岩井三四二『月ノ浦惣庄公事置書』(文藝春秋 第10回松本清張賞受賞作)

 室町時代末、琵琶湖北端に月ノ裏という小さな村があった。村人は、田畑に加え漁や荷役運搬の副業があったことから、食うには困らない生活していた。しかしその田畑は、実は税金を納めていない穏田であった。以前からこの穏田を巡って、隣村の高浦と小競り合いが続いていた。とはいえ、普段は穏やかな暮らしをしていた。
 しかし、高浦の村衆は挑発行為を繰り返すようになった。次第に騒動は悪化し、二つの村同士の争いに発展する。高浦の村衆は、土地の領有権がこちらにあると、訴訟を起こした。月ノ裏には、土地の所有を明示する古い証書があり、理屈で負けるはずがなかった。権門に足繁く通い銭をばらまき、有利に取りはからってもらうよう頼み込んだ。事実、公事(訴訟)の場では、代官の質問に高浦の代表は答えられい有様だった。しかし、月ノ浦は敗訴した。
 高浦が挑発行為を繰り返したり、公事を起こしたりした黒幕は、京から高浦に赴任してきた代官、源左衛門であった。源左衛門はなぜ月ノ浦を執拗に狙うのか。
 土地を失えば村人は飢え、女子どもを売らねばならなくなる。月ノ浦の中堅指導者、右近と新次郎は、成功する可能性がほとんどない「上訴」に最後の望みをかけた。
 作者岩井三四二(いわいみよじ)は、1996年に「一所懸命」で小説現代新人賞を、1998年に『簒奪者』で歴史群像大賞を受賞を受賞しており、『齋藤道三』などの著書がある。本書は、「菅浦文書」の中の「菅浦総庄合戦注記」を下敷きにしたフィクションで、第10回松本清張賞を受賞した。

 室町時代末の村社会、貴族社会、侍社会、さらに京における裁判制度など、今まであまり取り上げられていない時代、社会が舞台である。どんな時代でも裁判制度があるわけだが、現代のように整備された法体制など存在していない、さらに戦に明け暮れて崩壊していると思われている室町時代末を舞台に法廷小説を書ききったその力量に感心した。さらに当時の様々な階級の社会まできっちりと書き込まれており、読んでいてその当時が目に浮かんでくるようだった。しかもその書き方が歴史書からの引き写しではなく、物語にとけ込んでおり、さらにその全てが結末まで一本につながっているのだから恐れ入る。簡潔ながら登場人物の内面まできっちりと踏み込んでおり、いつしか善玉にも悪玉にも感情移入してしまう。材料の選択も一流だが、料理も一流。これで物語が面白くないはずがない。やや枯れた書き方なので地味に見えるからもしれないが、読み進めるうちに夢中になるはずだ。結末まできたとき、何気なく書かれていた文章がいずれも伏線であったことに改めて感心し、そして涙した。
 高橋克彦は歴史法廷小説という捉え方をしている。最初はそういうカテゴライズに疑問を抱いていたが、改めて考えると納得してくる。法廷小説は、必ずしも法廷だけを舞台にしているわけではないのだ。裁判を取り巻く人々にスポットを当てるのもまた、法廷小説である。今頃になって、そんな単純な事実に思い当たった。
 読んでから日が経つにつれ、この作品の良さがじわじわと体に染み込んでくる。今年の大収穫作品。歴史小説と決めつけず、是非とも読んでみてほしい。私はこの作品をミステリとして、ベストに票を投じたい。




中一弥(構成・末國善己)『挿絵画家・中一弥―日本の時代小説を描いた男』(集英社新書)

 中一弥。一九一二年、大阪府北河内郡大和田村(現・門真市)生まれ。挿絵画家。一九二七年、十六歳のときに小田富弥に画才を認められ、弟子となる。一九二九年、直木三十五『本朝野士縁起』で挿絵デビュー。以後、七十年以上にわたって、『銭形平次捕物控』『夢介千両みやげ』『鬼平犯科帳』『剣客商売』『仕掛人・藤枝梅安』をはじめとする、数々の時代小説の名作に挿絵を描きつづける。(裏表紙より)
 数々の時代小説に挿絵を描き続けてきた現役最長老、中一弥の聞き語りを末國善己が纏めた一冊。

