作 者 |
胡桃沢耕史(くるみざわ・こうし) 1925年、東京生まれ。本名の清水正二郎で人気作家だったが、昭和52年に名を変えて再出発。58年に『黒パン俘虜記』で第89回直木賞。『翔んでる警視』ほかユーモア・ミステリーを中心に多数の作品あり。1994年没。 (作者紹介より引用)
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作品名 | 『天山を越えて』 |
初 出 |
1982年9月、徳間書店より書き下ろし刊行。
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粗 筋 |
昭和8年、拡大する中国戦線を有利に展開するべく、日本軍はタクラマカン砂漠の英雄と日本人女性の政略結婚を画策する。髭が自慢の衛藤上等兵が日本人でただひとり、花嫁の警護を命じられる。無限に広がる砂漠に向かい旅立った、美しい花嫁と衛藤の前に待ちうける運命とは? (粗筋紹介より引用)
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感 想 |
舞台は昭和8年。満州をほぼ掌握した日本軍部は、中国漢民族との全面戦争に備え、タクラマカン砂漠に住む民族東干との提携を考えた。軍の実力者であった将軍は、同級生であった奉天鉄道ホテルの社長に、娘である犬山由利と東干を率いる青年・馬仲英との縁組みを強引に承諾させる。由利はアメリカに子供の頃結婚を約束した相手がいたが、泣く泣く別れることにした。 様々な作法・礼儀を覚え、縁組みに旅立つ由利。当然軍部の護衛が付いていた。そこには、たまたま鬚が立派であったことから将軍に目を付けられた衛藤良丸上等兵もいた。しかし、縁組みをするはずの場所に仲英はいなかった。戦争の状況が変化し、天山地方へ転戦していたのだ。由利は後を追うため、従者の衛藤、そして東干の護衛とともに後を追い、天山を越える。 雄大なスケールで書かれた冒険浪漫小説、『天山を越えて』の章立ては以下である。 「一章 昭和五十六年、衛藤良丸(七十一歳)突然の失踪について。」 「二章 昭和三十五年、衛藤良丸(五十歳)が、昭和八年の経験を思い出して書いた小説。某文学賞候補作品『東干』の全文。」 「三章 昭和三十五年の秋、衛藤良丸(五十歳)が突然、米国の日本監視機構(GU)に呼び出された事情について。」 「四章 昭和三十五年の秋、麻布狸穴にある、GUの残存機関に軟禁されて、衛藤良丸が読まされた、二つの書類。」 「三章─B 昭和三十五年の秋、衛藤良丸(五十歳)が突然、米国の日本監視機構(GU)に呼び出された時の、状況の続き。」 「一章─B 昭和五十六年、衛藤良丸(七十一歳)突然の失踪についての記述の続き。」 物語は、衛藤良丸71歳が突然失踪するところから始まる。そして時代は一気に昭和8年に戻り、かつて衛藤が書いた小説『東干』に沿って物語は進む。 朝鮮半島、そして満州と植民地化していった日本の横暴については、侵略以外の何ものでもなかった。ただ、中国大陸には冒険と浪漫が溢れていた。それは不謹慎ながら、戦時中も同じであったらしい。馬賊などを始め、魅力溢れる人物がこの時代に続々登場している。名前すら残せない人々が、彼らの浪漫を支えていた。 ところが、本編の主人公衛藤良丸は全くの凡人である。本来だったら名前を残せない、浪漫を支える人物にすらなれなかったに違いない。新婚早々に兵に取られ、中国に来る羽目になり、早く日本に帰りたいと願っている普通の男である。ところが、たまたま関羽と間違えられるくらい立派な鬚を持っていたことから将軍に目を付けられ、従者に選ばれてしまう。しかも目的地についてやれやれと思ったら、肝心の相手はいない。さらに山の向こうにある砂漠に行くことになる。本人からみたら踏んだり蹴ったりだろう。舞台の雄大さと比較し、あまりにも凡人である主人公の姿は、我々に近い人物として共感を覚えさせる。そして主人公が凡人であるほど、天山という舞台の大きさが見えてくる。うまい構成である。 由利、そして衛藤の波乱のドラマはさらに続く。しかし、それをここに書く必要はないだろう。私の拙い文章でも、この物語の面白さは充分に伝わっているものと思う。もし伝わっていなくても、騙されたと思って読んでほしい。 胡桃沢耕史といえば、『翔んでる警視』シリーズに代表されるユーモアミステリの第一人者と思われがちである。しかし、もともとは純文学出身。かなり波乱の人生を歩んできた人である。ユーモアミステリの中にも出てくる、骨太で、どこかシニカルな視線は、そんな過去の人生経験があるからかもしれない。 『天山を越えて』は、流浪の旅から帰ってきた清水正二郎が、名義を胡桃沢耕史に変えて小説を書き始めてから2年後、1982年に徳間書店から出版された。第36回日本推理作家協会賞を受賞している。数多いユーモアミステリ群に埋もれてしまいがちだが、中国大陸を舞台にした作品も多く出していた。『天山を越えて』はその中でも代表作と言える。 1982年といえば、まだ浪漫という言葉が生き残っていた時代である。冒険という言葉でワクワクしていた頃だ。今みたいに怠惰とシラケと諦めが蔓延する前の話だ。そんな頃に生み出されたこの小説、忘れてはならない。 |
備 考 |
第36回(1983年)長編部門。
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