石持浅海『水の迷宮』(カッパ・ノベルス)
三年前、不慮の死を遂げた片山の命日に事件は起きた。首都圏の人気スポット・羽田国際環境水族館に届いた一通のメール。そして、展示生物を狙った攻撃が始まった。姿なき犯人の意図は何か? 自衛策を講じる職員たちの努力を嘲笑うかのように、殺人事件が起きた! 水族館にかけた一人の男の夢――すべての謎が解き明かされたとき、胸を打つ感動があなたを襲う。(粗筋紹介より引用)
KAPPA-ONE登龍門『アイルランドの薔薇』で鮮烈デビュー、『月の扉』で各方面から絶賛の声を浴びた作者の第三作。
殺人事件が起きているのに、「胸を打つ感動」なんてあるものかと思いながら読み進んだ。なるほど、これは読み終わったとき感動するのもうなずける。ただ、この結末には異論が出そう。全員がここまで美しくしてもいいのかなと首をひねる部分があるのも事実だが、後味の悪いミステリばかり読まされてきたので、こういうのも悪くないと思う。
名探偵役が、どちらかといえば一歩引いた立場の人間で、しかし物語(事件ではない)のキーマンになっているという構造は変わらず。事件の渦中にいないからこそ、冷静な論理を組み立てることができるのかも知れない。本作品で取り扱われている謎は、大がかりなトリックや奇怪な舞台設定とは大幅にかけ離れたものである。しかし、そこで繰り広げられる論理の物語は、過去二作と同様、これこそが本格ミステリだと膝を打ちたくなるものである。もちろん、論理だけで「感動」が生まれるはずもない。謎と論理を取り巻く人の物語があるからこそ、読者に感動を与えてくれるのである。
ただ、贅沢を言わせてもらうなら、過去二作とほぼ変わらない路線ということにちょっと不満があるのだ。舞台も物語も違うが、作品の持っているモチーフが同じ道をなぞっているというか。高いレベルの作品を提供しているのに、こんな事を言ってはいけないかも知れない。しかし、作者が別の路線で傑作を書いてくれたとき、誰もが石持を本格ミステリの新しい旗手と認めてくれる。そんな気がする。
夏樹静子『紅い陽炎』(新潮文庫)
子供をベビーホテルに預け、デリカテッセンで夕食の献立をそろえ、ジャズダンス、小説教室へと通う――新しいライフ・スタイルを楽しむ34歳の主婦が殺された。捜査が進むにつれて、主婦たちの秘められた思いが明らかにされて行く……。欲望渦巻く都会の片隅で、翔ぼうとしても翔べない女たちの怨嗟が、陽炎のように燃え上がる。日常に潜む狂気を描き出す、異色のミステリー。(粗筋紹介より引用)
「小説新潮」1982年11、12月号に掲載。1983年5月、新潮社より刊行。
ベビーホテル、デリカテッセン、ジャズダンス、カルチャースクール、ディスコ、クレジットカード、パーク・イン・シアター、虐待的症候群、不妊治療……。この時代の主婦の姿が切り取られたような作品である。1980年代初めの主婦の様々な姿を浮き彫りにするのが、このミステリの目的だったのだろう。そういう意味では成功しているといえる。ただ、他に付け加えることがない。読んでいる間は退屈しないが、さりとて何かが残るというわけでもない。イヤな書き方をすれば、普通に読まれ、そして読み捨てられていくミステリの一つだろう。
島田荘司『龍臥亭幻想』上下(カッパ・ノベルス)
石岡和己、犬坊里美、そして加納通子――。雪に閉ざされた龍臥亭に、八年前のあの事件の関係者が、再び集まった。雪中から発見された行き倒れの死体と、衆人環視の神社から、神隠しのように消えた巫女の謎! 貝繁村に伝わる「森孝魔王」の伝説との不思議な符合は、何を意味するのか! 幻想の龍臥亭事件が、いま、その幕を開ける!
