北村薫『太宰治の辞書』(創元推理文庫)
誰よりも本を愛する《私》の目は、その中に犯罪よりも深い謎をみつけてしまう。そして、静かな探偵になる。芥川龍之介はなぜ小説の結末を書き換えたのか。三島由紀夫はなぜ座談会で間違ったことを云ったのか。太宰治はなぜ他人の詩句「生れてすみません」を無断で自作のエピグラフに使ったのか。《私》はそれらの謎を解くために、もうこの世にいない作家たちの心の扉を開けてゆく。だが本物の表現者の心ほど怖ろしく、また魅力的なものはない。上記の三人の作家は全員、自ら命を絶っている。いわば被害者であり犯人なのだ。探偵が一つ一つの謎を解いた後に残る永遠の謎。その暗黒の輝きに震えながらも、《私》は天才作家に大切な言葉を奪われた無名詩人の魂の墓碑を建てようとする。穂村弘(粗筋紹介より引用)
『小説新潮』に掲載の二作品に描きおろしを加え、2015年3月、新潮社より単行本刊行。エッセイ2本と短編を収録し、2017年10月、創元推理文庫化。
「花火」「女生徒」「太宰治の辞書」に加え、『鮎川哲也と十三の謎'90』に掲載された短編「白い朝」と、エッセイ「一年後の『太宰治の辞書』」「二つの『現代日本小説体系』を収録。「円紫さんと私シリーズ」は『朝霧』で終わりかと思っていたが、まさかの新作。主人公の「私」はすでに結婚していた、中学生の息子がいる。そして今も出版社に勤めている。
本の謎、作家の謎は確かにミステリなのだろう。ただ、本格ミステリのようにたった一つの解があるわけではない。それでも謎を解き明かすことに、人は魅力を感じてしまうのだろう。すでに「日常の謎」ですらなく、ミステリの範疇に入るのかさえ疑問だが、久しぶりにシリーズが読めたことに満足して終わる作品群である。
斎藤純『百万ドルの幻聴』(新潮文庫)
そのフレーズを耳にした瞬間、誰もが息をのんだ。リオの片隅で歌う黒人少年=ルーシオ。奇跡の歌声を、ビデオが捉えていた。新人女性ディレクターは、歴戦の音の狩人たちと闘いつつ、少年のデビューに向けて動く。だが、ルーシオは忽然と足跡を絶った……。次第に明らかになる音楽業界の闇。すべての答えは、セナの待つF1グランプリに。ノンストップ・ミュージック・サスペンス!(粗筋紹介より引用)
1993年12月、新潮社より書き下ろし単行本刊行。2000年9月、文庫化。
実力がありながらも今一つ評価されなかったな、と思う作家、斎藤純。これは読んだつもりでいたのに実は読んでおらず、段ボールから出てきたので慌てて読むことにした。
小規模だが質が高いアーティストが所属するウェザーレコードの冬木佳江は、制作部に移りブラジルの少年ルーシオを担当するディレクターとなった。ルーシオが歌っているところをたまたまテレビの夕方に放送されたニュース番組が捉えていた。取材ビデオから歌を抽出し、レコード化する。佳江はルーシオのデビューに向けて本人を探し出そうとブラジルに渡るが、ルーシオの足跡が消されていた。
斎藤純にしては珍しい女性が主人公。ただ音楽の知識をふんだんに生かしたサスペンス作品であり、斎藤純ならではのセンチメンタルさも十分盛り込まれている。そしてまた、最後の舞台がモナコ。スピード感あふれるF1グランプリを背景に、ルーシオをめぐる最後の謎が解き明かされる。
ルーシオをめぐる謎。新人女性ディレクターとしてレコードを世に広めるべく、戦い続ける冬木佳江。タフさを売りにしたハードボイルドとは異なるが、それでも斎藤純ならではのハードボイルドなのだろう。最後はかなりドタバタしたところが残念。特にセナとか実名を出して物語に巻き込んでもよかったのだろうか。ちょっと暴走しすぎた感がある。
