新聞が間違うとき。記者が「聞き取り」に奔走する新聞の時代は終わった! 現代におけるジャーナリストの役割を教える、体験的メディア批判。(宣伝文より)
前読売新聞社会部部長である筆者が、幾つかの事件を通し、現在の事件報道のあり方を考える一冊。
事件報道に対する批判は最近、特に強くなっている。「被害者は匿名にすべき」「加害者に対しても人権に照らし合わせた報道を」「行き過ぎの取材を規制すべき」などなど。様々な“人権団体”が他にも色々なことを訴えている。しかし、そんな疑問に報道側から答えているかというと、残念ながらそうではない。あくまで実体験を通し、今までの過去を振り返るだけの一冊になっており、“検証”という言葉からはかけ離れた内容になっている。
第1章は、「音羽・幼女殺人事件」における新聞報道のあり方を振り返ったものである。この事件では、いわゆる“お受験”が動機であったと、初期の頃は報道されていた。しかし、読売新聞はその点に疑問を持ち、加害者の「心の闇」に迫ることにより、現代人の不安感を探る方向に走った。現在の裁判では、“お受験”が動機であったことは間違いであることがほぼ判明しているが、依然として動機は謎のままである。しかし、“お受験”騒動が間違いであったという点について、一部新聞社は報道を転換させたが、一部新聞社は何も触れていなかった。この点から、新聞報道のあり方について、筆者は警鐘を与えている。
確かに警鐘を与えているかのように見える。しかし、似たような例は幾つもあることを忘れてはいけない。松本サリン事件における河野さん犯人視報道、東電OL殺人事件における被害者の過去の暴き立て、ロス疑惑における三浦氏への様々な報道など。そして幾つもある冤罪事件。本当に新聞報道を検証するのであれば、いくつもの事件を同列に並べるべきではなかっただろうか。第1章の実例だけでは、読売新聞の読みの正しさを訴えているだけに過ぎない。
2章については特筆することはない。単なる調査不足を露呈したものである。ただ、普通はなかなか加害者側から抗議することは出来ない。抗議しても無視されるのがオチだろう。
3章以降についても、事件の本質に切り込む「新聞記者論法」と「人権」との境界線を区別できていない。どうしても新聞記者、そして警察の側に立った論調になっており、「メディア批判」まで踏み込んでいない。
昔はどうだった、などといっている場合ではないだろう。新聞記者として、マスコミとして、今後事件報道をどうすべきか。そこまで踏み込むには、ページが足りなかったようだ。もしくは、踏み込むまでの度胸がなかったか。いずれにしても、一つの資料にはなるが、一つの解決策にはならない。
新聞記者の苦労は認めるが、だからといって書かれる方はたまったものじゃないということを、わかっていない、わかろうとしない立場の人が書いた本である。
ちなみに目次は以下。
プロローグ ドキュメント・読売新聞東京本社社会部の一日
第1章 底知れない現代人の「心の闇」―「音羽・幼女殺害事件」を巡る新聞報道の検証
第2章 特ダネのあとにきた「抗議書」―殺人死刑囚・元警視庁警部との往復書簡から
第3章 犯罪報道は実名?匿名?―「だれが」が抜けると事件の本質に切り込めない
第4章 事件・事故からみた「セキュリティー」―身近な危機察知能力・情報解読力を失った日本人
巻末資料 読売新聞「記述原則一覧」
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