井谷昌喜『クライシスF』(光文社)

 かつては敏腕社会部記者、今は社長の自伝を出版するための資料集めという閑職にいる自見弥一。離婚してからはすっかり飲んだくれ、会社の片隅で地下鉄や社内の音を集音器で聞くのを楽しみにしている、ダメ新聞記者。そんなある日、あくびを繰り返し、簡単な引き算が出来ずに事故を起こすケースを立て続けに見つける。疑念を抱いたときに起こった世界食料解放戦線(WFFF)武装ゲリラによる世界同時蜂起。大使館襲撃、ビル予告爆破。そのうち、在オランダ日本大使館を乗っ取った連中が、人質を連れ、用意させたボーイング747でサウジアラビアのリヤド空港に向かった。過去に食料・食品の安全性問題を取材し、ロシアでのミルク食品汚染事件でスクープ記事を取った経験から、取材班に加わり、真崎蓉子、疋田順也とチームを組むことになった。ところが、リヤド空港に降りようとしたボーイング機が降下高度を間違え、WFFF別チームのゲリラと人質が乗っていたエアバス機と衝突、ゲリラ、人質他238名が死亡した。交信記録では、機長があくびをしていたという。自見たち3人は、この「引き算できない現象」を追いかけることにした。

 第1回日本ミステリー文学大賞新人賞受賞作。受賞作はとりあえずチェックするという体質からか、とりあえず買ったまま放置してあったもの。新聞記者だけあって、文章自体は読みやすい。ところが構成的にはあまり芳しくない。いきなりゲリラ事件という大きい「動」の事件を書きながら、その後は取材を繰り返すだけ。その取材も、インターネットと電話、過去の記事が中心。結末前に動くのは、青森の事故現場の一件と、国立疾病予防研究所ぐらい。派手な事件の後に「静」の、それも地味な取材が続く。そのギャップがひどい。盛り上がりが一瞬にして醒めてしまう。とても「スリリングで、スピード感に富み」(北方謙三)とは思えない。
 さらに書けば、この手の小説でよくある展開、「敵側が勝手に騒ぎ立て、そのくせちょこちょこ動き回るだけで、最後は自分から転ぶ」タイプなのだ。そして新聞記者側に都合がよすぎ。欲しい情報がいとも簡単に入ってくる。敵側も、脅しに屈するタイプでないことを分かりながらも、新聞社に時限爆弾を仕掛けるという姑息な手しか使わず、あとで二進も三進も行かなくなって誘拐事件を引き起こす。なんとも情けない。敵側のスケールが大きい分、なおさら読み手の興奮を冷ましてしまう。いやはや。
 別に新聞記者が大きな事件を探り当ててもおかしくはないと思う。そういう小説があるのは事実。ただ、それだったら、もっと取材側、犯人側の行動パターンをもっと考えて書くべきである。取り扱うネタが大きい分、小説との落差は非常に大きい。
 これはどこにも取り上げられなかった、というのはよくわかりました。第1回ということで、仕方なく選んだんでしょう、きっと。

大石直紀『パレスチナから来た少女』(光文社文庫)

 パレスチナ難民キャンプで家族を虐殺された沙也は、日本人に救われ日本で育った。一方、同じように肉親を殺され復讐に燃える女テロリストのマリカは、指令を受け、日本へ。折しも、日本で中東をめぐる重大な会議が開かれようとしていた。そして二人に、非情な謀略と運命が!
 人は永遠に血を流し続けなければならないのか?(粗筋紹介より引用)
 1998年、第2回日本ミステリー文学大賞新人賞受賞作。さらに加筆の上、2001年に文庫化。

