呉勝浩『道徳の時間』(講談社)
ビデオジャーナリストの伏見が住む鳴川市で、連続イタズラ事件が発生。現場には『生物の時間を始めます』『体育の時間を始めます』といったメッセージが置かれていた。そして、地元の名家出身の陶芸家が死亡する。そこにも、『道徳の時間を始めます。殺したのはだれ?』という落書きが。イタズラ事件と陶芸家の殺人が同一犯という疑いが深まる。同じ頃、休業していた伏見のもとに仕事の依頼がある。かつて鳴川市で起きた殺人事件のドキュメンタリー映画のカメラを任せたいという。13年前、小学校の講堂で行われた教育界の重鎮・正木の講演の最中、教え子だった青年が客席から立ち上がり、小学生を含む300人の前で正木を刺殺。動機も背景も完全に黙秘したまま裁判で無期懲役となった。青年は判決に至る過程で一言、『これは道徳の問題なのです』とだけ語っていた。証言者の撮影を続けるうちに、過去と現在の事件との奇妙なリンクに絡め取られていく――。(帯より引用)
2015年、第61回江戸川乱歩賞受賞。応募時名義檎克比朗。加筆修正のうえ、2015年8月刊行。
作者は昨年に続いて最終候補に残り、見事受賞。昨年の『闇に香る嘘』がとてもよかった(文春だけでなくこのミスでもランクインするとは思わなかったが)ので、今年も少しは期待したのだが、読み終わってみたら首をひねる結果となった。
前半は面白い。帯で辻村深月が言っているように、「謎の立て方が際立って見事だった」。鳴川市で起きた連続イタズラ事件に陶芸家の死亡事件がリンクするのみならず、13年前に起きた殺人事件でも黙秘していた犯人が唯一語った言葉が「道徳の問題」。これで一気に興味を惹かれた。しかも伏見祐大にカメラマンを依頼してきたドキュメンタリー映画の監督である越智冬菜が28歳の女性で、映画を撮る動機が不明。現実の事件では、自分の息子である友希が関わっている可能性が出てきて伏見が疑心暗鬼になるし、過去の事件では、犯人である向晴人の周辺人物へのインタビューを続けるうえで不審な点が浮かび上がってくる。自殺と思われていた陶芸家の死亡に他殺の可能性は出てくるし、そもそも「○○の時間を始めます」が意味するところは……。これだけ面白い謎を提示してくれ、しかもその見せ方が非常にうまい。描写が大げさだし、読んでいて誰が喋っているんだろうと思うところもあったが、その程度には目をつぶってもいいと思うぐらいの謎だった。これはどんな傑作になるだろうかと期待していたのだが、読み終わって完全に裏切られる。
読了して、ここまで裏切られた思いをしたのは久しぶり。何、そのつまらない終わり方、と言いたい。作者、これ書いてて楽しかったのかと問い詰めたい。
詳細に書くと完全なネタバレになってしまうのでぼかして書くが、謎の答えが実につまらない。帯にある「過去の現在の事件との奇妙なリンク」については絶叫したくなった(池井戸潤の選評を読むとわかる)。越智冬菜の正体自体は最初からバレバレだったが、もう少し描きようがなかったのかね。陶芸家の青柳南房についても、もう少し背景を書くとかできなかったものだろうか。そして一番言いたいことなのだが、13年前の殺人事件の動機については、あまりにもアホらしい。リアリティ以前の問題。出版社の人、これを読んで怒らないのかね。
選評を読むと、有栖川有栖、石田衣良、辻村深月が本作を推し、今野敏が別作品を、池井戸潤が受賞作なしとの結論だった。長時間の討議が行われ、文章や設定の不備に修正を施したうえで多数決で受賞となったらしい。池井戸は最後まで反対に回っている。「完成原稿の応募とはいえ、細かな部分を修正することについての異論はない。だが、この小説に求められる加筆修正は犯行動機を形成する根本に関わり、広範に及ぶ。私には、この小説がどのような完成形を見るのか、正直なところわからない。それなのに、なぜ受賞作として推すことができようか」と不満を述べている。今野も「広げた風呂敷のたたみ方がもう少しうまかったら、私の評価も高かったと思う」と書いている。仰る通り。元々どのような形だったのか非常に気にはなるが、今より悪いものだったのだろう。加筆修正したうえでこれでは、とがっくりきた。
とはいえ、出版された物については仕方がない。これだけの選評がついてしまうと、売れるのは厳しいかもしれないが、せめて次作では受賞させてよかったと思われる作品を書いてほしいものだ。まあ、『天女の末裔』や『風のターンロード』、『浅草エノケン一座の嵐』『マッチメイク』に比べれば、まだまだまともだった。