 雑誌や新聞の連載よりも纏まった一冊の本を読むことが多い私にとって、挿絵というものにあまり関心はなかった。しかし考えてみると、雑誌や新聞連載の小説を読む読者には、挿絵に描かれた主人公や登場人物のイメージをもって小説を読むことが多いにちがいない。挿絵によって読者は小説世界のイメージを膨らますことができるのだ。言い方を変えると、挿絵のイメージがそのまま登場人物のイメージになってしまう。ジュニア小説では単行本(というか文庫本)にイラストが着いていることが多いので、登場人物をイラストのイメージで読んでしまうことが多いに違いない。作者から見たら、主人公はこんなやつじゃない、と思うことがあるだろう。挿絵を描くということは、あくまで小説の世界を崩さず、小説よりも出しゃばらず、読者のイマジネーションを膨らませるという高度なテクニックが要求されることになる。
 本書は数々の時代小説の名作の挿絵を書き続け、今も現役の画家である中一弥の生い立ちからデビュー、そして現在までを纏めたものである。時代小説で書かれている風俗、人物などは現代の我々は見たことがない(もしくは映像で見た程度)。だから、現代小説よりも挿絵のウェイトが高いだろう。時代小説作家に気に入られる挿絵画家になるためには、かなりの勉強と努力が必要だったと思われる。本書ではそのような面はあまり見られず、飄々としている風に書かれているが、実際は大変だっただろう。でなければ、時代小説における数々の名作の挿絵を担当することなどできない。
 中一弥の生涯が、そのまま挿絵の歴史になっているところが特に興味深い。あまりスポットライトを浴びない世界ではあるが、挿絵もまた一つの芸術である。

 ちなみにこの方、逢坂剛の父親です。だから手に取ったんだけど、そんなことは関係ない。時代小説ファンなら手に取ってみるべし。新しい発見がここにある。




井上靖『おろしあ国酔夢譚』(徳間文庫)

 天明2年(1782年)12月13日、伊勢亀山領白子村の百姓彦兵衛の持船神昌丸が、紀伊家の廻米500石、ならびに江戸の商店へ積み送る木綿、薬種、紙、饌具などを載せて、伊勢の白子の浦を出帆した。船頭光太夫と16人の男たちが乗ったこの船は、狂騰する波浪の中に揉まれ、いつしか北へ進んでいった。そして八ヶ月後、亡くなった1人を除いた16人が着いたところはアレウト列島の中にある遙か北の地、アムチトカ島であった。望郷に想いを伏せる彼らは、故国日本へ帰る手段を求め、極寒のロシアを転々とする。次々と亡くなっていく仲間たち。自然学者ラックスマンの出会い。光太夫は女帝エカチェリーナ二世に拝謁し、帰国の途を果たすのは実に9年9ヶ月後のことであった。しかし、日本で彼らを待ちかまえていた運命は、あまりにも悲しかった。

 桂川甫周『北槎聞略』(岩波文庫)を基に書かれた、大黒屋光太夫の冒険譚。1974年の作品……でいいのかな。日本の冒険小説の歴史を考えると、嚆矢ともいえる『黄土の奔流』あたりから1980年代の本格的な冒険小説の時代が幕開けするまでの間を埋めるべく作品と位置づけてもいいような気がする。
 様々な資料を基に、一つの歴史的事実を物語に仕立て上げる。簡単なようで非常に難しい。歴史上には名前しか現れない、さらには歴史に埋もれた人物にまでスポットを当てなければならない。時代背景、風俗、気候、習慣なども詳細に調査する必要がある。歴史的事実に背くことなく、物語としての強弱、抑揚をつけなければならない。人に感動を与えなければならない。いくつもの条件を満たして、初めて小説として成り立つのだ。
 本書は光太夫の冒険譚であり、彼を取り巻く人たちの物語でもあるのだ。異国の地で亡くなったもの、異国の地で生きることを決意したもの、日本へ帰るもの。彼らを助ける人々、彼らを利用しようとする人々、彼らに同情する人々、彼らと親友になろうとする人々。この冒険譚は、多くの人々の冒険譚であるのだ。