 主人公である沙也とマリカ。そして沙也の養父であるジャーナリスト立花俊也。イスラエルとパレスチナが争う中東問題。絶好の舞台だし、登場人物の配置そのものは悪くないのに、どうしてこう安っぽい国際サスペンスで終わってしまうんだろう? 新人賞受賞作だから仕方がないといえば仕方がないのかもしれないが、文章などは悪い意味で手慣れていて初々しさがないので、余計にそう思ってしまう。
 枚数制限があったかどうかは知らないが、中東問題を書くならもっと背後関係についてページを割くべきだと思うし、登場人物の動きが軽すぎる。欠点ばかり見つかってしまうな、この作品。
 それなりの小説を書く能力と、仰々しい舞台。様々な裏を持った登場人物を配置して事件を作ればできあがりました、そんなインスタントなイメージしか出てこない。本屋の棚を埋める程度の作品は書ける作家だな、という印象を最初に与えてしまってはダメだろうな。悪い意味で達者な作家なんだろう。
 どうでもいいけれど読んでいる途中、沙也=マリカの叙述トリックを使っていたら怒るだろうなあ、なんて考えてしまった。悪い意味で毒されているらしい。

高野裕美子『サイレント・ナイト』(光文社)

 新興航空会社ワールドインター航空のジャンボ機に爆弾が仕掛けられていた。大東亜航空の整備士である古畑実は、上司の命令で社長・鶴見雅彦のところへ報告に行き、逆に移籍を持ちかけられるが拒否する。
 広域暴力団荒木田組の幹部が乗っていた車が、新宿で爆発した。新宿における暴力団抗争という見方が一般的だったが、新宿署暴力対策課の角田勇は、父が荒木田組とつながりのあった鶴見に疑いの目を向ける。一方、ウツボと名乗る人物が、殺人を続けていた。一見関係のない3つの事件が、意外な糸で結ばれていた。
 1999年、第3回日本ミステリー文学大賞新人賞受賞。2000年3月、刊行。

 作者は翻訳家ということもあってか、物語のテンポは悪くないし、登場人物も過不足なく描かれている。3つの事件をうまく取りまとめているし、舞台転換も切りが良い。現実社会の問題点も上手く絡めている。犯人は途中で予想できるだろうが、結末の着地点が最後までわからず、読者を楽しませてくれる。泣ける場所も用意してあるので、登場人物に感情移入してしまうだろう。流れがスムーズ過ぎるし、心情の書き込みがやや淡泊すぎて、逆に印象に残らない欠点もあるが。
 とはいえ、首をひねる箇所も多い。そもそも、ウツボがどうやって現在の彼らを知ることができたのかが大きな疑問。ちょっとネタバレだが、当時の法律だったら、彼らの名前すら知る手段がなかったんじゃないだろうか。さらにいえば、ウツボが今になって殺人に手を染める動機が不明。この手の疑問は、一度引っかかると頭から離れなくなってしまう。物語の根本的な部分であるので、明確な説明が必要だっただろう。
 個人的には先の根本的な疑問があるので、失敗作といいたいところ。そこさえスルーすれば、新人の受賞作としては悪くない。

成定春彦『HEAT』(光文社)

 関西最大の私鉄・京神電鉄の大神進会長は、京都でホテル展開を進める悲願を達成するため、京都の老舗企業である松下観光の乗っ取りを、京都最大の指定暴力団・大道会の若頭である石原組組長・石原剛毅に依頼する。大神の四女の娘婿である松下観光平取締役・松下聡を社長してコントロールため、銀行を利用して会社を支える副社長・松下哲也を失脚させ、前社長の遺児である現社長・松下早苗への圧力を掛ける。それに対抗したのは、京都で急成長してきた消費者金融会社・キョーシンのCEO、冴木蔵人だった。冴木は13年前の大学卒業の頃、大道会と対抗組織の抗争中に起きた襲撃事件の流れ弾で恋人を失った過去があった。そして早苗は、その恋人にそっくりだった。
 冴木は会社の元警部であるセーフティセキュリティー部部長・合田を中心として早苗をガードさせ、会社の資金を元に市場の株を買い取り回るが、石原も株を買い取りに回ると同時に、今度はキョーシンと冴木に狙いを付けてきた。
 2000年、第4回日本ミステリー文学大賞新人賞佳作受賞。2001年3月、改題・加筆のうえ、単行本刊行。

