ハリー・クレッシング『料理人』(ハヤカワ文庫NV)

 平和な田舎町コブに、自転車に乗ってどこからともなく現れた料理人コンラッド。町の半分を所有するヒル家にコックとして雇われた彼は、舌もとろけるような料理を次々と作り出した。しかし、やがて奇妙なことが起きた。コンラッドの素晴らしい料理を食べ続けるうちに、肥満していた者は痩せはじめ、痩せていた者は太りはじめたのだ……。悪魔的な名コックが巻き起こす奇想天外な大騒動を描くブラック・ユーモアの会心作。(粗筋紹介より引用)
 1965年、ランダムハウス社より刊行。1972年2月、翻訳。

 タイトルは知っていたけれど、当時それほど読む気は起きなかった一冊。いつの間にか新版が出ていたので、とりあえず購入した。
 いわゆる「奇妙な味」物の作品。料理人コンラッドの料理と弁舌にヒル家や対立していたヴェイル家、さらに町の住人もいつの間にか囚われてしまうという話。コンラッドの正体は最後まで明かされないが、最後まで読まなくても大体は想像つく。それでもコンラッドの一挙手一投足に目を奪われてしまうのは不思議だ。そういう意味では私も彼に囚われてしまったのかも知れない。それにしてもエピローグの後はどうなったのか、非常に気になってしまう。
 大人向けのグリム童話、という位置付けでいいのだろうか。単純なストーリーだが、いつの間にか惹かれてしまう作品である。
 作者は著名作家の変名であり、正体は未だ明かされていない。ロアルド・ダール説が強いが、コンラッドと同様、全ては闇の中なんだろうなあと思う。




近藤史恵『サヴァイヴ』(新潮社)

 白石誓がフランスのパート・ピカルディに移籍して4カ月。かつてのチームメイトであるマルケスから、サントス・カンタン時代のチームメイトであったフェルナンデスがパリで死んだという知らせを受ける。原因はドラッグだった。「北の地獄」と呼ばれるレース「パリ・ルーベ」を前に誓は不安に押しつぶされる。「老ビプネンの腹の中」。
 公道をロードバイクで公道を走っていた伊庭和実は、オートバイの男にまとわりつかれる。振り切ろうとスピードを出した伊庭は、脇道から出てきたワゴン車に気付き転倒、オートバイの男はそのまま追突し死亡した。それ以後、下り坂で事故の記憶がフラッシュバックするようになる。「スピードの果て」。
 スペインでアマチュアのまま3年半が過ぎた赤城直輝は、チーム・オッジに誘われて帰国。実績を全く残せなかったことに対する悔いが残ったままで赤尾はチームになじめなかった。同時期にチームに入った新人の石尾豪は実力こそあるものの協調性が無く、さらにチーム・オッジは久米が絶対的なエースであることもあって、団体競技に嫌気がさしていた。北海道ステージレースで赤尾は同僚から嫌がらせを受けて負傷。嫌気がさした石尾に向かい、赤城は「俺をツール・ド・フランスに連れていけ」と言った。「プロトンの中の孤独」。
 チーム・オッジのエースとなった石尾豪だが、協調性のない性格は相変わらず。石尾のアシストであり、チームのまとめ役になりつつあった赤城直輝に、今年オッジへ移籍してきた安西がある相談を持ちかけた。「レミング」。
 35歳になった赤城は引退を考えていたが、そんな時に石尾が今年結成されたチームのスカウトと会っていたと安西に知らされて不安になる。書類の不備で出られなくなった九字ヶ岳のレース前日、安西は石尾に誘われコースを走ることに。スカウトと思った人物は、実は石尾に八百長を持ちかけていたのだ。新チームのスポンサーがエースを売り出したいがために、自分の息がかかったこの大会で優勝させようとしたもので、書類不備もこのスポンサーによる策略だった。「ゴールよりももっと遠く」。
 ポルトガルのチームに移籍した白石誓は、チームメイトであるルイスの父親であるパオロの家にホームステイしていた。パオロに誘われて見に行ったポルトガルの闘牛トウラーダは、誓にとっては残酷で気分の悪いものであり、満足な食事ができなくなって寝込んでしまう。「トウラーダ」。
 『yom yom』『Story Seller』『小説新潮』に掲載された6編を収録。「サクリファイス」シリーズ外伝ともいえる短編集。2011年6月刊行。