それにしてもエピローグは……賛否別れそうな終わり方だと思ったのは私だけか。
深緑野分『戦場のコックたち』(創元推理文庫)
1944年6月、ノルマンディー降下作戦が僕らの初陣だった。特技兵でも銃は持つが、主な武器はナイフとフライパンだ。新兵ティムは、冷静沈着なリーダーのエドら同年代の兵士たちとともに過酷なヨーロッパ戦線を戦い抜く中、たびたび戦場や基地で奇妙な事件に遭遇する。忽然と消え失せた600箱の粉末卵の謎、オランダの民家で起きた夫婦怪死事件、塹壕戦の最中に聞こえる謎の怪音――常に死と隣りあわせの状況で、若き兵士たちは気晴らしのため謎解きに興じるが。戦場の「日常の謎」を連作形式で描き、読書人の絶賛を浴びた著者初の長編ミステリ。(粗筋紹介より引用)
2015年8月、東京創元社より書き下ろし単行本刊行。第154回直木賞候補作。2019年8月、文庫化。
処女作『ベルリンは晴れているか』は読んでいないので、これが深野作品で初めて読むことになる。
粗筋紹介や目次を見ると、第二次世界大戦下を舞台にした「日常の謎」もので、時代背景こそ特殊だが、それをちょっと利用した程度の作品かと思っていたら、とんでもない誤解だった。
主人公は合衆国陸軍でコックをしている19歳のティム。ティムが遭遇する謎を解き明かす作品だが、第一章は降下作戦後に不要になったパラシュートを集める理由、第二章は消えた粉末卵の謎と一応「日常の謎」なのだが、第三章は互いに銃を打ち合ったかのように見える夫婦の怪死事件を取り扱っている。しかし「死」は戦場では当たり前だから、もしかしたらこれも「日常」なのかもしれない。第四章は冬のベルギー戦線における謎の音。そして第五章。やはり死と隣りあわせの状況は、非日常が日常なのだろう。
それにしても、第二次世界大戦のヨーロッパ戦線を舞台にし、謎解きに見せつつ、実際は戦争の表裏を描くというその構想は素晴らしい。19歳の少年も、戦場で変わっていく。友人たちも一人一人、戦場に散っていく。それでも「日常」を取り戻すため、「非日常」を生き延びていく。
やはり戦争って残酷だよね、と思いつつ、軍隊がなければ愛しき人たちの「日常」を守ることができない矛盾。コックは「生」を維持するための職業である。戦場という詩が生み出される日常に、これもまた矛盾の一つか。
何とも言えない寂しさと悲しさ、そして平和の愛しさを奏でるようなエピローグが秀逸。傑作である。
志水辰夫『帰りなん、いざ』(新潮文庫)
トンネルを抜けると緑濃い山を背景に美しい里が現れた。浅茅が原だ。わたしは民家を借り、しばらくここで暮らすことにしたのだった。よそ者への警戒か、多くの視線を肌で感じる。その日、有力者たる氏家礼次郎、そして娘の紀美子と出会ったことで、眼前に新たな道が開いた。歳月を黒々と宿す廃鉱。木々を吹き抜ける滅びの風。わたしは、静かに胸を焦がす恋があることを知った――。(粗筋紹介より引用)
1990年4月、講談社より単行本刊行。1993年7月、講談社文庫化。2008年6月、新潮文庫化。
表題の「帰りなん、いざ」は陶淵明「帰去来辞」から来ている。
冒険小説の旗手だったころから大人の恋愛ものに移行しているころの作品。そのせいか、中年の恋愛を取り扱った、どことなくセンチメンタルな雰囲気が流れている。どう考えても怪しいだろ、と言わんばかりの主人公。それでも受け入れるところは受け入れようとする村の人々。ゆっくりとした時の流れで、少しずつ変わっていく主人公。現実に戻し、本来の目的を果たさせようとする集団。読みごたえはあるのだが、どちらかと言えば昔のほうが好きかな。