 この回の本賞は受賞者無し。他に菅野奈津『涙の川』が佳作で選ばれている。
 ノンストップ・エンターテイメントらしいが、出版当時28歳であった若い作者の勢いだけで書かれたような作品である。
 突っ込みどころは満載。死んだ彼女に似ているからといって、縁もゆかりもない女性とその会社を助けるために金も含めた自社の全力を投入しようとする主人公って何? そんな主人公にみんな心酔するのもおかしな話で、誰かブレーキぐらい掛けろよといいたい。
 松下隆の能力なんか、ちょっと会話すればすぐに無能だとわかるだろう。いくら娘婿といっても、こんな人物を社長に据えようとする方がそもそも問題。経済人のやることじゃない。
 既に暴対法も施行されているのに石原たちはかなり派手な動きを見せる。これだけならまだありだが、石原が堂々と松下観光の株主総会に出るってどういうこと? しかも株主総会で脅迫行為だよ。依頼主である京阪電鉄の会長も、表だっての関係は途絶えているというのに、最後は石原と一緒に株主総会に出るなんて、手を組んでいますよといっているようなもの。そんなことがマスコミに知れたらただじゃすまないでしょう。暴力団がくっついていることを公言しているような私鉄になんか乗らないだろうし、そんな旅館に泊まろうとも思わない。法律には詳しくないのでわからないが、商法などの面でも突っ込むところはあるのだろう。
 多分作品としては破綻していると思われる。それでもドラマや劇画を見るような楽しさはある。アクションも場面切り替えも多いからテンポもよいし、敵と味方がはっきりしていて可愛いヒロインがいる。主人公の冴木はあまりにも青いが、そんな青さもまたよいだろう。わかりやすい面白さと言えばいいのだろう。
 これだけ設定に破綻があったのだから、佳作止まりも仕方がない。構図も単純すぎる。一作だけならこれでもいいだろうが、成長がないと作家としてやっていくのは難しいと感じた。
 作者は1年後の2002年3月にカッパ・ノベルスから『天狗』という作品を出しているが、以後の活動は見られない。

菅野奈津『涙の川』(光文社)

 昼間の公園で、自営業の辰見俊秀と5歳の杉山彩が刺され、彩は死亡した。父親で銀行員の杉山亮吾は事件と、自分が融資を担当していた会社社長が融資を打ち切られて自殺したことをきっかけとし、銀行を辞め、自らの手で犯人を捜し出すことを決意する。しかし妻の祥子は自分の殻に閉じこもったままだった。一方、事件を担当する警視庁捜査一課の上条は、被害者の辰見が関与したかつての詐欺事件を調べていくうちに、失踪したままである妻・須磨子の弟で、数年前に自殺した柏崎学が詐欺事件に関与していたことを知る。
 2001年、第4回日本ミステリー文学大賞新人賞佳作受賞。応募時タイトル『盲信』。同年3月、加筆改題の上、単行本化。

 最愛の娘が理不尽に殺害されたことをきっかけとする家庭の崩壊と犯人捜しという、題材としてはありきたりなもの。ただし文章力はなかなかなので、読んでいてそれほど退屈はしない。さらに事件を追う刑事側にも過去の妻の失踪が絡むという展開になっていたのは興味を惹いたが、主人公・杉山が追う事件と積極的に絡まなかったのは残念。家族の再生というテーマを別々の形で示そうとしたのだろうが、結果だけを見ると刑事側は蛇足だったと言っていい。その分、杉山の妻の過去をもっと掘り下げ、前半部で匂わせるなどしておけば、結末間近での唐突な告白という不自然な形にはならなかった。
 警察の捜査で不思議だったのは、犯人のものと思われる車の持ち主を調べようとしないこと。売れていない車種とのことだったので、簡単に犯人に辿り着くとしか思えないのだが。他に上条に絡みつく刑事・吉川はほとんど機能していないので、不要。
 犯人も今一つ、というか間抜けな部分が多い。杉山との絡みなんか、自滅に等しいと思うのだが、どうだろう。最後、無理に活劇にしなくても、とも思った。
 作者は読ませる力はあると思った。ただし、構成の点で不要な部分、無理のある部分が見られ、もっと整理整頓が必要に感じる。佳作止まりなのも仕方が無いことか。