沢木冬吾『償いの椅子』(角川書店)

 能見亮司が5年ぶりに帰ってきた。失った足の代わりの車椅子に乗って。なぜ彼は戻ってきたのか。5年前の事件を精算するためか。それとも別の目的か。5年前に死んだと思われた秋葉は生きているのか。能見の周りに何かを感じ取った公安、警察、闇組織が能見をマークする。能見を慕う姉弟との絆を背負い、今、戦いに挑む。
『愛こそすべて、と愚か者は言った』で新潮ミステリー倶楽部賞高見浩特別賞を受賞してから4年。沈黙を破り、ここに登場する。

 それほど評判にならなかったが、前作はハードボイルドの佳品だった。だからこそ第2作に期待していたのだが。4年も待たせたわりには今一つ。それが今回の感想である。
 物語をよくよく読むと、骨のあるクライムノベルの作りをしていることがわかる。ただ問題は、読むのにも骨が折れることだ。登場人物の素性や背景がほとんど語られないまま、視点がどんどん切り替わっていくので、物語がどういう筋なのかを追うのが難しい。そのくせ変なところで心理描写が細かく書かれており、違和感を感じる。物語そのものも進み方が遅く、読んでいてもどかしい。
 後半になってようやく物語の全貌が見えてくると、流れは一気に加速し、クライマックスまで一直線に進む。ただ前半部との流れが違いすぎるので、物語に追いつくのが難しい。もう少し丁寧に書いていればクライマックスは大いに盛り上がっただろうが、前半部で物語に没頭できなかったせいか、やや荒唐無稽に思えた。姉弟の二人が絡むシーンは、作者のセンチメンタルな部分が出ていてとてもよいのだが、娘を虐待する部分などは書き過ぎなんかじゃないかと思う。
 本来なら筆を費やすべきところと、筆を費やさなくてもよかったところを間違えたのではないだろうか。所々のシーンは魅力的である。特に能見が山中で星を眺めるイメージなどは屈指の出来である。この出来が作品全体に行き届いていたなら、と思うととても残念である。
 できればもう一冊読んでみたい。そう思わせる作家であることは確かだ。無理矢理詰め込まず、一つの流れをしっかりと追う作品を作れば、この作家はブレイクするに違いない。




郷原宏編『西村京太郎読本』(KSS出版)

 西村京太郎特別書き下ろしエッセー、西村京太郎の半生と当時のミステリ界の流れを含めた時代背景、評論家や作家による西村京太郎論、文庫解説からの転載、編者が選んだ西村京太郎BEST50冊、西村京太郎vs内田康夫対談、西村京太郎インタビュー、年譜・著作リスト、テレビドラマ化リストを収録した丸ごと西村京太郎本。
 こういう風に、ミステリ界に名前を残す作家は読本を作ってほしいものだ。特に西村京太郎みたいな多作家は、その全貌をつかむことが難しいので、こういう本はとても参考になるし、勉強にもなる。西村京太郎は、ただのトラベルミステリー作家ではなく、ヴァラエティに富んださまざまな秀作を生み出した作家であるということを、改めて認識させてくれる一冊である。
 せっかくだから転記しておこう。
 西村京太郎が選ぶ自作ベストファイブ(6冊あるが)。(1)『D機関情報』(2)『ある朝 海に』『脱出』(3)『名探偵なんか怖くない』(4)『殺しの双曲線』(5)『寝台特急殺人事件』




東野圭吾『手紙』(毎日新聞社)

