熊谷独『最後の逃亡者』(文藝春秋)

 秘密警察の要員が散った。日本人技術者を処理―暗殺せよ。最新式の船舶工作機械を旧ソ連海軍に納入したことで岡部信吾の命運は一転する。知りすぎた男は消せ。異変を察した岡部と娼婦エレーナの壮絶な逃避行が始まった…。万古不変のロシア人社会を背景に疾走する恋と謀略のノンストップ活劇。第11回サントリーミステリー大賞受賞作品。(粗筋紹介より引用)

 ソ連が密かに開発した、探知不能の最新潜水艦。たまたまそれを知ってしまった岡部とエレーナの逃避行。岡部を抹殺しようとする秘密警察。普通だったら面白くなる要素がてんこもりのはずなんだが。本来緊迫感が漂うはずの逃避行が、どうも間が抜けているというか、のんびりしているというか。もっとサスペンス感があってもいいはずなのに。
 ソ連という舞台の情報量は物凄いが、どうもその情報量に物語が負けてしまっている。ソ連という国そのものを描ききるのにパワーを使い果たした感じがする。ページ数があれば、もっと違った話が書けたのかもしれない。




祐未みらの『緋の風〜スカーレット・ウィンド〜』(文藝春秋)

 第11回サントリーミステリー大賞読者賞受賞作。
 シンガポールで「便利屋」を営むドロシー・タン。小さいながらも仕事はあり、日本人の恋人もいて、自由な毎日を過ごしている。ある日、学生時代の親友だったマリアが依頼人としてドロシーの事務所を訪れた。昔から今までの空白の時間はあっという間に埋まった。楽しい時間を過ごした後、相談したいことがあるとのマリアの頼みで、ドロシーはマリアの家に一緒に行くが、そこで発見したのはマリアの夫ルイス・メラードが風呂場で死んでいる姿だった。スペイン系直財閥の次期最高責任者であるルイスの死は、大きな契約の関係上しばらく隠す必要があった。結局1週間後、病死として公表されたが、釈然としないものが残るドロシー。もしかしたら殺人ではないのか。マリアが疑われていることを知ったドロシーは、親友の窮地を救うため、事件の真相を追う。

 帯にある言葉が「女の生き方、女の幸福を問いかけるトレンディ・ミステリー」。発表された1993年は、確かにトレンディ・ドラマが流行していた。シンガポールという魅力溢れる舞台、自立したライフスタイル、結婚などのしがらみのない恋人。確かに目指している方向は、自立した女性という当時の流行なのかも知れない。ところがこの主人公にそこまでの魅力があるかというと、努力の跡は見えるものの、残念ながら今ひとつ。全ての要素において書き込み不足。旅行会社勤務として香港、シンガポールなどに在駐していたわりには、その知識を生かし切れていない感がある。またグランパ、恋人のじゅんちゃんなどの魅力ある登場人物を登場させながら、活躍が少ないのは残念。もしかしたらシリーズ化を考えての設定なのかも知れないが、いずれにしても勿体ない。
 事件解明のヒントを得る部分などは工夫している。必死にミステリに仕立て上げようとしており、その姿勢には好感が持てる。ただ前半部分を丁寧に書こうと努力している分(しかも努力したほどの成果が得られていない)、後半が駆け足になり、盛り上がりに欠ける。もう少し時間をかけて、丁寧に書いてほしかったと思う作品。




秋川陽二『殺人フォーサム』(文藝春秋)

 J航空バンクーバー空港所長であるトミオ・オカノが、友人である旅行代理店社長のデイヴィッド・ウォン宅での家族麻雀から深夜に自宅へ帰ってくると、C航空の美人スチュワーデスであるクリスチーヌ・リエルの扼殺死体があった。オカノは一昨年の10月から単身赴任をしていたが、明日はリエルと初めての夜を過ごす予定となっていた。警察が睨む容疑者は三人。クリスの前夫であり、再婚しながらも未練があった不動産セールスマンのマーク・バラゼッティ。クリスの新しいボーイフレンドではないかとオカノが疑っている、C航空の運航管理者で、隣に住むディック・アーチャー。そしてオカノ。しかにこの3人は、死亡推定時刻である午後7時から9時の間は、容疑者3人にウォンを含めた4人で、8q離れたゴルフ場キャピラノでプレー中だった。バンクーバー警察のラポイント警部は、いかにしてこの謎を解くのか。
 1993年、第11回サントリーミステリー大賞佳作賞受賞。1994年3月、単行本刊行。