岡田秀文『太閤暗殺』(双葉文庫)

 お拾(後の秀頼)が生まれ、秀吉は甥の秀次が邪魔になる。秀吉の変心に危機感を抱く秀次の側近は、天下を騒がす大盗賊・石川五右衛門に秀吉暗殺を依頼する。請け負った五右衛門が目指すは秀吉が居を構える伏見城。迎え撃つのは奉行・石田三成と京都所司代・前田玄以。知力と武力が激突する死闘を制するのは……。正史にはない歴史の裏側が、密室トリックや鮮やかな結末で光彩を放つ。日本ミステリー文学大賞新人賞受賞作にして「おすすめ文庫王国・時代小説部門」第1位に輝く歴史時代ミステリーの傑作。
 2002年、第5回日本ミステリー文学大賞新人賞受賞。同年3月、光文社より単行本化。2004年3月、光文社文庫化。同年、『おすすめ文庫王国2004 年度版』(本の雑誌社)で時代小説部門の第1位に輝く。2012年6月、双葉文庫で復刊。

 日本ミステリー文学大賞新人賞受賞作家で一番名前が知られているであろう、作者の受賞作、かつ代表作。まあ、大石直紀もそれなりに知名度があるだろうが、そっちはドラマのノベライズ中心になっちゃったからなあ。以前から気になってはいたのだが、漸く手に取ることができた。確かにこれは、おすすめ本に選ばれるだけのことはあるなと思わせる傑作だった。
 羽柴秀次切腹に隠された攻防を描いた作品。当然フィクションではあるのだが、釜茹でになったのは別人だったという形で石川五右衛門が登場し、秀次の側近・木村常陸介が秀吉暗殺を依頼するという展開にワクワクしないはずがない。そもそも、処刑前に合鍵のない錠前で閉じ込められていた牢獄から五右衛門たちが脱獄したという謎が提示されたところで期待値が高まっている。そして、厳重な警備がなされているはずの伏見城にどうやって忍び込むのか、そしてどうやって秀吉を暗殺するのか。京都所司代・前田玄以や石田三成はいかにして対応するのか。時代小説としても面白いし、不可能犯罪をどのように成し遂げるのかという観点で見ればミステリとしても面白い。我々は秀吉の暗殺がなされなかったことを史実として知っていることから結末はわかりきっているはずなのに、結末を読んだ時にはアッと言わされた。物語の作りとしては、『ジャッカルの日』を思わせるが、さらにもう一つの展開を用意した点が見事である。
 主人公に前田玄以を据えた点も興味深い。秀吉の優秀な官僚で有りながらも関ヶ原以後も生き残った強かな人物が、五右衛門に翻弄されているように見えて着実に追い詰め、最後は真相を見破る人物として配されている描き方は実に巧み。対する五右衛門も義賊としてではなく、目的達成のためには手段を選ばない人物として描かれているのも面白かった。五右衛門の配下である石千代、長丸、小虎たちや、対する玄以の部下である沼井平三郎にもドラマが隠されており、結末まで計算された配置も含めて感心した。
 脱獄トリックの要となる証言が語られる時期など、ご都合主義な点が見られるところもあるが、それは些細なことだろう。ミステリとしても、時代小説としても傑作であった。
 それにしても、元々1999年に「見知らぬ侍」で第21回小説推理新人賞(双葉社)を受賞し、2001年、『本能寺六夜物語』で単行本デビューするなど双葉社とのつながりが強い作家とはいえ、この傑作を双葉に譲るというのはどういうことなんだ、光文社。

三上洸『アリスの夜』(光文社)