最後に、作者も編集者も常識を知らないなあ、と思ったこと。作品にそれほどつながる部分ではないから選評では見逃したのかもしれないが、警察小説を書いている今野敏ならこれぐらい指摘してほしかった。向晴人の事件だが、9月9日に事件が起きて、年が明けた頃に無期懲役判決。かなり短いが、これ自体はまだ可能性はある(とはいえ、滅多にない)。しかし裁判で鑑定が行われたのであれば、これは短すぎる。精神鑑定ならそれだけで最低3か月は必要。この程度は事前に調べてほしいところだ。さらに言えば、無期懲役判決が出て、13年で仮釈放されることは有り得ない。事件が起きた2001年時点でさえ、平均所在期間は22年8か月。作品時間である2014年なら、31年4か月だ。普通に有期懲役でよかったじゃないか。1殺で前科なしなら、普通は有期懲役だ。文庫化されるときは、これぐらいは直してほしい。そして作者に言いたいのだが、無期懲役の仮釈放は、「罰を終えた」わけではない。これは根本的な間違いだ。
佐藤究『QJKJQ』(講談社)
西東京市に住む私の名前は市野亜李亜、高校生。友達は誰もいない。街角にあふれる監視カメラとスマホが大嫌い。アメリカのバンド、マリリン・マンソンが好き。本物の鹿の角を自分で削って作ったペーパーナイフ「鹿角ナイフ」を持ち歩いている。今日もナンパをしてきた男とドライブで林へ行き、キスの隙を狙ってスタッグナイフで相手を殺す。
母親、紀夕花はフィットネスジムでのウェイトトレーニングで20代のスタイルを保つ42歳。三角形のものが好き。街へ出て若い男を誘い、三階の専用の部屋で男をシャフトで殴って殺害する。ラクダのこぶに興奮するので、死にかける前に色々なところをシャフトで叩き、こぶを作って遊ぶ。
兄、浄武は二階の部屋に引きこもる21歳。亜李亜は11歳になるまでその存在すら知らなかった。180cm近い長身で、妹ですら見惚れる横顔。革製品が好きで、黒い革ジャンを着、ベルトを首に巻きつけている。インターネットで女の子を家まで呼び寄せ、三階の専用部屋でマウスピースを付けて女の喉を噛み千切る。胸につるはしを突き立て、シャベルを突っ込み、心臓を取り出して、床の上の天秤に載せる。
父、桐清は住宅販売員の52歳。亜李亜は小さいころ、父とよく遊んでいた。趣味は無く、テレビもネットも見ないが、毎週木曜に届く「日本住宅売買新報」だけは必ず目を通す。父は外で殺すので、亜李亜は10数年前の一度しか父が手にかけたところを見たことが無い。その死体は、地下の物置に転がっている。
その日、父は早く家に帰ってきていた。学校から帰ってきた亜李亜は部屋に戻ると、いつも締め切られている兄の部屋が細く開いていて、中から血が流れていることに気付く。部屋を除くと、パン切り包丁で滅多裂きにされた兄の死体があった。亜李亜は一階に戻り、父を呼んで兄の部屋に行ったが、兄の死体は無かった。しかも廊下にこぼれていた地もきれいにふき取られていた。父は落ち着いたまま。母は部屋にいた。どの部屋にも兄の死体はない。ルミノール反応にも引っかからない。次の日の夜、学校から帰ってくると、母が消えていた。しかし、父は落ち着いている。そして父は言う、何も知らないと。そして「おまえならいずれみんなわかるだろう」と告げた。
2016年、第62回江戸川乱歩賞受賞作。応募時名義犬胤究。加筆修正のうえ、2016年8月、刊行。
作者、佐藤究は1977年生まれ。2004年、佐藤憲胤名義の『サージウスの死神』で第47回群像新人文学賞優秀作を受賞し、デビュー。本作は乱歩賞二度目の応募となる。
家族全員がシリアルキラーという現実的ではない、異様な設定。兄が殺害され、死体が消え、母が失踪。これはもしかしてとんでもない家族内の、不可能殺人ものかと思って期待したのだが、いつしか主人公の自分探しに変わり、どんどん意外な方向に流されていく。これを面白く感じるかどうかで、本作の評価は大きく変わるだろう。そして私の感想は、ダメ。作者に都合のよい設定が後から出て、説明不足の登場人物が都合よく出てきて、話が転がっていくというのがどうも好きになれない。主人公が「理解」する展開が説得力に乏しく、説明が不足している。衒学的な内容や犯罪論などをつぎ込み、作者なりの世界観が作られているが、大きく広がったはずの風呂敷があまりにも小さかったという結末は非常に残念である。
文章は巧い。読者を引きずり込むだけの力がある。また、伏線の張り方も巧い。何気なく飛ばしていたところにヒントが隠されていたところには、感心した。登場人物もよく描けている。タイトルはどう読めばよいのか今でもわからないが、小説にあっている。結局この小説の評価は、この作者の世界観が受け入れられるかどうかにかかっていそうだ。私は説明不足、描写不足に写ったが、好きな人は好きだろう。
選評では、有栖川有栖が「平成の『ドグラ・マグラ』だ」と絶賛。同様に今野敏も絶賛している。湊かなえは一番高い評価をしているものの、作品自体はあまり好きでないと言っている。辻村深月は選考結果に納得しているものの、「新しい」ものではないと、評価は低い。池井戸潤は「謎解きは肩透かし」「これが周到に準備された小説といえるか」と評価は低い。強く推した二人とは、有栖川と今野のようだ。賛否両論が多いのは、売れる可能性があるということでもあるのだが、残念ながら「平成の『ドグラ・マグラ』」という評価は持ち上げすぎ。まあ、今までの乱歩賞にはない作品であることに間違いはない。これで説明が十分になされていればと思うと、残念でならない。