「この頭部、足部を森孝の具足中に葬れ」
血溜りに浮かぶ生首と切断された片足。発見された第三の死体が、龍臥亭を恐怖の底に叩き落とした。そして、旧日本軍の研究所で行われていた肉体縫合の悪魔的な実験。百年の時空を越えて、伝説の魔王が甦る――。
ファン待望! 御手洗潔と吉敷竹史の推理が、いま初めてクロスする!(粗筋紹介より引用)
なんだかんだいっても『龍臥亭事件』の続編なのだから、少しは期待するじゃないですか。期待だけにしておけばよかった。読者を引き込む力は相変わらず凄い。出だしの森孝伝説なんか、本当に面白い。ただ、途中で挿入される話と、ミステリの本筋が今ひとつ咬み合わないのが問題だ。咬み合わない原因は、どちらにも力を入れすぎていること。片方の、というか挿入するエピソードの方の力を抜けば、もう少し物語にリズムが出てくると思うんだが。今回はそれ以前の話かも知れないが。肝心の事件の方がつまらない。
神隠しの巫女が地割れした地面の奥深くから出てきた所なんか、普通は驚愕する所なんだろうけれど、どうも肩すかしというか、盛り上がらないというか。続けて起きる事件もどうも盛り上がらない。舞台や登場人物を取りそろえた割りに、事件が単調なのだ。何のための龍臥亭なの? 何のための石岡、里美、通子の組み合わせなの? 彼らじゃなくてもよかったと思う。この程度のことで、石岡の闇は取り払わたのだったら、いままでの20年は何だったのか。黒住を助けようとするところで、何が「御手洗がいる」だ? 御手洗依存症は全然変わっていないじゃないか。里美はただのミーハー。通子に至っては、吉敷の連絡役でしかない。わざわざ御手洗と吉敷が共演するほどのことはなかっただろうに。共演といっても、御手洗は電話で話をするだけだが。
奇天烈な謎と強引な力業の解決は相変わらずだが、強引を強引としか感じさせなくなっているところに、島田荘司の限界が来ているのかと思うと寂しい。島田荘司の名前がまだ利いているから許される話だと思う。他の人が書いたら、馬鹿馬鹿しいと片付けられる程度。いくら器がよくても、出てくる料理がまずいとどうしようもないのだよ。
小説と全然関係ないことだが、この装丁は却下。光文社、一体何を考えているんだ? 好評を得られるとはとても思えないがね。
二階堂黎人『魔術王事件』(講談社ノベルス)
時は昭和40年代、所は北海道・函館。呪われた家宝として、名家・宝生家に伝わる〈〈炎の眼〉〉〈〈白い牙〉〉〈〈黒の心〉〉。この妖美な宝石の略奪を目論み、宝生家の人間たちを執拗なまでに恐怖へと引き摺り込む、世紀の大犯罪者〈〈魔術王〉〉。密室殺人、死体消失、大量猟奇殺人……。名探偵・二階堂蘭子が、冷静沈着かつ美的な推理で偽りの黄金仮面に隠された真犯人に挑む!(粗筋紹介より引用)
乱歩通俗長編が大好きな私にとって、二階堂黎人は結構気になる作家なのだが、どうも自意識過剰なところが気になる。二階堂蘭子賛美は構わないのだが、もう少し客観的に見てもらえないものだろうか。これだけ魅力的に見えそうな舞台を作り上げながら、どうにものれない原因の一つは、二階堂蘭子という探偵のつまらなさにあると思う。美貌だ、美貌だと書きながら髪の毛以外の容姿がさっぱり伝わってこないのは問題だろう。魅力的だというのなら、もう少し名探偵の紹介にも気をつかってほしいものだ。鼻持ちならない女というイメージしか伝わってこない今の現状では、名探偵の活躍という通俗探偵長編小説本来の楽しみがないのも同然である。
本作では黄金仮面を被った魔術王と対決する二階堂蘭子なのだが、出てくるのは物語の後半から。それまでは魔術王の犯罪芸術に翻弄される警察側の情けなさが書かれるばかりなのだが、これが長すぎる。詳細なトリックはともあれ、犯人はすぐにわかってしまうので、すぐに退屈してしまう。仰々しい書き方の割りにトリックがチープなのは通俗探偵小説ならではなので、その点だけは伝統を保っているようだ。
事件の裏に隠された秘密も少々凝りすぎではないか。もっと単純化した方が、読者には喜ばれる。舞台設定等を考える力はあるのだから、あとはどうすれば読者に受けるかをもう少し考えてもらう必要がありそうだ。
最後に書くが、この本厚すぎ。鞄への入れやすさとか持ちやすさとか、出版社や作家はもう少し考えてくれないかな。
綾辻行人『暗黒館の殺人』(講談社ノベルス)
九州の山深く、外界から隔絶された湖の小島に建つ異形の館――暗黒館。光沢のない黒一色に塗られたこの浦登(うらど)家の屋敷を、当主の息子・玄児(げんじ)に招かれて訪れた学生・中也(ちゅうや)は、〈ダリアの日〉の奇妙な宴に参加する。その席上、怪しげな料理を饗された中也の身には何が? 続発する殺人事件の“無意味の意味”とは……? シリーズ最大・最深・最驚の「館」、ここに落成!