 ジャズバー「foolish」の店主であった水原昌彦は、借金で街金に手を出したことから「整理屋」であるアイコー・ファイナンスの手先となり、暴力団の取引先に利用されていた。しかしトラブルで店を失い、ファイナンスの実質的経営者である寒川怜一によってタコ部屋に放り込まれた後、蜂谷稔が経営するハニービー・プロダクションの運転手を勤めていた。芸能プロダクションとは名ばかりでエキストラを集めて連れて行くだけであり、あとはインチキスカウトやオーディションで無知な若者から金を巻き上げているだけだった。そして裏ではロリコンである社会的地位の高い一流人の客に女の子をあてがう幼女売春を行っていた。
 ある日、昌彦は店のナンバーワンであるアリスを連れて行き、彼女に惚れてしまう。トラブルからアリスを連れて逃亡することになった昌彦は、追っ手をまき、かつての恋人である龍谷京子の家へ逃げ込んだ。
 2003年、第6回日本ミステリー文学大賞新人賞受賞。応募時名前藍川暁、応募時タイトル「日出づる国のアリス」。加筆改題のうえ、2003年3月刊行。

 ジャンルでいわば逃亡サスペンス。確かに水原のいる位置は地獄だが、軟弱でへたれで情けないというだけの結果でしかないから逃げ切れるかどうかという行為にあまり説得力がない。ところが追いかけるほうも人数が少ないから、迫力に欠ける。スピーディーというほどでもないし、息詰まるサスペンスがあるわけでもない。自らの知力・体力で厳しい敵の目をかいくぐるとといった手に汗握る展開も少ない。主人公はもう少し格好良くできなかったのだろうか。
 そんな物足りなさを補うのはアリスという少女であるべきなのだが、残念ながら少女の持つ妖しい魅力が全く伝わってこない。「極上の阿片」という言葉だけじゃ、読者は酔いしれることができない。この少女の魅力にもっと筆を費やすべきだった。
 元恋人の京子が彼らをあっさりと受け入れるのもどうかと思うし、その顛末も割り切れない部分が多い。学生闘争時代の元女闘士「西瓜割のハルコ」という強烈なキャラクターも扱いがぞんざい。寒川怜一と蜂谷稔の関係も唐突な部分が多い。説明不足と描写不足が目立っている。
 この作品でよかったのは、アリスの昼と夜の貌の違いをうまく描いているところぐらいだろうか。もやもや感の残るとこが多い作品であり、選評で大沢が言うような「暴力世界のファンタジー」が空々しい。受賞に相応しい作品かといわれると疑問なのが正直なところであった。それと個人的な好みだが、タイトルは応募時の方が印象に残りやすく、よかったんじゃないだろうか。

新井政彦『ユグノーの呪い』(光文社)

 デジタル化した患者の記憶空間に入り込み、トラウマの原因となっている記憶を変えるヴァーチャル記憶療法士。2007年に確立されたこの療法は、精神病治療を劇的に変化させた。第一期の療法士であり、今は引退同然の状態であった高見健吾のもとへ、同期であった長谷川礼子から依頼があった。患者はメディチ家の末裔、美少女ルチア。突然目と口が不自由になった原因は、16世紀に先祖が大量虐殺した新教徒、ユグノーの呪いなのか。ルチアの心の中は、数万のユグノー軍兵士に支配され、大虐殺が繰り広げられていた。健吾と礼子は、一度ルチアの心の中へ入り、重傷を負ったベンケイとともに戦いに身を投じる。
 第8回日本ミステリー文学大賞新人賞受賞作。