斉藤詠一『到達不能極』(講談社)
二〇一八年、遊覧飛行中のチャーター機が突如システムダウンを起こし、南極へ不時着してしまう。ツアーコンダクターの望月拓海と乗客のランディ・ベイカーは物資を求め、今は使用されていない「到達不能極」基地を目指す。
一九四五年、ペナン島の日本海軍基地。訓練生の星野信之は、ドイツから来た博士とその娘・ロッテを、南極にあるナチスの秘密基地へと送り届ける任務を言い渡される。
現在と過去、二つの物語が交錯するとき、極寒の地に隠された"災厄"と"秘密"が目を覚ます!(帯より引用)
2018年、第64回江戸川乱歩賞受賞作。応募時名斎藤詠月。加筆修正のうえ、2018年9月、刊行。
昨年は受賞作が無かった分、今年への期待値は結構高まっていたのだが、読み終わってみるとややがっかりか。「到達不能極」は実際にある言葉だが、本作で初めて知った。
現代パートでは南極で不時着するのだが、極限の寒さの描写が特に優れている。本当に身が震えるような寒さが伝わってくる。徐々に謎が明らかになっていく展開も巧いし、人物描写も過不足なくまとまっている。場面や視点の切り替えも違和感がない。過去パートでは、帝国海軍に所属する18歳の星野信之を含む台場大尉他が操縦する一式陸攻にて、実際はユダヤ人であるドイツの科学者、ハインツ・エーデルシュタイン博士と娘のロッテをペナンから南極の秘密基地へ送り届ける。ヒトラーのとある野望を達成するために、博士の研究成果が必要だった。飛行機の知識は分からないが、描写は臨場感があふれている。終戦間近にしてはずいぶんとフランクな雰囲気が流れているような気もするが、それは海軍ならではなのだろう。それほど違和感はなかった。戦場下における星野とロッテのロマンス、そしてそれを見守る上司たちの描写は心が温まる。
小説のテンポもいいし、人物描写もいい。過去と現代が切り替わりながら、どちらも徐々にピンチとなり、二つの時代が重なり合う時、人類の危機が迫る。読んでいてワクワクした。
しかしだ。肝心のアイディアがあまりにも古い。昭和ならともかく、平成のこの時代でこのアイディアは通用しないだろう。さらにいえば、二つの時代が重なった後の展開が、B級アニメより安っぽく、ドタバタしているのが残念。修正してこれなのだから、応募の時点ではもっとひどかったのだろうか。本当、最後で台無しである。
もっといいアイディアを考え出してほしかった。勿体ない。この一言に尽きる。これだけの筆力がありながら、なぜこんな仕上がりになってしまったのか。作者はSFにあまり詳しくないのだろうか。
乱歩賞でこのような作品が受賞するとは思わなかった。少なくとも、ミステリではないよね。
神護かずみ『ノワールをまとう女』(講談社)
日本有数の医薬品メーカー美国堂は、傘下に入れた韓国企業の社長による過去の反日発言の映像がネットに流れ、「美国堂を糺す会」が発足して糾弾される事態に。
かつて美国堂がトラブルに巻き込まれた際に事態を収束させた西澤奈美は、コーポレートコミュニケーション部次長の市川から相談を持ちかけられる。新社長の意向を受け、総会屋から転身して企業の危機管理、トラブル処理を請け負っている奈美のボスの原田哲を排除しようとしていたものの、デモの鎮静化のためにやむを得ず原田に仕事を依頼する。
早速、林田佳子という偽名で糺す会に潜り込んだ奈美は「エルチェ」というハンドルネームのリーダーに近づくと、ナミという名前の同志を紹介される。彼女は児童養護施設でともに育ち、二年前に再会して恋人となった姫野雪江だった。雪江の思いがけない登場に動揺しつつも取り繕った奈美は、ナンバー2の男の不正を暴いて、糺す会の勢いをくじく。
その後、エルチェは美国堂を攻撃する起死回生の爆弾をナミから手に入れたというが、ナミ(=雪江)は奈美と約束した日に現れず、連絡も取れなくなった。起死回生の爆弾とは何なのか? (内容紹介より引用)
2019年、第65回江戸川乱歩賞受賞。応募時タイトル「NOIRをまとう彼女」。2019年9月、講談社より単行本刊行。
作者は受賞時58歳で、長井彬の56歳を上回る史上最年長。ちなみに男性。1996年、『裏平安霊異記』(神護一美名義)でデビュー。2011年、『人魚呪』で遠野物語100周年文学賞を受賞している。
企業の炎上鎮火請負人という職種はこのご時世ならではと思った。主人公が女性で恋人も女性、というのも今時らしさがある。韓国ヘイトをテーマにする点も平成の終わりならでは。ただそういう表層をはぎ取ってしまえば、あまりにもスタンダードなハードボイルド。主人公の一人称という構成が特にそれを思わせる。企業に雇われた私立探偵もしくはトラブルシューターが総会屋の難癖を処理する、みたいな話を現代に置き換えた、という印象しかない。プロとして活動していた人だからそれなりに文章は達者だけれども、特に前半は説明文が多いし、話が盛り上がるのも中盤過ぎでちょっと遅い。選考委員が指摘した欠点は修正したようだが、ステレオタイプという指摘は直しようがなかったんだろうな。主人公を女性にする強烈な理由もなかった点はもう少し何とかできなかったか。服を黒尽くめにする点も生かせていない。