 作者は元日本航空の社員で、バンクーバーなどで海外勤務経験があるとのことだから、オカノの経歴などはそのまま自分のキャリアにラップするのだろう。1921年生まれとあるから、受賞時で72歳。老後の趣味で描いたものを送ったら、佳作を取ることができました、といったところだろうか。本作以外に出版された様子はない。もちろん、作品の出来と作者の年齢は何の関係もないのだが。
 帯に「本邦初、ゴルフ場「密室」殺人事件!」と大きく謳われているが、期待外れ。ラポイント警部の言葉を引用してみよう。「この事件の場合には、被害者が密室にいるのではなく、加害者と目される有力容疑者が三人揃って密室の中にいるのです。しかもその密室は、このキャピラノ・ゴルフ場という広い、美しい、巨大な緑の密室なのです」。いくらなんでもこじつけすぎ。カナダの警部が容疑者をそろえて自分の推理を滔々としゃべりだし、しかも「密室」云々を語り出すという展開もどうかと思うが、それ以前にこういう状況を「密室殺人事件」とは誰も呼ばない。普通はアリバイトリックと呼ぶべきところだ。このようなケースを「密室殺人事件」などと言ってしまうと、時刻表トリックは犯人が列車という密室にいるからすべて「密室殺人事件」になってしまう。選評で指摘を受けたかどうかはわからないが、せめて不可能犯罪くらいにとどめておいてほしかった。
 小説の中身であるが、プロローグでオカノが死体を発見、第一部でオカノとクリスの出会いから事件前日までの流れ、第二部でラポイント警部がウォン、オカノと一緒にゴルフ場を回りながら事件当日の状況を細かくチェック、第三部でラポイントが犯人を指摘するというものである。ゴルフ場を回るだけで、このトリックを解くんかい、と突っ込みたくなるが、トリックそのものは非常にシンプル、というか誰もが想像しそうな程度のものであり、ミステリとしては弱すぎる。では小説として面白いのかどうかと見ても、第一部がとても長く、それでいて男を狂わす存在として書かれているはずのクリスの魅力が全く伝わってこないから、読んでいて退屈になる。これがなぜ最終選考まで残ったのか、出版されたのか、非常に疑問である。
 自分のキャリアを生かした薀蓄が語られるわけでもなく、ゴルフ場の美しさが描かれているわけでもなし。推理小説としても単純。せっかくカナダのバンクーバーを舞台にしているのならば、もう少しご当地小説みたいに書けなかったのか。不満だけが残る作品であった。




丹羽昌一『天皇(エンペラドール)の密使』(文春文庫)

 1914年、内戦の続くメキシコに、一人の日本人外務省職員が、ある“密命”をおびて潜入、六カ月に及ぶ滞在中、革命軍の指導者パンチョ・ビリャと渡りあい、八面六臂の大活躍をみせた――。実在の人物をモデルに、日本人移民の動向などを絡めた歴史ミステリー。第12回サントリーミステリー大賞・読者賞受賞作。(粗筋紹介より引用)
 1995年10月、文藝春秋より刊行。1998年10月、文庫化。

 1914年のメキシコ革命時、元匪賊のパンチョ・ビリャが支配する北部チワワ州において、27歳の在シカゴ日本領事館外務書記生・灘健吉が、革命軍に参加しようとする血気盛んな者たちを押さえつつ、移民をカリフォルニア州まで移動させるべく奔走する。このエピソードは、馬場称徳という人物による実話とのこと。この話を題材に取った冒険小説物語であり、『悪魔の辞典』で有名な米国人作家アンブローズ・ビアスの失踪の謎が含まれ、集団移動の計画中に起きた連続殺人事件の謎解きまで盛り込まれている。
 ということで粗筋や出だしは面白そうだったんだけれどね……。確かに面白いんだけれど、それは題材のみ。奔走したという部分だけで充分物語は作れただろうし、作者自身が中心に据えたかったと思われる連続殺人事件は、話の半分以上になってようやく発生するものであり、しかも蛇足以外の何ものでもない。結末の決闘シーンなんて、とってつけたようなものだ。作者がよいネタを基に、過去に読んだ面白かったシーンなどを何も考えずに盛り込んでできあがっただけの作品。題材がよいだけに勿体ない。まあ、この人でなかったら見つけられない題材だったかもしれないから、そのことだけには感謝すべきかも。
 もうちょっと整理して、焦点を絞ってほしかった作品。個人的には、主人公のモデルである馬場称徳という人物にかかわる本を読んでみたくなった。
 作者の経歴を見たら元外務省でキューバやチリなどの在外勤務経験があるということ。『素顔のキューバ革命』や長編ミステリ『チリ・クーデター殺人事件』の作者と同じ人なのかな。




森純『八月の獲物』(文春文庫)

 ある老人が出した新聞広告にはこうあった。あなたに10億円差し上げます。殺到した応募者の中から3人が寄贈対象者として選ばれた。贈与の条件は、8月1日〜31日の間、生存していること。ところが、7月31日に一人が死んだ。列車事故のようだったが、時期が時期だけに殺人の噂も流れた。たった一人選ばれていた補欠者が対象者に繰り上がったが、さらに一人が殺害された。
 第13回サントリーミステリー大賞受賞作。

 設定だけ見るとサスペンス度満点なのだが、展開がスローモーなため、全然緊迫感がない。登場人物の内面をご丁寧に書いたかと思えば、肝心の設定が説明不足だったり、小説としての構成がチグハグ。ありきたりでも、一人一人が追いつめられる展開にするべきだったのではないか。一人一人のエピソードにはちょっといいものがあるが、10億円贈与の設定からは浮き上がっている。最後の方もとってつけた展開。さらに10億円贈与の動機は、ちょっと納得しづらい。本来書きたかったと思われる内容を考えると、設定の選択を間違えた作品である。




伊野上裕伸『火の壁』(文春文庫)

