中島河太郎『探偵小説辞典』(講談社文庫 江戸川乱歩賞全集1)

 江戸川乱歩、横溝正史、クイーン、クリスティらの内外作家紹介。『心理試験』『緋色の研究』『オランダ靴の秘密』などの名作案内。ミステリへのかぎりない愛情と作家への経緯、薀蓄のありったけをかたむけた項目別大辞典。(粗筋紹介より引用)
 『宝石』1952年11月号~1959年2月号掲載。1955年、第1回江戸川乱歩賞受賞作。

 ある意味、幻の第1回受賞作。『宝石』に連載されただけで、実は1冊にまとめられたことがなかった。確かに辞典はすぐに古くなってしまうし、その度に増補改訂版を出していても、売れる部数は少ないだろう。作者自身、一冊にまとめられるとは思っていなかったのではないか。それがこうして読むことができるようになったのは、今の読者は幸せである。
 50年以上も前に連載されていたものだから、説明文等が古いのは当たり前。今ではすでに既知の内容でも、当時は知られていなかったこともある。しかしそんなことは、この本の価値を落とすものではない。まだインターネットもコピーもなかったこの時代に、これだけの量をまとめあげた事実こそが称賛されるべきだ。解説にも書かれているが、書誌学者、文学史家、評論家という一人三役をこなすことができたということもあるだろうが、最大の理由は、推理小説へかたむけた情熱だろう。このような辞典は、役に立つ人にこそ役には立つが、多くの人にとってはほとんど振り替えられることのない、本当に労作といっていいものである。調べてまとめることに掛けた時間を考えれば、見合う報酬が得られていたとは思えない。しかし報酬など、中島河太郎は考えたこともなかっただろう。心の中にあった熱い思いと情熱は、乱歩や正史のような作家がかたむけてきた情熱と形こそ違え、中身は全く同じものだっと思える。
 古い辞典がまとめられてなんだという向きがあるかもしれないが、逆に50年前はこういう風にみられていたのか、という新しい視点も得られるものである。また、今では顧みられなくなった作家についても頁を割かれており、それもまた面白い。ミステリが複雑多様化した現代だからこそ、こういう本もまた貴重で重要なのである。

仁木悦子『猫は知っていた』(講談社文庫)

 秘密の抜穴と謎の電話、そして暗闇に突き出た毒塗りナイフと一匹の猫。引越し早々起きた連続殺人事件に、推理マニアの兄と私は積極的に巻き込まれた――素人探偵兄妹の鮮やかな推理をリズミカルな筆致でさらりと描き、日本のクリスティと絶賛されて今日の推理ブームの端緒となった、江戸川乱歩賞受賞作。(粗筋紹介より引用)
 1957年、第3回江戸川乱歩賞受賞作。

 公募に切り替わって初めての乱歩賞受賞作。第1回受賞作と言い換えてもおかしくはない。元々は河出書房『探偵小説名作全集』の別巻として公募された新人の書き下ろし長編の第一席に入選した作品だったが、河出書房自体が経営破綻して刊行できなかったことから、乱歩賞に回された作品である。作者が女性であったことに加え、小さいころに胸椎カリエスを発病して、ほとんど寝たきり状態であること、学校へは行かずに独学で学んだことなどが大きな話題となり、作品発売前から日本のみならず世界からも取材が殺到したという伝説がある。刊行後はベストセラーとなり、昭和30年代の推理小説ブームへつながることとなる。
 探偵役は植物学を専攻する大学生の仁木雄太郎、ワトソン役は音楽大学に通うミステリ好きの仁木悦子。仲の良い兄妹はその後もいくつかの作品に登場し、シリーズ化された。また結婚後の浅田悦子が単独で事件に当たる作品もある。
 とまあ、いろいろ伝説を残した作品ではあるのだが、個人的な感想を言うならば、今読むには古めかしくて少々きつい作品。選評で「こまかいトリックや小道具の扱い方に、女性らしい繊細な注意が行きとどいて、その点ではアガサ・クリスティを思わせるほどのものがある。文章も平易暢達で、病院内部の描写は、選者たちを驚かせたほどにも的確であった」とあるのだが、どの辺が繊細なのか今一つ不明。逆に、それまでの日本の探偵小説に繊細さがなかったということなのかね。あまりそんな気もしないが。
 むしろこの作品の良さは、殺人事件を扱いながらも、仁木兄妹に代表されるような作品の明るさだろう。地方で陰湿な事件ばかりを読まされてきた人たちにとって、仁木兄妹のような微笑ましい存在は、一服の清涼剤となっただろう。本格部分については、可もなく不可もなくといったところか。当時のレベルから考えても、それほど目新しいものはない。
 まあ、今読むには不満なところもあるが、時代を代表する作品であったことは間違いない。仁木作品の良さは、他の作品の方にあると思うけれどね。

