ジョン・ディクスン・カー『死が二人をわかつまで』(国書刊行会 世界探偵小説全集11)

「君の婚約者は過去三人の男を毒殺した妖婦だ」 劇作家ディック・マーカムに恐るべき話を告げた著名な病理学者は翌朝、青酸を注射され、密室の中で絶命しているのを発見された。状況は彼が話した過去の事件とまったく同じだった。可憐なレスリーは果たして本当に毒殺魔なのか。平和な村に渦巻く中傷と黒い噂、複雑怪奇な事件に挑むフェル博士の名推理。魅力的な謎とプロットが融合したカー中期の傑作。(粗筋紹介より引用)
 1944年発表。1960年、『毒殺魔』というタイトルで創元推理文庫から翻訳されるも絶版。1996年、新訳で発表。

 カーの長編を読むのは、多分『エドマンド・ゴドフリー卿殺害事件』以来。純粋な推理小説となると……いつ以来だろう。20年ぶりくらいかもしれない。とはいえ、積んだままの長編も多いけれど。世界探偵小説全集もそれなりに買っているのだが、読んだのは数冊という体たらく。もうちょっと何とかしたいものだ。それとも老後の楽しみにとっておくか。
 久しぶりのカーということでワクワクして読んでみたが、初期のカー特有の怪奇趣味、複雑さは影を潜め、シンプルな作りになっている。自分がカーに求めていたのはこういう作風だったろうか、それとも怪奇趣味たっぷりの作品だっただろうか、ちょっと考えてしまった。実際のところ、いわゆる「カー風」な味はあまり好みではなく、カーなら『皇帝のかぎ煙草入れ』の方が好きだったから、本作品みたいのは結構面白く読めそうなものなのだが、なんとなく物足りないと思ってしまうのは天邪鬼というか、わがままというか。
 本作品は、1943年に放送宇されたラジオドラマ「客間へどうぞ」を基にしているとのこと。そのせいかどうかはわからないが、毒殺魔と告発される女性を中心とした、わかりやすいストーリーになっている。一応密室殺人は出て来るものの、トリック自体は古いものであり、そこが主眼というわけでもない。むしろ密室を構成する舞台の方が面白いというべき。ただ、巧さはわかるものの、物足りないなあと思ってしまうのも事実。カー中期の傑作、カー自身のお気に入り、とのことだが、今まで新訳が出なかったのもそのシンプルさが徒になっていたんじゃないだろうか。
 ということで久しぶりのカーだったが、次は外連味たっぷりの作品を読んでみよう。そうすれば、自分がカーのどのような作品を読みたいのか、思い出せるかもしれない。




スティーヴ・ハミルトン『解錠師』(ハヤカワ・ミステリ文庫)

 八歳の時にある出来事から言葉を失ってしまったマイク。だが彼には才能があった。絵を描くこと、そしてどんな錠も開くことが出来る才能だ。孤独な彼は錠前を友に成長する。やがて高校生となったある日、ひょんなことからプロの金庫破りの弟子となり、芸術的腕前を持つ解錠師に……。非情な犯罪の世界に生きる少年の光と影を描き、MWA賞最優秀長篇賞、CWA賞スティール・ダガー賞など世界のミステリ賞を獲得した話題作。(粗筋紹介より引用)
 2009年発表。アメリカ探偵作家クラブ賞(エドガー賞、MWA賞)最優秀長篇賞、英国推理作家協会賞(CWA賞)スティール・ダガー賞、バリー賞最優秀長篇賞、全米図書館協会アレックス賞を受賞。2011年12月、ハヤカワ・ポケットミステリより翻訳。このミス、文春の海外部門でいずれも1位を獲得。2012年12月、文庫化。