 作者は1999年、2000年のサントリーミステリー大賞優秀作品賞を受賞している。そのせいか、文章には新人らしい堅さが感じられず、読みやすい。
 なんといってもこの作品の魅力は、ヴァーチャル記憶療法士という設定だ。デジタル化した患者の記憶空間に入り込むという設定を考え出しただけで、まずは高得点間違いなしである。一つ間違うと、設定の紹介だけで百ページ以上も使ってしまいそうになるが、物語の序盤で簡潔に、そして物語にとけ込む形で書かれているので、ややこしい内容もそれほど苦にならずすんなりと受け入れることができる。そして近未来を舞台にしながら、実際の戦闘場所は16世紀というこのギャップがまた面白い。都合の悪い部分は、患者の記憶違いということで逃げられるし(あ、これは作者側の都合か)、現代人が16世紀でいかにして戦うかという設定も新しいものである。
 SF要素と冒険活劇の要素、そして謎解きがミックスされた佳作に仕上がった一冊。まあ、設定そのものの細かい矛盾は指摘しようと思えばいくらでも出てきそうだが、その辺はあえて無視。登場人物の過去などの説明も不足気味だが、物語を楽しむ上では、それほど気にならない。シリーズ化できそうな設定なので、できれば続編を読んでみたい。

海野碧『水上のパッサカリア』(光文社)

 腕の良い自動車整備工・大道寺勉は3年半前からQ県にある湖畔の借家で、一回り近く年下の片岡菜津と穏やかに暮らしていた。半年前、暴走族の無理な追い越しによる交通事故に巻き込まれ、菜津が死んだ--。菜津が育てた飼い犬と静かな暮らしを続けていた11月のある日、勉が帰宅すると昔の仲間が家の前で待っていた。菜津は謀殺されたのだという、衝撃的な事実を携えて…。
 圧倒的な文章力に緻密な描写力。満場一致で日本ミステリー文学大賞新人賞を受賞した快作! 次作が待ち望まれる大型新人、登場。(出版社からの紹介より引用)
 2007年、第10回日本ミステリー文学大賞新人賞受賞作。応募時の名義は海野夕凪。パッサカリアとは、「愛と哀しみのパッサカリア」(原題The Passacaglia)というイギリス映画であり、菜津はその映画のサントラ盤、特にラストがお気に入りだった。パッサカリアはもともと、ヨーロッパ17、18世紀頃の古典派の音楽形式の一つ。

 大道寺と菜津プラスケイト(飼い犬)の関係を、大道寺の回想という形で時を前後させながら語っていく描き方は、ページ数をかなり割いたゆっくりとしたものだが、その分かえって二人の関係がじわじわと心に染みこんでいく。どこがミステリなんだという突っ込みはさておき、恋愛小説としてはまあ読ませる方だろう。大道寺の人物像が出来すぎというか、非の打ち所がないように書かれているのは、やや面白味に欠けるのも事実だが。まあそれでもここまではよかったのだが、後半はどたばたで雰囲気を台無しにする。ハードボイルド、というかサスペンスというか、そういう小説なんだから仕方がないが。
 後半は大道寺の昔の稼業である「始末屋」の仲間たちが現れる。この「始末屋」とは、依頼人が抱えているトラブルを解決するために、非合法すれすれの計画を実行するチームであり、大道寺は「プランナー」だった。大道寺は自らにかかった火の粉を振り払うため、仲間たちとともに東京へ向かう。この辺の大道寺の動きが、どうも説得力に欠けている。大道寺の書かれ方が完全無欠すぎるので、話が面白くならないのだ。沈着冷静程度なら許せるが、いきなり事件に巻き込まれたけれど全てのことがわかっていますよ、といった主人公では、読んでいても盛り上がりに欠けるだけ。もう少しピンチに陥った方が、人間味が出てきたんじゃないだろうか。
 前半と後半の流れとムードが違ってしまったのは残念だし、後半のハードボイルドな活動部分はほとんど付け足しじゃないかと思えるぐらい適当というか、簡単にまとめられてしまっているのは残念だが、多分この作者が書きたかったのは大道寺と菜津の恋愛模様であり、ゆっくりと心を通わせていく姿を書きたかっただけだと思われる。少なくとも前半はくどいところがあったけれど面白かった。今後は恋愛小説を書いていけばいいのではないか。ミステリが向いている人とは思えない。
 全部を読んでいるわけではないけれど、日本ミステリー文学大賞新人賞って、大当たりが出ないよね。光文社が意地になってやっているだけのような気がするのは、私だけ?

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