東野圭吾『殺人の門』(角川書店)
田島家はもともと材木問屋として地元でも有名な金持ちであり、今は歯医者を経営していた。和幸はその一人息子だった。友達を作るほうが苦手であったが、小学5年のとき、豆腐屋の息子である倉持修と親しくなった。ある日、寝たきりになった祖母が死んでから、和幸の人生は変わりはじめた。祖母は母親に毒殺されたらしいという噂が広まり、元々仲のよくなかった夫婦は離婚することになる。歯医者に客は来なくなり、父は酒と女に溺れた。中学になった頃、田島家は家を手放し、別の町へ引っ越しすることになる。和幸の人生の節目節目に、倉持修は現れた。倉持が現れるたびに、和幸の人生はいつも狂わされた。和幸は倉持に殺意を覚えるが、どうしても手を出すことができない。和幸に欠けているものは何だろうか。
帯にはこう書かれいてる。「人間の心の闇に潜む殺人衝動。その深層をえぐり出す、衝撃の問題作」。多分そうなのだろう。私にはあまりそう思えなかったが。この程度の殺人衝動、誰でも持ち合わせているんじゃないか。倉持みたいな人間も、和幸みたいな人間も世の中にはいるだろうし、こういう人間にはなりたくない。
倉持が和幸をはめるパターンが、途中からだいたい予想できる。人の心に潜む悪意をこうあからさまに見せつけられると、非常に不愉快になる。しかも同じパターンでも何回も見せつけられるから、よけいに腹が立つ。読み終わっても、この不快な気持ちは一向に消えない。
東野圭吾はときどき救いのない物語を書くが、それもその流れのひとつなのだろう。ただ問題は、救いがないまま放り投げてしまうことだ。本当にそれでいいのだろうか。私はそう思えない。世間の評価はともかく、全く評価できない一冊である。
紀和鏡『黒潮殺人海流』(集英社文庫)
青年の死体が房総海岸に上った。ヒロイン松山蓉子は恋人の死の謎を追ってアメリカ西海岸、紀州、石垣島へ飛んだ。次々に起こる連続殺人にまつわる古代“赤米”の秘密とはナニ? 黒潮海流に添って起る不気味な事件を軸に、古代と現代の空白を埋めつつ一気に描く大型伝奇ミステリー小説の傑作。
(裏表紙より引用)
粗筋紹介は手抜きで申し訳ない。ただ、これだけ大風呂敷を広げられると中身に期待したくなるのは当然である。しかもプロローグでは香港に集まった要人らしき男たちの会話が繰り広げられているのだから、これはと思ったんだけど。その後はヒロイン蓉子が先々でロマンスに流されながら、事件の展開に翻弄されているだけ。ヒロインものの連続ドラマを見せられている気分になった。それも面白ければいいのだが、テンポが遅いというか、じれったいというか。特にこのヒロイン、自立しているようで実は受け身なので、余計に腹が立つというか。大型伝奇ミステリーというには、かなり貧弱である。設定が大きいわりに中身が貧弱なので、怒りが倍増している気がする。
酷評ばかりで申し訳ないが、これ以上の感想はない。
加納朋子『コッペリア』(講談社)
聖子は小劇団の女優だった。当然それだけで生活することはできないが、お金持ちのパトロンが付いているので、女優に専念することができる。秋に公演するのは『コッペリア、またはエナメルの眼をした娘』というタイトルで、彼女はヒロインの人形の役だった。
了は三つの頃、両親を強盗に殺された。彼はたまたま母親の折檻でクローゼットの中に押し込められていたために無事だった。引き取ってくれた養父母も、大学に入った年に飛行機事故で亡くなった。彼は小さい頃から人形が好きだった。彼があの人形師の家を知ったのは高校生の頃だった。名前は如月まゆら。カルトな人気を誇る寡作家であった。
天才的な人形作家、人形を溺愛する青年、人形になりきろうとする女優、そしてパトロン。人形に魅せられた人たちが交錯するとき起きた悲劇は。
加納朋子初といっていい長編ミステリ。読み始めたときは、固有名詞の出てこない一登場人物や、時制が全然表現されない文章が続くので、ああ、また例のパターンだなと思いこみ、不快な気分で読み進めていったが、途中から読む態度を変えることになった。人形に対する情念と偏愛。人形に憑かれた人たちの想いと執念をここまで描ききることができる作家だとは思わなかった。作品構成も、読み終わったあとならなるほどと頷くことができる。タイトルも「ピグマリオン」ではなく、「コッペリア」なのも納得できる。主役は人形であって、人形でない。
加納朋子がこれだけの作品を書けるとは思わなかった。ロマンチスト型の甘ったるさを残したまま大人になったような作家だと思っていた。エピローグにややロマンチストな部分が残っているものの、ここまで人のもつ情念に踏みこむことができる作家だったとは。加納朋子の新境地であろうし、新たな代表作になるだろう。本年度の一つの収穫。
