺放火事件」1954
 1954年10月11日午前5時頃、茨城県鹿島郡の農家が全焼し、焼け跡から、主人、妻、長男など一家8人と女中の計9人が死体として発見された。司法解剖の結果、全員が青酸カリで毒殺されていたことが判明。無理心中説もあったが、聞き込みで、前日に保健所の者と名乗る白衣の男が、一家の聞き回っていたことがわかり、毒殺放火事件の判断に絞られた。事件の手口から、帝銀事件との関連も噂された。その後、家の自転車が乗り捨てられていた場所から、名前入りのワイシャツが発見。11月6日、捜査本部は、神奈川県横須賀市出身のM(42)を指名手配。Mは窃盗や詐欺などで前科8犯、計24年を刑務所で過ごしてきた。7日、Mは塩原温泉の旅館から逃亡したが、山狩りで発見され、逮捕される。しかし身柄の移送中、持っていた仁丹ケースの二重底に隠していた青酸カリを飲んで自殺した。殺人の手口や動機は不明のままとなった。

●青森「8人放火殺人事件」1953
 青森県中津軽郡新和村でリンゴ園を営む男性の三男で桶職人のMTは、父親と折り合いが悪く、実家から150m離れた小屋へ別居していた。父親は頑固でケチなことから、妻と離婚し、次男も家を飛び出していた。1953年12月12日午前1時ごろ、酒を飲んで酔っ払ったMT(24)は実家の味噌小屋へ味噌を盗みに行ったが、そこで偶然猟銃を発見。MTは味噌を盗んだことがばれたらこの猟銃で殺されるのではないかと怯え、逆に撃ち殺そうと決意。猟銃で父(56)、祖母(82)、長男(35)、長男の妻(30)、長男の長男(6)、長男の長女(4)、伯母(61)を猟銃で撃ち殺した。猟銃を放り投げ、その後MTは親戚に付き添われて駐在所へ自首した。駐在所から父親の家に駆け付けたところ、父親宅は出火し、住宅一棟が全焼した。この火事で、長男の次女(3)が焼死した。
 MTは殺人について供述を二転三転させ、放火は否認。火事については猟銃の火花によるものと決着がついた。MTは7人に対する尊属殺人、殺人、住居侵入で起訴された。
 裁判ではMTの精神状態に焦点が絞られ、合計4回の精神鑑定が行われ、強度の心神耗弱または心神喪失状態であるという結果になった。検察側は無期懲役を求刑したが、1956年4月5日、青森地裁弘前支部は殺人、尊属殺人については心神喪失状態であったと無罪を言い渡し、味噌を盗みに入った住居侵入については心神喪失状態以前の犯行として懲役6月執行猶予2年を言い渡した。MTは釈放された。検察側は控訴したが、仙台高裁秋田支部は1958年3月26日、控訴を棄却した。上告せず、刑は確定した。

●北海道「一家8人惨殺事件」1948
 1948年3月31日、北海道空知郡音江村で農家を営む男性宅で、男性(34)、妻(33)、長男(13)、長女(10)、次女(8)、二男(6)、三女(4)、三男(2)が寝ているところをめった切りにされて殺害された。遺体は翌日に発見。家の周りから、刃渡り5寸のマサカリが発見された。男性はかなり金を貯めていると、噂されていた。
 同じ村に住み、強盗事件で収監中の友人男性(35)宅から、血痕らしきものが付いた雨合羽、防寒手袋、長靴が発見され、逮捕された。しかし男性は家にいたとアリバイを主張し、犯行を否認。雨合羽等についていた血痕らしきものについて、逮捕時に鑑定した北大法医学教室の沼田教授は人血であり被害者の血液型と一致すると結論したが、東大法医学教室古畑教授は「血痕が認められない」と結論した。
 裁判で弁護側は、男性の作業服などの結婚は人血でないことを立証するとともに、現場に残された足跡が本人の長靴と一致しないことを指摘した。旭川地裁は1949年6月22日、男性に無罪(求刑死刑)を言い渡した。検察側は控訴、さらに上告したがいずれも棄却され、男性の無罪が確定した。