 保険金狙いの放火は、証拠が燃えてしまうという点で、物的証拠に重点を置く今の裁判制度の盲点を突いた、憎むべき犯罪である。保険調査員の相沢が調査を依頼された男は、5度、保険金を得ているだけでなく、先輩調査員の失踪にも関わりがあるとされていた…。第13回サントリーミステリー大賞読者賞受賞作。(粗筋紹介より引用)

 第13回サントリーミステリー大賞読者賞受賞作なのでそれほど期待はしていなかったが、読んでみると結構面白い。火災保険調査員といった設定は、職業知識出しまくりで書けるから「ああ、勉強になったね」以上のものはない。しかし、犯人の設定はなかなか。そして後半からは、調査、そして裁判所において彼の人生が浮き彫りにされるところは良く書けている。その分、前半部と結末が浮いてしまっているのは勿体ない。保険調査員としての設定を書く必要性は充分だが、もう少し別の書き方があったのではないだろうか。“佳作”とまでは言えないが、“読める”作品ではあった。




三宅彰『風よ、撃て』(文藝春秋)

 佐竹亨は警察官になって15年、上田警察署で刑事係長の職にある。家族は見合いで結婚した控えめな妻と、小学4年生で言葉を失いかけている娘が一人。12年前、人質とともに立てこもった犯人を逮捕する際に拳銃を使い、ともにいた係長たちに当たりそうになったことを叱責され、取材に当たっていた恋人と別れた経験を持つ。
 二戸田にある山の斜面から発見された白骨死体は殺人の可能性があった。そして浮かび上がってきたのは11年前、強盗致死を含む3件の事件で指名手配された犯人が少女を人質に取り、二戸田で逮捕された事件。犯人は当時、所在不明の現金を持っていた。無期懲役囚である彼は、尋問になにも答えない。白骨死体の身元が割れ、そして山の麓の一軒家に住み、事件当時の証言をした老人が殺害された。
 過去の事件を捜査しているうちに浮かび上がってくる新たな事件。自らのささやかな幸せを守るため、佐竹は事件解決に立ち向かう。
 1997年、第14回サントリーミステリー大賞受賞作。

 作者は1956年上田市生まれで執筆当時は上田市職員。知っている場所を舞台にした刑事物。25歳の頃から小説を書いていたからか、文章や内容そのものは新人らしからぬ手堅さがある。ただ、中年の刑事が一つの事件から偶然が重なって複数の事件を追いつつ、かつての恋人の姿に心を揺さぶられつつも家族への愛情を認識し、過去のミスを思い浮かべながらも犯人逮捕へ向かうというストーリーは、2時間刑事ドラマ以上のものはない。事件を追う刑事も人間なんだよ、みたいなことを頭に浮かべながら書いたのだろうが、テレビの影響を強く受けすぎているのではないか。最後にとんでもない事件へ発展するところは、刑事家族ドラマと事件解決を両立させようとする意図とかけ離れている。
 読んでいて退屈じゃないけれど、時間つぶし以上のものはなにもなし。刑事が事件を追っていったら、芋蔓式に事件が引っかかったというだけの話。テレビドラマにはしやすかっただろう。
 作者は2000年に『殺意』(角川書店)、2007年に『猟犬の日』(幻冬舎)を出している。一応作家は続けているんだ、と今頃知った次第。




高尾佐介『アンデスの十字架』(文藝春秋)

 Q新聞サンパウロ支局の指月紘平は、1992年4月5日にペルーで発生したフジモリ大統領によるクーデーターに対する現地の反応を書いた記事の取り扱いについて鈴木外信部長と喧嘩をして以来、堕落した日々を送っていた。そんなある日、同期である外信部の小林デスクより、フジモリ大統領就任後に何件か発生した日本人・日系人を対象とした事件についてまとめた記事を依頼される。やる気を出した指月は、手始めに2日前にリマで起きた日本人商社マン神崎史郎が左翼ゲリラらしき人物に殺害された事件について取材をしようと訪れたリマで、武装革命集団センデロ・ルミノソによる車爆弾に遭遇し、爆風に巻き込まれた日本人女性考古学者、天野民代を助ける。神崎の上司である橋本への取材中、指月は神崎が最後に握りしめていた十字架を受け取った。
 旅館に戻った指月は民代と再会。民代はシエラ・グランデという村で発掘している古代神殿の跡でプレ・インカ時代の墓に通じる入口を見つけたため、民代を発掘責任者へ抜擢したアンデス考古学の世界的権威・スアレス博士に指示を仰ぎに来ていた。スアレスは発掘を支持し、民代は村へ戻る予定であった。しかし遺跡の副葬品を売って闘争資金とするために、近年は発掘品を狙っていた。民代は指月へ一緒に来てほしいと懇願し、二人は遥か数百キロ離れた村へ行くこととなった。
 一方、クーデターで権力を失った白人実力者の一部は、フジモリを倒して白人支配を取り戻そうとある計画を立てており、それはもう実行直前まで進んでいた。
 1997年、第14回サントリーミステリー大賞読者賞受賞作。加筆して1997年4月に単行本化。