欠点と感じたことばかり並べているけれど、それなりに時間をつぶせる、いわゆる出版されても問題はないな、という程度の出来にはなっている。ただ、受賞したら二作目もこの主人公を使おう、というのが透けて見えるのが嫌だ。そういった点を裏切ってくれれば、少しは印象が異なったんだろうけれど。今までミステリを書いてこなかった作家が、昔流行ったパターンをアレンジして文庫書下ろしシリーズ化できるように仕立てた、以上のものはないので、乱歩賞という名にふさわしいのかは疑問。昔だったらこの手の作品は「新味がない」という理由で受賞できなかったと思う。逆に言うと、応募作が低調だったのかな。
佐野広実『わたしが消える』(講談社)
元刑事の藤巻は、医師に軽度認知障碍を宣告され、愕然とする。離婚した妻はすでに亡くなっており、大学生の娘にも迷惑はかけられない。ところが、当の娘が藤巻の元を訪れ、実習先の施設にいる老人の身元を突き止めて欲しい、という相談を持ちかけてくる。その老人もまた、認知症で意思の疎通ができなくなっていた。これは、自分に課せられた最後の使命なのではないか。娘の依頼を引き受けた藤巻は、老人の過去に隠された恐るべき真実に近づいていく……。「松本清張賞」と「江戸川乱歩賞」を受賞した著者が描く、人間の哀切極まる社会派ミステリー!(帯より引用)
2020年、第66回江戸川乱歩賞を受賞。加筆修正のうえ、2020年9月、単行本刊行。
作者は1999年、島村匠名義の『芳年冥府彷徨』で第9回松本清張賞を受賞してデビュー。2004年までに10冊近くの著書があるよう。2019年、「シャドウワーク」で第65回江戸川乱歩賞最終候補に残る。
20年前に上司の汚職事件を追っている途中で逆に罠にかかって刑事をやめ、今はマンションの管理人をしている主人公の藤巻智彦。娘の裕美に依頼され、実習先の特別養護老人ホームに置き去りにされた老人の過去を探ることになる。
元々プロであり、文章はしっかりしている。地味な展開だが、老人の過去を探す前半は読んでいて面白かった。ところが、黒幕が徐々に出てくる後半はいけない。指摘を受けて直せるところは加筆修正したようだが、貫井徳郎をはじめとする選評委員が上げた問題点はごもっとも。素人の私が読んでもおかしいと思うし、はっきり言って不自然でつまらない。さすがに物語の根幹にかかわる部分は直せなかったのだろう。貫井の言う「ファーストチョイスがおかしい」というのが一番正しい。昔の出来の悪い推理小説を読んでいる気分になった。綾辻が「フィクションとして目を瞑っていいのではないか」というのが、選評委員の本音だと思う。貫井の言うとおり、受賞作無しでよかったんじゃない。
事件名は出ていないが、読んだらすぐにわかる実在の重大事件が一部で使われている。ここまで露骨に、裁判結果と違う真相を出してくるのもどうかと思う。それだったら、架空の事件を作ればいいじゃないかと思った。別に実在の事件を使う必然性はかけらもないのだから。こういうところで実在事件を持ち出し、作品にリアリティを与えようとしているのでは駄目だよ。ただの手抜き。事件関係者に失礼。
作者はインタビューではっきりと、売れなかった、と言っている。これじゃ正直言って厳しかったんじゃない、と言いたくなるような出来だった。帯を見た時に気づくんだったね。「綾辻行人氏、推薦」だから。絶賛じゃないんだよ。これを選ぶしかないぐらい、今年は不出来だったのだろう。
桃野雑派『老虎残夢』(講談社)
私は愛されていたのだろうか? 問うべき師が息絶えたのは、圧倒的な密室だった。碧い目をした武術の達人梁泰隆。その弟子で、決して癒えぬ傷をもつ蒼紫苑。料理上手な泰隆の養女梁恋華。三人慎ましく暮らしていければ、幸せだったのに。雪の降る夜、その平穏な暮らしは打ち破られた。「館」×「孤島」×「特殊設定」×「百合」! 乱歩賞の逆襲が始まった!(帯より引用)
2021年、第67回江戸川乱歩賞受賞作。加筆修正のうえ、2021年9月刊行。
2021年の乱歩賞は、本作と伏尾美紀『北緯43度のコールドケース』とのダブル受賞。しかし、本作は9月発売で、もう一方は10月発売というのは珍しい。選評を読むとどれも一長一短だったらしく、修正の早い順に出したというところだろう。
時代は「采石磯の戦い」が40年ほど前とのことなので、1201年頃の南宋。舞台は首都である杭州の臨安に近い小さな島である、八仙島。登場人物は、武術の達人、梁泰隆。捨てたられたところを拾われ、弟子となった23歳の蒼紫苑。かつて大怪我を負ったため、外功が使えない。そして養女である17歳の梁恋華。紫苑と恋華は恋人の関係にあるが、掟で許されない恋である。
