大谷羊太郎『悪人は三度死ぬ』(光文社 カッパノベルス)

 高崎のリゾートホテルに潜伏していた強盗殺人犯が逮捕された。そして、犯人の隣の部屋に宿泊していた櫛田という男が、藤岡市郊外で殺されていた。しかし櫛田には、死亡推定時刻に、部屋で電話を掛けていたという厳然たる事実があった!? さらに櫛田は、四年前に起きた謎の焼死事件に関与していたことがわかる。一方、かつてこの焼死事件に関わっていた推理作家の浅井は、櫛田の死を契機に再び事件の真相を追う。浮かび上がってきた奇怪な事実! そしてまた新たな殺人が……!?
 アッと驚くトリックの数々! 作家生活二十年間に蓄積した全てを注ぎこんだ、鬼才渾身の書下ろし長編本格推理小説の傑作!(粗筋紹介より引用)
 1987年10月発行、書き下ろし。

 大谷羊太郎はトリッキーな本格推理小説を書くというイメージがあるが、本書なんかはイメージそのままの作品といっていいだろう。偶然とはいえ警察監視状況のホテルからの消失と殺人の謎、アリバイ、死体移動、意外な登場人物など、様々なトリックが組合わさって一つのミステリが形成されている。謎の現象だけを見たら、本格ミステリファンなら唸るだろう。
 もっとも、消失トリックやアリバイトリックの方は、事件の途中で解かれるということもあるが、答えを知ってしまえば興醒めしてしまうこと間違いなし(おいおい)。特に最初の消失トリック、警察がいたのはたまたま隣に今回の事件とは関係のない強盗殺人犯が泊まっていたからだろう? もし警察がいなかったら、何の意味もないトリックじゃないのか?
 後半の死体移動にまつわる謎は結構面白い。この作品で楽しめたのは、容疑者である昭子の自宅で死体が出てきたあたりからである。ここからの流れは結構意外なもの。作者が力を込めて書いただけのことはあると思う。
 前半のトリックがもっと鮮やかなものだったら、後半の意外性がもっと増しただろうにと思うと残念。タイトルの付け方もうまいし、惜しいね。




芦原すなお『わが身世にふる、じじわかし』(創元推理文庫)

 家の庭で妻の伯母から送られてきたデビラをたたいていると、ニューヨーク帰りの悪友・河田警部が土産のバーボンを片手に現れた。帰国早々に、不思議な事件に遭遇した河田警部は、料理の腕もさることながら、見事な推理の冴えを見せるぼくの妻の知恵を借りようとやってきたのだった。血や残酷な話が苦手な妻をなだめつつ、彼女のヒントをもとに彼と二人で事件を再調査すると……。河田警部のニューヨーク時代や、ぼくの少年時代の思い出もたっぷりの六篇を収録。讃岐名物と郷土料理の数々にいろどられた。《ミミズクとオリーブ》シリーズ第三弾。(粗筋紹介より引用)。
 「ト・アペイロン」「NY・アップル」「わが身世にふる、じじわかし」「いないいないばあ」「薄明の王子」「さみだれ」の六編を収録。「ミステリーズ」に掲載されたシリーズ第三弾。

 久しぶりの「ミミズクとオリーブ」シリーズ。「ミステリーズ」に掲載されていたとは知らなかった。このシリーズは大好きなので、とても嬉しい。
 もっとも、このシリーズにミステリとしての味はほとんど求めていない(苦笑)。料理の数々に腹を鳴らし、ぼくと妻と河田警部の漫才的なやり取りを楽しめればそれでいいのだ。もちろん、謎解き作品としても悪くないのだが、それ以上にこの三人が醸し出す雰囲気が絶妙で、読んでいて心休まるのだ。
 ということ(どういうことだ?)で、このシリーズは読めれば満足。問題は、読んでいてお腹がすくことぐらいだ。いつまでも続けてほしい。




D・K・ウィップル/ファーガス・ヒューム 訳横溝正史『横溝正史翻訳コレクション 鍾乳洞殺人事件/二輪馬車の秘密』(扶桑社文庫 昭和ミステリ秘宝)