 冒頭の「著者前書き」にある通り、ペルー日本大使公邸がMRTAに襲撃されたのは1996年12月18日のこと。すでにこの作品は最終選考に残っており、その偶然性に驚いたことが書かれている。本作品はペルーを舞台とし、フジモリ大統領やセンデロ・ルミノソの創始者アビマエル・グスマンといった人物が実名で出てくる。ペルーの政情が重要な背景となっている以上、下手に名前を変えるとかえってあざとさを感じしてしまうだろうから実名を使うこと自体には問題がないと思える。ただ、作品の面白さが実在の世界や人物に寄りかかってしまうと問題なのだが、本作品の面白いところはその実在部分であるから困ったものである。
 現地の新聞記者が現状を調査するまでは分かるのだが、いくらなんでも偶然知り合った考古学者へくっついてリマを離れるという展開は取材の範疇を超えており、さすがに無責任すぎ。さらに発掘作業とフジモリ大統領爆殺計画がいつの間にかリンクしてしまうところは、どう考えても都合がよすぎる。発掘作業からのくだりははっきり言って邪魔であり、新聞記者が独力で爆殺計画を突き止めるストーリーにした方がよっぽど説得力があり、ストーリーに筋道が通ってくる。主人公が古武道を使えるという設定も、ピンチの時に不思議な技を使える程度の都合よさしか感じられない。
 先にも書いたが、この作品の面白いところはペルーの実情を書いた部分。特にフジモリ大統領クーデターに関する通り一遍な視点だけではなく、実際の国民からの視点というものを書いて対比させている部分は面白かった。名ばかりの民主主義で腐敗とテロにまみれた社会よりも、社会を一新する強いリーダーを求める民衆を描いたくだりはなるほどと思わせた。この辺は新聞記者ならではの視点であったと思われる。バカのように民主主義、人権尊重を繰り返す部長とのやり取りは思いっきり笑わせてもらった。ただ、面白かったのはそこだけだった。
 タイトルに出てくるアンデスの十字架の謎も期待外れだし、この作者には物語の創作力に欠けていたとしか思えない。実在の舞台の解説をふんだんに盛り込まないと、小説は書き続けられない人だろう。そんなことを考えてみながら調べてみても、この作者、これ一冊しか書いていない。執筆当時は東京新聞記者を経てフリーとあるが、1950年生まれとあるからまだまだ老け込む年でもあるまい。今は一体何をしているのだろうか。




内田幹樹『パイロット・イン・コマンド』(新潮文庫)

 ロンドン発202便は、飛行機好きの小学生、護送される国際犯罪者など、様々な人々を日本へと運んでいた。だが成田が近づいたその時、突如、第二エンジンが炎上! 機長ふたりも倒れてしまう。乗員乗客の命は、副操縦士の江波が預かることに。経験不足のパイロットは、傷ついたジャンボを無事着陸させられるのか? 航空サスペンスとミステリを見事に融合させた、内田幹樹の処女作。(粗筋紹介より引用)
 1997年、第14回サントリーミステリー大賞優秀作品賞受賞。1999年、原書房より刊行。2005年、原書房より新装版が刊行。2006年、文庫化の際に改稿。応募時及び単行本時の名前は内田モトキ。

 執筆当時の作者は、現役のパイロット。乗務のかたわら、操縦教官として実機訓練所のある沖縄県の下地島に滞在していた。しかし持ってきていた本をすべて読みつくしたため、暇つぶしに書いたのが本作だという。
 パイロット・イン・コマンド(PIC)とは、フライトの総指揮をとる機長のこと。第二指揮順位の機長だとセカンド・イン・コマンド(SIC)という。本編の場合、PICの砧、SICの朝霧が意識不明となったため、副操縦士の江波順一が、キャビン・アテンダント(CA)の一人でセスナが趣味という浅井夏子とともに着陸を目指す。
 サンミスの優秀作品賞ということは、昔でいえば佳作クラス。とはいえサンミスの場合、大賞や読者賞よりも優秀作品賞や佳作の方が面白かったというケースは多々あるので、油断がならない。しかし本作の場合は、主催者である文春ではなく、原書房から出版されたという点が異なる。
 本作品は出版に当たり加筆修正されており、さらに文庫化時にも修正されているそうだ。だから、応募時の大賞や読者賞作品と比べてはいけないのかもしれない。ただ読み終わった感想からすると、三宅彰『風よ、撃て』や高尾佐介『アンデスの十字架』に比べると、面白かったということは言える。ただこの面白さは、当時現役パイロットだった作者ならではの、飛行機関連の描写がリアリティに溢れ、臨場感があった点でしかない。サスペンスとしては今一つだったといえる。
 まず登場人物、特にCAの数がが多く、人物の背景を描いているだけで結構なページを使っており、事件が起きるまでが間延びしている。リアリティを求めた作者ならではの処置ではあろうが、書き分けができているわけでもないので、読んでいても誰が誰だったか、さっぱりわからない。主要人物の動きに絞ってくれた方がよかった。
 中盤からの展開はさすがと思わせるものがあるが、結末は納得がいかない。諸事情はわかるのだが、いくらなんでもプロの仕事に対してこれはないだろうと思ってしまう。なんかすっきりしない終わり方だった。やはりサスペンス小説はエンタテイメントなのだから、最後はキッチリした形で終わらせるべきだったと思う。
 江波は作者の『機体消失』や『操縦不能』でも登場するらしい。まあ、他の作品を手に取る予定は、今のところ無いのだが。




結城五郎『心室細動』(文春文庫)