多岐川恭『濡れた心』(講談社文庫)

 典子と寿利は対照的な美少女だ。感受性に富み、神秘的な美しさを秘める典子に対して、寿利は水泳選手らしいおおらかさと豊かな肢体の持ち主。この二人の女子高校生のレズビアンラブと、取り巻く男女間の相克が、戦慄の惨劇を呼び起こした。異色の構成と軽快な筆致が冴える本格推理。(粗筋紹介より引用)
 1958年、第4回江戸川乱歩賞受賞作。

 美少女・御厨典子、同級生でスポーツ少女・南方寿利、典子に粘着する英語教師・野末兆介、成績優秀で医者志望な典子の友人・小村トシ、美貌の未亡人である典子の母・賤子、典子の祖母・芙美、賤子に若いころから結婚を申し込んでいる鷹場庸次郎、典子に結婚を申し込み、父の生徒だった孤児・楯陸一、典子の家のお手伝い・篠原高子、寿利の父・寿太郎、刑事をしているトシの兄・小村釣一。典子を中心に愛憎渦巻く男女が繰り広げる人間模様。そして、野末、盾が殺害される。野末を銃殺した凶器は、典子の亡き父の持ち物だった。
 全編が日記、手記、メモで構成されている凝った構成。女子高校生のレズビアンという、当時としてはかなり斬新的だったと思える題材。そして綺麗な文章に意外な展開。色々な意味でよく考えられたミステリであり、だがその凝り具合を感じさせない読みやすさ。当時としては色々な意味で破格な作品であり、受賞も当然である。もっと評価されてもいいと思うのだが。

新章文子『危険な関係』(講談社文庫)

 大学生世良高行のまわりに奇怪な出来事が続いた。常用する薬の中に毒薬、出生の秘密と暗い末路を予言する手紙、父の突然の死と、全財産を彼だけに譲るという遺言状。謎の中、再びのびた魔手を脱した高行は、関係者をそろえ犯人究明のため偽装自殺を試みたのだが。……
 殺人者の心理、青春のおごりをきめこまかい文章でみごとに描いた乱歩賞受賞作。(粗筋紹介より引用)
 1959年、第5回江戸川乱歩賞受賞作。

 染色会社の社長である父・峰行が喉頭癌で死に、京都へ帰ってきた21歳の世良高行。薬に毒薬を入れたと高行が疑っている義母のふじ。高行が家を大事にしないため仲が悪い16歳で妹の高校生・めぐみ。運転手の下路。バー「サキ」の女主人で、高行が峰行と血のつながりがないことを知っている、腹違いの実姉で30歳の佐木緋絽子。緋絽子には10年前に夫を崖から墜落死させた過去を持つ。緋絽子の愛人で、開業予定の喫茶店の出資者である木崎慎吾。高行の従兄弟で、ナイトクラブ「風車」のバンドマスター兼ピアニスト野見山洋一郎。母が死んだため、京都に出てきてバー「サキ」で見習いバーテンとして働く勇吉。勇吉の母が仲居として勤めていた料理屋の娘で、勇吉に惚れて彦根から勇吉の元へ来たが逃げられ、そのままナイトクラブ「風車」で働く志津子。
 よくもまあ、これだけ曰くありげな登場人物ばかりを出したというべきか。登場人物のほとんどすべてが身勝手な思考で動いており、読んでいてイライラさせられること間違いなし。主役と言える登場人物はいない……というか、皆が主役の群集劇に近いものがあるかもしれない。それぞれの内面を並行的に書き連ね、徐々に複雑な人間関係を明らかにしていき、不穏な空気がついに爆発するまでを描いている。そのため、事件が起きるまでは少し長い。当時から考えたら、かなり長めの長編と言えるだろう。イライラ感こそあるものの、読んでいて退屈というわけではなく、しっかり読んでいけば徐々に世界へ引き込まれていくだけの筆致はある。絡み合った関係が、偽装自殺をきっかけとして徐々にほぐれていく展開もなかなかのもの。ミステリとしての面白さは少ないかもしれないが、乱歩賞を取っただけのある骨太な作品といえるだろう。
 ただ、当時の選評を読むと首をひねるところは多い。「ユーモアのある作風」「登場人物の過半はハードボイルドふうの非情の性格」「『めぐみ』という美しい現代娘」(いずれも乱歩)などは、小説のどこが当てはまるのだろうと考えてしまった。