 武島剛志は弟の直貴と二人暮らし。母親が死んでからは、頼れる親族もなく、二人だけで生きてきた。弟の直貴を大学にやらせたい。そのためには金がいる。腰と膝を痛めてしまい、引っ越し屋の仕事は二ヶ月前に辞めていた。手先が不器用で物覚えが悪く、体力以外に自信があるものはない。しかし腰と膝を痛めてしまっては、自信のあるものはなにもない。仕事もなく、金もない。直貴を安心させるための金を得るため、剛志は強盗の道を決意した。4年前に引っ越しの仕事をした緒方という老婦人が住む家だった。百万円近くの金を見つけたが、リビングルームで老婦人に見つかった。逃げようとしたら下半身に痺れが走った。剛志は気がついたら老婦人を殺していた。逃げようと外へ何とか出たが、立つことすらできない。警察に捕まり、そして出た判決は懲役15年だった。
 直貴は強盗殺人犯の弟というレッテルを貼りながら生きることになる。そのため、就職もままならず、歌手デビューの道も閉ざされた。恋人とも別れることになり、就職先でも気まずい思いをする羽目に。そんな直貴の苦悩も知らず、毎月刑務所から届く剛志の手紙。

 強盗殺人犯の弟というレッテルを貼られた男の物語。自分が罪を犯したわけではないのに、いつまでもそのレッテルがつきまとう。理性では彼に何の罪がないことがわかっていても、結局排除してしまう世間。いくら“人権派”の人々が彼に罪はないんだと叫んでも、世間一般の人が取るであろうという行動に苦悩する姿は、もしかしたら至る所で当たり前に見られる姿なのかもしれない。
 作中である登場人物が「犯罪者の家族が世間から差別されるのは当然なんだ」という言葉を発したのには驚いた。しかし、よく考えてみるとそれが当然のような気がする。それは理性ではなく、本能なのかもしれない。
 犯罪者とその家族がどう接していくのか。犯罪者の家族はどのようにして生きていくのか。「人間って素晴らしい」「許し合うことが素晴らしい社会を築く」「信じ合う美しさ」などのお為ごかし的な文章が全くない。今の世の中の当たり前の姿と行動を、当たり前に書いていっているだけである。それでいて、結末には感動してしまった。東野圭吾は、本当に凄い作家だと思う。
 ただ、東野圭吾は“推理小説家”である。だから本書も“推理小説”というフィルターを通してみられてしまうのではないだろうか。推理小説に偏見を持っている人にこそ、こういう小説を読んで貰いたいと思うのだ。




本格ミステリ作家クラブ編『本格ミステリ03』(講談社ノベルス)