 伝統ある国立A大学医学部第三内科学教室の助教授である上原健治は、半年後に教授戦を控えていた。抗アレルギー剤の開発にも成功し、アレルギーについては世界的に有名な存在となった。テレビにも出演し、A大学のスターでもあった上原なので、スキャンダルさえなければ教授誕生は間違いなかった。ただ上原には過去に大きな汚点があった。二十年前、出張勤務をしていた久保木記念病院で医療過誤事件を引き起こしていたのだ。既に民事でも時効になっていたが、この事が世間に知れたら、彼は社会的に抹殺される。この事件に関与していたのは院長、看護婦長、看護婦、そして上原だけだった。その院長の下に脅迫状が届いた一ヶ月後、院長は心室細動を起こして急死した。四週間後、同じく脅迫状を受け取り金を渡したはずの看護婦長が心臓発作で亡くなった。そして今、上原の元にも脅迫状が。いったいだれが脅迫状をよこしたのか。上原は患者でもある私立探偵を使い、脅迫状の主を捜し出すのだが。
 第15回サントリーミステリー大賞受賞作。

 過去の罪に怯え、徐々に追いつめられていく成功者の恐怖を描写したサスペンスである。……他に何を書けばいいんだ。そりゃリアルに書かれているけれど、書き方があまりにも古典的。脅迫状に怯える成功者という設定、よほどの新味を出さないと印象に残らないで終わってしまう。一応展開を二転三転させて書いているんだが、物語の起伏が乏しいせいで、サスペンス度が全然伝わらない。描写が説明的なのが一番の原因か。状況説明ばかりではなく、もっと心理描写を細やかに書かなければいけないだろう。
 まあ、テレビドラマにすればそれなりに受けるかな。それだけ。読みやすいからページが進むと思うけれど、後には何も残らない。




司城志朗『ゲノム・ハザード』(文藝春秋)

 イラストレーターの鳥山敏治は、早く帰るはずだった誕生日の夜、仕事で遅くなってしまった。部屋に入るとリビングに17本のキャンドルが灯り、妻が死体となって倒れていた。慌てて抱き起こすと電話が。それは、妻である美由紀からの電話だった。美由紀は帰りが遅いのに腹を立て、実家に帰ったという。そこへ訪れてきたのは2人組の刑事。隙を突いて逃げ出した鳥山を助けたのは、通りかかったフリーライターの奥村千明だった。その後、友人である伊吹克彦の家に匿ってもらうが、伊吹は不審な電話を掛けていたため、そこから逃亡。結局千明の部屋に舞い戻る。その後鳥山は、千明から1年前にイラストで受賞した記事を見せられる。そこに写っていたのは別の顔だった。
 1998年、第15回サントリーミステリー大賞読者賞受賞作。加筆後同年4月に刊行。
 矢作俊彦との共著『暗闇にノーサイド』で1983年に第10回角川小説賞を受賞するなど、キャリア充分のベテラン作家である作者のサントリーミステリー大賞読者賞受賞作。正直言って、これほどのキャリアの人がなぜ応募したのだろう。
 書き慣れていることもあるだろうが、サスペンスの運びはさすがである。何一つわからないまま不思議な事態に巻きこまれ、自分自身の謎と追われる恐怖が混在してスピーディーに展開される。ゲノムやDNA、ウイルスなどの専門用語が駆け足の説明だけでポンポン飛び交うのにはちょっと閉口したが、発想とストーリーがよく練られており、科学サスペンスとして一見の価値がある作品に仕上がっている。
 問題は、ヒロイン?に位置する奥村千明に、何の魅力も感じないところだろうか。別に部屋が汚れていようが、髪がぼさぼさで化粧をしていなくても構わないのだが、何というか人間的魅力に欠けているのが残念。それに読み終わっても、千明が事件に関与し続ける理由がぼやけているというのが、この作品を今一歩で終わらせているところである。
 当時『パラサイト・イブ』などの医科学系作品が出てきたこともあって、それに触発されたのではないかと思う。まあ、これだけのベテランに大賞を与えるのは、選考委員としても難しいだろうとは思った。
 この作品、なぜか文春からは文庫化されず、大幅加筆改稿の上『ゲノムハザード』と改題されて2011年1月に小学館から文庫化。小学館から出たのは、当時ドラマなどのノベライズを出していた縁だろうか。2012年には映画化され、2014年1月に公開されている。




川端裕人『夏のロケット』(文春文庫)

 火星に憧れる高校生だったぼくは、現在は新聞社の科学部担当記者。過激派のミサイル爆破事件で同期の女性記者を手伝ううち、高校時代の天文部ロケット班の仲間の影に気づく。非合法ロケットの打ち上げと事件は関係があるのか。ライトミステリーの筋立てで宇宙に憑かれた大人の夢と冒険を描いた青春小説。(粗筋紹介より引用)
 1998年、第15回サントリーミステリー大賞優秀作品賞受賞作に、加筆訂正を加えたもの。

