佐久間哲夫『恐るべき証人−東大法医学教室の事件簿』
(悠飛社)


発行:1991.5.20



 事件あるところ法医学ありと、東大法医学教室の歴史の中で、数え切れないほどの鑑定書が作成され、法廷で証言がなされた。戦前のイギリスで数々の重大事件の鑑定を手がけた法医学者、バーナード・スピルズベリは、裁判官から“恐るべき証人”と呼ばれたという。彼の徹底した科学的正確さに基づいた鑑定、法廷での証言は被告人にとって、まさに恐るべきものだった。東大法医学教室の法医学者も”恐るべき証人”として、日本の裁判史上に登場した。
 権威ある東大の鑑定として重視され、その鑑定、証言が被告人にとって不利にもなれば有利にもなった。戦後の再審事件、無罪事件を中心に、東大法医学教室の事件簿から“恐るべき証人”の本の数頁を開いてみる。(プロローグより)

 東京大学医学部法医学教室は1890年(明治21年)に、日本の法医学の草分けとして開設された。以後、初代片山国嘉、二代目三田定則、三代目古畑種基、四代目上野正吉、五代目三木敏行、六代目石川c夫、七代目高取健彦と受け継がれてきた(1991年当時、プロローグより)。


 法医学は、近代の犯罪、警察、裁判の歴史に重要な役割を果たしてきた。ベテランの刑事でも見落としそうな僅かな物が、犯人を特定する大きな証拠となることもあった。殺害場所、死亡推定時刻、凶器の判定、犯罪者が残した指紋、足跡、髪の毛などの鑑定etc. いずれも犯人を特定する有力な手掛かりである。だからこそ、鑑定には公平さが要求されるし、予断が入る隙間はない。
 ところが日本の裁判史上を見ると、必ずしも“科学的正確さに基づいた判定”とはいえない鑑定が存在する。重大事件には、法医学者の鑑定により正反対の結論が出たものもある。有名なのは下山事件だ。東大古畑教授の鑑定は死後轢断との所見であった。しかし慶応大学中館教授、名古屋大学小宮教授は生体轢断と表明した。そして有名な、自殺・他殺論争が始まった。警視庁の結論は“自殺”であったが、これはむしろ捜査を打ち切るために出した結論といえる。現在では“生体轢断”、すなわち自殺との判断が有力となっている。

 古畑教授は戦後の法医学の権威であり、“法医学の中興の祖”であった。しかし、弘前事件、財田川事件、松山事件、島田事件などの再審請求では、古畑教授の鑑定を疑問視するものばかりであった。警察・権力に迎合した古畑鑑定と評した人もいた。松山事件などでは警察による証拠捏造も発覚しており、古畑教授が必ずしも“公平”に鑑定を行ったと言い切れない可能性もある。
 また、石山教授は三位一体説を唱えた。これは「鑑定資料の所見の確実な把握」「現場の状況の把握」「供述内容の把握」の三位一体の鑑定を行うことが、正しい結論を導く唯一の方法であると著書で述べたのである。いわば、現場の状況や容疑者の供述を鑑定に生かすということだ。ただし、これは大きな危険を伴っている。証言が正しければよいが、証言が強要されたものであったらどうするのだろうか。例えば島田事件の再審公判では、赤堀さん(死刑→再審無罪)の供述書から赤堀さんが子供を殺害したとの鑑定結果を提出したが、この供述書は自白を強要されたものであり、信用性に乏しいものであった。そんな供述書から有罪という鑑定結果を出されては、たまったものではない。しかし石山教授は三位一体説から、自著の中で財田川事件、松山事件などは再審無罪となった人たちを犯人であるかのように書き、事件関係者から講義の公開質問状を出されたこともあるという。


 本書では東大法医学教室が関係してきた重要事件を、法医学鑑定の面から書いたルポルタージュである。法医学というと絶対のものであるかのように思われている節も多いが、実際はかなりあやふやなものであり、鑑定する学者によって正反対の意見が出されている。“東大”だからといって、全てが正しいわけではなく、時には権力者と結びついて庶民を陥れる可能性だって在るわけだ。まさに“恐るべき証人”である。
 本稿は『中央公論』に掲載された「東大法医学教室 メンツを賭けた戦い」をベースに大幅に加筆したものである。各事件とも、争点になった法医鑑定にポイントを絞って書かれている。島田事件、松山事件、弘前事件、財田川事件など、有罪の決め手となったのは東大法医学鑑定の結果であり、逆に再審無罪判決となったのは東大法医学鑑定を否定したことが決め手となっている。そんな恐ろしい“存在”について、筆者は丹念に調べ上げた。そうして出来上がった労作が本書である。

 目次、収録されている事件は以下。

プロローグ 事件あるところ法医学あり
第1章 山下事件
第2章 島田事件と松山事件
第3章 下山事件
第4章 弘前事件
第5章 財田川事件
第6章 山本老事件
第7章 DNA鑑定
エピローグ 法医学者への"伝言"


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