横山秀夫『クライマーズ・ハイ』(文藝春秋)
悠木和雅は安西燐太郎とともに谷川岳の衝立岩に登る。17年前、燐太郎の父であり、友人であった安西耿一郎と組んで登ろうとしたあの山に。耿一郎が残した「下りるために山に登る」の答えを確かめるために。17年前はともに登ることができなかった。その前夜、日航ジャンボ機が群馬県上野村山中の御巣鷹山に墜落した。悠木は群馬県の地元紙「北関東新聞」の総括デスクとして格闘していた。そして耿一郎は歓楽街で倒れ植物人間になってしまった。悠木は山を登りながら17年前を思い出す。
親子関係に悩み、社内の権力闘争や確執と闘いながら、巨大事故に翻弄されながらも記事を追い続ける地元新聞記者たちの一週間を書ききった著者初の本格長編小説。
日本史上最大の惨事ともいえる1985年8月12日の日航機ジャンボ墜落事故。今まで色々な角度から書かれてきた事故であるが、新聞記者側から事故を小説化したのは初めてだろう。当時地元紙「上毛新聞」の記者だった作者ならではの作品である。
地元で起きた大事故なら、喜び勇んで(言い方は悪いが、こう表現するしかない)その記事ばかりを追いかける。そう考えるのが普通だが、実際はそんな単純なものではないことを知らされた。地元の有力者にへつらうもの、過去の栄光に浸るもの、権力闘争に躍起になるもの、調整役として苦労するもの、自分の立場ばかりを守ろうとするもの、功名心に燃えるもの……色々な記者、色々な人たちが新聞社にいる。そんな人たちにとって、未曾有の事故といえる大事故であっても、それは自らの立場を有利にするための手駒の一つでしかない。「公器」といわれてきた新聞社の本当の一面を、改めて思い知らされた。そんな状況の中でも、自らの信念を曲げようとしない悠木の姿は、保身に走ってしまう我々から見たら格好いいヒーローに見えてくる。もしくは、ドン・キホーテかもしれないが。読者はそんな彼を応援してしまう。
ジャンボ墜落事故を取扱いながら、お涙もので終わらせず、新聞記事を通すことによって多角的な視線を示したのは作者の実力である。特に望月の投書には戦慄させられた。確かに一面を言い当てているのだが、520人の死亡者を出した事故に対してこう書くことができるのは、新聞社を舞台にしていなかったら無理だっただろう。この部分に作者の真の実力を見た気がする。
ただ、首を捻る部分が多いのも事実。まず、山に登るシーンが17年前の一週間と相関関係がほとんどないというのは問題だろう。人物以外の共通点がないのだ。安西の最後の言葉なんかは、もっと密接な関係を持たせるべきだったと思う。この二つがあまりリンクしていないので、話の流れが途中でぷつっと切れた印象を与える。もし後日談を書きたいのなら、最初と最後だけでよかったのではないか。
他にも悠木や部下の記者たちの書き方は納得いかない。悠木のやっていることはよくよく見ると支離滅裂である。どうしてこんな男がここまで慕われるのか。そして部下たちは皆、こんな上司の行動をどうして納得してしまうのか。考えれば考えるほど不思議である。上司たちは実に嫌らしく描写できているのに。
読み終わるまでは一気だし、読んだ後は深い感動に包まれる。ところがその感動が醒めると、首を捻りたくなるところが色々と出てくる。話の流れを重視したからか、それとも作者が切り捨てたのか。お涙ちょうだいのNHKドラマから抜けきれない部分が、この作者の弱さではないだろうか。
はやみねかおる『あやかし修学旅行』(講談社 青い鳥文庫)
虹北学園三年生の修学旅行先はO県T市。昔龍神殺神事件、「持ち帰るなの石」の伝説があり、鵺が出たという村を訪れるというので、民間伝承を調べたい亜衣たち三つ子の三姉妹や宝探しに張り切るレーチも大忙し。表の日程だけではなく、夜のイベント満載という裏の日程も準備万端。ところが「修学旅行を中止せよ 鵺」という手紙が学校に届いた。そのため、なぜか夢水清志郎も校長代理で参加することに。宿泊先、星降り荘で何が起きる? 名探偵夢水清志郎事件ノート第11作。
修学旅行。中学校最大のイベント。何かが起きて当然ですな。そんな感じで次から次へと謎が続く。まあ、小ネタ程度の謎なんだけど、「山椒は小粒でぴりりと辛い」というぐらいの手応えはあります。さすがに無理だろう的な解決も今更のこと(あの超能力は絶対無理だ。レーチが覚えられるはずがない)。ミステリファンが読んだらにやっとしてしまうネタが少々鼻につくと思っても気にしない。定番ネタは素直に笑っていればいい。そして最後、登場人物と読者が幸せになれればそれでいい。そんなシリーズなのだから、野暮なツッコミなんかしない方がいい。