 粗筋通り、宇宙に憑かれた大人の夢と冒険を描いた作品。大人の打算を含めながらも、高校時代の夢をそのまま実現しようとする姿は美しい。ほとんどの大人が挑むことのできない、青春時代の夢を大人になっても実現させようとする姿は、仕事と家庭に疲れた大人たちにとって永遠の憧れでもある。ロケットの歴史や現状、さらには裏面、そして物理学・材料力学などのデータをふんだんに折り込み、夢の姿とリアリティを両立させる腕はなかなかのものである。評判は聞いていたけれど、噂通りの面白さ。人生に疲れた大人たちへの清涼剤ともいえる逸品である。
 出版された当時でも不思議がられていたが、なぜこれがサントリーミステリー大賞に応募されたのだろう。ファンタジーノベルの方に応募すべき作品だっただろうね、間違いなく。




高嶋哲夫『イントゥルーダー』(文春文庫)

 25年前に別れた恋人から突然の連絡が。「あなたの息子が重体です」。日本を代表するコンピュータ開発者の「私」に息子がいたなんて。このまま一度も会うことなく死んでしまうのか……。奇しくも天才プログラマーとして活躍する息子のデータを巡って、「私」は、開発原発がからまったハイテク犯罪の壮絶な渦中に巻き込まれていく。(粗筋紹介より引用)
 1999年、サントリーミステリー大賞及び読者賞受賞作。

 ITや原発など、ハイテク関連を先取りしたような作品。日本原子力研究所研究員という作者の経歴を見れば納得なのだが、結局自分の持っている知識を組み合わせて作品を作ったという印象しかない。色々と過去を持った割には登場人物が単なる人形にしか見えてこないのはまだしも、その行動原理までもが人形のようにカクカクとしか動かないのはどうか。特に主人公の家族が傍観者状態になっているのは、もう少し何とかしてもよかったのではないかと思う。作品の内容としては、作者自身の過去を否定するなよ、と言いたい(笑)。まあそれはともかく、単純な裏しかなかったのはちょっと幻滅。もう少しひねりがほしかった。それと、中越沖地震などがあっても、日本の原発そのものがおかしくなったわけじゃないんだよ、と一応言っておく。
 結局題材だけの作品。選び方は悪くなかったと思うけれどね。




垣根涼介『午前三時のルースター』(文春文庫)

 旅行代理店に勤務する長瀬は、得意先の中西社長に孫の慎一郎のベトナム行きに付き添ってほしいという依頼を受ける。慎一郎の本当の目的は、家族に内緒で、失踪した父親の消息を尋ねることだった。現地の娼婦・メイや運転手・ビエンと共に父親を探す一行を何者かが妨害する……最後に辿りついた切ない真実とは。(粗筋紹介より引用)
 2000年、第17回サントリーミステリー大賞と読者賞のW受賞作品。2000年4月、文藝春秋より刊行。2003年、文庫化。

 いわば自分探しの冒険小説であり、少年の成長物語。ベトナム行きまでの、長瀬と慎一郎、それに友人である源内との絆結び。ベトナムにおけるメイやビエンとの新たな出会いに友情、そして妨害に立ち向かうサスペンス。流れるようなストーリー展開と、主人公や重要登場人物のキャラクター造形、ベトナムの描写は見事。この文章が新人の手によるものとはとても思えないぐらいに達者であるし、面白い。逆に敵側の登場人物や妨害の動機などについてはやや弱い。これは枚数制限によって省略せざるを得なかった部分だろう。この枚数で、登場人物を配置し、ベトナムを舞台とするとなると、この程度の規模の事件で収めるしかなかったと思われる。特に、曰くありげな主人公である長瀬の、過去についての描写がほとんど無かったことは残念であった。
 とはいえ、読んでいる途中ではそんな不満は起こらないだろう。少なくとも慎一郎が成長する姿には清々しさが感じられるし、メイやビエンたちと友情を育むその過程は充分に感動できるものである。これはW受賞も納得の作品である。




笹本稜平『時の渚』(文春文庫)

 元刑事で、今はしがない私立探偵である茜沢圭は、末期癌に冒された老人から、35年前に生き別れになった息子を捜し出すよう依頼される。茜沢は息子の消息を辿る中で、自分の家族を奪った轢き逃げ事件との関連を見出す……。「家族の絆」とは何か、を問う第18回サントリーミステリー大賞&読者賞ダブル受賞作品。(粗筋紹介より引用)

 笹本稜平といえば、冒険小説・謀略小説の旗頭ともいうべき存在であるが、笹本名義の処女作である本書は、意外にも私立探偵小説である。ある老人からの人捜しの調査と、自らが刑事をやめる原因ともなった家族への轢き逃げ事件の調査が交互に進行していき、そしていつしか二つの調査が重なり合うという、私立探偵小説の王道ともいうべき構成になっているが、そこはくせ者、笹本稜平。意外な展開をいくつも用意し、読者を翻弄する。そして問われる「家族の絆」とは何か。不覚にも最後は、涙をこぼしそうになった。感動の一冊である。タイトルよりも、表紙に書かれている「THICKER THAN BLOOD」が心に染みてくる。
 この人の魅力は、物語の巧みさだけではない。調査の課程で出逢う人々の暖かさが実に生き生きと書かれている。豊島区役所のアヤちゃん、ペンション鬼無里の由香里、元シャブ中の西尾などはもっと他の物語でも出てきてほしいと思わせる魅力的な人物である。何よりも素晴らしいのが事件の依頼人である松浦武三だ。最初はただの老いぼれ爺さんかと思ったら、どうしてどうして。最後は涙ものである。こんな素晴らしい科白をはけるようになりたいものだ。
 構成力、人物描写が素晴らしく、アクションや時代性なども巧みに盛り込み、最初から最後までだれることなく読ませる感動の傑作。これほどの作品を、なぜリアルタイムで読まなかったのだろう。実に悔しい。これほどの傑作をスルーしていた自分が情けない。今からでも遅くない。是非とも手にとってほしい一冊だ。