陳舜臣『枯草の根』(講談社文庫)

 舞台は神戸。寒い師走のある晩、老中国人徐銘義が絞殺された。そして5号館でまた……。地方政界の汚職追及に躍起となっている若き日本人記者小島が、一方拳法家兼漢方医なる中華料理店「桃源亭」主人陶展文が、この謎を追うのだが――。ノックスの「探偵小説十戒」の「中国人を登場させてはならない」を見事破った清新な処女作。第7回乱歩賞受賞。(粗筋紹介より引用)
 1961年、第7回江戸川乱歩賞受賞作。

 今では歴史小説の大家として名高い陳舜臣であり、推理小説を書いていたことを知らない人もいるのではないかと思わせるほどだが、デビュー作は紛れもなくミステリ。それも江戸川乱歩賞の中でも10本の指に間違いなく入るであろうという傑作である。何十年ぶりかで再読。
 アパートの経営者である老中国人徐が殺害された。象棋の好敵手でもあった50歳の陶が弟子である新聞記者の小島とともに捜査に乗り出すが、小島が汚職を追っていた市会議員吉田の甥田村が殺害される。徐は実は吉田の汚職のトンネル役であったが、田村に切り替わっていたのだ。
 舞台は神戸の華僑社会であり、登場人物の中国人が多い。名探偵役である陶展文の影響もあるだろうが、作品全体がどことなくゆったりとした、大人(たいじん)の雰囲気を漂わせた仕上がりになっている。人物や背景描写、落ち着いて拡張のある簡潔な文章、作品の構成など、どれをとっても一級品。これが処女作なんて、事前情報を知らなければ誰も信じられないのではないか。ただ、落ち着きのない読者だったらゆったりしすぎと批判しているかもしれないが。
 乱歩賞の中でも屈指の完成度を誇る傑作である。陳舜臣は他にも傑作が多いので、推理小説全集も出してほしいと思っている。
 最後にどうでもいいことを書くと、解説でもノックス云々が出てくるが、それだけは蛇足。作者もそのような取り上げられ方をされるとは、考えていなかっただろう。

戸川昌子『大いなる幻影』(講談社文庫)

 古色蒼然とした赤煉瓦のアパートは、女の館だった。互いに他人を寄せつけずに暮らす老嬢たち。そこへ突如アパート移動工事が始まる。工事に呼応して奇怪な事件が続発し、それまで沈潜していた老嬢たちの過去がむき出しにされた! 人間の愛憎、女心の軌跡をサスペンス十分に描いた名作。第8回乱歩賞受賞作品。(粗筋紹介より引用)
 1962年、第8回江戸川乱歩賞受賞。1978年8月、講談社文庫化。

 史上最大の激戦といわれた第8回の乱歩賞受賞作。シャンソン歌手時代に楽屋で書いた作品であり、移動の旅に袋に入れていたことから、選考委員は原稿の汚さに辟易しつつも、読み始めたら止まらなかったという伝説がある。
 男子禁制のアパートに住む老嬢たちと、一本のマスターキーをめぐる話。章ごとに主人公となる老嬢が変わっていくので、今だったら連作短編集といわれていたかもしれない。一本しかないマスターキーを軸にして、アパートに隠れ住んでいた老嬢たちの過去が次々と明らかになる展開が面白い。さらに作者によってプロローグから張り巡らされた伏線が、まさに「大いなる幻影」であるところがうまい。まさに濃縮されたサスペンス・スリラーである。
 傑作中の傑作。今読むと古臭いところはあるかもしれないが、それでもこの面白さは色褪せない。

佐賀潜『華やかな死体』(講談社文庫)

 千葉県市川市に住む実業家の柿本高信が、自宅の応接間にて花瓶で殴られて殺害された。高信より20歳若い後妻みゆき、金ばかり無心する長男の富美夫、秘書という名の愛人片岡綾子、使い込みで会社をクビにされた元秘書人見十郎など、様々な容疑者が浮かび上がる。任官四年目となる千葉地検の城戸明検事は、花瓶に付いた指紋と遺留品の髪の毛、そして目撃証言から人見を起訴する。しかし人見は否認を続け、さらに大物弁護士の山室竜平が弁護を担当することとなった。公判で、捜査の不備を突いてくる山室。必死に防戦する城戸。城戸をサポートする市川署の津田進作巡査部長。裁判の結末はどうなるのか。
 1962年、第8回江戸川乱歩賞受賞作。