蒼紫苑に呼ばれてきた三人の客。紫苑はその中の一人だけに奥義を授けるという。海幇の幇主で『烈風神海』こと蔡文和。終曲飯店という店を手広くやっている『紫電仙姑』こと楽祥纏。浄土教の僧侶で三千人の門下がいる『弧月無僧』こと為問。屋敷で宴会を行った後、泰隆は湖の中央に建っている道場の八仙楼へ術で帰り、残りは屋敷で眠りを取った。しかし翌朝、泰隆は毒を飲まされたうえ、暗器の匕首で腹を刺されて殺されていた。しかし内攻の達人である泰隆に毒は聞かないはず。そして楼へ行くための船は楼閣の桟橋にかかっていた。屋敷から湖までの雪が積もった道は、朝食を運ぼうとした恋華の往復の足跡しかなかった。5人は楼閣で密室殺人の謎に迫る。
南宋の時代を舞台とした武侠小説に本格ミステリを組み合わせるというのは、秋梨惟喬の「もろこし」シリーズがある(といっても読んだことはない)が、乱歩賞では初めて。と言われても、そもそも武侠小説そのものを読んだことがほとんどないため、舞台を把握するのに戸惑ったことは事実。外功や内功ってこんな特殊な設定になっているのだろうかと、不思議に思った。ただ、背景や人物は丁寧に、しかしリズミカルに書かれており、読んでいればわかるようになっているのはうまいと思った。
前半を読んでいると、作者は楽しんで書いているのだろうな、ということがわかるくらい、筆がのっている。過去の人間関係も踏まえた会話の軽妙なやり取りや、所々で挟まれる戦闘シーンは読んでいて実に面白い。紫苑と恋華の関係はもうちょっと物語の謎に絡めてほしかったかな。ただ後半になればなるほど、テンポが悪くなって作品のテンションもどんどん下がっていく。「奥義」の正体が面白いのに、謎解きそのものが面白くないというのが致命的。加筆修正を行ううちに、作品そのものの流れがどんどん悪くなっていったのではないだろうか。
帯の「館」×「孤島」×「特殊設定」×「百合」は、逆に書かなかった方がよかったと思う。少なくともこの言葉から思い浮かべるミステリの印象とは、全然異なっている。編集者ももう少し考えて書けばいいのにと思ってしまう。
すごい悪い書き方なんだが、昔ネット上でたくさんあった小説を思い出した。設定は面白くて作者も最初は勢いで書いているのだが、話がどんどん進むに連れて作者の筆が重くなり、結末がつけられずにいつの間にか絶筆状態になっている。本作は結末をつけることができたが、テンポの悪さは致命的。本格ミステリのような論理性を求められるジャンルは向いていないと思う。ゴールだけを決めて、あとは筆の勢いに任せて書いた方が面白いものができるのではないだろうか。
伏尾美紀『北緯43度のコールドケース』(講談社)
博士号取得後、とある事件をきっかけに大学を辞めて30歳で北海道警察に入り、今はベテラン刑事の瀧本について現場経験を積んでいる沢村依理子。ある日、5年前に未解決となっていた誘拐事件の被害者、島崎陽菜の遺体が発見される。犯人と思われた男はすでに死亡。まさか共犯者が? 捜査本部が設置されるも、再び未解決のまま解散。しばらくのち、その誘拐事件の捜査資料が漏洩し、なんと沢村は漏洩犯としての疑いをかけられることに。果たして沢村の運命は、そして一連の事件の真相とは。(帯より引用)
2021年、第67回江戸川乱歩賞受賞作。応募時タイトル「センバーファイ―常に忠誠を―」。加筆修正のうえ、2021年10月、単行本刊行。
作者は北海道生まれ、在住で産業翻訳家。長編ミステリの執筆、応募は初めてとのこと。応募時タイトルの"センバーファイ"とはラテン語の"Semper fidelis"の通常口語体、"Semper Fi!"であり、「常に忠誠を」を意味する。アメリカ海兵隊の公式標語となっている。コールドケースは未解決事件、迷宮事件のこと。
選評を読むと、大体同じようなことを言っている。
「特に序盤、書き方がちょっと読者に不親切すぎて首を傾げたくなった」「小説としてこなれていないところも多い」(綾辻行人)
「読後感が「うわあ」。これ、作者が詰め込みすぎているからだ」(新井素子)
「惜しむらくは小説としての体裁が整えられていない」「構造的にブレがあるため、主役が誰なのか明確になるのも中盤以降である」(京極夏彦)
「"候補作中最も興味深い謎を提示していながら、同時に最も読みにくい作品でもありました。それは小説としての拙さに由来するものです」「警察小説としての部分に新鮮味はなく、本筋や時系列をいたずらに分かりにくくしてあるだけで、全部不要であると思いました」(月村了衛)
「候補作中、一番小説が下手でした」(貫井徳郎)
ほとんど仰る通りで、だいぶ加筆修正しているようだが、まだ読みにくい。前半部分ももう少し主人公の沢村依理子をピックアップした書き方にすべきで、修正しきれていなかったようだ。時系列的にも読みづらいし、この方面に関しては小説技術の向上に期待するしかない。