18年前に暗黒館で起こった殺人と不可思議な人間消失の謎を追ううち、遂に玄児(げんじ)の口から語られる〈ダリアの宴〉の真実、そして恐るべき浦登(うらど)家の秘密……。いつ果てるとも知れぬ嵐の中、犯人の狂気はさらなる犠牲者を求め、物語は哀しくも凄絶な破局へと突き進む! 構想から完成まで、8年の歳月を費やした比類なき巨大建築。ミステリ作家・綾辻行人の全てがここに結実!
(以上、裏表紙より引用)
『黒猫館の殺人』より12年。『IN★POCKET』に2000年3月号~2004年5月号まで連載。待望の館シリーズ第七作。
待ちくたびれて忘れるぐらい長かった館シリーズの最新作だが、待たせた分だけ長い物語にしたかったのだろうか。2500枚とあるが、とにかく長い。1/3は削ることができるんじゃないだろうか。
上巻半ば過ぎでようやく事件が起きるのだが、それまでがとにかく長かった。退屈で仕方がない。登場人物や舞台の背景などが細かく書かれているのだが、読み終わってみるとここまで必要だったのかかなり疑問。登場人物も1/4は必要ないだろう。
文章の方も、囁きシリーズが思い出される幻想味あふれる、嫌な言い方をすれば取り留めのない書き方なので、物語の全容が捉えにくい。繰り返される文章は、連載による弊害だろうな。
作者が仕掛けるトリックや謎の大半は、大方の読者が予想つくだろうが、それでもさすがに事件の謎全てを解き明かすことは不可能。というより、手掛かりが少ないから解きようがない。探偵小説ゲーム論を掲げる批評家あたりから見たら、本作品を本格ミステリのカテゴリに入れないだろう。私自身も、これを本格ミステリのジャンルに入るかと聞かれたら疑問だと答えたくなる。
本作は、館シリーズを全て読んできた人のみが受け入れることのできる作品だろう。本作で初めて館シリーズを読むという読者(まずいないだろうが)は不幸としか言い様がない。本作で納得、並びに驚くことのできる読者は、館シリーズを読み続けてきた人しかいないからだ。いわば、狭い範囲の読者のみを対象にした作品。単独で評価すると、長すぎてつまらないだけ。館シリーズ6冊が存在して、初めて評価の対象に挙がる作品。まあ、それでも平均点以上はあげられないけれど。確かに歳月を費やした巨大建築であり、綾辻の持つ要素を全て注ぎ込んだ作品とはいえるだろう。
斎藤純『銀輪の覇者』(早川書房 ハヤカワ・ミステリワールド)
戦争の足音が忍び寄る昭和九年、軍部の暗躍から実用自転車を使用した前代未聞の本州縦断レースが開催される。多額の賞金を狙い寄せ集めチームを結成した響木、越前屋、小松、望月の四人は、各々異なる思惑を秘めつつ、有力チームと死闘を繰り広げるが……。
一攫千金を目論む出場者の悲喜劇、ロードレースの戦略や駆け引きを、日本推理作家協会賞作家が圧倒的なリアリティで描く、感動の自転車冒険小説!(粗筋紹介より引用)
「岩手日報」夕刊に2001年1月4日~2002年3月19日まで連載された小説を大幅に加筆、修正。
下関から津軽までを実用自転車で横断するという「大日本サイクルレース」の裏に隠された様々な思惑、暗躍などは戦争という悪夢に陥る直前の日本を浮き彫りにしているし、出場者の参加動機、告白には昭和不況の暗闇がひしひしと伝わってくる。それになんといっても特筆すべきなのはサイクルレースの描写だろう。山間部、雨などの天候、さらには企業や他外国チームといったライバルたちに精神力とテクニック、さらには気持ちで立ち向かう響木たちの姿には、レースの裏に隠されている様々な思惑を越えた、清々しい感動を与えてくれる。
実力があるのは誰もが認めながら、なかなかブレイクできない作家。斎藤純という作家にはそういうイメージが私にはあったのだが、本作は作者が持つ実力を遺憾なく発揮した傑作である。
夏樹静子『わが郷愁のマリアンヌ』上下(文春文庫)
貿易会社重役・倉内優二は赴任先のロンドンで陶磁器メーカーの女性オーナー、マリアンヌと運命的な出会いをした。それは青年時代から憧れていた「嵐が丘」のヒロイン・キャサリンを見ているような錯覚に捉えられた。
アンティーク、とくにボーン・チャイナの輸入先を開拓したいと考えていた優二は、マリアンヌの会社と独占取り引きの契約を結ぶ。その頃、北イングランドのホテルで、マリアンヌの会社のマネージャー・アーネストの死体が発見された。アーネストの殺人事件をきっかけに、マリアンヌの過去が暴露されたが、優二の彼女に対する愛情は変わらなかった。だが、優二は、マリアンヌを見舞ったあと、立ち寄ったレストランで彼女と瓜二つのダンサーと出会い、愛のはけ口を求めるようになった。(大部分を粗筋紹介より引用)