 『サクリファイス』『エデン』の主人公である白石誓が主役の2編。『サクリファイス』に出てくるライバル・友人の伊庭和実が主役の1編。そして2人の壁ともいえる石尾豪・赤城直輝が主役の3編が集められている。
 本来なら白石誓にスポットを集めるところなのだろうけれど、強烈な印象を残すのは石尾・赤城コンビ。特に石尾という太陽のおかげでひっそりと照らされる月のような存在である赤城に惚れてしまう。白石のような天分としてのアシストとはまた異なる赤城の葛藤が何とも言えない。人には分相応の持ち場所と役割というものがあることを教えられるとともに、スポットライトを浴びない位置でかぶせられるスポットライトが何とも言えず切なく、そして愛おしい。
 白石たちが出てくるのは本短編集が現在のところでは最後。確かに白石たちの物語を描いてもマンネリになるだけだ。ただ、物語のどこかに、白石たちが出てくるような物語を描いてほしいと思うのは読者のわがままではないはずだ。




長尾誠夫『秀吉 秘峰の陰謀』(祥伝社 ノン・ポシェット)

 知将・越中富山城主佐々成政は、国の東西を羽柴秀吉の軍勢に挾まれ、絶体絶命の危機に陥った。徳川家康の版図・信濃に援軍を求めるには、厳冬の飛騨山脈を越えねばならない。成政は重臣たちの反対を押し切り、雪と氷の地獄に挑んだが、自然の猛威の前に兵たちは次々に倒れた。が、この無謀とも言える飛騨雪中行の背後には、驚天動地の陰謀が隠されていた……!(粗筋紹介より引用)
 1988年9月、『秀吉 秘峰の陰謀―佐々成政の飛騨雪中行』のタイトルで祥伝社より単行本で書き下ろし刊行。1992年12月、文庫化。

 1986年に『源氏物語人殺し絵巻』で第4回サントリーミステリー大賞読者賞を受賞した作者の受賞第一作。文藝春秋ではなく、なぜ祥伝社から出たのかは不明。本書の1年後に『邪馬台国殺人考』という作品が文藝春秋から出ているところを見ると、別に切られたというわけでもなし。作者あとがきを読むと、受賞作出版直後に執筆依頼があり、祥伝社初のハードカバー書下ろしシリーズの第一弾ということで張り切ったらしい。
 佐々成政のさらさら越えを題材にした作品。織田信長の元家臣だった佐々成政は、小牧・長久手の戦いで織田信雄・徳川家康方につき、豊臣秀吉側である前田利家の末森城を攻撃。第一章はここから始まる。しかし成政は敗れ、さらに小牧・長久手の戦いは信雄が秀吉と和議が成立して家康も戦いから手を引いた。越後の上杉景勝も利家と手を組んで東側から攻めてくる。雪で辛うじて戦いが休止した12月、窮地に陥った成政は家康に助けを求めるため、芦峅寺集落の総本山仲宮寺の秘中の秘、立山裏曼荼羅に描かれている信濃までの道を通り、厳冬の飛騨山脈・立山山系を超えることを決意する。そこに同行したのは、成政がかつて謎の敵に襲われて瀕死の状態だったところを助けたことのある修験者、武虎。雪と氷の地獄、そして成政の命を狙う刺客たちによって次々と倒れていく兵たち。
 登山技術が格段に違う現代でも相当の難関である、無謀な雪山越え。ハードな内容の史実であるにもかかわらず、メジャーとはあまり言えない題材であることは否めない。忠実に映像化すれば、相当ヒットすると思うのだけれどね。それはともかく、成政たちが冬山を超えるあたりの描写はなかなかの迫力であり、冒険小説としても十分通用する出来栄え。さらにこの飛騨越えに隠された「陰謀」には素直に脱帽した。ただ作者があとがきで言及している「あれ」については、あの作者の処女作でも言及されているし、そもそも連載はもっと前だったとだけは言っておく。何もあとがきで強く言わなくても十分面白いのに、と思った。
 作者が文庫版のあとがきで書いている「過酷な雪中行をメインに、歴史的事件あり、推理劇あり、剣戟あり、冒険あり、スペクタクルあり、かつまた超人的ヒーローありと、あらゆる要素を含んだ一大エンターテイメント歴史推理小説を書いてみたい」という狙いはかなり成功していると言える。なんで当時、話題にならなかったんだろう。当時は講談社や東京創元社の書下ろし単行本が受けて、各社がこぞって参入していたから、これもその流れの一つにしか見えなかったのかな。あのころ読んでおくのだった……といいたいけれど、当時読んだらあまり面白さを感じなかったかも。時代物は趣味の部分があるし。
 2chの某スレッドで傑作と書かれていて興味をもったので、購入してみた。これは読んでみて大正解だった。うん、満足。



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