とまあ、定番読者はそれでいいんだろうけれど、ここらで単品勝負の作品も読んでみたいな。
柳広司『新世界』(新潮社)
1942年11月16日、ニューメキシコ州サンタフェからさらに北西64キロ内陸に入ったロスアラモスの地をロバート・オッペンハイマーたちは訪れた。何もなかったその土地だったが、1943年の4月には一つの町が現れ、六千人もの人間が生活していた。そこにはアメリカ中から優れた物理学者が密かに呼び集められ、極秘の研究が続けられていた。その研究の成果は、ニッポンという小さな国の、ヒロシマ、ナガサキで見ることができた。そして8月14日、世界を巻きこんだ戦争は終わった。
戦争が終わったこの日、ロスアラモスの人々は、戦勝を祝したパーティで浮かれ騒いでいた。さらには“ヒロシマの英雄”、エノラ・ゲイ号とシルヴァー・ムーン号を操縦していた二人のパイロットも訪れていて、質問は彼らに集中していた。浮かれた皆は祝砲をもとめた。爆薬の専門家、キスチャコフスキーは大砲のかわりにTNT爆薬を広場に仕掛け、爆発させた。ところが最後の21発目、彼の足許で爆薬が轟音とともに炸裂し、体は宙に吹き飛ばされた。さらにキスチャコフスキーは倒れてきた鉄塔の下敷きになるところだったが、シルヴァー・ムーン号のパイロット、マイケル・ワッツ中佐が庇ったため、軽傷ですんだ。ただ、ワッツ中佐は頭部から出血していた。
病院に運び込まれた二人は入院することになった。この日は浮かれた者たちが喧嘩を始めたりしたものだから、病院は大繁盛だった。そして翌日、一○六号室の患者は部屋にあったガラスの花瓶で頭を殴られて殺されていた。しかし死んでいたのはそこに入院していたはずのキスチャコフスキーではなく、彼が夜中に強引に退院した後に運び込まれてきた建築作業員ジョン・ワイルドだった。ワイルドに殺される理由はなかった。ワイルドはキスチャコフスキーと間違えて殺されたのか。その動機は。犯人はロスアラモスの内部の人間なのか。隣の部屋に入院していたワッツ中佐は、夜中に10歳くらいの子供がベットの脇に立っていたことを証言した。それを聞いてオッペンハイマーは顔色をひどく青ざめさせながら「私じゃない」とうわごとのように呟いた。オッペンハイマーの唯一の友人であり、1ヶ月前にロスアラモスに来たばかりのイザドア・ラビは事件の謎を追う。
柳広司は『はじまりの島』しか読んでいないのだが、「歴史上の人物の口を通して社会的なメッセージを送る本格ミステリ」を書こうとしているように思われる。本書などはとくにそういうメッセージが色濃く感じられるのだが、その分本格ミステリとしての面白さが激減している。
一応事件の謎は、“誰に””なぜ”殺されたのかということであり、探偵役のイザドアは捜査を続けている。しかし捜査を通して見えてきたのは、科学者たちがただ命じられるままに、自らの探求心を満足させるために作られた原爆の恐ろしさと、その原爆を作る人間の恐ろしさである。その時点で、作者の訴えたいメッセージは読者に伝わるのだが、本格ミステリの謎は脇に追いやられている。結末だけは、作者の狙いが思い通りに成功しているといえるが、途中で謎を追う興味が失われている分、唐突な謎解きのように見えてくる。作者の構成のミスだろう。訴えるメッセージがあまりにも強すぎたのだ。
構成のミスと思われるのは他にもある。まずは絵本「イルカ放送」だ。単独の物語としては面白いが、物語すべてを通してみると、やはり浮いた部分である。ここに込められたメッセージが本筋に生かされきっていない。むしろ、この絵本があったため、謎を追う興味が薄れたといえる。
もう一つは第十章、第十二章である。オッペンハイマーの性格付けには非常に有効であったと思うが、作品の流れを無視している。
何度も言うようだが、メッセージの方に重点を置いた構成を取ってしまったため、本格ミステリとして読んでしまうと無駄に思える部分が多いのだ。この小説は、本格ミステリの要素や構成を用いた社会派メッセージ小説である。ただ、それは作者の狙いでなかっただろう。
乾くるみ『林真紅郎と五つの謎』(光文社 カッパ・ノベルス)
林真紅郎は資産家林家の四男である。大学で法医学者として働いていたが、一年半前に妻を事故で亡くしてからは、ただぶらぶらと過ごす毎日である。そんな真紅郎が出会う五つの事件。さまざまな謎は分割すれば、個々の物事は単純な形に帰する。分割された個々の事象ごとにあらゆる可能性を思い描き、それぞれの波形を描く。それらを重ねて出来る、あらゆるバリエーションを見渡せば、中には必ず、事件の謎と見事にシンクロするものが現れる。それこそが真実である。