「詰め込みすぎ」というのもその通り。メインの誘拐と死体遺棄事件や容疑をかけられた捜査資料漏洩だけでなく、少女売春グループとグループ内のリンチ殺人事件、沢村の大学院時代の恋人自殺とオーバードクター問題、沢村の転職や沢村の妹の家庭内問題、さらに沢村の父親の認知症。何もこんなに詰め込まなくても、というぐらいに内容が多い。最低でも少女売春の一件を削れば、メインの事件にもう少し深みを持たせる描写ができたと思う。特にクライマックスの、沢村が犯人を追い詰めるシーン。犯人の心理描写を表に出し切れていないため、告白が唐突である。
一方、ミステリとしての謎の部分については皆選評で誉めているのだが、これまたご指摘通り。特に小説のメインとなる誘拐事件の真相は面白い。主人公の沢村だけでなく、他の登場人物の描写も悪くない。どの人物もいろいろと悩みや問題を抱えており、そちらについては過不足なく書かれているし、ストーリーに絡み合わせた処理の仕方は巧みだった。警察組織の闇の部分も描写がうまい。なんてったって、問題だらけの道警だし。
沢村という主人公、ドラマやシリーズものにしやすい造形だとは思った。38歳、独身。東京の大学院で、警察とは何の関係もない経営組織学で博士号取得。30歳で警察官になり、今は生活安全課防犯係長。恋人が自殺した過去から恋愛には臆病。今でも経済学の本を枕元に置き、クラシックを聴く。おそらく続編も、この人が主人公だろうな。
期待値込みの受賞ではあるが、次作への引きになるような人間関係もあるし、悪くはない作品ではあった。そう、「悪くはない」という言葉がぴったりくるんだよな。確かにこれは、受賞させないのは勿体ない。だけど「いい作品」だったとは言えなかった。次作以降も書き続け、もうちょっと整理整頓できるようになれば、テレビ朝日の人気刑事ドラマシリーズぐらいにはなれそう。
荒木あかね『此の世の果ての殺人』(講談社)
小惑星「テロス」が日本に衝突することが発表され、世界は大混乱に陥った。そんなパニックをよそに、小春は淡々とひとり太宰府で自動車の教習を受け続けている。小さな夢を叶えるために。年末、ある教習車のトランクを開けると、滅多刺しにされた女性の死体を発見する。教官で元刑事のイサガワとともに、地球最後の謎解きを始める――。(帯より引用)
2022年、第68回江戸川乱歩賞受賞。加筆・修正のうえ同年8月、講談社より単行本刊行。
乱歩賞史上最年少となる23歳での受賞。選考委員満場一致。しかも特殊設定下の殺人。絶対地雷だと思いながら読んでみたが、意外と地に足が着いた作品で驚いた。ここまで堅実に書かれると、逆にもう少しぐらい破天荒でもいいんじゃないか、と言いたくなってしまうのは、自分が天邪鬼な性格なんだろうな。
小惑星「テロス」が2023年3月7日に熊本県阿蘇郡に衝突すると公表されてから、約4か月後の大宰府が舞台。母親は一人で逃げ出し、父親は一昨日に自殺。6歳下の弟は引きこもり。ほとんどの人は九州から逃げ出すか、自殺してしまい、残っているのはわずか。電気も水道もガスも使えない。スマートフォンが使えるエリアはごく一部。すでに公共機関は止まっている。確かに特殊設定下ではあるが、発展しすぎた未来や、なぜか飛ばされた異次元などと比べると、頭の中でも想像しやすい。特殊設定作品にありがちな、ご都合主義な設定もない。それだけでも点数を高くしてしまう。
67日後には小惑星が衝突するのに、なぜか自動車の教習を受けている23歳の主人公、小春。そしてなぜか指導している元刑事で教官のイサガワ。二人の女性が見つけた、教習車のトランクに隠されていた女性の他殺体。二人は犯人探しを始めると、それが連続殺人であることが判明する。
まずは人物の描き方がいい。正義感が暴走しがちなイソガワ。達観しているようで、実は弟思いな小春。どことなく奇妙な二人のやり取りが面白く、そしてどちらにも共感してしまった。他に、事件の捜査の途中で遭遇する人たちの描き方もうまい。この特殊状況化ならではの行動と心理がよく描かれている。
作品のテンポも悪くない。所々で説明の冗長さを感じるところはあるが、大した傷ではない。単なる犯人探しに終わらない展開は、よく構成されている。終末ものなのに、読後感もよいというのも、作者の腕だろう。ここまでくると、作者は本当に23歳だったのか、疑りたくなるぐらい、落ち着いている。
連続殺人事件の謎については、ちょっと肩透かしに感じる人がいるに違いない。とはいえ、意外性を求めるのは間違いなのだろう。そういう乱歩賞ならではのあざとさは、この作品には不要である。
ただ、傑作かと聞かれるとちょっと答えにくい。いい作品であることは間違いない。受賞するのは当然と言っていいだろう。決して「無難にまとまっている」だけの作品ではない。だが、満腹には届かない、腹八分目の面白さではあった感じがある。
ミステリの受賞作者へ向かってこういう風に言い切ってしまうことが正しいのかどうかわからないが、将来はミステリから離れていくような気がする。この作品の欠点は、ミステリならではの「何か」が足りないところだったと思う。