 横溝正史は、一流の翻訳者でもあった。雑誌「新青年」編集長時代から積極的に海外作品を自ら翻訳し、紹介しつづけた正史。本書では、これまであまり触れられることのなかった翻訳者・横溝の業績に光を当てる。「八つ墓村」ほか、一連の創作の発想源ともなったウィップルの「鍾乳洞殺人事件」、19世紀末の一大ベストセラーとして名高いヒュームの「二輪馬車の秘密」の二長編を収録。後者では、単行本版と結末の異なる雑誌掲載版も併録した。時を経てなお古びない正史の闊達な訳文の妙を、ぜひご堪能あれ。(粗筋紹介より引用)。
 アメリカ南部セナンドアの渓谷で新たに発見された洞窟を検分するため、地質学者のアシ博士と秘書のヘゼル・カーチスはカーター洞窟の所有者を訪れた。そこには見学者も何名か来ていた。ところが、所有者であるアンドリュウ・カーターが洞窟内で殺害された。ただの旅行者と思われた人たちは、いずれも何らかの関係があった。さらに起こる連続殺人。事件の要因となった洞窟の謎とは。アシ博士がすべての謎を解き明かす「鍾乳洞殺人事件」。
 メルボルン市内にある警察署に横付けされた二輪馬車には、一人の男の死体が乗っていた。外套を着た紳士が酔いどれていた男を介抱し、その後馬車に一緒に乗るが、紳士は男を馬車に置き去りにして去っていった。男はクロロフォルムによる中毒死だった。警察署の鬼刑事であるゴービイ探偵の捜査により、男はイギリスから来た青年紳士、オリヴァー・ホワイトであることが判明。ホワイトは百万長者であるマーク・フレトルビイの娘であるマッヂに横恋慕し、マッヂの婚約者であるブライアン・ゲラルドの怒りを買っていた。ゴービイ探偵はゲラルドの部屋から証拠を見つけ、殺人犯として逮捕する。ゲラルドは何かを知っていたが、それを喋ろうとはしなかった。弁護士であるダンカン・カルトンはゲラルドの無実を晴らそうと、ゴービイ探偵のライバルであるキルシップ探偵の力を借りて、無実を証明しようとする。「二輪馬車の秘密」。

 久々に出版された「昭和ミステリ秘宝」は、横溝正史が翻訳した二長編を収録。翻訳者としても名高かった横溝正史の業績に光を当て、巻末には翻訳リストを載せるなど力の入った一冊ではある。ただ、研究家ではない自分にとっては、翻訳家としての横溝正史にはあまり興味がない。業績そのものをまとめるという仕事は大変であるし、すばらしいことではあると思うが、自分には縁のない話である。
 本作がすばらしいのは、幻の長編と化していた『鍾乳洞殺人事件』『二輪馬車の秘密』が出版されたことである。特にミステリ史に名前が載るばかりで、全然読むことのできなかった『二輪馬車の秘密』を読むことができたのは、凄く嬉しい。もちろん、内容にはそれほど期待していなかったが。
 『鍾乳洞殺人事件』は、洞窟内で起きた連続殺人事件を解き明かすサスペンスで、1934年の作品。動機のある人物が大勢揃っている中で起きる連続殺人を、探偵役であるアシ博士が推理で犯人を捕まえるが、本格ミステリとして読むと失望する、というか大した期待を持っちゃいけない。まあ、意外な結末を用意しているだけでもましと思った方がいいだろう。賞賛されるべきは、その怪奇趣味溢れる舞台設定。確かにこれは横溝正史が好きそう。魅力的な鍾乳洞、さらにそれに曰くありげな登場人物の数々である。後年、『八つ墓村』で主人公が語る「鍾乳洞を舞台とした探偵小説」とはこの作品の事らしい。訳文自体も読みやすいし、気軽に読めるサスペンスとしては合格点の作品だと思う。
 『二輪馬車の秘密』は1886年に発表されたヒュームの最初の作品。弁護士秘書だったヒュームはメルボルンでこの本を出版し、後に英国で五十万部以上の大ベストセラーとなった。後にイギリスで専業作家となり、130冊以上の著書を残した人気作家となったが、「その大半が独創性に乏しい通俗作品で現在ではほとんど読まれていない」(『世界の推理小説総解説』より)。
 大ベストセラーとなった本作も、無実を証明する青年を助けようと弁護士が捜査をつづける過程で、名家が隠していた醜聞が徐々に明らかになるという、メロドラマ的なミステリ。謎解きやサスペンスなどの要素はほとんどなく、今読んだら退屈なだけであった。ヘイクラフトが『娯楽としての殺人』で「今日ではほとんど読むに耐えない」といっているのもわかる気がする。解説の杉江松恋はフォローしているけれど、個人的には歴史上に残っている一冊、以上の評価は与えられない。まあ、横溝版は完訳ではないので、新潮文庫からでた完訳版を一度読んでみたいものだ。
 個人的には横溝訳ということに関係なく、幻の長編二作品を読めたことに満足した。作品としては、書かれた時代が50年近く違うということも当然あるだろうが、『鍾乳洞殺人事件』は今読んでもそれなりに楽しめる。




