道尾秀介『ラットマン』(光文社)
結成14年のアマチュアロックバンドが、練習中のスタジオで遭遇した不可解な事件。浮かび上がるメンバーの過去と現在、そして未来。
亡くすということ。
失うということ。
胸に迫る鋭利なロマンティシズム。
注目の俊英・道尾秀介の、鮮烈なるマスターピース。(帯より引用)
「ジャーロ」2007年夏号、冬号掲載。
帯に「最高傑作」と書かれていたから、まあ期待しない方がいいだろうと思ったが、予想通りになったのは笑った。
本格ミステリほど人間を描ける、感情をかけるジャンルは他にない、と言い切っている作者だが、ここでは本格ミステリの手法を用いることによって人間を描く、という意味なんだろうな。人間を描いた本格ミステリなんて、松本清張以降いくらでもいる(以前にもいる)し、だいたい人間を描くというのは小説にとって当たり前の行為なのだから。必要十分条件とまでは書きませんが(苦笑)。
後半部分で人間性を浮かび上がらせるために、前半部分をのっぺらぼうに描くのはちょっと勘弁してほしい。最初はただの台本かと思ったぐらい、顔が浮かび上がってこなかったし。とても社会人には見えなかったね、全員が。
物語の筋立ては、古くさい青春ドラマかよといいたくなるぐらいパターン化されたもの。過去の事件を絡めることで、主人公の内面を掘り下げようとしたところが、わずかな工夫か。ラットマンという存在はしらけるが。
本格ミステリの定義なんて、人それぞれだから別に構わないけれど、自分はこの作品を本格ミステリとは思わない。あくまで本格ミステリの手法を用いたミステリ、だろう。一応aという事実とbという事実を組み合わせてABという想像を作るまではいいのだが、そこに伏線としてcという事実が一応隠されていて、実際はACが正解でした、というのは別にいいのだが、ここでABを否定する事実は、結局犯人の告白以外にないのだ。要するに、適当な事実を組み合わせていくつか想像するだけ。論理的(らしく見える)解釈はどこにもない。個人としては、論理(らしきもの)によってただ一つの答えに集約されるのが本格ミステリだと考えているので、この作品はそれに当てはまらない。まあ、この部分だけは、私の勝手な定義付けなのだが、ABを否定する推理のない作品が本格ミステリとして堂々と全面に出てくるのは、個人的にちょっと勘弁してほしい。まあ、読まなきゃいいだけの話だけど、こればっかりは読まないと無理だからなあ。
まあ色々文句を書いたけれど、ようするにこの作品のどこが傑作なのか、さっぱりわからなかったのでありました、はい。他の人の感想を見ても、全然ピンとこないんだよね。つまらなかったし。
一応1月末にはもう読み終わっていました。しっくりこないところが多いので、もう一度読んでみたけれど、感想は変わらず。多分年末のベストで上位に来ると思われる作品で、全く楽しめなかったというのは、既に自分の感性がずれてしまっているんだろうなあ、とちょっと落ち込んだりして。
東川篤哉『もう誘拐なんてしない』(文藝春秋)
樽井翔太郎は、山口県下関市に住む二十歳の大学生。夏休みに入り、先輩甲本一樹が持っている軽トラックの屋台でたこ焼き屋のバイトをしていた。人の多い北九州市門司区で商売をしている途中、ひょんなことから女子高生の花園絵里香を助けることに。金が必要な絵里香のために、狂言誘拐をすることになった翔太郎は、一樹に助けを求める。しかし、絵里香の父親は花園組の組長。それでも一樹が立てた金の受け渡しトリックは成功するかと思えたが。
2008年、書き下ろし。
ユーモア本格ミステリでファンを増やしてきた東川篤哉の新作は誘拐もの。ややベタな、お約束過ぎる笑えない展開はあるものの、小気味よいテンポで物語がどんどん進み、読者を飽きさせない。被害者?側の父親や、姉のキャラクターも、なかなかのものだ。
誘拐ものからアッと驚く展開もよく考えられている。文章が軽い(ここでは褒め言葉)から苦労した跡は見られないが、結構凝ったことをやっている。ここの部分だけ見れば、誘拐ものとしては新機軸の展開であり、高い評価を与えてもいいと思う。
ただ、置いてけぼりの材料が多すぎるのは大きな欠点か。え、これはどうなったのとか、あれはいったいなんだったの?という出来事が多すぎる。作者が都合良く物語を作るためにエピソードを配置するのはどうかと思う。物語がテンポよく進むからなおさらだ。とんかつの肉は満足できたが、衣の部分が胃の中で消化しきれずにいつまでも残っているような気分だ。
ページ制限があったのかどうかわからないが、文庫化するときはあと100枚ぐらい書き足してほしいね。本筋だけとりあえず結末を迎えたが、枝の部分が置いてけぼりで、エピローグがないような未完成品である。読んでいる分には退屈しないけれど。
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