三田誠広『蓼科高原の殺人』(祥伝社文庫)

 ヒット曲「リベンジ」を初めて聴いたとき、佐伯慎吾は衝撃を覚えた。人気シンガーソングライターの高木カオルは、佐伯がかつて所属していたロックバンド、キャタピラーズのボーカル、高木拓也の娘だった。バンドは20年前に高木が事故で死んだため、既に解散していた。今は作詞家ということで細々と暮らしている佐伯の元に、かつてのリーダーで、カオルの養父でもある片平大介から、バンド再結成の誘いが来た。かつてのメンバー4人が集まった蓼科高原で待ち受けていたのは、閉じこめられた地下の部屋、そこにおける連続殺人事件だった。事件の発端は、20年前の事件にあるのか。

 ひっそりと出ていた400円文庫の「旅情ミステリー」競作書き下ろし作品。いったいどこが旅情ミステリーなのかは理解に苦しむ。蓼科に行けば旅情なのか? まあ、そんなのは編集部が勝手に付けたことだからどうでもいい(テーマを与えられていた可能性はあるのだが)。芥川賞作家による重厚なミステリ作品を読むことができたのだから、ヨシとしたい。
 「過去に何かあったグループが再び集まったときに事件が起きる」というパターンはよく見かける。地下室に閉じこめられて、連続殺人が起きるというのもわりと見かける。生きている人物が少なくなり、誰が犯人か疑心暗鬼になりながら必死に犯人さがしをするというのもよくある話だ。一応密室事件はあるものの、トリックといえるほどのものはない。はっきり言ってしまえば、新味といえるものは全くない。それでもいつしか話に引き込まれてしまう。筆力がなければできないことだ。
 400円文庫は10数冊しか読んでいないが、アイディアの詰め込み過ぎ、もしくは短編の引き延ばしみたいな作品にしか当たらなかった。本作で初めて、400円文庫の狙いにピッタリと合った作品に出会ったと思う。この薄さでこの重厚感。割り切れない部分も、物足りないところもない。結末まで一気に進み、満足できる作品。それが本作である。


霧舎巧『六月はイニシャルトークDE連続誘拐』(講談社ノベルス)

 私立霧舎学園2年生の羽月琴葉は帰り支度中、3年生の図書委員中込椎奈に呼び出されたので、同級生の小日向棚彦を引っ張り出して学校図書館へ行く。そこにあったのは、『私立霧舎学園ミステリ白書』の《四月・殺人》《五月・アリバイ崩し》と書かれた本であった。すべてはイニシャルトークで書かれていたが、内容は琴葉や棚彦が遭遇した事件そのままであった。一体誰が書いたのか。そしてコピー機につまっていた謎の図面とそばに落ちていた《六月・誘拐》の痕があったリフィル用紙は何を意味するのか。椎奈や学校司書の三田島恵に責められる形で、琴葉は母であり警察署長でもある倫子へ公衆電話から呼び出す。図書館へ戻ってみると、いるはずの3人はいなくなっていた。そしてまた琴葉も。四人は誘拐されたのだった。