「野性時代」1983年11月~1985年12月号まで連載された。
謎解きのあるミステリなのだが、ひとことでいえばメロドラマである。主人公がロンドンへ赴任、美しき人妻との運命的な出会い。瓜二つの女性への身代わりの愛情。そして主人公とヒロインとの別れ。思い切り昼の連続ドラマになりそうな展開である。英国製陶磁器の歴史と現状、それにロンドンの街中から田舎までの風景など、綿密な取材と描写、そして物語への取り込み方などは非常に巧いのだが、上下巻という長さが示すとおり、物語のテンポが遅いので、少々じれったくなる。書き方が巧いので、読んで退屈するということはないのだが。
殺人事件で用いられたトリックや動機など、ミステリ的な面白さもあることにはあるのだが、やはり本作品の面白さは主人公の報われぬ恋物語だろう。ストーリーテラーとしては感心するが、ミステリ的にはどう評価すればいいのかな。作者の狙いが、イギリスを舞台にした雄大な恋物語だとすれば、成功しているといっていいだろう。
笹本稜平『グリズリー』(徳間書店)
元北海道警SAT狙撃班の城戸口は、今では斜里警察署の山岳救助隊員だ。ある日、知床連山最高峰の羅臼岳に登山をしていた城戸口は、中肉中背で顔じゅうに髭を生やし、縮れた長めの髪をバンダナでまとめている男と出遭った。
「城戸口通彦。五年前は道警SATに所属していた。俺の心の友を射殺した男だ」
SAT狙撃班時代、札幌市の消費者金融に二人組の男が侵入した。そのうちのひとりは城戸口が射殺。そしえ、今ここにいるのが、生き残った元エリート自衛官・折本敬一だったのだ―――。城戸口と折本二人の邂逅は、極限の知床で始まる壮絶な闘いの序章に過ぎなかった!(以上、帯より引用)
東京都北区であるマンションの一室で爆発が起きた。死んだ三人は左翼革労同の活動家で、公安から目を付けられていた。内ゲバとは思えないその手口に不審を抱いた警視庁公安部のナンバー2、船井参事官は、参謀である清宮警部補にその調査を命じる。清宮は王子署の特別捜査本部に出向き、石野、柳原と手を組む。清宮には一つの手がかりがあった。清宮は爆発されたマンションを当日見張っており、訪れた不審な男の写真を撮っていた。清宮はその男にグリズリーと名付けた。さらに繰り返される不審な事故、事件。富田の故郷である釧路を訪れた三人は城戸口から折本の話を聞き、彼がグリズリーだと直感する。
一つ一つ着実に計画を進め、実行していく折本。敵は超大国、アメリカ。折本はたった独りで、アメリカに牙を剥く。
第6回大藪春彦賞受賞第一作。渾身の書き下ろし長編。
取り扱った題材はお見事といっていいぐらいうまく料理されているし、折本という人物造形も今現在ならでは成り立つ姿だろう。城戸口や清宮など追う刑事側の描写は、冗長にならず、それいでいて雄弁に物語っており、作品の厚みを増している。題材も調理方法も一級品なのである。なのにこの作品は傑作にならなかった。それはなぜか。追う刑事を一人にしなかったこと。そして、結末の呆気なさである。
折本を追いつめていく刑事は清宮や石野、柳原たちである。しかし、発端と結末に出てくるのは城戸口。物語の口火を切り、そして締めるのは城戸口なのである。途中、城戸口はごくわずかなシーンでしか登場しない。これでは、城戸口に感情移入することができない。例えサポートする刑事がいたとしても、折本を最初から最後まで追いつめるのは、城戸口でなければいけないのだ。幕引きにふさわしい活躍を城戸口がしていたかといえば、疑問符がつく。話の展開上、城戸口が折本の犯行を追いかけるのは難しいだろうが、それでも刑事側の中心は城戸口がすべきであった。幕を引いてはならない人物が、幕を引いてしまったのである。
それと問題なのは、幕引きに至る折本の行動である。あれだけ用意周到に動いていながら、あまりにも最後が呆気ない。本来なら、もっと綿密な計画を立てるだけの時間、武器があり、土地の利があったはずだ。大藪みたいな活劇を求めているわけではないが、やはり牙を剥いた人物の反撃をもっと見たかった。
本作を例えるなら、部材も調理方法も、そして味も一級品なのに、配膳方法を間違えて台無しにしてしまったフルコースといえようか。本当に勿体ない。傑作になり損ねた作品である。
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