小野寺丈『2012 009 conclusion GOD'S WAR サイボーグ009完結編I first』(角川書店)

 1964年から連載が始まった石ノ森章太郎(当時は石森)『サイボーグ009』。掲載誌をいくつも変えながら書き続けられたこの作品は石ノ森の代表作となり、ライフワークとまで呼ばれるようになった。ゼロゼロナンバーサイボーグ、9人の戦士たちが対する最後の相手は、神だった。それは「天使編」と呼ばれ、1969年から「冒険王」に連載されたが、内容があまりにも壮大であったため収拾がつかなくなり、自ら休載を選ぶしかなかった。その後、「COM」で「神々との闘い編」として再び連載を始めたが、こちらも中断。その後、様々な形で『サイボーグ009』は描き続けられていったが、最後の闘いが描かれることはなかった。
 石ノ森は事ある毎にこの最後の闘いについて語っており、描く準備もできていたようだったが、有り余る才能と筆の早さ(月間執筆枚数最大記録保持者だったはず)は彼の寿命を縮める結果となり、1998年に亡くなった。しかし、彼が遺した膨大な数の構想ノートに、009の最終章は残されていた。息子である小野寺丈が、完結編を小説化。

 石ノ森の構想ノートを元に小野寺丈が小説の形で発表すると宣言してから何年が経っただろう。とうとうその第1巻が出版されることとなった。しかし実際に読んでみて、感動よりもとまどいを覚える方が大きかった。いったい、石ノ森は何をやりたっかのだろうか。
 本巻では、001から004の4人が、神々と遭遇した事件について語られている。それは9人が一丸となって戦う昔のスタイルではなく、サイボーグ一人ひとりが単独で事件を解決する後期のスタイルに近い。私は9人(+ギルモア博士)のチームワークで敵と戦うスタイルの方が好きだった。だからかもしれない。今回の小説にとまどいを覚えるのは。
 第1巻では、001から004の4人が神と遭遇した。となると、第2巻では005から008の4人が神と遭遇することになるのだろう。そして最終巻である第3巻で009が登場し、そして最後の闘いが書かれるということになる。うーん、これが本当に石森章太郎がやりたかったことなのだろうか。コミックス「サイボーグ009」第1~9巻(秋田書店サンデーコミックス)に匹敵するだけのストーリー(10巻のコメントで書いている)になるのだろうか。どうしても読みたかった完結編だが、読まなかったほうが幸せだったのかもしれない。そんな悪い予感が外れることを祈る。




京極夏彦『邪魅の雫』(講談社ノベルス)

「殺してやろう」「死のうかな」「殺したよ」「殺されて仕舞いました」「俺は人殺しなんだ」「死んだのか」「──自首してください」「死ねばお終いなのだ」「ひとごろしは報いを受けねばならない」
昭和二十八年夏。江戸川、大磯、平塚と連鎖するかのように毒殺死体が続々と。警察も手を拱く中、ついにあの男が登場する! 「邪なことをすると──死ぬよ」(裏表紙より引用)
 連続毒殺事件を扱った京極小説最新作。

 京極堂シリーズ最新作。相変わらずの厚さに辟易しながらも読了。モノローグ部分を全部省けば、もっと読みやすくなっただろう。京極小説だったら、これでいいんだろうね、きっと。京極小説のファンではない私にとっては、話が盛り上がったところでモノローグにより流れを邪魔される状態がずっと続いたので、フラストレーションが溜まる一方だった。
 本格ミステリ大賞にノミネートされたけれど、本格ミステリとしてみるとどうだろう? 推理する条件なんてほとんど出てこないように思えたのだが。事件が起きて、警察がおろおろし、最後に裏事情を知っている人がいきなり出てきて種明かしをしている。物語としてはそれなりに面白いが、半分以上は京極キャラクターの面白さだし、本格ミステリとしてみるとつまらないね。まあ、「本格ミステリ」として読んでいる人は少ないと思うのだが。
 読むつもりはなかったけれど、本格ミステリ大賞にノミネートされたから読んでみました。そんな人間が読んでいるから、かなり斜め向きの感想になっていることは否定しません。ただ、京極ファン以外が読んでも面白いという作品とは、とても思えませんでした。