●和歌山「一家8人殺害事件」1946
 Oは敗戦後の1945年10月、歯科医の兄が住む和歌山市の実家に復員した。Oは以前から母が兄嫁に虐待されて殺されたと思い込み、恨んでいた。前日に兄夫婦と大喧嘩したO(26)は1946年1月29日未明、手斧とノミを用意すると、寝ていた兄(42)、次男(13)、兄嫁(41)、四男(3)、三男(7)、次女(10)、長男(16)、長女(14)の順に一家全員を殺害。「右は母生存時の仇なり。北海道の愛人宅に向かう。一か月後に自首する」などと書置きを残して逃亡。29日朝、配達に来た魚屋が遺体を発見した。
 捜査本部はOを指名手配するとともに、「北海道の愛人」宅を訪れたが、彼女は単なる知人にすぎなかった。Oは大阪の知人を訪ねた後、九州に高跳び。2年後、長崎の炭鉱から朝日新聞大阪本社へ連絡し、3月19日に新聞社へ出頭。取材後、所轄の天満署に自首した。
 1948年4月27日、和歌山地裁で求刑通り死刑判決。12月6日、一審破棄の上、ふたたび死刑判決。1949年8月18日、最高裁で被告側上告、棄却。死刑が確定した。
 1952年4月28日、サンフランシスコ平和条約発効記念により政令恩赦が実施され、Oがその1人として選ばれ、無期懲役に減刑された。1968年4月、Oは仮出所した。

●福岡「一家11人殺傷事件」1954
 理髪師のNは過去に何人もの女性と同棲し、最初仲が良いもののすぐに威張りだしてトラブルを起こしていた。1944年に窃盗他で懲役10か月、1945年に窃盗で懲役1年6月、1946年に窃盗で懲役2年、1950年には女性との別れ話のトラブルによる殺人未遂で懲役4年の判決を受けている。
 N(36)は佐世保刑務所を出所後の1954年、戦争未亡人で佐世保市内の雑貨店に勤める女性(34)と知り合い同居。最初は仲が良かったが、Nは全く働かず、暴力をふるうため、女性は9月5日、福岡県京都郡に住む亡き夫の姉宅へ泊りこみ、別れ話を相談。翌日、京都郡に住む亡き夫の兄宅へ行こうとしたら、女性を探しに来たNと遭遇。結局二人で農家の義兄(47)宅へ行ったものの、義兄は酒を飲んでいたこともあり、2人を罵倒。Nは帰ろうとしたが、女性はそのまま義兄宅に残ることとした。Nはいったん帰り、午後7時半ごろ、女性の長男(14)を連れ、妹が心配しているから帰ろうと言わせたが、女性は拒否。さらに義兄はNの女癖を非難し、「人でなし、別れちまえ」と罵倒。その夜は女性や長男、Nも泊まることとなったが、罵倒されたNは収まらず、9月7日未明、土間にあった三叉鍬を持ち、一家9人達を襲った。義兄、義兄の妻(44)、次男(12)が即死。三男(10)、四男(3)、四女(8)は運ばれた病院で死亡。女性と長男も死亡した。義兄の三女(14)、五女(5)、六女(1)は命を取り留めた。Nは殺害後自宅に戻り、着替えて逃走。午前8時ごろ、隣家の女性が発見し通報。すぐに犯人がNとわかり、行橋署は8日、Nを指名手配した。同日夕方、京都行の電車に乗っていたところをNは逮捕された。
 1955年2月25日、福岡地裁小倉支部で求刑通り死刑判決。7月、福岡高裁で被告側控訴棄却。12月26日、最高裁で被告側上告が棄却され、死刑が確定した。1957年4月10日、死刑執行。39歳没。