最後はちょっとドタバタしすぎかな。もうちょっと落ち着きがあってもよかったと思う。楽しく読めたけれどね。
塙宣之『言い訳 関東芸人はなぜM-1で勝てないのか』(集英社新書)
二○一八年、M-1審査員に抜擢された芸人が漫才を徹底解剖。M-1チャンピオンになれなかった塙だからこそ分かる歴代王者のストロングポイント、M-1必勝法とは? 「ツッコミ全盛時代」「関東芸人の強み」「フリートーク」などのトピックから「ヤホー漫才」誕生秘話まで、"絶対漫才感"の持ち主が存分に吠える。
どうしてウケるのかだけを四○年以上考え続けてきた、「笑い脳」に侵された男がたどり着いた現代漫才論とは? 漫才師の聖典とも呼ばれるDVD『紳竜の研究』に続く令和時代の漫才バイブル、ここに誕生!(折り返しより引用)
2019年8月、刊行。
今、関東の漫才師と言ったら第一に浮かぶのがナイツだろう(西はいっぱいいすぎて挙げられない)。ほかの芸人の名前(例えばサンドウィッチマンとか)を挙げる人もいるだろうが、寄席で漫才をメインにしている芸人、となるとやはり最初にナイツの名前を挙げてしまう。そんなナイツの塙が漫才を語っているのだから、読まないわけにはいかない。出てから割と早くに読んでいたのだが、感想を書くのは今頃。言い訳すらないけれど、書けなかったな、凄すぎて。
どうすれば関東芸人がM-1で勝てるのか。というよりタイトルにある通り、なぜ関東芸人は勝てないのか。その分析力が素晴らしい。現役の漫才師がここまで書いちゃっていいの、と不安になるぐらい詳細な内容なのだが、それこそ老若男女を相手に漫才で笑わせてきた彼らだからこそ、なのだから書けるのだろう。
南キャンは子守唄、オードリーはジャズ、というのは至言だな。
今後、M-1を目指す漫才師は皆読むだろう。いや、もしかしたら去年のうちに既に読まれていたに違いない。今まで出場した漫才師はどのような観点で評価されてきたのか。どこを修正していくか。どこを伸ばしていくか。そんなヒントが散りばめられている。表題にある通り、「令和の漫才バイブル」になるだろう。名著。
それにしても、最後にある「探せば、きっとまだどこかにとんでもない武器が眠っているはずです。宝が埋まっているはずです」とあるが、ミルクボーイはすごかった。あの形式の漫才なら、なんでも当てはめることができる。もちろんそこまで到達するのにはものすごい練習がいただろうし、観察力が必要だろうが。
エリス・ピーターズ『雪と毒杯』(創元推理文庫)
クリスマスが迫るウィーンで、彼らは欧州のオペラ界に君臨してきた歌姫の最期を看取った。チャーター機でロンドンへの帰途に着くが、悪天候で北チロルの雪山に不時着してしまう。パイロットを含め八人がたどり着いたのは、小さな山村――しかし雪で外部とは隔絶されていた。ひとまず小体なホテルに落ち着いたものの、歌姫の遺産をめぐって緊張感は増すばかり。とうとう弁護士が遺言状を読みあげることになったが、その内容は予想もしないものだった。そしてついに事件が――。修道士カドフェル・シリーズの巨匠による、本邦初訳の本格ミステリ!(粗筋紹介より引用)
1960年、英コリンズ社のクライムクラブ叢書の一冊として刊行。ピータース名義の2冊目。2017年9月、邦訳刊行。
修道士カドフェル・シリーズで世界的に有名な作者の、どちらかと言えば初期の長編。カドフェル・シリーズはかなり昔に1、2冊読んで以来なので、ほとんど初めて。