柄刀一『時を巡る肖像 絵画修復士御倉瞬介の推理』(実業之日本社)

 フリーの絵画修復士である御倉瞬介が、修復する絵画にまつわる事件の謎を解き明かす短編集。
 自ら刃物で突いて片目を喪失した“天眼”を持つ天才画家、冷泉朋明が持つ絵画を修復するため、御倉は冷泉邸に泊まり込んでいた。最後であるピカソの絵を修復し終わる直前の夜中、来客である大学教授が殺された。「ピカソの空白」。
 母方の叔父である建築デザイナー志野正春の亡くなった兄が模写した安井曾太郎の『金蓉』。安井はこの絵を描くために、モデルの元へ何ヶ月も通ったという。正春の妻、香蓉子の肖像画を描いてもらうために、御倉は同じ手法を取る古関誠を紹介した。志野家にある幾つかの模写画を修復するために通っていた御倉は、事件に遭遇する。「「金蓉」の前の二人」。
 オランダの天才画家、フェメールの「デルフトの眺望」の模写画を修復する御倉。この絵の持ち主である抽象画家、中津川顕也は三週間前に殺害されていた。その事件の遠因は、七年前に離婚した妻、琴美が住み始めた柳川で三ヶ月後に行方不明になり、さらに三ヶ月前、近くの雑木林で白骨死体となって発見されたことにあった。琴美は資産家の娘であったことから、琴美の父は資産を琴美の娘である雅子を跡取りに指名した。しかし、一族のものは、雅子がしていた琴美の指輪を元に、琴美殺害犯が雅子であると騒ぎ出したのだ。御倉は事件の謎を解き明かす。「遺影、「デルフトの眺望」」。
 絵画修復の講師を務める文化教室の教え子、上岡すずかの紹介で、御倉はともに西洋画家である藤崎高玄とその娘藤崎冬泉(本名ナツ)の家を尋ねた。すずかはナツの孫に当たる。ところがその日、高玄は毒を飲んで死んだ。いつも飲む薬に混じっていた毒は強烈な味のする農薬だったことから警察は自殺と思ったが、高玄が膠原病にかかり味覚障害であったことが判明し、毒殺事件として捜査されることとなった。そして疑いは、薬を持っていたナツにかかる。「モネの赤い睡蓮」。
 依頼された肖像画の持ち主は、国際的に著名な建築家であり、最近は地政学、地脈、風水などを導入した建築コンサルタントとして超一流有名人の仲間入りをしている戸梶祐太朗であり、画の人物は“酔いの先見”と呼ばれていた名士であった祖父戸梶樹康であった。御倉は、交通事故に遭遇する。運転手は、飛び出してきたのではなく、いきなり目の前に現れたため、避けることができなかったと主張した。その死者は、戸梶の右腕的存在である野木山幸作だった。御倉は戸梶を疑うが、彼には完璧なアリバイがあった。「デューラーの瞳」。
 御倉が修復した三枚の肖像画にまつわる話。「時を巡る肖像」。
 「J-novel」に掲載された5編に書き下ろし1編を加えた短編集。

 柄刀一には本格ミステリを重視するあまり、読者を置き去りにする傾向があるというイメージしか持っていなかったが、本作は全然違った。絵画に秘められた謎を解き明かす御倉を主人公とした短編で、謎を解き明かす部分はきちんとした本格ミステリだが、どちらかといえば謎にまつわる登場人物の心理描写を重点に置いた作品集のように思えた。まあ、謎そのものを解き明かす過程が、登場人物の心理を解き明かすところから始まっているのだから、当然といえば当然なのだろうが。
 作品そのものは地味かもしれないが、絵画修復士という主人公の特性を生かし、絵画にまつわる背景をうまく取り込んでいるから、読み応えがある。短い枚数でこれだけきっちりと登場人物を描写し、心理的な謎を書き込んだ作品を久しぶりに読んだ気がする。途中で織り込まれる御倉と息子の圭介、そして家政夫である加護とのやり取りは物語に清涼な風を吹き込んでおり、読んでいて心地よい。派手な謎が取り扱われているのは、被害者がいきなり自動車の前に現れたという「デューラーの瞳」ぐらいで、あとは謎そのものが地味ではあるが、本格ミステリファンに薦められる作品集であるといえるだろう。
 この作者、こんな面白いものも書けるんだな。作者名だけで敬遠してはいけない、きちんと人の評判を確認するべき、ということを改めて教えられました。今更だけど、昨年のベストに入れたいな。



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