三上幸四郎『蒼天の鳥』(講談社)
大正13年。鳥取県鳥取市。女性の地位向上を目指し「新しい女」の潮流を訴える「女流作家」田中古代子は、娘の千鳥と内縁の夫の3人で、友人のいる尾崎翠もいる東京に引っ越しをする予定を立てていた。移住直前、のある日、活動写真「兇賊ジゴマ」の観劇中、場内で火事が。取り残された古代子と千鳥が目にしたのは、煙につつまれる舞台上に立つ本物の「ジゴマ」だった! 目の前で「ジゴマ」は躊躇なく、人を殺す。やがて二人にも――。もう何も信じられない。「激動の時代」を生き抜くため、そして凶刃から逃れるため、母と娘は「探偵」になるしかなかった。(帯より引用)
2023年、『蒼天の鳥たち』で第69回江戸川乱歩賞受賞。改題、加筆修正のうえ、2023年8月、単行本刊行。
作者は『名探偵コナン』『電脳コイル』『特命係長 只野仁』『特捜9』など数多くのテレビドラマ、アニメを手がけてきた、大ベテラン脚本家。人気脚本家の乱歩賞受賞作というと、あの『浅草エノケン一座の嵐』の悪夢を思い出してしまうのだが、果たしてどうか。
主人公の田中古代子は、鳥取出身の実在した大正時代の女流作家。もう一人の主人公で娘の千鳥は7歳で亡くなったが、書き残した詩や作文などを母の古代子がまとめた『千鳥遺稿』が平成に入って再注目された……らしい。この小説を読むまで、どちらも知らなかった。特に古代子の方は、地元鳥取でもほとんど知られていないとのことだ。
新しい女”の潮流、活動写真「凶賊ジゴマ」、過激アナキスト集団「露亜党」、関東大震災、特高など、大正末期らしい道具立てはそろっている。内縁の夫である社会主義者の涌島義博や小説家の尾崎翠など、実在の人物も登場。脚本家というキャリアもあるだろうが、ストーリーの強弱のつけ方は巧い。鳥取の町や村の描写も悪くない。やや大げさで芝居がかった台詞回しや行動はちょっと鼻につくが、よくまとまっている作品ではある。
ただ、面白くない。選評で貫井徳郎が「ぼくはまったく楽しめませんでした」と書いているが、私も全然楽しめなかった。一つは、登場人物の魅力が伝わらなかったこと。特に主人公や一部登場人物が実在の人物ということもあるからかもしれないが、描き方に手抜きを感じた。米子市出身の作者が描きたい人物であろうはずの古代子と千鳥に魅力が感じられないと、面白さが半減するのは当然である。そして最大の弱点は、ミステリを書きながらミステリの部分が弱すぎることだ。風俗と活劇を描くのに力を注ぎ過ぎたのか、殺人事件を扱い、主人公二人が探偵を名乗っているのに、内容としては活動写真時代の冒険活劇のままで終わってしまい、さらに「古き良き」の「良き」の部分が抜けてしまった味気ない仕上がりになっている。
まあ、地元の知られざる作家を主人公にしたかったというのなら、それだけでいいんじゃないか、という気もしないではない。ミステリファンにあまりお勧めできる作品とは思えなかった。貫井の選評に共感する人が多いと思う。それにしても、よくぞここまで書いたものだとは思うので、これだけでも読む価値があるかもしれない。
日野瑛太郎『フェイク・マッスル』(講談社)
たった3ヵ月のトレーニング期間で、人気アイドル大峰颯太がボディービル大会の上位入賞を果たした。SNS上では「そんな短期間であの筋肉ができるわけがない、あれは偽りの筋肉だ」と、ドーピングを指摘する声が持ち上がり、炎上状態となってしまう。当の大峰は疑惑を完全否定し、騒動を嘲笑うかのように、「会いに行けるパーソナルジム」を六本木にオープンさせるのだった。文芸編集者を志しながら、『週刊鶏鳴』に配属された新人記者・松村健太郎は、この疑惑についての潜入取材を命じられ、ジムへ入会する。あの筋肉は本物か偽物か。松村は、ある大胆な方法で大峰をドーピング検査にかけることを考え付くのだが――?「真実の物語」が始まった。(帯より引用)
2024年、第70回江戸川乱歩賞受賞。加筆・修正のうえ、2024年8月刊行。
作者は第67回、第68回、第69回江戸川乱歩賞最終候補。5回目の挑戦となる今回で『遊廓島心中譚』とともに受賞。
人気アイドルのドーピング疑惑を新人記者が負う話だが、その取材だけでほぼ終盤まで引っ張っていけるのは大したもの。ど素人の潜入捜査ということで、ボディビルの知識が一から語られる「お勉強ミステリ」になるかと危惧していたが、テンポのある小気味好い文章とストーリーのおかげでほとんど気にならなかった。ドーピング疑惑の意外な真相も含め、よく書けている。捜査側の動きはどうかと思うが。
難点を言えば、あまりにも取材がスムーズすぎるところか。特にドーピング検査のために大峰颯太の尿を採取するところは、さすがに都合よすぎ。ピアノの腕が簡単に戻るところもどうかと思う。もう少し失敗があれば、もっと面白くなっただろう。東野圭吾が言う通り「この手のエンタテインメント作品は、これでもかというほど粘っこく、しかも続けざまにネタを投入していく必要がある」のである。