既に1960年なのに、雪に閉ざされたクローズドサークルミステリ。ずいぶん古めかしい設定と思いながらも、語り口が達者なのですいすい読めた。誰が謎解き役になるのかわからない部分が、当時としてはちょっと新しいのか。それ以外の部分はミステリとしては古臭い造りだった。作者がごまかす気がないのかわかりやすい書き方をしているので、勘のいいひとなら犯人や動機は想像がつきやすいはず。
むしろ恋愛小説だよね、これ。そちらのイメージのほうが強かった。その分、飽きずに読むことはできたが。
本格ミステリが衰退し、現代ミステリの表層をまとうようになったころの作品。今読んでもそれほど古臭く感じないメロドラマ。謎解きサスペンスの要素を加味しましたってところか。
ダン・ブラウン『ダ・ヴィンチ・コード』上中下(角川文庫)
ルーヴル美術館のソニエール館長が異様な死体で発見された。死体はグランド・ギャラリーに、ダ・ヴィンチの最も有名な素描〈ウィトルウィウス的人体図〉を模した形で横たわっていた。殺害当夜、館長と会う約束をしていたハーヴァード大学教授ラングドンは、警察より捜査協力を求められる。現場に駆けつけた館長の孫娘で暗号解読官であるソフィーは、一目で祖父が自分にしか分からない暗号を残していることに気付く……。(上巻粗筋紹介より引用)
館長が死の直前に残したメッセージには、ラングドンの名前が含まれていた。彼は真っ先に疑われるが、彼が犯人ではないと確信するソフィーの機知により苦境を脱し、二人は館長の残した暗号の解読に取りかかる。フィボナッチ数列、黄金比、アナグラム……数々の象徴の群れに紛れたメッセージを、追っ手を振り払いながら解き進む二人は、新たな協力者を得る。宗教史学者にして爵位を持つ、イギリス人のティービングだった。(中巻粗筋紹介より引用)
ティービング邸で暗号解読の末、彼らが辿り着いたのは、ダ・ヴィンチが英知の限りを尽くしてメッセージを描き込んだ〈最後の晩餐〉だった。そしてついに、幾世紀も絵の中に秘され続けてきた驚愕の事実が、全貌を現した! 祖父の秘密とその真実をようやく理解したソフィーは、二人と共に、最後の鍵を解くため、イギリスへ飛ぶ――。キリスト教の根幹を揺るがし、ヨーロッパの歴史を塗り替えた世紀の大問題作。(下巻粗筋紹介より引用)
2003年、アメリカで刊行。ロバート・ラングドンシリーズ第2作。2004年5月、角川書店より翻訳が単行本刊行。2006年3月、文庫化。
世界的ベストセラーでいまさらという感じだが、これも買うだけ買って放置していたので、時間ができた時に読んでみた。読み始めるとスカスカ進んだので、もっと早く読んでみればよかったと後悔。
しかし、「聖杯伝説」とか言われてもピンとこないし、ダ・ヴィンチだって伝記の本を読んだことがあるぐらい。キリスト教だって聖書を読んだことがあるぐらいでほとんど知らないので、結局何が凄いのかさっぱりわからないというのが本音。ここまで執念を燃やす必要がどこにあるんだ、と問いかけたくなるぐらい。そのせいか、登場人物たちののめり込みにはかなり引いた部分があった。逆に言うと、その分冷静に読めたのかなとは思ったが。
まあこれだけ暗号をよく絡められたな、とは感心するけれど、ぴんと来ない部分も多いので、すごいという印象はない。
となると残るのは、主人公たちの大脱走劇。何のことはない、結局ただのサスペンスじゃないか、と読み終わって思った次第。まあ楽しかったけれど、心に残るものは特になかった。
ミステリを読むのには知識が必要なときがあるが、本書なんかもそんな一冊。この本の凄さはたぶん理解できていないのだろう。
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