 近年の本では珍しく読んでみる気になった一冊。さすが、数々の賞を穫っただけのことはある。確かに傑作だ、これは。マイクが高校生となって解錠師になるまでと、マイクがプロとしての姿が交互に記載される。マイクが過去を振り返るという設定なのに両者を交互に記載するというスタイルに何の狙いがあるのかわからず、特にプロ後の緊張感が途中で途切れる点に違和感があったものの、途中からはそれほど気にならなくなり、結末まで読んでようやく納得。こりゃ絶妙だ。
 解錠師になるまでのサイドは青春小説に近い。一種の成長物語でもあり、恋愛小説でもある。一方プロサイドは、非情な犯罪世界に生きるスリルとサスペンスが絶妙で、特に金庫を開ける際の描き方は、まさにプロの犯罪者としての緊張感が全編にみなぎっている。どちらも一級の物語だが、同じ調子で書かれるとどこかで破綻するか飽きてしまうかしてしまうに違いない。それを交互に書くことで相互の面白さを強調することができ、マイクという人物の姿をより悲しく浮かび上がらせることに成功している。それにラストもいいねえ。色々な意味で、マイクには幸せになってほしい。
 全米図書館協会アレックス賞は、ヤングアダルト世代に読ませたい一般書に与えられる賞だそうだ。確かにこれは、そう思わせるだけの価値がある一冊。うん、いい本を読ませてもらった。




佐木隆三『身分帳』(講談社文庫)

 人生の大半を獄中で暮らした男には、戸籍がなかった。出所して改めて日常社会と向かい合い、純粋な魂の持ち主であるこの人物はどう生きたか。彼に代わってその数奇な"身分帳"を精緻に構成して、鮮烈な文学作品に結実させた労作。また、男の死の周辺を描いた「行路病死人」も文庫オリジナルとして併録する。(粗筋紹介より引用)
 初出は『群像』。1990年6月、講談社より単行本で刊行。『群像』1991年5月号に掲載された「行路病死人」を加え、1993年6月に文庫化。1990年、第2回伊藤整文学賞受賞。

 山川一は1973年4月、東京葛飾区でキャバレーの店長をしていたとき、喧嘩で人を死なせて亀有警察署に逮捕された。傷害致死で起訴されたが、公判中に殺人罪に訴因変更。12月、東京地裁は求刑通り懲役10年の判決を言い渡す。控訴、上告ともに棄却され、1974年10月、刑が確定した。
 1974年11月、宮城刑務所に送られる。しかし、工場で同囚と喧嘩した傷害罪で、仙台地裁で懲役3月を言い渡された。1977年9月、旭川刑務所へ不良移送される。執行刑期8年以上のL級と、受刑歴があって犯罪傾向が進んだB級を合わせたLB級に分類された受刑者が収容されていた。旭川刑務所で、同囚への暴行で懲役10月、看守と衝突した暴行・傷害・公務執行妨害で懲役1年2月を追加される。
 1986年2月19日、満期となり、翌日出所した。44歳だった。彼の身分帳には、受刑回数=十犯、服役施設=六入、拘置所・刑務所=全国二十三ヶ所と書かれていた。
 山川は身許引受人である弁護士のいる東京へ向かう。そして日常社会への第一歩を迎える。

 本書は主人公である山川の「身分帳」を元に過去を振り返りつつ、現実社会へ復帰しようとする山川の日常が綴られている。山川は実在の人物であり、1986年5月、自らのことを小説にしてほしいと、佐木に身分帳を送付した。身分帳、正式名「収容者身分帳簿」は、成育歴から受刑状況までの全てを記録したもので、本来は門外不出とされるが、山川が刑務所内で起こした事件の証拠として提出されたため、被告人の権利として写し取ったものであった。佐木は山川と4年近く接触し、『身分帳』を執筆する。この間、山川は福岡市へ移転し、また東京へ舞い戻ってきたが、事件を起こすようなことはなかった。
 端的に言えば、前科者が社会の水になじもうと苦労する話なのではあるが、「身分帳」によって過去をオーバーラップさせる手法により、山川という人物の行動をより深く浮かび上がらせる結果とはなっている。特に父親が不明で、母親が孤児院に預けたことから、15歳になるまで名前も戸籍もなかったという過去が、山川に暗い影を落としている。とはいえ、単純な苦労話でもない。なんとも言い難い作品であるし、面白いかどうかと聞かれれば、むしろ退屈な作品と言ってしまいそうになる。過去の「身分帳」に、出所後の新たな「身分帳」を重ねてできあがったのが本書という位置付けになるのだろうか。
 「行路病死人」では、山川ことT氏(作中では本名)の死について触れられる。1990年11月、福岡のアパートで山川は病死した。警察からの通報でそのことを知った佐木は、福岡を訪れる。その後は、男の死の周辺を描いた、いわば後始末のような作品である。



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