 主人公が検事であるのは、元検事でかつ弁護士である作者ならではか。捜査や起訴、公判に至るまでの展開にはリアリティがあり、城戸や警察の心情もよく伝わってくる。意図せぬ方面からの弁護士の攻撃に苛立つところなどは、作者の経験なのかも知れない。法廷小説がベストセラーになった現代の視点で読むと、物足りないところはあるだろうが、ミステリとしての構成も含め、よく考えられた仕上がりになっている作品である。ただ、この最後は頂けない。現在ならまだしも、当時の裁判で、こんな判決に終わることがあるだろうか。法律の矛盾を突くためにあえてこの結末を持ってきたのだろうが、こればかりは、首をひねってしまう。
 主人公の城戸は、後に『検事城戸明』(1963)で再登場する。
 この回は激戦であり、同時受賞は今でも乱歩賞のベストを争う作品の戸川昌子『大いなる幻影』。最終候補には、未完成ながらここまで残った塔明夫『虚無への供物』、そしてユーモアミステリの佳作、天藤真『陽気な容疑者たち』があった。そのいずれもが後世に名を残す作家、作品であったことから、本作の評価は現在ではやや低いように見受けられる。しかし読んでみたら、これらに引けを取らない力作であることは間違いない。作者の評価が低いのは、流行作家として多作になったことと、作家生活わずか8年で急逝してしまったことが原因だろう。

藤村正太『孤独なアスファルト』(講談社文庫)

 日東グラスウールの常務郷司が殺害された。転職のことが原因で郷司と対立していた東北出身の田代が疑われる。田代は内気で言葉の訛をからかわれるのがいやで、職場でも孤立している青年だった。後日発見された凶器の紙バンドも田代の工場の物とわかり、彼への容疑は深まる。寄る辺ない青年の孤独を描く傑作推理。(粗筋紹介より引用)
 1963年、第9回江戸川乱歩賞受賞作。

 作者はもともと川島郁夫名義で短編推理小説を発表していたが、本作品応募に際し本名に戻している。
 社会派推理小説が流行っていた頃の推理小説という感は強い。平凡な被害者、平凡な容疑者、平凡な刑事、そして平凡な犯人。どこにでもいるような人たちが登場人物であり、動機も平凡で、新聞記事の片隅で終わるような事件。とはいえ、考えられたトリックが使われているし、社会背景を取り込み、練られたストーリーである。タイトルも含め、都会への憧れと孤独を上手く書いた作品である。
 ただ、ストーリー構成上仕方がなかったのだろうが、途中で犯人がわかってしまうところは少々残念。捜査の過程を楽しむことはできたが、もっと後半でもよかったのではないかと思う。そのせいだと思うが、結末は少々唐突。前半部分をもっと引っ張ることはできなかったのだろうか。そうすれば、この作品の面白さ、都会の孤独さがより強く浮かび上がったに違いない。

西東登『蟻の木の下で』(講談社文庫)

 井の頭公園内にある羆の檻の前で羆の爪痕を残す男の死体が発見された。死体の傍には新興宗教正整会のバッジが落ちていた。死者の戦友だった町工場の社長池見は週刊誌記者鹿子の協力を得て、事件の核心に迫る。が、事件は第二、第三の殺人事件へと発展、謎は深まる。本格謎解きに戦争犯罪を絡ませた異色作。(粗筋紹介より引用)
 1964年、第10回江戸川乱歩賞受賞作。

 出だしだけ見ると本当に羆による事故なのか、それとも羆を利用した殺人事件なのかといった本格推理のように思えるのだが、事件の謎を追ううちに新興宗教団体だの、バンコクでの貿易だの、南方戦線だのといった話が出てきて、どんどん横道に逸れているじゃないかと思ってしまう。しかもその横道の方が強烈であるからなおさら。ところがそれらが実は殺人事件と絡んでいることが明らかになる。内容は盛り沢山だが、それぞれが整理されており、読んでいても飽きが来ない。特に生きた人間へ何千万匹もの蟻が襲いかかる描写は、読んでいて本当に恐ろしい。
 今の時代からすると戦争犯罪といわれてもピンと来ないだろうが、本作が書かれたころはまだまだ現実的な話だった。何にせよ、戦争というもの、そして軍隊の理不尽さに対する作者の怒りが強烈に込められており、それらがもたらした悲劇がこの作品の全体を覆っている。この強烈なメッセージ色と事件の謎、そして新興宗教などの(当時の)現代性が上手く絡み合い、本作のような異色作が生まれることとなった。

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