五十嵐貴久『TVJ』(文春文庫)

 お台場にあるテレビ局が、72時間テレビ生本番の最中に、正体不明のグループにのっとられた。劇場型犯罪に翻弄される警察。犯人たちの真の狙いは何か? 30歳を目前にした女子経理部社員が、人質になった恋人を救うため、たったひとりで立ち向かう。手に汗握る、著者の全てが詰まった幻のデビュー作。(粗筋紹介より引用)
 2001年、第18回サントリーミステリー大賞優秀作品賞受賞作。後に応募作へ手を加え『別冊文藝春秋』に連載。2005年、文藝春秋より単行本化。2008年、文庫化。

 2001年に『リカ』で第2回ホラーサスペンス大賞を受賞してデビューした作者の、幻のデビュー作。犯人の拘束から偶然免れることができた経理部社員の高井由紀子が、人質となっている婚約者を救うため、たった一人で武装集団に立ち向かう。女性版『ダイ・ハード』などとも書かれていたが、肝心の『ダイ・ハード』を知らないため、そこはパス。
 大賞を受賞できなかった作品ではあるが、当時の選評を読んでみたい。さすがにこれは受賞できなくても仕方がない、荒唐無稽なストーリー。多分、リアリティがない、の一言で斬られたのだろうなあ。
 突っ込みどころは盛り沢山。そもそも窓から吹き飛ばされ、ゴンドラがある位置に落ちるか? というところから事件は始まるし、腕立て伏せすら満足にできない女性がいくら恋人のためとはいえ奔走するのも無茶すぎ。銃を使えば簡単に解決するはずなのに使おうとしない連中も不思議だ。髭の有る無しでごまかせると思っている主犯も変だし、犯人の狙いに気付かない警察も間抜けに見えてくる(まあ、警察なんて実際に間抜けなんだろうが)。だいたい、この状況でそんな逃亡方法が通用するわけないだろう。他にも、細かい点(コンピュータルームでハロゲン化消火器を置いていないなど)を挙げれば限りないのだろう。面倒だから数えないけれど。
 ただ、この作品の面白さは、そのような荒唐無稽ぶりを前提に置いた、スピーディー娯楽アクションエンタテイメントであるところ。はっきり言ってしまえば、リアリティなどどうでもいい。タイムリミット・サスペンスとして楽しめればいいんですよ、という点に徹している作品なのである。そういう風に割り切ってしまえば、楽しく読むことができる。




海月ルイ『子盗り』(文藝春秋)

 京都の旧家に嫁いだ榊原美津子は、いくら不妊治療を続けても子供に恵まれなかった。親戚から養子を迎えるように迫られ、ついに「妊娠した」と嘘をついてしまう。臨月を迎える時期、美津子は夫とともに産婦人科から新生児を奪おうとする。
 看護婦(執筆当時の呼称)の辻村潤子は、かつて大阪の織物問屋の一人息子と結婚し、娘を産んだ。しかし姑は娘だけをかわいがり、純子を邪険にした。さらに夫は浮気ばかりを続けた。そして娘とともに家を出たのだが、娘は取り替えされて親権を奪われ、夫には離婚された。五年前のことだった。
 関口ひとみは、過食で太りすぎの女だった。飽きっぽい性格の彼女は、高校中退後、職を転々し、今はスナックで働いていた。同時に、伝言ダイヤルでデブ専の援助交際を行っていた。ある日、気がついたら彼女は妊娠していた。気がついたときには、既に後期に入っていた。

 望んでも産めない女。子供を奪われた女。母親になれないのに執着する女。三人の女たちの情念が交錯する傑作サスペンス。(ここだけ帯より引用)
 2002年、第19回サントリーミステリー大賞・読者賞ダブル受賞作。

 作者は九州さが大衆文学賞やオール讀物推理小説新人賞を受賞しているぐらいだから、それなりに実力はあるのだろう。
 作品の半分以上を占めるのは、登場人物である美津子、潤子、ひとみの背景。子供というに女性でしか産むことができない存在のために悩む3人の女性の心情を、女性らしい視点で描いている。子を望んだり、子を求めたりする女性の本能ともいえる部分ばかりではなく、女性ならではのねちっこさ、いやらしさなども背筋が寒くなるぐらいきめ細やかに描かれており、その点に関してはお見事といいたい。
 ただ、肝心の事件が起きてからの展開は、前半のきめ細やかさが嘘と思わせるくらい性急で、かつチープな仕上がりになっている。3人を絡めるならこの展開がまず最初に頭が浮かぶところだから、仕方がないのかもしれない。ただ、読者の想像を上回るものを用意してほしかったのも事実。せっかくの「女性心理サスペンスの佳作」が「安っぽい2時間ドラマ原作作品」まで落ちてしまったのは、かえすがえすも残念である。





中野順一『セカンド・サイト』(文春文庫)