 本当に好評なのかどうか知らない。私の周りでは不評しか聞こえてこない。それでも六月編まで続き、七月編も予告されているところを見ると、一応売れているんだろうなあ。このシリーズを読んでミステリファンになった人も、他のミステリを読んだらもっと面白い本がいくらでもあることに気付くだろうから、そういう意味では役に立っているかも知れない。それ以上に、ミステリってこの程度かと思われる危険性の方が高いような気もするが。
 それはさておき、“新本格作家”にしては珍しい誘拐もの。既にパターンは出尽くされたと思われる誘拐ものにどのようにして新味を出すかが注目していたのだが。霧舎巧に期待してはダメですね。何を今更とは言われそうですが、霧舎巧のトリック“だけ”は期待しているんですよ。実現性や整合性などがかけ離れたところで。こんな馬鹿馬鹿しいこと、よく考えるよな、という意味だけでは期待していたんだけど。既存のトリックを誘拐に使用しただけ。読めば普通の読者ならピンとくるでしょう。大体、これのどこが「連続誘拐」なんだ? 四人とも一緒に誘拐されているのに。
 トリックだけ思いついて、実現可能かどうかを全く考えないのはなぜなんだろう。犯人が運ぶことは可能なのかとか考えるといくつでも浮かび上がってくるんだけど、何はともあれ言いたい。こんな動機で誘拐計画立てる犯人がどこにいる!
 『カレイドスコープ島』の登場人物が出てくるところも不可解。初心者が入ることが出来なくなると思うのだが。こんなせこい技を使うぐらいなら、もっと堂々とトリックで勝負しろよ。本そのものにトリックが仕掛けられているのも、裏技でしかないだろうし。
 ラブコメ部分は相変わらず古すぎ。この人の恋愛もののテキストっていったいなんなのだろう。

 いやー、これだけけなしがいがある作者も珍しい。霧舎学園シリーズは薄いから、文章が下手でもさくさく読めるし。ということで、これからも読み続けよう。
 あ、本作の売りは、琴葉の父初登場ということらしいです。父親の職業、何かに引っかけているの?



西澤保彦『ファンタズム』(講談社ノベルス)

 有銘継哉は次々と女性を殺していく。特に理由があるわけではない。深い関係があるわけでもない。
 印南野市で連続女性殺人事件が発生する。犯行方法はバラバラだが、犯人のメモや新聞の切り抜きが口にねじ込まれており、しかも犯人の指紋が残っていた。大胆な犯行方法や指紋などの証拠などから犯人はすぐに見つかるものと思われたが、警察の懸命の捜査にも関わらず、容疑者は挙がってこない。殺害された女性の接点も見つからない。途中で消えたとしか思えない犯行現場の状況から、司辻刑事と柘本刑事は犯人を「ファントム」と名付ける。
 物語は有銘と捜査側との視点が交互に語られていく。事件を繋ぐものは何か。警察は「ファントム」を捕まえることが出来るのか。数々の不可解な現象はいかにして解決されるのか。
 有銘はつぶやく。「ぼくはどこにも 存在しない」

 シリアルキラーを題材としていること、犯人と捜査側の視点が交互に語られていること、そして作者が西澤靖彦であること。いかにも仕掛けがありますよ、という並びである。過去にも似たような設定、仕掛けの作品があったことを思い出すと、その考えは非常に強くなる。もちろん、仕掛けは存在する。問題はその仕掛けが読者に受け入れられるかどうかということである。いや、違う。本作の場合は、その仕掛けをわかってもらえるかどうか、である。
 作者は、〈本格ミステリの意匠を借用しているけれど、「本格」でも「ミステリ」でもない〉、そう書いている。全く持ってその通りである、と言いたい。ならばこの小説は何なのだ。作者はいくつかの仕掛けを作中に織り込んでいるのだが、その仕掛けが何であるかは作品の中で書かれていない。気付いた読者にだけわかってもらえればいい。そんな書き方である。それが作家として正しいことなのか間違っていることなのか、正解は多分存在しないのだろう。しかし私は言いたい。西澤保彦は間違っていると。なぜならこの小説は、仕掛けに気付かないと、全く面白くない作品だからだ。
 読者が西澤保彦のすべての仕掛けを解読することは難しいだろう。問題は解読されないと、話の内容がちんぷんかんぷんであることだ。そしてもう一つ。この小説は仕掛けそのものを理解したとしても、小説としての面白さがないのである。例えすべての仕掛けに気付いたとしても発する言葉はこうだろう。「だから何なの?」
 西澤保彦が本格ミステリに囚われた作品。そう言うしかない。

 結末の性急さと読みづらい名前は何とかならなかったのか。



【元に戻る】