コンサート会場のトイレから出てきた死体の女性は、ステージのマジックに出演していたはずだった。「いちばん奥の個室」。
駅の階段から女性が転落した謎を解く「ひいらぎ駅の怪事件」。
友人の妻が亡くなり、別の友人夫婦と葬式に出席したとき、棺から白いものが自分の方に流れてきたような気がした。気のせいか、それとも陽炎か。もしかしたら……「陽炎のように」
久しぶりにあった幼馴染みから、自分が昔に作った秘密文字で書いた年賀状を借りる。時間つぶしに、解読表なしで解こうとする真紅郎だったが。「過去から来た暗号」。
昔の教え子が住むアパートの裏で、雪が降ったまま足跡のない場所でボウガンに刺されて死んだ男性がいた。「雪とボウガンのパズル」。
「ジャーロ」掲載の4編+書き下ろし1編。
乾くるみだから、何か変なことをしてくれるんじゃないかと期待していたのだが……まともな本格推理小説だった。はっきりいって拍子抜けである。そのせいで、やや辛口な書き方になるかもしれない。
本当に普通の本格推理小説である。不思議な謎があって、ちょっとした推理で名探偵が事件を解決する話である。プラスアルファもインパクトが何もないので、読んでいてものれなかった。一応不思議な謎が提供されているのだが、シチュエーションが今ひとつなので、謎の面白さに浸ることができない。短編のせいか、推理シーンも淡泊で、論理の面白さに浸ることができない。解決もあっさりとしていて、爽快感にやや欠ける。
なんか、どれをとっても今ひとつなのだ。完成されている作品なのに、何か足りない。ワンパターンの調味料しか使わず、隠し味が全くない料理のようなイメージだ。何のことはない。一応のドラマが設定されているのは救いだが、それでも物語として面白くないのだ。多分、短編本格ミステリクイズだったらこれでいいのだろう。しかし、これが許されるのは『本格推理』に投稿するアマチュア作家までである。細かいところまできちんと伏線などは張られているので、計算し尽くされた作品だとは思うのだが。
「過去から来た暗号」は暗号をうまく落ちに使った作品なのだが、途中の暗号を解読するところが同じシーンの繰り返しなので退屈してしまう。この作品は数少ないドラマがある短編なのだが、短編なのに前半部分が冗長だから読むのが苦痛になってくる。
なんか文句ばかり書いているようだけど、期待の裏返しということで許してください(と逃げる)。まあ、私が本格ミステリに求めるのは、クイズとしても成り立つような謎とトリックと推理と解決だけで構成されている作品ではないということが再認識できたので、そういう意味では収穫だった。
東野圭吾『ゲームの名は誘拐』(光文社)
佐久間駿介は中堅広告会社『サイバーブラン』で働いている。手がけてきた商品はいずれも売ってきた。しかし、今回は屈辱感でいっぱいだった。日星自動車の新車発表キャンペーンでオートモービル・パークのプランを立て、あとは決定をもらうだけのはずだった。しかし副社長に就任した葛城勝俊はプランの中止を命じるとともに、スタッフからの交代を命じてきた。屈辱感でいっぱいのまま酒を飲み、タクシーを拾って帰ろうとしたとき、出来心から葛城勝俊の父である日星自動車、葛城会長の屋敷を見に行くことにした。もちろんそこには、副社長の勝俊も住んでいる。訪れようとしたが躊躇っているとき、誰かが塀を越えて屋敷から出ようとしていた。若い女だった。タクシーに乗った女のあとを尾行し、捕まえた。彼女は勝俊の娘で樹理と名乗った。樹理は愛人の娘であり、葛城家の人たちとの折り合いはよくなかった。家には帰りたくないが、当座のお金はほしいという樹理を見て、佐久間は一つのゲームを思いつく。誘拐という名のゲームを。
読んでいるときは抜群に面白いのだが、読み終わったあとは作者にいいように翻弄されたようで、なんとなく悔しい思いもある。一種のコンゲームものだが、曲者東野圭吾がそんな単純なコンゲームを書くわけではなく、色々とひねりを利かせている。いったいどこからアイディアを思い浮かべるのかわからないが、様々なタイプの作品を器用に書くものだ。ただその器用さが、読者に感情移入させにくい作風になっているのではないだろうか。その抜群のテクニックを、テクニックと感じさせないような書き方をすれば鬼に金棒だろう。
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