じゃあ傑作なのかと聞かれると、そこまではいかない。そつがなさすぎるのだ。言っちゃ悪いが、乱歩賞じゃなかったら手に取らなかったと思う。読んでいるときは面白かったが、読後はすぐに忘れてしまうだろう。綾辻行人、有栖川有栖、真保裕一、辻村深月、貫井徳郎、東野圭吾、湊かなえのうち綾辻、東野、湊がユーモアミステリとして読んでいたことに驚いた(有栖川、辻村もそうかな)。貫井もユーモアミステリとして評価されたことに驚いていたが、同意見である。作者がそこまで意図していたとも思えない、というのが私の正直な感想である。これもまた、そつがなさすぎる要因の一つなのかもしれない。
真保裕一だけが「面白さがまったくわからなかった」と書いているが、そう思っても不思議はない。作者の書きたい方向とは違う気がする、というのは同感だ。貫井によると過去二作はトリック勝負の作品だったということなので、その方向性が作者の本命だったのかもしれない。ただ、作者はデビューすることができたので、次は自らの書きたいテーマを選ぶことができるだろう。何はともあれ、「殺人のないミステリ」で見事受賞できたことは祝いたい。小説を書く力があることは間違いない。
霜月流『遊廓島心中譚』(講談社)
幕末日本。幼いころから綺麗な石にしか興味のない町娘・伊佐のもとへ、父・繁蔵の訃報が伝えられた。さらに真面目一筋だった木挽き職人の父の遺骸には、横浜・港崎遊郭(通称:遊郭島)の遊女屋・岩亀楼と、そこの遊女と思しき「潮騒」という名の書かれた鑑札が添えられ、挙げ句、父には攘夷派の強盗に与した上に町娘を殺した容疑がかけられていた。伊佐は父の無実と死の真相を確かめるべく、かつての父の弟子・幸正の斡旋で、外国人の妾となって遊郭島に乗り込む。そこで出会ったのは、「遊女殺し」の異名を持つ英国海軍の将校・メイソン。初めはメイソンを恐れていた伊佐だったが、彼の宝石のように美しい目と実直な人柄に惹かれていく。伊佐はメイソンの力を借りながら、次第に事件の真相に近づいていくが……。(帯より引用)
2024年、第70回江戸川乱歩賞受賞作。応募時筆名東座莉一。加筆修正のうえ、2024年10月、講談社より単行本刊行。
作者の霜月流は東座莉一名義にて、『5分で読める驚愕のラストの物語』(集英社 JUMP j BOOKS,2021)に掌編「表裏一体」で参加。本作が長編デビュー作。
さらに同時受賞の『フェイク・マッスル』の選評でも書かれていたが、「4時間半の選考会で最も激論となった」とあるので、半分期待、半分不安な気持ちで刊行を待っていた。
醤油問屋の長男と祝言を挙げる前日、好いた棒手振りの男と心中するはずだった姉はその男に殺された。それ以来、鏡は女易者となり、「男女の絆のまことの姿」を確かめたくて「心中箱」を売っていた。万延元年(1860年)、鏡は役人からの綿洋娘(外国人の妾)となって異人の情報を引き出す間者となってほしいという依頼を受ける。
文久三年(1863年)五月十一日、伊佐は父の死を知る。伊佐は父の無実と真相を確かめるために、遊郭島に乗り込む。
物語は主に伊佐の視点で進み、所々で鏡の視点による物語が挟まれる。帯に「幕末×島×密室×愛」「孤島と化した遊郭で、国境を越えた愛と死の謎を解け!」とあるが、橋が落とされて行き来ができなくなったとはいえ孤島要素があるわけでもないし、密室については物語の中ですら重要視されていない。遊郭島にほぼ単身で乗り込んだ伊佐が事件を追うに連れて巻き込まれるサスペンスと、伊佐とメイソンが心を少しずつ通わせる愛が中心の展開なのに、最後の方でいきなり伊佐が関係者を集めて謎解きを始めるから驚いた。さすがに急展開過ぎる。フーダニットの方は登場人物が少ないから驚きはないし、ハウダニットの方も大した謎があるわけではない。問題はフワイダニット、なぜの部分である。
いくらなんでも、この動機は説得力がなさすぎる。東野圭吾の「登場人物たちの心理に納得できないことが多い」、真保裕一の「少なくとも女性たちの覚悟と決意の描写がなければ、この物語は成立しない」との評が的確過ぎる。他の人も疑問を挙げているところがあり、推したのは貫井徳郎、有栖川有栖あたりだろうか。この舞台でなければ描くことができなかった世界観であることは間違いないのだが、残念ながら作者の筆力が追い付いていない。改稿したのだろうが、それでもまだまだ足りない。
受賞作のレベルだろうか、という疑問はある。未完成と言っていいかもしれない。帯にある「ミステリー史上最大級のスケールの衝撃作!」は、間違いなく偽りありだろう。ただ、選考委員がいったいどんな議論をしたのだろうかと気にはなる。それに、この世界観を描こうとした意欲は買ってもいいだろう。文庫化の際には、徹底的に改稿してもらいたい。この設定は確かに勿体ない。
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