 本格ミステリ作家クラブが編集する、2002年に発表された本格短編ミステリのベスト・セレクション。今年から会員以外の作品も選出する(それをしなきゃ、ベスト・セレクションとはいえないだろう)ようになった。本当によかったと思う。これで大山、柳、乙の作品が収録されていなかったら、読める作品はほとんどなくなってしまう(笑)。
 北村薫「凱旋」:一つの言葉の意味で、見方ががらりと変わってしまう話。純文学といわれても、何ら違和感がない。というより、ミステリ風味の純文学作品というほうが正しそう。味わい深いが、面白いとは思えない。
 大山誠一郎「彼女がペイシェンスを殺すはずがない」:フェル博士のパスティーシュ。本格ミステリとしての仕掛けは合格点だが、ぎくしゃくした文章はどうにかならなかったのか。犯人像に関しては、驚愕というより呆気なさしか残らないのも問題点だろう。動機の面でもう少し伏線を張っておく必要があったと思う。
 芦辺拓「曇斎先生事件帳 木乃伊とウニコール」:江戸時代を舞台にした捕物帳。本格味が濃い作風と、権力への批判精神は相変わらず。犯人消失の謎は面白いが、どこにも女性がいたという論理的な推理はなかったようなのだが。
 柳広司「百万のマルコ」:ジェノアの牢獄でマルコ・ポーロが語る奇談シリーズの第1話。ペリー・メイスンの「少年は何を密輸していたのか」というクイズを思い出してしまった。推理クイズの小説化に近い作品だが、マルコ・ポーロを語り部にした意図はこれから徐々に発揮されると思う。
 貫井徳朗「目撃者は誰」:タイトルどおりの作品で、いくつかの事象から名探偵が与太話を作り上げる部分は面白いが、これが本格ミステリの面白さかというと考え込んでしまう。
 西澤保彦「腕貫探偵」:探偵というより巫女のお告げみたい。なぜ死体を動かしたかという謎を歯科医の診察券から解いてしまうというのは面白いが、これも論理的推理っていうのかね?
 乙一「GOTH リストカット事件」:「僕」と「森野」が変な人たちと関わってしまうサイコ連作短編集の一編。「僕」が犯人に奸計を用いる部分を本格ミステリっぽいと評価されたのかな。サイコサスペンスとして面白いが、どう考えても本格ミステリとは思えない。多分10年前だったら本格ミステリのカテゴリに入っていなかっただろう。本格ミステリの拡散化がもたらした喜劇である。
 有栖川有栖「比類のない神々しいような瞬間」:新進気鋭の社会評論家が残したダイイング・メッセージの謎。第二のダイイング・メッセージの謎解きや、なぜダイイング・メッセージを残したのかという点まで含めて、よく考えられた本格ミステリ。しばらく読んでいなかったが、火村シリーズを見直した。
 鯨統一郎「ミステリアス学園」:連作短編集『ミステリアス学園』の第6話。作中でトリック講義なんかやるなよといいたい。戦前の発想だよ。それを除いても、つまらない。これだけ読んでもわからないというところが本音だが、多分全話読んでいたとしてもつまらないだろう。設定そのものが、あまりにも馬鹿馬鹿しい。
 霞流一「首切り監督」:すげ替えられた首切り死体の謎を紅門福助が解く話だが、首切りの謎にそれなりの説得力があるのはいいことだ。ただ、人を殺すほどの衝撃を与えたのなら、いくら袋に入れていたとしても首がぐちゃぐちゃになってしまうんじゃないだろうか。
 青井夏海「別れてください」:助産婦探偵シリーズの一編。見かけの人物像と違って実は……という展開は、結末の爽快さと含めてすがすがしい読後感を与える。こういう悪人のいない話を読むのも、たまにはいいことである。ずっと読まされると胡散臭くなり窮屈だが。
 千街晶之「論理の悪夢を視る者たち<日本篇>」:『怪奇幻想ミステリ150選』所収の評論から海外ミステリに言及した部分を省いたもの。本格ミステリと幻想ミステリのアプローチは非常に面白いが、あれもこれもと取り上げるうちに評論の焦点がぼやけてしまった部分があるのは否めない。もうちょっと整理するか、ページを費やせば本格ミステリ論にも一石を投じることになるだろう。
 笠井潔「本格ミステリに地殻変動は起きているか?」:『本格ミステリ・クロニクル300』に収録された評論。いわゆる脱格系について触れられている。昔の新本格はよく「人間が描けていない」といわれていたが、そんな登場人物たちが人間に見えるぐらい、脱格系の作品に登場する人物は人形化しているのだろう。ジャンルの拡散化は、ジャンルそのものを滅亡させるんじゃないだろうかという危機感が私にはあるのだが。

 これが“旬の作家による、選りぬきの本格短編集”というのなら、本格ミステリの将来も暗いと思う。本格ミステリって、この程度なの?といいたくなるような作品もある。手堅いけれど、もっと読み応えのあるベテランの作品もあったのではないだろうか。選考委員はどれだけの作品を読んで選出したのだろうか。選出基準も含めて訊きたいところである。

「ところで……あらためて訊くけれど、本格ミステリって何なの?」
 もしもそう尋ねられたとしたら、
「答えはここにあります」
 そういって、本書を差し出したい。
とは、巻頭にある有栖川有栖の言葉だが、この本を読むと、いったい何が本格ミステリなのだかわからなくなってくる。少なくとも、論理の文学だけではないようだ。



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