 キャバクラのボーイ・タクトは、店のナンバーワン・エリカにストーカー退治を依頼され、また気になる存在の新人キャスト・花梨に他人の近未来を知る不思議な力が備わっているのを知る。エリカが何者かに殺害され、独自の調査を進めるタクトは、「夢丸(ムーガン)」と呼ばれるドラッグの存在を知る。第20回サントリーミステリー大賞受賞作。(粗筋紹介より引用)
 2003年5月、文藝春秋より単行本化。2006年4月文庫化。

 タクトと書かれると好田タクトを思い出す私。どうでもいいけれど。
 最後のサントリーミステリー大賞受賞作。当時ほとんど話題に上らなかったこともあり、全然期待せずに読み始めたのだが、思っていたよりは面白かった。キャバレーを舞台にしているけれど、「これは読者サービスですよ」的な描写があるわけでもなく、書き方が丁寧。登場人物も描き分けられているし、しかもただ登場するだけでなく何らかのポジションを与えられているところは巧い。事件の構成自体も悪くない。手堅くまとまった作品であり、受賞そのものは納得。ただし手堅くまとまっている分、新鮮味は足りない。近未来を知ることができるキャストという設定を軽く流しているのは、作品を変な方向へ持っていかないと言う点で悪くないと思うのだが、それでも肝心の花梨という人物の存在感が今一つ。藪蛇としか思えない最後の展開はどうかと思った。主人公のタクトが元天才ピアニストという設定も付け足しで終わっているのは残念。
 素人を主人公に据えたハードボイルド作品であり、その展開はやや類型的。まあ、下手な新展開を考えて失敗するよりは、よっぽどましだろう。完成度自体は高いと思った。




藤森益弘『春の砦』(文藝春秋)

 広告会社のコピーライターであり、去年から役員も務める安芸浩之の携帯電話へ、3か月ほど前からかかってくる無言電話。しかし今日は、切ろうとしたときに「ひろゆきさん」という聞き覚えのない女の声で呼ばれ、安芸は驚く。安芸のことをそう呼ぶのは、かつて愛した従妹の宮部響子だけだった。しかし響子は、25年前の冬にパリで自殺していた。  同期入社のアートディレクターであり、常にコンビを組んで同じく役員となった古谷健次は、部下のコピーライター、大塚映子と不倫をしていた。結婚12年目でようやくできた子供を9か月で亡くした後、妻由梨子との性交渉は一度も無かった。
 二人は役員会で、社長の娘婿である番場常務が、昨年発覚して前社長が辞任した代理店に絡む不正経理を続け、私腹を肥やしている点を追求しようとしていたが、古谷が映子との不倫を絡めた脅迫を番場から受けたため、その計画はとん挫していた。
 新たに輸入されるコニャックの宣伝で、フランスの老俳優Mを起用し、パリ郊外で現地ロケを行う企画が採用された。そこへMのエージェントから連絡が入り、安芸も会うことに。そのエージェント、相田真弓は会議後のホテルのバーにも現われ、大学時代の友人である西澤信彦から安芸のことを聞いたと語る。彼女の真意はどこにあるのか。京都に行った安芸は、相田のことを西澤に尋ねる。その席で安芸は、大学時代の友人である富樫周平が癌で入院したことを聞いた。27年前、就職して離れ離れになり、淋しさを覚えた響子が富樫と付き合うようになってから、安芸は富樫と会ったことがなかった。
 2003年、第20回サントリーミステリー大賞優秀作品賞。2003年6月刊行。

 出版当時の作者は、広告制作会社のプロデューサー。つまり、自分がよく知る業界を舞台にして作品を仕上げたこととなる。小説こそ初めてだったようだが、かつては短歌結社の同人だったようで、三一書房の「現代短歌体系」が新人賞を募集した際に「弑春季」という作品で最終候補に残り、参考作品として掲載されているそうだ。1978年には歌集を自費出版している。本作品のタイトルは、かつて自分が詠み、冒頭に掲げられている短歌の中に入っている言葉である。主人公である安芸は、作者自身を投影した形になっているのかもしれない。
 本作品は最後となった第20回に応募され、優秀作品賞を受賞している。この年は、なぜか読者賞である鈴木凛太朗『視えない大きな鳥』が出版されず、位置的にはその下となる本作が出版された。読者賞が出版されなかった理由は不明であるが、本作が優秀作品賞にとどまった理由は、本作を読めばわかる。はっきり言ってしまえば、本作はミステリでは無く、恋愛小説である。なぜ作者はサンミスに応募したのだろうか。一応謎といえるものが冒頭にこそあるものの、主人公がその謎を解き明かすために奔走するわけでも無く、ただ日常の流れの中でいつしか解決されているだけであるし。広告制作会社の実態の一部を読むことができた点は面白かったけれど。
 中年のセンチメンタリズムをくすぐるような作品ではあるが、それだけといってしまえばそれだけ。ご都合主義とまでは言わないが、時が全てを解決してくれたというだけの作品である。そういう作品がお好みな読者にはいいだろうが、それほど勧めたくなるほどの作品でも無い。
 その後の作者は、2004年にピアニスト市川修をモデルにした『モンク』という小説と、『本の話』に連載していた『ロードショーが待ち遠しい―早川龍雄氏の華麗な映画宣伝術』を出版している。多分本業が忙しくて、執筆に時間を取れないのだろう。



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