●東京「昭島8人放火殺人事件」1957
 1957年10月27日午前3時15分ごろ、東京都昭島市にある共同住宅の一階物置から出火。隣家家屋など住宅三棟延べ1782m2が全焼した。火の回りが早かったため、女性や子供8人が焼死、重軽傷6人、34世帯134人が焼け出された。6か月前の4月7日に放火未遂のボヤ事件があったことから、捜査本部では今回の火事との関連を捜査。建物一階に住んでいた元自動車運転手N(39)が、高額の火災保険に入っていることが判明。1958年3月8日、捜査本部はボヤ事件の方でNを逮捕。Nは否認を続けたが、1か月後には放火したことを自供。妻子五人を抱えて生活が苦しかったが、頭のよい長男を東大に進学させたいと有名私立中学に入学させたら失職したため、保険金を狙ったことが動機だった。なおこの放火で、隣室に住んでいた妻の母親と義妹が焼死している。
 東京地裁八王子支部は1959年7月6日、求刑死刑に対し一審無期懲役判決を言い渡した。生活苦と精神上の欠陥が重なり、長男の教育費欲しさの犯行であったことが減軽の理由だった。検察、被告双方が控訴し、1960年10月26日、東京高裁で一審破棄、逆転死刑判決。1961年7月31日、最高裁で被告側上告棄却、死刑が確定した。1963年夏に執行があったとされる。45歳没。

●長野「一家7人殺害事件」1946
 1946年5月10日夕方、長野県下伊那郡で主婦が近所の家を尋ねると返事がないため、のぞいてみたら死体があったので慌てて通報。前年亡くなった主人の未亡人(38)、長男(12)、次男(9)、長女(6)、三男(3)、同居していた未亡人の妹(25)とその長女(3)が薪割り斧で頭を割られて死んでいた。犯行は前日午後7時以降。背負子一つと籾玄米4俵が盗まれ、これは後に300m離れた甘粕貯蔵用の洞穴から発見された。室内も物色した跡があったこと、凶器は犯人が持ち込んだものであったことから、警察は物取りの犯行とみて捜査をしたが、遺体発見から捜査員が現場に到着するまでに6時間が経過し、その間に村人によって現場が荒らされていたこともあって、捜査が難航。1961年5月、公訴時効を迎えた。

●三重「熊野猟銃乱射10人殺傷事件」1980
 1980年1月31日午後6時ごろ、三重県熊野市の外れの集落に住むI(44)の妻(38)より、Iの様子がおかしいから着てほしいと連絡を受けた親族たちがI宅に集まり、テレビを見ていると、Iが突然部屋に入ってきて、手斧を振り回して暴れ出し、逃げ回るものに至近距離から猟銃を撃ちまくった。Iの母(80)、姉(55)、姉の夫(58)、妹(41)、弟(36)、Iの次男(5)、三男(4)が死亡。Iの妻、姉夫婦の息子(29)が重傷を負った。
 姉夫婦の息子は逃げ出して隣家に駆け込んだ。隣家の主人と息子がI宅へ行ってみると、Iがいきなり猟銃を撃って息子の足に当たった。主人は慌てて警察に通報。午後6時36分、パトカーが現場に到着し説得するも、Iは警官隊に向けて発砲し家に立てこもった。午後7時13分、家の中から猟銃2初の発射音が聞こえたため、警官隊が突入すると、Iが頭と腹部を撃ちぬいて自殺していたのを発見した。
 Iは長男として農家のかたわら、近くの採石場や工事現場で働いていたが、2年ほど前から白蝋病にかかっていた。長男(13)が腎臓病で長期入院、母親が寝付くようになり、次男が肺炎を患うなど気苦労が絶えなかった。Iは普段は子煩悩だったが、気が小さかった。Iは白蝋病の労災認定で毎月20万円の休業特別支給金を受け取っていたが、月20日は採石場で働いていたが、1か月前に労働基準局の調査が入り、不正受給がばれたのではないかとノイローゼ状態になっていた。

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